真っ白なガーベラのような君へ

 春山さん(父)と、春山さん(母)、咲結さんに囲まれて、僕は出勤時間を迎えた。
「わからないことは、咲結に聞いてくれればいいからな」
「あ、もし咲結が意地悪したら、すぐに私たちに言うのよ?」
「ちょっと、お母さん? 娘のこと、疑ってるの?」
 なんだか、なんとなくわかってはいたけど、愉快で明るい家族だ。
 咲結さんも、あれ以降暗い瞳を浮かべることはなく、いわゆるいつも通り、というやつになったのだろう。
「じゃあ、私たちはホールの準備してくるから。優緋くん、初めてだから、休憩はさみながらでいいからね」
 キッチンのスペースに、咲結さんと取り残された。なにが始まるのだろう。
「今日は、一日の流れを私の隣について見てもらうのが一つ。あと、やったことないって言ってたけど、調理実習はやったことあるだろうから、お料理の現状の実力調査をやろうと思ってます」
 咲結さんも、誰かに教えたりするのは初めてなのか、緊張気味に説明してくれる。
「あ、あと、申し訳ないんだけど、両親には敬語でいいから、私にはタメで話してほしいな。どうも慣れなくて、余計緊張しちゃうから」
 手のひらを腰に巻いているエプロンで拭きながら、照れくさそうに微笑んだ。
「じゃあ、私たちもホールに行こうか」
「はい」
 返事をして後ろをついていこうとすると、咲結さんは立ち止まって振り向いた。
「……じゃなくて」
 ああ、そうだった。咲結さんには、口調だけは気楽でいいのか。
「あ、うん」
 満足そうに頷いた咲結さんは、再び前を向いてキッチンとホールを仕切るスライドドアを開けた。
 カウンター内を整えている春山さん夫妻に会釈をして、僕たちはカウンターの外側である、いつも僕が座っていた側の席をアルコール消毒液で拭く。そして席を綺麗に並べていくところから始まった。
 床のモップ掛けは、春山さん夫妻が終わらせてくれたのだと、明るい声で教えてくれた。
「あ、早く来てやれって意味じゃないからね。着替えが終わって、一番にホール来た人がかけるってルールだから」
 手早くも丁寧に、アルコールを机と椅子に吹きかけては乾いた台拭きで拭いていく。
 同い年とは思えない手早さに、思わず聞いてしまう。
「咲結さんは、いつから働いてるの?」
 働いている、と言うべきか、手伝っていると言うべきなのかわからなかったけど、きっと前者だろう。教育係を任されるくらいだから、自分と二人三脚できる人を探していると言っていたくらいだから、それは手伝いの範疇を超えているという結論になった。
「本格的に入り始めたのは、小学校中学年くらいかな。その前から、ちょくちょく手伝ってはいたけどね」
 顔を上げずに教えてくれた。でも声のトーンはそのままだから、きっと目が離せない理由があったのだろう。
 目が合わないから、こちらを見てくれないから。
 それで相手が不機嫌だとか、怒っているとか、そういうことは思わなかった。
「じゃあ、大先輩じゃん。ほんとに敬語つけなくていいの?」
 敬語で話さないことはやはり楽だけど、同時に申し訳なさも感じてしまう。
 当たり前に僕とは違う。追い付こうともがいても、きっとすぐには追い付けない。
 僕のレベルが一だとすると、咲結さんはもうレベル九十九くらいの、味方にしたい人ナンバーワンに輝けるだろう。それくらい、遠い人に思えた。
「ダメダメ、やめて。学校の後輩にも敬語で話しかけられると緊張しちゃうくらいなの」
「そっか。わかった」
 本人が望むなら、これ以上聞く必要もない。僕も、やりやすいし。
 午前九時、開店。開店と同時に続々と、というわけではないのか。
「いらっしゃいませー。お好きなお席へどうぞ」
 開店して五分ほどでばらばらとお客さんが入ってくる。
「優緋くん、行くよ」
 そう、トレーに人数分のレモンウォーターが注がれたグラスを出しに行く。
「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたら、お声がけください」
 音が立たないようにそっと、でも決してゆっくりではない。
 ほとんど毎日来ていたし、見慣れた光景のはずなのに。視点が違うだけで見慣れないものにがらりと変わる。
「いい? 音を立てると怒ってるって勘違いしちゃう人もいるから、なるべく静かに置いてね」
「はい」
 カウンター内に戻ると、実際にそこにグラスを置きながら教えてくれる。行動の一つ一つ、細かいところにも配慮や気持ちがこもっているから、ここは居心地がいいのか。
「明日からは実際にやってもらおうと思ってるから。今日はしっかり見て勉強してね」
 そう僕の方を見てすぐにカウンターの外に目を向けた。
「はい、お伺いしまーす」
「えっ」
 いま、呼ばれた? 全然聞こえなかったけど……。
 呆然と立ち尽くして咲結さんの後ろ姿を見ていたけど、慌てて後ろをついていく。
「はい。バニラアイスが一つ、アイスコーヒーが一つですね。少々お待ちください」
 注文票にペンで文字を書き込んだものを読んで復唱している。
 覗いて見てみたけど、そこには「バニラ」「アイス」の二つのワードが箇条書きで記入されていた。
 一目見たら、それは「バニラアイス」単体にしか見えない。
「あ、ホコリ立つから走らないでね」
「あ、はい。すみません」
「初日だから、深刻にならないでいいからね。こういうことも学んでいくものだから」
「はい」
「うん、よろしい」
 頷くと、キッチンにつながるスライドドアを開けた。
「注文入りました。バニラアイス一つです」
「え、コーヒーは?」
「コーヒーは、こっちだよ」
 そう、カウンターの下にある戸棚からコーヒー豆を取り出して、コーヒーミルで挽き始める。ガリガリと音を立てて、コーヒー豆が砕かれていく。
「いい? コーヒー豆は専用スプーン二杯分ね。挽いたら下の引き出しの中に貯まるの」
 コーヒーミルの下部の引き出しを開けると、そこには確かに、細かく砕かれて原型を留めていないコーヒー豆たちが山積みになっていた。
「コーヒードリッパーの本体部分にペーパーフィルターを敷いて、挽いたコーヒー豆を入れるの。そこに熱々の、まあ、九十度くらいかな。お湯を注いで、下のサーバーのところに溜まるから、一番上のメモリのところまで注いでね」
 咲結さんがお湯を注ぐと、挽かれたコーヒー豆が喜ぶように浮かび上がりながら、ポコポコと泡立つ。
「かわいいでしょ。私は飲めないんだけどね」
「飲めないんだ」
「だって、苦いもん。でも、お母さんとかお客様とかはおいしいって言ってくれるから、もし飲めるなら、味見してみる?」
 お客さんの分のグラスに氷を入れて、抽出されたコーヒーを注いでいた。
 パキパキと、怒りにヒビが入る音が涼しげだ。
「落ち着いたら、いただこうかな」
「うん。あ、優緋くんごめん、キッチンからバニラアイス受け取って来て」
「はい、わかった」
 キッチンに行って、春山さん(母)から器に盛られたばっかりのバニラアイスを受け取って、コーヒー乗ってるトレーに乗せる。
「ありがとう。よし、行こうか」
 片手で軽々とトレーを持って注文を受けたテーブルに戻る。
「お待たせいたしました。バニラアイスと、アイスコーヒーでございます。ごゆっくりどうぞ」
 微笑んだ咲結さんは、一礼してくるりと振り向く。
「こんな感じ。優緋くんは常連さんだから、聞きなれたことだと思うけど」
 トレーを拭きながら、呼ばれたら注文を取りに行き、指定されたものを準備してお客さんに届ける。
 それを繰り返しているだけ、と言ったら失礼かもしれないけど、繰り返しているだけなのに割と忙しくて、お昼休憩はあっという間にやってきた。
「ごめんね、狭いかもだけど、ここで休憩取ってね」
 備品倉庫みたいなところにテーブルと四人掛けの椅子が置いてある。
 てっきり一緒に休憩をとるものだと思っていたけど、咲結さんは扉の外へ出ていった。
「フレンチトースト、できる?」
「うん、私やる」
 そんな会話が小さく聞こえてくる。
 包丁がまな板を叩く音。
 オーブンレンジが鳴る音。
 食器を洗う音。
 一時間の休憩を終えて仕事に戻ると、咲結さんが僕に気が付いた。
「あ、おかえり。じゃあ、今から料理の実力調査、しようかな」
「咲結さん、休憩は?」
「ああ、私はあとで取るから、大丈夫だよ」
 そう、一冊のノートを開く。
「私のレシピは、主に私の担当なの。だから優緋くんには覚えてもらう予定だから、よろしくね」
 穏やかな顔で、意外と大変そうなことを言われた気がする。やったことないし、正直できる気がしなかった。
「今日は卵焼きを作ってみようか」
 ノートの一ページ目を開いて、壁に立てかけ、僕に一度、読むように促した。