真っ白なガーベラのような君へ

 バイトを始めて数日経つと、夏休みに入った。
 初めて卵焼きの作り方を教わってから、毎日のようにそれを作っていた。
 家で朝食を食べるとき。
 カフェで咲結さんに教わりながら。
 毎日やっていると、やはり上達するもので、フライ返しを使っていたのが、菜箸で巻けるようになっていた。
「おはようございます」
 裏口から店内に入り、備品倉庫の片隅に新しく設置されたロッカー内に荷物を入れる。
「あ、優緋くん。おはよう。お茶淹れたから、飲んでね。暑かったでしょ?」
 氷が浮かぶお茶を、机の上に置いてくれた。
「ありがとう」
「それにしても、あっついね。年々気温が上がってる気がする。どうにかならないのかな」
 窓の外を見て小言を言いながら、小麦粉を箱から取りだして出て行った。
 右側が食品関係、左側が掃除やアルコール消毒などの備品と、多分、いや、確実に僕のために買ってくれたであろうロッカーが置いてある。
 小麦粉も、なんか、色違いの袋でいくつか置いてあるし、砂糖も質感が違いそうなものがそれぞれ分かれてしまわれていた。
「そうだ、優緋くん、卵焼きうまくなってきたし、今日から注文入ったら任せるね」
 ドアを開けて顔を覗かせて、笑顔で言った。誰かに何かを任せられるのは初めてだ。
 努力を誰かに認めてもらえることが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。
「うん。頑張るよ」
 もっと、もっと色んなことができるようになれたら。もっと世界が広がるのかな。
 ……なあ、楓。料理は僕が楽しく過ごせる、未来を生きていく意味になるかな。
 今は慣れるのに必死だから、一時的に未来に料理ができるようになる自分を期待しているだけで。一週間、二週間、一か月。時間が流れたらいつもみたいに、これじゃなかったと。また、次を探し始めるのかな。
 ……なあ、なんでお前、死んだんだよ。
 スマホの待ち受けも、写真も、メッセージアプリも。
 内蔵されているカレンダーと時計以外、すべての時間が止まっている。
 今も。充実しているようで、止まっている。
 楓と撮った写真の待ち受け画面を閉じて、ロッカーに入れた。
「僕もやります」
 咲結さんの隣に立って、朝の掃除を始めた。何かやっていないと、不意に頭の中に訪問してきた楓を思い出してしまうから。
 家に帰って、楓がいない世界という寂しさに浸りたくなってしまうから。
「まだ、時間じゃないよ?」
 そう、床にモップをかける咲結さんに言われたけど、手を止めるつもりはなかった。
 きっと、咲結さんに言っても、この気持ちは微塵も理解してもらえない。
 わかったように声をかけられるのも、きれいごとを簡単に言われるのも、嫌だった。
「いいんです。ほら、先輩がやってるのに後から入ってきた僕がやらないなんて、申し訳ないし。だから、やらせてください」
「わかった。わかったから、敬語やめて」
 頷いて小さく笑いながら、僕はモップを手渡された。
「あ、そうだった。ごめん」
「いいよ。優緋くんがしっかりしてるって、よくわかるし」
 そう、アルコール消毒を持って来た咲結さんは言った。
「あら、優緋くん。おはよう。ごめんね、今日は忙しくなると思うけど、よろしくね」
 春山さん(母)に言われて、思い出した。
 今日は春山さん夫妻はどうしても外せない用事が出来てしまった。午後には戻って来るらしいけど、それまでは咲結さんと二人でお客さんをさばいていく必要がある。
 ちょうどよかったかもしれない。忙しい方が、楓のことを考えて、思い出に浸る時間が、もし楓が今も生きていたら、なんてタラレバを無意識のうちに考えなくて済むから。
「はい、お気をつけて」
「ありがとうね。咲結、何かあったらすぐに連絡するのよ? じゃあ、行ってきます」
 服装を見た感じ、どこかへ丁寧なご挨拶に行くような、しっかりした格好をしていた。
「今日、何があるの?」
 アルバイトであり、唯一の他人である僕には、ただどうしても夫婦そろって出かけなければならないと、それだけ言われていた。
「前に取材してくれた地元の広告会社様に季節のご挨拶に行くの。お店がお休みの日は、広告会社もお休みなんだって」
 そうなんだ。社会に出るって、大変そうだ。
 この感じ、年末年始の挨拶は確実に行くだろうし、夏も合わせると年に三回、お店を咲結さんに任せて出かけることになるのではないか。
「そういう時は、一人でもお店開けるの?」
「うん。できないこともないからね」
 嫌な顔一つせずに微笑みながらテーブルを拭いていく咲結さんは、大人だ。
 僕は一人で残されたら、流石に無理だと、店を休みにしてくれと頼むだろうな。
「今日は教えられないけど、明日、バニラアイスの作り方、教えるね」
 とうとうやってきた。バニラアイスを作る日が。
「今日はとりあえず、主に優緋くんはホール、卵焼きのタイミングはやってほしいから、そこだけキッチンとホール、交代しようか」
「うん」
 本当は、今日は忙しくなりそうだし、明日からにすればいいじゃないか。何をそんなに急ぐ必要があるんだ。そう思ったけど、ぐっと飲みこんだ。
 咲結さんには、咲結さんの考えやペースがあるのだろう。研修計画も、立てているのかもしれない。
「じゃあ、開店するね」
 掃除が一通り終わり、準備を済ませて開店時間を迎えた。ここまでの仕事も、だいぶスムーズになってきたと自負している。
「いらっしゃいませ」
 開店して数分。
 早くも一組目のお客さんがやってきた。
「お好きなお席へどうぞ」
 隣に咲結さんがいない中で一人で接客するのは、実は今日が初めてかもしれない。
 レモンウォーターを人数分トレーに乗せてお客さんの机まで持っていき、ゆっくり静かにテーブルの上に置く。
 はじめは水がこぼれてしまうんじゃないかってほど手が震えていたのに、今はもう、普通に置くことができるようになった。
 僕は確実に、成長していた。
「モーニングプレートの和食を一つ、お願いします」
 和食のモーニングプレートは、白米に味噌汁、卵焼きのセット。反対に、洋食のモーニングプレ―トは、ミルクパンとコーンスープ、ミニサラダのセットだ。
 ということは、早速僕がキッチンに立つことになったということか。
「咲結さん、和食のモーニングプレート入った」
「おお、出番だね。じゃあホール変わるから、しっかりよろしく」
 エプロンを外して、楽しそうにキッチンから出ていく。僕は期待されているのだろうか。もしそうじゃなくても、しっかり作ることに変わりはないのだけど。
「いらっしゃいませ、おはようございます。お好きなお席へどうぞー」
 ホールから聞こえる安心感のある声に耳を傾けながら、僕は卵をボウルに割り入れ、調味料を加えて菜箸で混ぜていた。
 火を付けて、焼いていく。
 そんな中でも、咲結さんはトーストを焼き、コーンスープを器によそい、盛り付けたサラダに手早くオニオンドレッシングをかけて持っていく。
「お待たせいたしました。洋食のモーニングプレートになります。ごゆっくりどうぞー」
 そう言っていたかと思えば、今度はコーヒーを挽く音が聞こえる。
咲結さんの仕事が速いのか、単に僕が遅すぎるだけなのか。
 やっと焼きあがるころには、店内の席はまあまあ埋まっていて、きっと僕が気付いていないときにも何度かキッチンに顔を出していたのだろう。
「おお、きれいじゃん。お客様に出しておいで」
 ご飯と味噌汁の用意は、僕が焼き終わるのを見計らってつけてくれていたらしく、湯気が立ち昇る主食と汁物がトレーの上に準備されていた。
「うん。ありがとう」
 初めて水を出した時よりも、もっとずっと緊張してしまう。
 自分が作ったものを、春山さん一家以外には、家族にしか出していない。春山さん一家以外の他人の口に入るなんて、カウンター内に戻っても、つい注文をくれたその人を見てしまう。
 おいしいって思ってもらえるか。
 いつもと同じ味だと、味わってもらえるか。
「ちょっと、優緋くん、見すぎ」
「あ、ごめん。つい」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
 キッチンから、半笑いで声が飛んでくる。咲結さんの「大丈夫」は、どこか投げやりなような、でも信ぴょう性もあって温かいような。
 そんな不思議な感覚が心に残る。
「ほら、優緋くん、お客様が呼んでるよ」
  まただ。咲結さんの聴力はどれだけ優秀なんだろう。ホールにいる僕が聞こえない声が、奥のキッチンにいる咲結さんに聞こえるなんて。
 何かで見た、競技かるたをやっている人のような、普通聞こえないような息遣いまでも聞き取るような勢いだ。
 真っ新な伝票を片手に、手を挙げている人のところに早歩きで向かう。
「大変お待たせいたしました。ご注文をお伺いします」
「ねえ、ここに春山咲結って人、いるよね」
 想定外の質問に、思わずまじまじとそのっ人のことを見てしまう。
 派手だ。今どきのギャルなのか、化粧が濃くて、キツイ顔つきをしている。
 ……同級生? 同じ高校の人だろうか。友達にしては、咲結さんとは結構ジャンルが違う人たちのような気がする。
 青葉西高校の制服を着た女子生徒三人が、メニューに手を付けた様子もなく、咲結さんを呼んでいる。
 いるって言っていいものか。なんだか、あまり勝手な発言もよくない気がする。
「確認します」
 取り敢えず、キッチンに入って咲結さんに声をかける。
「咲結さん、青葉西高校の人が来てるけど……」
「……え?」
 一瞬、咲結さんの顔が曇った気がするけど、一瞬で笑顔に戻った。
「すぐ戻るね。注文入ったら、電話して」
 それだけ言い残して、咲結さんはキッチンを出てホールに向かった。
 女子高生三人の後について、カフェを出ていく。
 僕ができることは、注文を取ること、お会計をすること、和食のモーニングプレートを作ることだけだ。
 どうか注文が入らないでくれ。友達と話しているときにわざわざ電話をして戻って来てもらうのも、なんだか気が引ける。
 幸い帰る人ばかりで安心していると、十五分くらい経ったころに、左の頬を若干赤く染めて戻ってきた。
「いやー、やっぱり外は暑いね。左半身だけ日焼けしたかも」
 キッチン入って冷蔵庫から取り出した水を一気飲みしている。
「一人にしてごめんね。何もなかった?」
「うん」
「そう、よかった」
 冷房にあたりながら、こちらを向く。左半身にしっかり日が当たっていたのか、頬の赤みが消えるのには少し時間がかかっていた。