退魔? いいえ、お話を伺うぐらいです

 高校三年のわたしには、他人に知られたくない秘密がある。
 それは、

〝空想癖があること〟

 五月の中旬を過ぎた今日も、学校から帰ってくるなり、わたしは自分の部屋でひとり空想世界に入り浸る。
 頭の中に描かれる世界は、自分がアイドルグループのセンターとして歌っているシーンや、来年からの大学生活でS級イケメンたちに溺愛される日々もあるけれど、これらはメインストーリーではない。あくまでもサブ。
 わたしが今ハマっているメイン空想は、遥か昔の歴史世界を映像として脳裏に映し出すこと。だからそのために、最近はよく歴史の本を読んでいる。
 お母さんがこの時だけは、勉強熱心だねと褒めてくれるけど、正直勉強している感覚はない。
 だって、歴史上の人物がわたしの脳内であれやこれやと活躍してくれるから。
 その手に日本刀を握り、矢をきりきりと引き絞り、重たい鎧をぎしぎし揺らしながら、戦う。
 いつしか周囲は敵兵に囲まれ、放たれた火がぱちぱちと爆ぜている。炎は館ごと総大将を吞み込もうとしている。
 もはやこれまで。切腹を決断した目に浮かぶのは、ありし日の仲間たちや愛した人。
 すなわちこれ、空想だ。いや、妄想レベルかもしれない。
 でも、これほど楽しいことは他にない。
 歴史を知れば知るほどに、わたしが描く空想世界は濃く鮮やかに色づく。キャラクターも生き生きとし、時代に合った空気感が醸成され、漂う匂いはまるでその場にいるかのよう。脳内サラウンドシステムが作動し、臨場感溢れる音や声まで聞こえてくるほどだ。
 すなわちこれ、最高の喜び。
 リアリティ追求型の脳内物語に没入するために、どんなに分厚く難解な歴史書であっても、わたしは読破する。
 きちんと理解できているかは、そろそろ模試の結果に表れるのではないかな。歴史以外の成績には目をつぶろう。
 ただし……。
 わたしに空想癖という趣味があることを、周りのクラスメイトには知られないようにしている。
 当たり前だ!
 オタクっぽい奴は気味悪がられる。アニメオタクしかり、アイドルオタクしかり。
 歴史をよく知っているぐらいならば知られても許容範囲だ。『勉強熱心』のレッテルを貼られる程度で済む。
 でも、空想にふけまくる妄想女子はアウトだ。
 アニメ世界に浸る男子が、鼻の下をのばしながら美少女キャラを熱く語るのと同じように見られたくはない!
 

 学校を終え、部屋で一人になる時間は貴重だ。
 誰の目も気にせずに、空想に没頭できる。
 特に最近は、武蔵坊弁慶が活躍していた頃を夢想する。
 弁慶――めちゃくちゃブームになっている。かっこいいし、今で言うイケオジだ。
 ただ、わたしはクール女子という印象を失いたくない。別名『クール・ビューティ橋本』は伊達じゃない。
 だから、世間の弁慶ブームに相乗りしていることを知られたくない。
 学校でダサかっこいい『べんけー様』の缶バッヂを見ると、ついガン見してしまうけど、周囲が気づくよりも先に視線をそらす。興味持ってないよ、みたいな態度をとる。(本当は、机の引き出しの中には缶バッヂがいっぱいある)
 そういうことで、わたしはこれから自分の部屋で、誰にも邪魔されずに弁慶の活躍を思い描く。
 遥か遠くの時代、歴史の中に、自分がまぎれこんでいく。
 最高です! 
 本物の出来事に立ち会ったかのように、歴史上の人物の声が聞こえてくる。
 それぐらいのレベルまでわたしは歴史の世界にのめり込み、音や匂いを感じる。このままじゃ現実世界に戻ることができなくなるかも、それぐらいのレベルなんです。
 わたしの目は、きっとネコのように黒目が細くなっている気がする。
 黒目が細く、電灯を消した部屋の中でもきらりと光っている――


≪希美 脳内空想中≫
 ときは平安時代末期。
 平清盛を筆頭とする、平氏一門が栄華を極めていた。
 だが、おごれる者は久しからず。(世の中を支配しブイブイ言わせている者ほど、そのブイブイは長く続かない)
 源氏の源頼朝や木曽(源)義仲などが、平氏を倒そうと兵を挙げた。当代きっての権力者に、命を懸けて戦いを挑む。ドラマティック!
 平清盛が病気で死ぬと、平氏打倒の流れは一気に加速した。
 東北地方(当時は奥州と呼ばれていた)から、頼朝の弟である源義経が綺羅星のごとく、頼朝のもとに馳せ参じた! 
 義経。
 彼こそが五条大橋で武蔵坊弁慶をやっつけた(との伝承がある)牛若丸! 鞍馬山で天狗に育てられた伝説を持つ源氏の忘れ形見だ。
 義経が熱い眼差しで頼朝を見る。
「兄上、平氏討伐は、弟であるこの義経にお任せください」
 頼朝も、よく来たと義経を労いながら、「うむ、分かった。行ってこい。けちょんけちょんに平氏をぶっ倒せ」と義経を頼りにしていることに言及する。
 こうして義経は弁慶などの郎党を引き連れて、平氏に戦いを挑む。
 義経は合戦において非常に優秀な大将だった。
 次々と平氏を打ち負かしていく。かっこいい!
 一の谷の合戦(現在の神戸市付近での戦い)では、鵯越の逆落としで有名な奇襲攻撃をしかけた。断崖絶壁を馬で駆けおり、平氏の陣地へ突撃する。
「者ども、平氏の陣地は真下じゃ。かかれぇっ!」
 義経が先陣をきって馬で駆けていく。
「おおーっ!」と弁慶たちも続く。
 崖下の平氏勢は、まさかの頭上からの来襲に慌てふためき、秩序を保てず総崩れとなった。
 源氏の勢いに押された平氏は、屋島(現在の四国、高松市)に逃れた。
 屋島で、義経は再び平氏と戦う。
 ここで興味深いエピソードがある。
 海戦中の出来事として伝わる『義経の弓流し』。わたしはこの逸話が大好きだから、空想レベルをひとつ上げる。
 すると、当時の潮の混じった空気の匂いまでしてきた。今よりも澄んだ大気だ。
「殿、海に落とした弓を拾うのは危険です。拾おうとしているところを、射られてしまいます」と弁慶が船上の義経にやんわりと諭す。
 だが義経は弁慶の忠告に耳を貸さずに、一心不乱に海中の弓を拾おうとした。
「弁慶よ、この弓を絶対に拾うのだ。もしも敵(平氏)の兵に、この弓を拾われてしまうと、源氏の大将はこんなにも弱い力で引ける弓を使っていると笑われてしまう」
 義経はあまり腕力がなかったようだ。
 だから、力がなくとも引くことができる弓を使っていた。その弓を、合戦の最中に、海に落としてしまった。
〝自分の命よりも、源氏が笑われることが嫌だ〟
 義経の気概が伝わってくる。声まで聞こえてきた。
【弓を拾う殿を、命をかけてお守りしなくては!】 
 ……空耳だよね、空想だけに。でも、弁慶っぽい感じの荒々しい声で聞こえるのよね。
 屋島でも勝利をおさめた義経は、1185年3月、最終決戦地の壇ノ浦(山口県沖)で平氏軍と激突する。船で戦う海戦だ。
 ここで義経は、当時の常識をくつがえす戦法をとったとされる。
 船を漕ぐ水夫を、矢で射るのだ。
 これは、陸上の合戦で武将が乗る騎馬を射ることに等しい。
 当時は、『やあやあ我こそは~』と、真正面からぶつかっていく戦い方が一般的だった。(いきなり騎馬を狙わない)
 お互いの船が近づくや水夫が真っ先に狙われるなんて、当時の平氏軍には想定外。
 平氏は海での合戦に長けていたため、戦う前から、海戦の常識を源氏に求めていたのかもしれない。その常識を義経は利用した。びっくり……ていうか、ちょっと卑怯?
 結果(他にも寝返り工作や潮の満ち引きなどの諸要因もあるけど)、源氏が勝利し、平氏は海の藻くずとなって消えた。
 波に揺られ漂う誰も乗っていない船を、海面に浮かぶ折れた弓矢を、水平線に沈む色の濃い夕陽を脳裏に描き、潮の匂いを嗅ぎながら、わたしは空想を終了する――


「楽しかった」
 思わず口に出した。今日も壮大な空想の大海原に漕ぎ出せた。
 満足の息を吐き、空想にしびれながら机に突っ伏す。この余韻が何ともいえない。空想中に吸った空気の匂い、耳を掠める風の音、光煌めく水面、すべてがわたしの宝物だ。
 でも最近、不気味な声が聞こえてくる。【堪忍ならぬ……】とか。妄想し過ぎもよくないのかもしれない。でも、やめられないんだよね。
 と、最近わたしとバトル中のお母さんが声を張りあげた。
「希美ぃ、夕ご飯!」
 お母さんがリモートワークで仕事をするようになってから、衝突が多くなった気がする。
 サバサバした性格のお母さんは、わたしの弁解にあまり耳を傾けてくれない。この空想時間がわたしの精神にどれほど安らぎをもたらしているか……。むうぅ。
「ほぉーら、ご飯冷めちゃうよぉ」
 ああ、現実だ。宿題しなきゃ。明日の予備校の予習もしなきゃ。受験めんどくさぁ。
 テーブルにつくと、色々小言を聞かされる。スカート短かすぎ、メイクが何だ、成績がどーだ……、もう嫌だ。
 そんななかでも、将来どうするの? そう迫られるのが一番苦手。将来の希望とか。げ……明日、進路調査票の提出日じゃなかったっけ? まだ何も書いてない。真っ白だ。
 希美。希望の『希』って……どこか重たい名前じゃない?
 わたしはろくな返事もせずに、二階から階段をおりていく。





「ねえ知ってる?」
「知らない」
 クラスメイトで、わたしが一番の親友だと思っている一条美晴。彼女からの問いかけをただちにぶった切ったわたしは、教室の窓ガラスを曇らせるほどのため息を吐く。
「まだ何も言ってないのに」
 わたしの背後で美晴がカカカと乾いた笑いをした。
 下品な笑いだ。これをする、つまりは、教室内に男子はいない。
 振り返って確かめるのも面倒だ。窓を覗きこむようにもたれ、放課後の校庭を眺め続ける。土煙があがっているのは、サッカー部が練習をしているから。
 うちのサッカー部は強豪だ。そのため、各地から選手が集まってくるらしい。
 と、聞いた。他のクラスの女子から相談を持ちかけられたときに、何かのついでにそんな話が出たのだ。親身になって話を聞いてあげたらスッキリしたようで、その子は今、校庭にいる。推しのサッカー部の男子を応援しているのだろう。
 正直、悩みを聞くと、その人の感情がわたしの心になだれ込んできて、疲れる。その人が抱えている苦しみに心が鋭く共感して、逆に自分がやられちゃうから。できれば、最低限の人付き合いだけで生きていきたい。
 そう思っているのに、何故か、相談事を聞いちゃう自分がいる……。
「北畠翔太君ってさ、Jリーグのチームから声がかかりそうなんだって」
 知ってる? の回答を、密着するほど体をくっつけて、美晴が伝えてきた。
 女子同士でくっつき合うのが好きではないので、正直に「くっつきすぎ」と冷めた声で美晴に言う。
 しかし、美晴はわたしの言葉を受け流した。だからわたしも、美晴には率直にモノを言えるのだが。
「北畠君って、このままプロになっちゃうんだろうね。Jリーグデビューを経て海外のサッカークラブでプレーする。なんかキラキラした将来……羨ましいな」
 あんたにもキラキラした未来が待っているじゃないか。
 美晴の着崩した制服姿をチラ見する。悔しいけど、あんた美人オーラが人間離れしてるよ。この前、一緒にショップに行ったとき、男女構わずみんな美晴のことを見ていたし。あのとき一緒に食べたクレープ美味しかったな。美晴なんて、「今はこんな食べ物があるんだ」って大げさに喜んでた。
 長期休学していたものの、復学後、一気に告白される数トップの女子になった美晴は(わたしは二位に転落)、市立青葉高等学校サッカー部のエース・北畠翔太に片思い中だ。彼の情報をあれやこれやと収集している。
「でも、好きな人って、あるとき急にいなくなってしまうよね……」
 意味深な発言をした美晴が、言い足りない雰囲気を醸しだしていたので、わたしは「で?」と彼女が喋りやすいように促した。
「で?」で足りるところが、わたしにとって楽なのだ。
 他に言いたいことあるでしょう? そんな堅苦しいセリフを吐くのは、ストレスになるのでやりたくない。そういう雰囲気をまとうのは、相談ごとを聞くときだけで十分だ。
 表情や仕草、言葉づかいから、わたしは相手の感情を深く読みとってしまうたち。
 だからか、わたしはよく友達から相談を受ける。
 仕方ないから神妙に聞いて、悩みに添ったわたしの考えを伝えてあげている。時々空想もどきの考えを提示してあげると、すごく喜ばれたりもする。
「こないださあ、北畠君にコクるっていう女子がいたから、」
 やわらかなトーンで語りだす美晴。
 たくさんの男子がとりこになる美晴のすらっとした横顔が、清らかな笑みを浮かべ……なかった。
 口もとを曲げ、鼻の付け根と眉間に深いシワを寄せた美晴が、凄みを利かせて言い切る。
「シメといた」
「悪い女」
 そう。
 三年F組の一条美晴は、この世の者とは思えぬ美女でありながら、〝悪い〟女だ。
 男子は美晴の本性に気づかずに、外見だけで彼女に恋をし告白をしては、バッサバッサと斬られていく。
 まったく男子は、見かけにすぐにだまされる。
「北畠君に近づく女は、」
 美晴が、はあーっと窓ガラスに息を吹きかけた。その仕草も、怖いくらいに色気がある。本当にティーンエイジャー?
 息で曇ったガラスに美晴がしなやかな人さし指をあて、愛おしそうに文字を書く。窓から悲鳴のような音がキュキュッと鳴った。
『殺す』
 書き終えて満足したのか、美晴が「あとでそれ消しといて」と晴れやかな声で言った。
 その声は美女にふさわしい、りんとした声に戻っている。
 帰ろうとする美晴の腕を、わたしは掴む。
「悪女」
 美晴に対してぎろっと鋭い目を向ける。
 すると、彼女も睨み返してきた。パリコレのランウエイで立ち姿を決めるみたいに。
「お互いさま」
 ド直球で感情むき出しのナマナマしい言葉の応酬。ちょっと仲が良いレベルでは交わせない。
 美晴だから、わたしは言い合える。
 クスっと笑ってから美晴がカバンを男子みたいに肩にかけ、教室から出ていこうとする。その手前で珍しくわたしをふり返った。
「でも、たぶんあたしの方が執念深くて悪女かも。好きな男のためなら何百年だろうと待つし。って、何マジメぶって言ってんだろ、あたし。じゃね」
 彼女が調べたところによると、北畠翔太の自宅は学校から近いみたい。きっと彼の家の近くを歩きながら帰るのだろう。
 それにしても、そんなにいいかなあ。
 校庭でサッカーボールを蹴る北畠翔太を目で追った。
 確かにイケメンだ。いや、かなり外見はイケてると思う。
 ちょっと長めの髪は赤茶色で、ところどころメッシュが入り垢ぬけている。公立にしては厳しい校則がないうちの学校ならではの髪型だ。
 運動神経は抜群。おまけに将来のプロサッカー選手候補。
 彼に憧れている女子は多い。クラス内や学年内、下級生……他校からも、彼を目当てに女子が群がるほど。事実、今、校庭で彼を見つめる女子もいる。
 だけど、わたしは彼の態度が鼻につく。
 顔が整っているだけに、彼の動作の一つひとつがキザったらしく感じられる。
 ちょうど北畠翔太が豪快なゴールを決めた。空中に浮いた球をダイレクトで蹴った。
 プロサッカー選手のゴール・セレブレーションのように、彼が両手の人さし指を天に向けて突きあげる。
 周囲で黄色い声援をあげた女子に、興味もないくせにウインクする。
 そういうところだ。
 こういうポーズがわたしはあまり好きではない。
 わたしにミーハーは似合わないから、あくまでもクールにいきたいのもあるのだが。それでもときどき気になる……いや、そんなわけないっ! あの日、図書館で目が合ったのなんか、これっぽっちも何とも思っていないから……。
 視線を彼に向けていると、美晴が残した『殺す』が視界の邪魔になった。
 このままこの文字を残したら、美晴はキレるかな? そんなに長くは残らないか。残ったら面白いのに。ヤバさを越えた感動ストーリーにならないかしら。いひひひ。
 イタズラっぽいことを考えつくも、彼女の怒りをかいたくはないので、『殺』だけを指で消す。
『 す』
 意味が分からない。ひとりでクスっと笑う。
 この美晴特有の右上がりの字、【す】の前に、他の文字をあてはめてみる。
 まず思いついたのは、〝愛〟だ。
『愛す』
 うーんロマンティック。でもわたしのガラじゃない。美晴はどうだろ? ああ見えて、一途な面があるのはお見通しだ。一度愛したら、何百年でも彼女は相手を愛し続けそう。
 次に浮かんだのは、だます……漢字が分からない。スマホで調べる。
『〝騙〟す』
 速攻で美晴の顔が脳裏によぎった。
 美しく可憐な外見。しかし、本性は性格の悪い暴言女。昔あった気にくわないことを、いつまでもねちねちと根に持つタイプ。恨みを晴らすためなら、千年だろうと彼女は待つだろう。
 そんな彼女に、男子はコロッと騙されている。
 わたしも同じようなものか……。いやいや、美晴ほどではない。そう思いたいが、――同じくらいなのかなぁ。
 ふうー、っと重量級のため息を吐く。最近はこんなのばかりだ。
 なんだか校庭が灰色に見える。
 舞い上がる砂埃が校庭をグレーに染めているからではない。
 わたしの心が、感情が、見えるものを灰色に染めている。
 今日は予備校の日だ。その後はお母さんの小言攻撃。進路調査票のことも……。調査票には志望大学名と一緒に将来就きたい職業欄もあったし。よく調べずに『カウンセラー』って書いちゃった。
 そろそろ帰らねば。振り返ると、廊下側の壁に貼られた標語が目についた。
〝希望あふれる社会〟
 今どき高校の教室に、こんなのを飾らないでほしい。
 やっぱり重たい。重たすぎるよ、希美の『希』って。


 翌日は大雨だった。
 風がびゅうびゅう吹き、まるで嵐のようだ。
 下がり気味の気分が余計に鬱っぽくなる。身体までダルくなるから不思議なものだ。頭痛もしてきた。
 帰りのホームルームが終わるも、雨は止みそうになかった。ざーざー降りの中を家路につく気にはなれない。
 図書室へ行こう。
 空想に耽るためのネタ本を探すのだ。
「一緒に図書室行かない?」
 美晴を誘うも、彼女はちょっと顔をしかめてから、
「興味ない。カフェだったら行くけどね」
 軽やかにカバンを背負い、教室を出ていく。
 そりゃそうだった。本を読んでいる美晴を見たことがない。
 図書室へ向かう途中、クラスメイトの地味女子・宮園葵とすれ違う。そういえば、彼女も美晴と同じ時期に復学した子だったな。
のっぺりした顔立ちで、男子ウケも女子ウケもしない。誰かとはしゃぐこともなく、いつも一人で何かを探るようにじっとクラスを観察している。存在感がめちゃくちゃ薄い。
 とは言え、本質的には、きっとわたしも宮園葵と同じだろう。
 わたしもかなり、クラスメイトたちの表情をうかがっている。怒ってるな、とか、笑ってるけど本音は違うな、とかを。だてに空想をたくましくしてないのよ。
 だから、宮園葵の目がひっそりと北畠翔太に向けられているのを、わたしは知っている。
 超がつくほど人気者・北畠翔太と、クラスいち、いや、学年いち影の薄い宮園葵。彼女の恋心は百パーセント実らないだろう。願わくは、わたしに相談を持ちかけないでね。
 ただ、宮園葵については、〝恋心〟とは決めつけられないところもある。
 微妙なんだ。恋焦がれる対象として北畠翔太を見ているよりも、現場張り込み中の刑事みたいな目つきをしているから。
 しかも彼女は、美晴にもよく視線を向けている。百合? 


 図書室では、閲覧テーブルで一心に読書をしている男子がいた。他には誰もいない。
 赤茶髪の彼は、わたしが入室したことにも気づいていない。それほどまでに集中して本を読む――北畠翔太がいた。
 サッカーばかりと思っていたが読書もするのか。そういえば、この前、歴史書の棚で立ち読みしていたな。
 雨粒が窓ガラスを叩く。悪天候に拍車がかかっていた。
 なるほど、雨……、サッカー部はお休みか。体育館はバスケ部が占拠してるし。サッカー部の顧問たちは東京へ出張していた。羽を伸ばすチャンスだな。
 彼が読む本のタイトルを盗み見る。
『武蔵坊弁慶』
 ドキリとした。息を吸い込みながら、同時に「え!?」と言葉が漏れたため、ヒキガエルみたいな声が出た。
 顔をこちらに向けた北畠翔太とバッチリ目が合う。
 彼の瞳にやわらかい光が含まれる、そう感じた直後、彼はわたしから、むっつりと視線を逸らした。本を読む姿勢に戻っている。
 かなりムッときた。無視されたみたい。せめて「よお」とか「おまえも本借りんの」とか声をかけてくれてもいいじゃない。同じクラスなんだし。
 それにしても、弁慶が活躍した源平合戦時代の歴史書が、机上に何冊も積まれている。
『平家物語』『源氏対平氏』『源頼朝』『日本の歴史2平安時代~』『歌舞伎 勧進帳(かんじんちょう)
 勧進帳まで? これは、相当にコジらせているな。でも、歴史好きなのか。意外と話が合うのかな?
「何?」
 う、と思うも、辛うじてクール・ビューティにつとめる。
「別に」
 言い返すと、北畠翔太は露骨に顔をしかめて「はあ?」とため息を吐き出した。
 すぐに「おまえがこっちを見てきたんだろ」と、いちゃもんをつけてくる。
 確かに見たけど、そんな言い方をしなくてもいいじゃないか。
 普段、教室でなかなかしゃべる機会がないから、珍しくこのわたしがコミュニケーションをとってみたかったのに。
 ふと湧いた悔しさが、わたしを粘らせた。
「弁慶好きなの? 勧進帳まで読もうとしてるし。というより、歴史好き?」
「……別に。おまえに関係ないだろ」
 言うや、北畠翔太は机上の本をごそっとカバンにしまった。直後、ガガっとイスを引く音。振り返らずに、彼が図書室を出ていく。
 彼が閉めなかったドアを、わたしは目で射殺さんばかりに睨みつけた。
 念力が通じたのか、空がぱっと明るくなり、雷鳴が轟いた。
 土砂降りプラス雷雨。もう、勘弁してください。

 帰宅後は、図書室での出来事がしゃくにさわっていたためか、空想に集中できなかった。
 北畠翔太。嫌な奴! 声かけなきゃよかった。
 机上で頬杖をついて空想モードの姿勢をとっているのに、苛々して、時間だけが過ぎていく。
 そういえば一瞬あいつが、やわらかい視線をわたしに向けた気がした。頑固そうだけど、サッカー部のキャプテンをやってるだけあって頼りがいのある目もと――うわっ、何を考えているんだ! ブンブン顔を振って、再び集中を試みる。
 弁慶を脳裏に描こう! イケオジ弁慶の……勧進帳シーン。クラスメイトには内緒で持ち歩いている『べんけー様』缶バッヂを手にぎゅっと握り込む。来いっ、弁慶来い。わたしの前に現れろ!
 すると、見えている現実世界がきゅーっと狭まっていく。黒目が細くなっていく感じ。
 それと前後して、頭の中に、登場人物たちがイキイキと浮かびだした。いつしかわたしは空想にふけり、勧進帳の世界を泳ぎ始めていた――


≪希美 脳内空想中≫
 壇ノ浦の合戦で、源義経は平氏を滅ぼした。1185年のこと。
 普通ならば兄・頼朝から「義経、よくやった」と褒めてもらえるはずなのに、そうならなかった。
「兄上はどうやら私に対して怒っているようだ」
 義経が困った顔をする。
 なぜ頼朝が腹を立てたかというと、義経が、後白河法皇(官位を授ける、当時のエラい人)から、頼朝の許可なく検非違使の官職(今で言う京都府警察本部長みたいなもの)に任じられたから。
 平氏と戦っている際に、頼朝の命令で義経の軍にいた梶原景時(かじわらかげとき)という武将が、頼朝に、「義経って自己チューでひどいんです。周囲の意見に耳を傾けずに勝手に軍を進めるし」と義経の悪口を言ったから。などの説もある。
「うーん、義経め、最近調子ぶっこいてんな」と頼朝は義経に会おうとしない。
「兄上、怒らないでください。誤解ですよ」
 義経は頼朝に釈明の手紙を書くも、二人の溝は埋まらない。
 頼朝は義経を許すどころか、「義経を捕まえよ!」と周囲に命令した。ひどい!
 こうして義経は弁慶などの郎党と一緒に、木々の匂いの濃い奥州へ向けて逃亡する。
 その道中、
「あれが安宅(あたか)の関所(石川県小松市付近)か」
 山伏(やまぶし)(山で修行する人)姿に変装した義経が、弁慶に確認する。
「殿、関所では通行人を確認しますので、帽子を深くかぶり、顔が見えにくいようにしてください」と、同じく山伏姿の弁慶が念を押す。
 安宅の関所を通り抜けようとしたとき、
「待ていっ!」
 関所を守る役人・富樫泰家(とがしやすいえ)が声を張りあげた。
「われらは山伏でございます」
 弁慶が落ち着いた声で応答するも、富樫泰家はこの集団を疑っていたので、
「ならば、勧進帳(山伏が持つ巻き物。募金をお願いする文が書かれている)を見せい!」と詰め寄った。わたしはハラハラする。
 弁慶や義経は本物の山伏ではないため、勧進帳を持っていない。
 と、弁慶が何も書かれていない白紙の巻き物を懐から取り出し、本物の勧進帳が手元にあるように朗々と言葉を口にしていく。
 見事に最後まで読み切ったように演技をした弁慶が、「これでよろしいか?」と富樫泰家を見やる。
「う、うむ。ならば、よい。関所を通れ」
 富樫泰家は、眼前の一行を止める理由がなくなった。
 弁慶たちは富樫泰家の前を通り過ぎようと――、しかし、富樫泰家が再び声を大にしてストップをかけた。
「そこの者、帽子を取って顔を見せよ! 源義経に似ておる」
 富樫泰家が指さす先には、帽子を目深にかぶった義経がいた。
 絶体絶命。空気が一気に膨張(ぼうちょう)し、破裂しそうになる。
 ここを切り抜けるには富樫泰家と対峙するしかない。そう義経が覚悟を決めかけたときだった。
 弁慶が杖で義経を叩きだした。
「おまえのせいで関所を通れないじゃないか! おまえが義経に似ているから、関所を通してもらえない。どうしてくれるっ!」
 叩きっぷりに手加減がない。義経が流血してもなお、弁慶はその手を止めなかった。弁慶さん、もうそれぐらいにしてあげて!
 見かねた富樫泰家は、
「もうよい。行け。この関所を通れ」
 さらには、
「もしもその者が義経ならば、主人を杖で叩くことなどできない。おまえたちを疑わないから、早く関所を通れ」と、富樫泰家はしんみりした口調で言った。
 無事に関所を通過し、役人たちの目が届かない場所まで来ると、弁慶が義経に対して土下座した。
「殿、申し訳ございません。いくら関所を通り抜けるためとはいえ、杖で叩きました。この場で死んでお詫びいたします」
「よい。おまえがそうしてくれたから、無事に関所を突破できた。まあ、ちょっと痛かったけど」
 叩かれた箇所をさすりながら義経が苦笑いをした。出っ歯だったとも伝わる彼の歯が陽ざしをきらりと反射させる。運命に立ち向かう義経一行が放つ、最後の光――。


 空想から帰ってくると、わたしは泣いていた。
 昔の倫理観で、家来が殿さまを打擲(ちょうちゃく)する(殴る)なんて、ありえない。
 死んで詫びると言った弁慶に対し、ぶたれた義経はおまえのおかげだと、逆に弁慶に礼を述べた。
 富樫泰家は本当のことに気づいていたと思う。心の中で泣きながら主人を棒で打ちすえる弁慶の気持ちをくみ取って、義経たちを見て見ぬふりをした。
 歌舞伎でもよく演じられる有名なエピソードだ。人気があるから、ドラマでも見かけるシーン。何度見ても、何度空想しても、その物理的ではなく心理的な痛みに、わたしは号泣する。
 机で突っ伏していると、やっぱり声が耳の中になだれ込んできた。めちゃくちゃに怒っていそうなトーンだ。【我らの人生は見世物ではない……】
 え!?
 どうしてだろう、その言葉で自分のことがやましく感じられた。心に痛みが走る。わたしは思わず胸に手をやった。
「希美、夕ご飯!」
 お母さんがわたしを呼ぶ声。空想世界には絶対に出てこない、わたしを現実世界に引き戻す声。
 ああ、そうだ。模試の結果をまだ見せてない。数学の成績下がった、なんて言い訳しよう。また将来うんぬんって怒られる……。カウンセラーって何? とか言われちゃう。
 視界が灰色に染まりだす。二階から一階へ、ぎしぎし音を立てて階段を下りていく。地震でぐらぐらと足元が揺れる。
 空想から抜け出すといつもこんな感じ。予備校の宿題もやんなきゃ。学校の宿題も。
 このパターン、前もあったな。というか、いつも?
 武蔵坊弁慶が、後日、わたしの目の前に現れるなんて――このときのわたしに教えてやりたいぐらいだ。