「だから言ってるじゃないですか! 私、このまま死にたいんです。なんとか死なせてください!」
カウンター席から身を乗り出すと、私、一宮咲耶はマスターに詰め寄った。
ここは現世とあの世の狭間にあるカフェ。亡くなった人が立ち寄り、ほっと一息つける、あの世への通過点のひとつだ。
店内は落ち着いたジャズミュージックが流れ、挽きたてのコーヒーの香りがふんわり漂う。
和やかな談笑を楽しんでいた人々は口を閉じ、何事かとこちらを見た。
「落ち着いて、咲耶ちゃん」
マスターの京子さんはカウンター越しに私の肩に手を添えた。
セクシーなハスキーボイスのマスターは、心は乙女だが見た目は男。マッチョを相手に争っても勝てないので、ひとまず大人しく座る。
「さっきも説明したけど、咲耶ちゃんは実は死ぬ予定はなかったの。ちょっとした手違いで打ち所が悪くて命を落としてしまったのね。だから現世へ戻る権利があるのよ。ここまでは分かる?」
「分かります。だから死なせてください」
「うーん。一般的には現世に戻れるって喜ぶ人が多いんだけどね。困ったわぁ」
京子さんは猫が毛づくろいをするような優美な仕草で頬杖をつく。長いまつ毛にオレンジ色の照明を乗せながら、つぶらな瞳をこちらへ向けた。
心配をしているアピールだ。
そんなことをされても私の意思はゆるぎない。
私はここで死ぬ。生まれ変わって、来世に期待する。
現世での私の人生はさんざんだった。高校受験に失敗したのだ。
中学二年生まではほどほどに幸せだった。母の期待に応えるために、偏差値が高い高校を狙ったのが転落人生の始まりだ。
足しげく塾へ通い、友人と遊ぶ予定をすべてキャンセルして、多くの時間を勉強に費やした。結果は不合格。私は滑り止めとして受けた地元の岩古谷高校へ進学した。
入学後、母の態度は一変。
おはよう、と言えばため息をつかれ、学校のプリントを渡しても無反応。仕事に疲れているのかと思い、夕食作りや洗濯を進んで手伝ったが効果はなし。
もしかして具合が悪いのだろうか。心配になり、母の私室をそっと覗いた。
そのときに見た青白い顔と、独り言は忘れられない。
「……いまの高校に進学しなければ、こんなことにはならなかったのかしら」
喉の奥が詰まり、なにも言えなかった。
第一志望に合格できなかった私は、母に愛される資格はない。娘として失格なんだ。
もともと会話は多くなかったが、その日を境に私は母を避けるようになった。
親に失望されても、学生生活が楽しければ救いがあったのかもしれない。
地元の高校では友達がなかなかできなかった。高校受験に失敗したという噂が流れ、可哀想な子扱いをされたのだ。
同じ中学校を卒業した友人もいたが、私を避けるようにしてほかの子と話をしている。入学をして一ヶ月経つ頃には仲良しグループができあがり、私は一人ぼっちになった。
体育のペア決めではいつも余り、お弁当を一緒に食べる友人はいない。先生が気にかけてくれたため、課外学習ではどこかのグループに入れてもらえたが、腫物扱いは変わらなかった。
みんな、私を見ると困った顔をする。そんな表情をさせてしまうのは嫌で、うつむく時間が増えた。
母に見限られ、友達もいない。
私を心配してくれる人も、愛してくれる人もいない。
生きている意味を見出せなかった。
梅雨入り間近となったある日、現代文の授業で作文の課題が出た。
迷いなく、一行目に「死にたい」と書いた。
提出期限ぎりぎりまでカバンに入れて、そのまま出そうと決めた。だれかに、この死にたいほど苦しい気持ちを知ってほしかった。
いつものように一人で学校へ行き、授業を受けて帰路に着く。
「……今日も一人だったな」
帰り道、歩道橋の中ほどで足が止まった。
もうすぐ家に着く。帰りたくない。
母の仕事は今日は休みだ。きっと家にいる。夕食が出るだけマシなのかもしれないが、居心地は悪かった。
少しでも時間を潰すためにスマホを出す。メッセージアプリに通知はない。私は制服のポケットにスマホを戻した。
通学カバンを開けて丸まった作文用紙に手を伸ばす。たった一行の「死にたい」を目にすると笑えてくる。死にたいと書いて死ねたら楽なのに、そうはならない。ひどい現実だ。
自宅にも学校にも居場所がないのは、いまの私にとって、世の中をひっくり返して丸めて捨ててしまいたいくらい、苦しくてつらいことだった。
「あっ」
トラックが走り去った風圧で、作文用紙が宙を舞う。鳥が飛び立つように勢いよく舞い上がり、重力にならって踊りながら落ちていく。
その姿はどこまでも自由だ。つかめたら、このつらさから解放されるかもしれない。そんな身勝手な思いから作文用紙へ手を伸ばした。
「あぶない!」
私より一回り大きな手が、作文用紙をつかんだ。
親切な人がいるものだ。ありがとうございます、とお礼を言えないまま、空と地面がひっくり返った。
青空が見える。太陽はどこまでも明るくてまぶしい。目を細めた私の視界をさえぎるかのように、人影が覆い被さった。相手の顔はよく見えない。
そのまま私たちは頭からまっ逆さまに、アスファルトへ向かって落ちた。
それが人生最期の記憶だ。
痛くなかったから、わりと上手く死ねたと思ったのに。うっかりミスで死んじゃったから現世へ戻れと言われても、素直に頷けるはずがない。
ここは粘って、あの世へ進みたいところだ。
頑なな私に、京子さんはタバコの煙を吐き出すかのように、ふうっと息を吐く。
「咲耶ちゃんがこのままあの世へ行きたい気持ちは分かったわ。でもね、はい、どうぞって通すわけにはいかないのよ」
「魂が、くっついているからですか?」
「そうね。彼と魂が結びついているのも、理由の一つね」
隣に座る男性が、申し訳なさそうに後ろ頭をかく。
「ごめんね。助けるつもりが上手くいかなくて」
「高浜くんは悪くないよ。こちらこそごめんね。助けようとした相手が死にたがっているなんて思わないでしょ」
「それは、まあ……だね」
男性の名前は、高浜瑞樹。岩古谷高校の制服を着用しており、ネクタイは一年生を表すネイビー。たまたま歩道橋で、私が身を乗り出した瞬間を目撃したらしい。落下する女子高生に手を差し伸べてくれた優しい人だ。
瑞樹は私を助けようとして死んだ。
ほぼ同時に亡くなった私たちは、二つの魂がくっついた状態でカフェにきた。目には見えない強い結びつきがあり、あの世行きへの妨げになっているそうだ。
「魂が少しでも重なっていると、あの世へ行けないんですか?」
「行けないことはないけれど、来世が心配ね。頭が二つに分かれたヘビか、ケルベロスくらいしか選択肢がないわよ。一つの体に複数の魂が入るのは不自然だから、無理があるのね」
「うっ、それはちょっと……」
ファンタジーアニメが好きな友人との会話を思い出す。ケルベロスは、ギリシャ神話に登場する冥界の番犬だ。一つの体に三つの頭がある。
瑞樹はおっとりとした調子でうなずく。
「ケルベロスなら転生してもいいかな。響きがカッコイイし」
「よくないよ。響きだけで来世を決めちゃだめ。しっかり考えて」
転生先が人間でなくても構わないが、来世はのびのびと暮らしたい。母に逆らえず言われるがままに受験をした結果がこれだ。選択肢のない生き方は二度とごめんだ。
「一週間もすれば魂は自然に離れるわ。今はあの世へ行きたくても、時間が立てば考えが変わるかもしれない。難しく考えずに、ここでのんびり過ごせばいいじゃないの」
「そう言わずに少しでも早く死なせてくれませんか。ここ、居心地が悪いんですよ」
カフェの客層はとても良い。みんな穏やかで優しく、人生に満足している人が多い。
くつろぐ人々の主な話題は生前の出来事だ。五人の孫に恵まれた、一つの会社に四十年以上勤めあげた、大恋愛の末に結ばれたなど、明るい話題で盛り上がる。ときには会社が倒産してホームレスになった、大病を患い亡くなったなど暗い過去も出るが、最後は笑い話になる。
幸も不幸も受け入れ、自分の人生に納得した人に囲まれても楽しくはない。
だからといって、一人きりで時間を潰すにしては一週間は長すぎる。
退屈を紛らわすためにカフェのメニューを開けば、私の好物がずらりと並ぶ。母が作ってくれたオムライス、中学生の頃に友人と一緒に飲んだ紅茶など、トラウマを刺激する内容ばかりですぐに閉じた。
併設された書店には懐かしい漫画や小説が並ぶ。つらい受験勉強の気晴らしに読んでいた本ばかりで、背表紙を眺めるだけで気分が悪くなった。
生前が反映されたカフェに長居は無用。すぐにでも逃げ出したいが、京子さんの許可がなければ扉は開かない。なら、いっそのことすぐにでもあの世へ導いてほしいのが本音だ。
京子さんはピンクのアイシャドーをきらめかせながら、前かがみになる。
「残念ながら、居心地が悪い人はあの世に案内できないのよ。未練があるってことだから。ここで人生と向き合える人は、寿命を全うした人なの。咲耶ちゃんは現世へ戻ったほうがいいと思うわ」
「そんな……」
未練なんてない。思いつかないよ。
死にたい私と、死なせるわけにはいかない京子さん。何度やり取りしても分かり合えない。私は不満を言いながら、カフェで一週間耐えるしかないのだ。
カウンターに突っ伏すと、私は小さく唸った。
はあ、考えるだけで苦しくなる。生き返っても、生きていく方法が分からない。家に帰りたくない。学校へ行きたくない。こんなに最悪な人生ってないよ。
鼻の奥がつんと痛くなる。泣きそうだ。
顔を見られないように腕で隠していると、隣席の瑞樹がそっと声を上げた。
「カフェにいるのがつらいのなら、一週間、現世を見学するのはどうかな」
「成仏できない幽霊がふらふらさまようように、あっちの世界へ戻るってこと?」
「お盆にご先祖様が里帰りするような感覚に近いわね。自分のお葬式をのぞきに行く人、自宅や職場を見に行く人もいるわ。自分が亡くなった後、家族や友人の様子が気になる人は多いのよ」
それなら、わざわざ足を運ばなくても分かる。みんな元気だ。
母は出来損ないの娘がいなくなり済々しているだろうし、中学の頃からの友人は高校生ライフを満喫しているはずだ。
いやだな。
そんなの見たくない。
私が現世にいないほうが、みんな幸せなのだと確認をしに行くようなものだ。
「……どうして戻りたくもない世界を見に行かなきゃならないの」
「未練があるからあの世へ行けないんだよね。なら、現世へ戻って未練を見つけて、解消すれば良いんだよ」
現世はつらいが、戻って未練を解消できればあの世へ行ける。
一週間の我慢で明るい来世への道が開けるのだ。やる価値はある。
伏せていた顔を私は上げた。
「そっか、その手があるね。ぜんぜん思いつかなかった。高浜くん、ありがとう!」
「それほどでも。でも、助けた側としては、一宮さんには生きてほしいんだよ。現世に戻れば、もう一度生きたいと思えるきっかけが見つかるかもしれないしね」
「うーん、それはないと思う。未練を解消して私はあの世へ行くよ。京子さん、現世へはどうやって戻ればいいんですか?」
ぱちんと、京子さんは可愛らしく両手を合わせた。
「準備が必要だから、ちょっと待ってね」
店の奥から数枚の用紙を持ち出すと、京子さんはカウンターに広げた。
書面には「現世への一時渡航申請書」とある。死後の世界は想像以上に事務的だ。
「魂の居場所を把握するために提出する決まりなのよ。現世へ行くための申請書と、万が一の保険の加入、あとは注意事項ね」
「保険があるんですか」
「悪霊から身を守る結界の付与や、神社で誤ってお祓いをされてしまったときの補償など、幅広くカバーしているのよ。料金は一日百円で、来世から引かれるわ」
「来世から? どうやって?」
「来世が人間なら、自販機でジュースを購入しようとして、百円玉を落として失くしたとかね。ちょっとした出来事から少しずつ回収されるわ。入っておいたほうがいいわよ。無保険でトラブルに巻き込まれて、来世で全財産を失ったケースもあるから」
それでも来世で清算できるならまだマシだと京子さんは言う。現世で悪霊に魂を喰われてしまう人や、地縛霊となり世の中を恨み続ける者もいるそうだ。
そうならないためのお守りのようなものだと説明を受け、加入を決めた。幸せな来世への投資だと思えばいい。
注意事項に目を通す。現世への干渉は基本的には禁止されている、現世の散策に疲れたらカフェへ戻ることなど、幽霊が見学するうえでのマナーが綴られている。
内容をひっくるめると、手を出さずに大人しく見て回るぶんには問題はない、という印象を受けた。
項目の最後に、丸っこい文字で文章が付け加えられている。
「ええと『一週間の待機が終了したのち、あなたの願いを一つ叶えます♡』って、なんですか、これ」
「そのままの意味よ。本来なら生きているはずの咲耶ちゃんの死は、あの世で大問題になっていてね。上層部が再発防止のために、てんやわんやの大騒ぎ。本来ならこちらに赴いて、直々に謝罪するところなんだけど、対応に追われていてそれどころじゃないのよね。そこで、お詫びとして咲耶ちゃんの願いを一つ叶えることにしたの」
死ぬはずのない人間が手違いで命を落としたのだ。あの世が生殺与奪の権を握れば、現世の寿命を意のままに操れるようになる。今後このような問題が生じないように、いろいろな仕組みを見直しているそうだ。
「願いを叶えるって、どんなお願いでも聞いてくれるんですか?」
「ある程度はね。神様になりたいとか、地球を遊園地だらけのユートピアにしたいとか、そういう突拍子のないものはダメよ」
「願いの力を使って、未練が解消できなくてもあの世へ行くことはできますか?」
京子さんは眉をひそめた。困っている。本当はポジティブな願いを叶えて、ハッピーな人生を楽しんでほしいのだろう。
「できるけど、申請書にサインをしたから現世行きは決定よ。気は向かないかもしれないけれど、見学をしてから考えてね」
「はーい」
ごめんね、京子さん。私はもう十分苦しんだ。仕方なく現世へ足を運ぶけれど、本当はすぐにでもあの世へ行きたい。前向きに死にたいんだ。
サインをした書類を渡し、控えをもらう。
「現世へ行くための鍵を渡すから、扉の前で待っていてね」
さて、ちっとも楽しくないけど、現世へ行くか。
カウンターから離れると、なぜか瑞樹がついてきた。
「僕も一緒に行くよ」
「いや。信用できないもん。高浜くん、京子さんとグルでしょ」
「こうでもしないと一宮さんはあの世へ行ってしまうと思ったからさ。ごめんね」
申し訳なさそうな瑞樹へ冷たい視線を送る。
願いを叶えてもらえることを知っていたら、現世へ戻らなかった。居心地は悪いがカフェで一週間待てばあの世へ行けるからだ。
未練を解消するために現世行きを提案されて、渡航申請書へサインをしてから、願いごとの権利を知らされるとは。してやられた。
きっと京子さんは、カフェへ来る人物の背景を把握したうえで、現世を見学させようと考えたのだろう。
でも、なにをしてもムダだ。
ぜったいに私はあの世へ行くんだ。
「高浜くんはカフェで待ちなよ」
「それがね、カフェでのんびりするのは退屈だし、現世へ行こうと思っていたところなんだ。魂がくっついているから、僕も一週間待機しなきゃいけないんだよ」
制服の内ポケットから、瑞樹は三つ折りにされた用紙を出す。申請書の控えだ。
「だから、ね?」
「そうやって、優しそうな顔をして何かたくらんでいるんでしょ。私は一人で行きたいの」
「僕はただ、一宮さんが心配なだけだよ。生きてほしいんだよ」
あの世へ行くのは困るから、引き留めようってことか。そうはいかない。
「じゃあ数メートル後から様子を見るよ。それならいいよね」
「よくない。高浜くんは現世を自由に見て回ればいいじゃん」
「たぶん一宮さんと同じ場所を見るよ。なら最初から一緒に行動すれば早いと思うんだ」
「あのね……」
なにがなんでもついて来ようとする姿勢に不満を伝えようとして、ふと疑問に思う。
なにか変だ。初対面なのに、私にこだわるのはなぜだろう。
死にたがりの私を引き留めようとして、現世へ戻ったら同じところを回ると言う。もしかすると、生前、瑞樹とつながりがあったのだろうか。
魂がくっついた、というのもよく考えれば妙だ。歩道橋から落ちた人間を庇っただけなのに、魂が結びつくのだろうか。それならば、ほぼ同時刻に同じ場所で亡くなった人の魂は全員くっついてしまう。
魂が重なっているのはカフェでは私たちのみ。まだ知らされていない事情がありそうだ。
しかし高浜瑞樹という人物に心当たりはない。同じ高校だがクラスは別だし、接点はない。
学校ですれ違っている可能性はある。だがそれだけで、魂が惹かれ合うほどの絆が生まれるだろうか。
「……高浜くんは、私のことを知っているの?」
質問に対して、瑞樹はわずかに目を泳がせてから頷いた。
「高校に入学する前から知っているよ」
ということは、家庭環境や友人関係で苦しんでいるとき、私が背中を丸めて歩いているのを、瑞樹は傍観していたわけだ。
生きているうちに助けてくれなかったのに、死の間際に手を差し伸べて「生きてほしい」って、そんなのってない。
「長い間、私が苦しんでいるのを見て、楽しかった?」
「まさか。高校ですれ違う一宮さんはいつも苦しそうで、話しかけていいのか迷ってしまった。もっと早く声をかけていれば、こんなことにならずに済んだのかもしれない。悪いと思っている。……本当にすまない」
瑞樹は深く頭を下げた。
「なにもできなかったぶん、一宮さんを助けたいんだ。少しでも前向きに生きられるように、その糸口を探す手伝いがしたい。だから一緒に行かせてくれないか?」
その姿に感情は大きく動かず、心の中には「死にたい」が居座っていた。しかたがない。謝られても母や友人の態度が温かくなるわけでないのだ。
でも、たぶん……彼は悪い人ではないのだと思う。
生きてほしいと瑞樹は口癖のように言う。きっと現世での暮らしに希望があり、困難を乗り越える力がある人なのだろう。
生きる気力のない人間に優しさを向けずに、どうか、真っすぐ生きてほしい。
「高浜くんがいくらがんばっても、現状は変わらないと思う。私と同じ風景を眺めるよりも、高浜くんの大切な人がどう過ごしているのかを見るほうが有意義だよ。歩道橋から落ちた人を助けようとする、優しさと勇気があるもの。高浜くんは、高浜くんの人生を大切にしていいんだよ」
「また、きみはそういうことを言う……。なにを言っても僕の気持ちは変わらない。ついていくからね」
平行線の話し合いに終止符を打つようにして、京子さんが軽やかな足取りで現れた。
「現世へ行く準備が整ったわ。これが現世へ向かう扉の鍵よ。疲れたらもう一度扉を開けて、休憩をしにカフェへ戻って来てね」
花の装飾が施された金の鍵には、虹色に輝く紐がくくりつけられている。地獄の蜘蛛がぜったいに切れない糸を結いあげて作ったものだという。瑞樹はペンダントのように首にかけた。
「あれ? 私のぶんは」
「ごめんなさいね、上層部がバタバタしていて一人分しか用意できなかったのよ。もう一本はもう少し時間がかかりそうなの」
「そうですか、それはよかった。高浜くんお先にどうぞ」
「うわあ、すごくいい笑顔だね……」
現世へは瑞樹に先に向かってもらう。私は後からゆっくり戻り、一週間をだらだら過ごす予定だ。
未練を探さなくてもあの世へ行けるのだから、現世ではのんびり散歩でもしよう。そうだ、映画館へ行こうかな。幽霊ならチケットを購入しなくても話題の新作が観放題。来世へ行く前に楽しんでおかないと。
「でもねえ、今の咲耶ちゃんを後から一人で行かせるのはちょっと不安なのよ。未練を探さずに現世でぼんやり過ごされても困るしね」
「うぐっ」
行動を読まれている。一筋縄ではいかないようだ。
「けれど瑞樹くんと一緒なら安心できそうね。というわけで、えいっ!」
魔法少女のようなキメポーズを取ると、京子さんは両手でハートマークを作る。
金属が擦れるような音がして、私の左手首と瑞樹の右手首にピンク色の輪っかが出現した。おしゃれなブレスレットのようにも見えるが、これはどう見てもあれだ。
「て、手錠じゃないですか! どういうことですか、京子さん!」
動揺する私に対して、瑞樹は興味深そうに触れるのみ。もっと慌ててほしい。これでは犯罪者だ。
「手錠じゃなくて、チェーン付きのバングルよ。鍵が一本しかないから、現世ではぐれて戻ってこれなかったら困るでしょう。これなら離れ離れにならないから安心ね」
瞳を輝かせながら瑞樹はほほ笑む。
「そうなんですね。気に入りました」
「あら、よかったわ。若者向けのキュートなデザインを選んだから、服装を変えてもコーデしやすいわよ」
「私はよくないんですけど……」
納得できないが、現世ではペアで行動するしかなさそうだ。
こうなれば、瑞樹には未練探しだと説明をして、現世を適当にうろつくしかない。自宅や高校に近寄らないように気をつけて、一週間をやりすごそう。
「私の行きたいところが優先だからね」
「それでかまわないよ」
カフェの扉の前に立つ。鍵で開けた先にあるのは、運命の分かれ道となった歩道橋だ。
未練探しはしない。一週間後は憧れの死後の世界へ行く。これは、あの世へ行く前の暇潰しみたいなもの。そのためならなんだってやるつもりだ。
決意を胸に、私は現世への一歩を踏み出した。
カウンター席から身を乗り出すと、私、一宮咲耶はマスターに詰め寄った。
ここは現世とあの世の狭間にあるカフェ。亡くなった人が立ち寄り、ほっと一息つける、あの世への通過点のひとつだ。
店内は落ち着いたジャズミュージックが流れ、挽きたてのコーヒーの香りがふんわり漂う。
和やかな談笑を楽しんでいた人々は口を閉じ、何事かとこちらを見た。
「落ち着いて、咲耶ちゃん」
マスターの京子さんはカウンター越しに私の肩に手を添えた。
セクシーなハスキーボイスのマスターは、心は乙女だが見た目は男。マッチョを相手に争っても勝てないので、ひとまず大人しく座る。
「さっきも説明したけど、咲耶ちゃんは実は死ぬ予定はなかったの。ちょっとした手違いで打ち所が悪くて命を落としてしまったのね。だから現世へ戻る権利があるのよ。ここまでは分かる?」
「分かります。だから死なせてください」
「うーん。一般的には現世に戻れるって喜ぶ人が多いんだけどね。困ったわぁ」
京子さんは猫が毛づくろいをするような優美な仕草で頬杖をつく。長いまつ毛にオレンジ色の照明を乗せながら、つぶらな瞳をこちらへ向けた。
心配をしているアピールだ。
そんなことをされても私の意思はゆるぎない。
私はここで死ぬ。生まれ変わって、来世に期待する。
現世での私の人生はさんざんだった。高校受験に失敗したのだ。
中学二年生まではほどほどに幸せだった。母の期待に応えるために、偏差値が高い高校を狙ったのが転落人生の始まりだ。
足しげく塾へ通い、友人と遊ぶ予定をすべてキャンセルして、多くの時間を勉強に費やした。結果は不合格。私は滑り止めとして受けた地元の岩古谷高校へ進学した。
入学後、母の態度は一変。
おはよう、と言えばため息をつかれ、学校のプリントを渡しても無反応。仕事に疲れているのかと思い、夕食作りや洗濯を進んで手伝ったが効果はなし。
もしかして具合が悪いのだろうか。心配になり、母の私室をそっと覗いた。
そのときに見た青白い顔と、独り言は忘れられない。
「……いまの高校に進学しなければ、こんなことにはならなかったのかしら」
喉の奥が詰まり、なにも言えなかった。
第一志望に合格できなかった私は、母に愛される資格はない。娘として失格なんだ。
もともと会話は多くなかったが、その日を境に私は母を避けるようになった。
親に失望されても、学生生活が楽しければ救いがあったのかもしれない。
地元の高校では友達がなかなかできなかった。高校受験に失敗したという噂が流れ、可哀想な子扱いをされたのだ。
同じ中学校を卒業した友人もいたが、私を避けるようにしてほかの子と話をしている。入学をして一ヶ月経つ頃には仲良しグループができあがり、私は一人ぼっちになった。
体育のペア決めではいつも余り、お弁当を一緒に食べる友人はいない。先生が気にかけてくれたため、課外学習ではどこかのグループに入れてもらえたが、腫物扱いは変わらなかった。
みんな、私を見ると困った顔をする。そんな表情をさせてしまうのは嫌で、うつむく時間が増えた。
母に見限られ、友達もいない。
私を心配してくれる人も、愛してくれる人もいない。
生きている意味を見出せなかった。
梅雨入り間近となったある日、現代文の授業で作文の課題が出た。
迷いなく、一行目に「死にたい」と書いた。
提出期限ぎりぎりまでカバンに入れて、そのまま出そうと決めた。だれかに、この死にたいほど苦しい気持ちを知ってほしかった。
いつものように一人で学校へ行き、授業を受けて帰路に着く。
「……今日も一人だったな」
帰り道、歩道橋の中ほどで足が止まった。
もうすぐ家に着く。帰りたくない。
母の仕事は今日は休みだ。きっと家にいる。夕食が出るだけマシなのかもしれないが、居心地は悪かった。
少しでも時間を潰すためにスマホを出す。メッセージアプリに通知はない。私は制服のポケットにスマホを戻した。
通学カバンを開けて丸まった作文用紙に手を伸ばす。たった一行の「死にたい」を目にすると笑えてくる。死にたいと書いて死ねたら楽なのに、そうはならない。ひどい現実だ。
自宅にも学校にも居場所がないのは、いまの私にとって、世の中をひっくり返して丸めて捨ててしまいたいくらい、苦しくてつらいことだった。
「あっ」
トラックが走り去った風圧で、作文用紙が宙を舞う。鳥が飛び立つように勢いよく舞い上がり、重力にならって踊りながら落ちていく。
その姿はどこまでも自由だ。つかめたら、このつらさから解放されるかもしれない。そんな身勝手な思いから作文用紙へ手を伸ばした。
「あぶない!」
私より一回り大きな手が、作文用紙をつかんだ。
親切な人がいるものだ。ありがとうございます、とお礼を言えないまま、空と地面がひっくり返った。
青空が見える。太陽はどこまでも明るくてまぶしい。目を細めた私の視界をさえぎるかのように、人影が覆い被さった。相手の顔はよく見えない。
そのまま私たちは頭からまっ逆さまに、アスファルトへ向かって落ちた。
それが人生最期の記憶だ。
痛くなかったから、わりと上手く死ねたと思ったのに。うっかりミスで死んじゃったから現世へ戻れと言われても、素直に頷けるはずがない。
ここは粘って、あの世へ進みたいところだ。
頑なな私に、京子さんはタバコの煙を吐き出すかのように、ふうっと息を吐く。
「咲耶ちゃんがこのままあの世へ行きたい気持ちは分かったわ。でもね、はい、どうぞって通すわけにはいかないのよ」
「魂が、くっついているからですか?」
「そうね。彼と魂が結びついているのも、理由の一つね」
隣に座る男性が、申し訳なさそうに後ろ頭をかく。
「ごめんね。助けるつもりが上手くいかなくて」
「高浜くんは悪くないよ。こちらこそごめんね。助けようとした相手が死にたがっているなんて思わないでしょ」
「それは、まあ……だね」
男性の名前は、高浜瑞樹。岩古谷高校の制服を着用しており、ネクタイは一年生を表すネイビー。たまたま歩道橋で、私が身を乗り出した瞬間を目撃したらしい。落下する女子高生に手を差し伸べてくれた優しい人だ。
瑞樹は私を助けようとして死んだ。
ほぼ同時に亡くなった私たちは、二つの魂がくっついた状態でカフェにきた。目には見えない強い結びつきがあり、あの世行きへの妨げになっているそうだ。
「魂が少しでも重なっていると、あの世へ行けないんですか?」
「行けないことはないけれど、来世が心配ね。頭が二つに分かれたヘビか、ケルベロスくらいしか選択肢がないわよ。一つの体に複数の魂が入るのは不自然だから、無理があるのね」
「うっ、それはちょっと……」
ファンタジーアニメが好きな友人との会話を思い出す。ケルベロスは、ギリシャ神話に登場する冥界の番犬だ。一つの体に三つの頭がある。
瑞樹はおっとりとした調子でうなずく。
「ケルベロスなら転生してもいいかな。響きがカッコイイし」
「よくないよ。響きだけで来世を決めちゃだめ。しっかり考えて」
転生先が人間でなくても構わないが、来世はのびのびと暮らしたい。母に逆らえず言われるがままに受験をした結果がこれだ。選択肢のない生き方は二度とごめんだ。
「一週間もすれば魂は自然に離れるわ。今はあの世へ行きたくても、時間が立てば考えが変わるかもしれない。難しく考えずに、ここでのんびり過ごせばいいじゃないの」
「そう言わずに少しでも早く死なせてくれませんか。ここ、居心地が悪いんですよ」
カフェの客層はとても良い。みんな穏やかで優しく、人生に満足している人が多い。
くつろぐ人々の主な話題は生前の出来事だ。五人の孫に恵まれた、一つの会社に四十年以上勤めあげた、大恋愛の末に結ばれたなど、明るい話題で盛り上がる。ときには会社が倒産してホームレスになった、大病を患い亡くなったなど暗い過去も出るが、最後は笑い話になる。
幸も不幸も受け入れ、自分の人生に納得した人に囲まれても楽しくはない。
だからといって、一人きりで時間を潰すにしては一週間は長すぎる。
退屈を紛らわすためにカフェのメニューを開けば、私の好物がずらりと並ぶ。母が作ってくれたオムライス、中学生の頃に友人と一緒に飲んだ紅茶など、トラウマを刺激する内容ばかりですぐに閉じた。
併設された書店には懐かしい漫画や小説が並ぶ。つらい受験勉強の気晴らしに読んでいた本ばかりで、背表紙を眺めるだけで気分が悪くなった。
生前が反映されたカフェに長居は無用。すぐにでも逃げ出したいが、京子さんの許可がなければ扉は開かない。なら、いっそのことすぐにでもあの世へ導いてほしいのが本音だ。
京子さんはピンクのアイシャドーをきらめかせながら、前かがみになる。
「残念ながら、居心地が悪い人はあの世に案内できないのよ。未練があるってことだから。ここで人生と向き合える人は、寿命を全うした人なの。咲耶ちゃんは現世へ戻ったほうがいいと思うわ」
「そんな……」
未練なんてない。思いつかないよ。
死にたい私と、死なせるわけにはいかない京子さん。何度やり取りしても分かり合えない。私は不満を言いながら、カフェで一週間耐えるしかないのだ。
カウンターに突っ伏すと、私は小さく唸った。
はあ、考えるだけで苦しくなる。生き返っても、生きていく方法が分からない。家に帰りたくない。学校へ行きたくない。こんなに最悪な人生ってないよ。
鼻の奥がつんと痛くなる。泣きそうだ。
顔を見られないように腕で隠していると、隣席の瑞樹がそっと声を上げた。
「カフェにいるのがつらいのなら、一週間、現世を見学するのはどうかな」
「成仏できない幽霊がふらふらさまようように、あっちの世界へ戻るってこと?」
「お盆にご先祖様が里帰りするような感覚に近いわね。自分のお葬式をのぞきに行く人、自宅や職場を見に行く人もいるわ。自分が亡くなった後、家族や友人の様子が気になる人は多いのよ」
それなら、わざわざ足を運ばなくても分かる。みんな元気だ。
母は出来損ないの娘がいなくなり済々しているだろうし、中学の頃からの友人は高校生ライフを満喫しているはずだ。
いやだな。
そんなの見たくない。
私が現世にいないほうが、みんな幸せなのだと確認をしに行くようなものだ。
「……どうして戻りたくもない世界を見に行かなきゃならないの」
「未練があるからあの世へ行けないんだよね。なら、現世へ戻って未練を見つけて、解消すれば良いんだよ」
現世はつらいが、戻って未練を解消できればあの世へ行ける。
一週間の我慢で明るい来世への道が開けるのだ。やる価値はある。
伏せていた顔を私は上げた。
「そっか、その手があるね。ぜんぜん思いつかなかった。高浜くん、ありがとう!」
「それほどでも。でも、助けた側としては、一宮さんには生きてほしいんだよ。現世に戻れば、もう一度生きたいと思えるきっかけが見つかるかもしれないしね」
「うーん、それはないと思う。未練を解消して私はあの世へ行くよ。京子さん、現世へはどうやって戻ればいいんですか?」
ぱちんと、京子さんは可愛らしく両手を合わせた。
「準備が必要だから、ちょっと待ってね」
店の奥から数枚の用紙を持ち出すと、京子さんはカウンターに広げた。
書面には「現世への一時渡航申請書」とある。死後の世界は想像以上に事務的だ。
「魂の居場所を把握するために提出する決まりなのよ。現世へ行くための申請書と、万が一の保険の加入、あとは注意事項ね」
「保険があるんですか」
「悪霊から身を守る結界の付与や、神社で誤ってお祓いをされてしまったときの補償など、幅広くカバーしているのよ。料金は一日百円で、来世から引かれるわ」
「来世から? どうやって?」
「来世が人間なら、自販機でジュースを購入しようとして、百円玉を落として失くしたとかね。ちょっとした出来事から少しずつ回収されるわ。入っておいたほうがいいわよ。無保険でトラブルに巻き込まれて、来世で全財産を失ったケースもあるから」
それでも来世で清算できるならまだマシだと京子さんは言う。現世で悪霊に魂を喰われてしまう人や、地縛霊となり世の中を恨み続ける者もいるそうだ。
そうならないためのお守りのようなものだと説明を受け、加入を決めた。幸せな来世への投資だと思えばいい。
注意事項に目を通す。現世への干渉は基本的には禁止されている、現世の散策に疲れたらカフェへ戻ることなど、幽霊が見学するうえでのマナーが綴られている。
内容をひっくるめると、手を出さずに大人しく見て回るぶんには問題はない、という印象を受けた。
項目の最後に、丸っこい文字で文章が付け加えられている。
「ええと『一週間の待機が終了したのち、あなたの願いを一つ叶えます♡』って、なんですか、これ」
「そのままの意味よ。本来なら生きているはずの咲耶ちゃんの死は、あの世で大問題になっていてね。上層部が再発防止のために、てんやわんやの大騒ぎ。本来ならこちらに赴いて、直々に謝罪するところなんだけど、対応に追われていてそれどころじゃないのよね。そこで、お詫びとして咲耶ちゃんの願いを一つ叶えることにしたの」
死ぬはずのない人間が手違いで命を落としたのだ。あの世が生殺与奪の権を握れば、現世の寿命を意のままに操れるようになる。今後このような問題が生じないように、いろいろな仕組みを見直しているそうだ。
「願いを叶えるって、どんなお願いでも聞いてくれるんですか?」
「ある程度はね。神様になりたいとか、地球を遊園地だらけのユートピアにしたいとか、そういう突拍子のないものはダメよ」
「願いの力を使って、未練が解消できなくてもあの世へ行くことはできますか?」
京子さんは眉をひそめた。困っている。本当はポジティブな願いを叶えて、ハッピーな人生を楽しんでほしいのだろう。
「できるけど、申請書にサインをしたから現世行きは決定よ。気は向かないかもしれないけれど、見学をしてから考えてね」
「はーい」
ごめんね、京子さん。私はもう十分苦しんだ。仕方なく現世へ足を運ぶけれど、本当はすぐにでもあの世へ行きたい。前向きに死にたいんだ。
サインをした書類を渡し、控えをもらう。
「現世へ行くための鍵を渡すから、扉の前で待っていてね」
さて、ちっとも楽しくないけど、現世へ行くか。
カウンターから離れると、なぜか瑞樹がついてきた。
「僕も一緒に行くよ」
「いや。信用できないもん。高浜くん、京子さんとグルでしょ」
「こうでもしないと一宮さんはあの世へ行ってしまうと思ったからさ。ごめんね」
申し訳なさそうな瑞樹へ冷たい視線を送る。
願いを叶えてもらえることを知っていたら、現世へ戻らなかった。居心地は悪いがカフェで一週間待てばあの世へ行けるからだ。
未練を解消するために現世行きを提案されて、渡航申請書へサインをしてから、願いごとの権利を知らされるとは。してやられた。
きっと京子さんは、カフェへ来る人物の背景を把握したうえで、現世を見学させようと考えたのだろう。
でも、なにをしてもムダだ。
ぜったいに私はあの世へ行くんだ。
「高浜くんはカフェで待ちなよ」
「それがね、カフェでのんびりするのは退屈だし、現世へ行こうと思っていたところなんだ。魂がくっついているから、僕も一週間待機しなきゃいけないんだよ」
制服の内ポケットから、瑞樹は三つ折りにされた用紙を出す。申請書の控えだ。
「だから、ね?」
「そうやって、優しそうな顔をして何かたくらんでいるんでしょ。私は一人で行きたいの」
「僕はただ、一宮さんが心配なだけだよ。生きてほしいんだよ」
あの世へ行くのは困るから、引き留めようってことか。そうはいかない。
「じゃあ数メートル後から様子を見るよ。それならいいよね」
「よくない。高浜くんは現世を自由に見て回ればいいじゃん」
「たぶん一宮さんと同じ場所を見るよ。なら最初から一緒に行動すれば早いと思うんだ」
「あのね……」
なにがなんでもついて来ようとする姿勢に不満を伝えようとして、ふと疑問に思う。
なにか変だ。初対面なのに、私にこだわるのはなぜだろう。
死にたがりの私を引き留めようとして、現世へ戻ったら同じところを回ると言う。もしかすると、生前、瑞樹とつながりがあったのだろうか。
魂がくっついた、というのもよく考えれば妙だ。歩道橋から落ちた人間を庇っただけなのに、魂が結びつくのだろうか。それならば、ほぼ同時刻に同じ場所で亡くなった人の魂は全員くっついてしまう。
魂が重なっているのはカフェでは私たちのみ。まだ知らされていない事情がありそうだ。
しかし高浜瑞樹という人物に心当たりはない。同じ高校だがクラスは別だし、接点はない。
学校ですれ違っている可能性はある。だがそれだけで、魂が惹かれ合うほどの絆が生まれるだろうか。
「……高浜くんは、私のことを知っているの?」
質問に対して、瑞樹はわずかに目を泳がせてから頷いた。
「高校に入学する前から知っているよ」
ということは、家庭環境や友人関係で苦しんでいるとき、私が背中を丸めて歩いているのを、瑞樹は傍観していたわけだ。
生きているうちに助けてくれなかったのに、死の間際に手を差し伸べて「生きてほしい」って、そんなのってない。
「長い間、私が苦しんでいるのを見て、楽しかった?」
「まさか。高校ですれ違う一宮さんはいつも苦しそうで、話しかけていいのか迷ってしまった。もっと早く声をかけていれば、こんなことにならずに済んだのかもしれない。悪いと思っている。……本当にすまない」
瑞樹は深く頭を下げた。
「なにもできなかったぶん、一宮さんを助けたいんだ。少しでも前向きに生きられるように、その糸口を探す手伝いがしたい。だから一緒に行かせてくれないか?」
その姿に感情は大きく動かず、心の中には「死にたい」が居座っていた。しかたがない。謝られても母や友人の態度が温かくなるわけでないのだ。
でも、たぶん……彼は悪い人ではないのだと思う。
生きてほしいと瑞樹は口癖のように言う。きっと現世での暮らしに希望があり、困難を乗り越える力がある人なのだろう。
生きる気力のない人間に優しさを向けずに、どうか、真っすぐ生きてほしい。
「高浜くんがいくらがんばっても、現状は変わらないと思う。私と同じ風景を眺めるよりも、高浜くんの大切な人がどう過ごしているのかを見るほうが有意義だよ。歩道橋から落ちた人を助けようとする、優しさと勇気があるもの。高浜くんは、高浜くんの人生を大切にしていいんだよ」
「また、きみはそういうことを言う……。なにを言っても僕の気持ちは変わらない。ついていくからね」
平行線の話し合いに終止符を打つようにして、京子さんが軽やかな足取りで現れた。
「現世へ行く準備が整ったわ。これが現世へ向かう扉の鍵よ。疲れたらもう一度扉を開けて、休憩をしにカフェへ戻って来てね」
花の装飾が施された金の鍵には、虹色に輝く紐がくくりつけられている。地獄の蜘蛛がぜったいに切れない糸を結いあげて作ったものだという。瑞樹はペンダントのように首にかけた。
「あれ? 私のぶんは」
「ごめんなさいね、上層部がバタバタしていて一人分しか用意できなかったのよ。もう一本はもう少し時間がかかりそうなの」
「そうですか、それはよかった。高浜くんお先にどうぞ」
「うわあ、すごくいい笑顔だね……」
現世へは瑞樹に先に向かってもらう。私は後からゆっくり戻り、一週間をだらだら過ごす予定だ。
未練を探さなくてもあの世へ行けるのだから、現世ではのんびり散歩でもしよう。そうだ、映画館へ行こうかな。幽霊ならチケットを購入しなくても話題の新作が観放題。来世へ行く前に楽しんでおかないと。
「でもねえ、今の咲耶ちゃんを後から一人で行かせるのはちょっと不安なのよ。未練を探さずに現世でぼんやり過ごされても困るしね」
「うぐっ」
行動を読まれている。一筋縄ではいかないようだ。
「けれど瑞樹くんと一緒なら安心できそうね。というわけで、えいっ!」
魔法少女のようなキメポーズを取ると、京子さんは両手でハートマークを作る。
金属が擦れるような音がして、私の左手首と瑞樹の右手首にピンク色の輪っかが出現した。おしゃれなブレスレットのようにも見えるが、これはどう見てもあれだ。
「て、手錠じゃないですか! どういうことですか、京子さん!」
動揺する私に対して、瑞樹は興味深そうに触れるのみ。もっと慌ててほしい。これでは犯罪者だ。
「手錠じゃなくて、チェーン付きのバングルよ。鍵が一本しかないから、現世ではぐれて戻ってこれなかったら困るでしょう。これなら離れ離れにならないから安心ね」
瞳を輝かせながら瑞樹はほほ笑む。
「そうなんですね。気に入りました」
「あら、よかったわ。若者向けのキュートなデザインを選んだから、服装を変えてもコーデしやすいわよ」
「私はよくないんですけど……」
納得できないが、現世ではペアで行動するしかなさそうだ。
こうなれば、瑞樹には未練探しだと説明をして、現世を適当にうろつくしかない。自宅や高校に近寄らないように気をつけて、一週間をやりすごそう。
「私の行きたいところが優先だからね」
「それでかまわないよ」
カフェの扉の前に立つ。鍵で開けた先にあるのは、運命の分かれ道となった歩道橋だ。
未練探しはしない。一週間後は憧れの死後の世界へ行く。これは、あの世へ行く前の暇潰しみたいなもの。そのためならなんだってやるつもりだ。
決意を胸に、私は現世への一歩を踏み出した。
