退魔? いいえ、お話を伺うぐらいです

「ふざけんな!」
 橋本希美を守るために、一条美晴に立ちはだかった。
 考えている余裕なんてなかった。刺される怖さよりも、身体が先に動いた。
 一条美晴の唇が激しい勢いで戦慄(おのの)き、直後、口から垂れたよだれが糸を引く。おたけびを彼女があげた。弁慶があげた声とはまた違う、泣きそうなほどに痛ましい声だった。
 俺は右手を前にかざす。もうこれしかなかった。

 禁忌の怨霊消滅の呪文。

 文言を唱えようと――その仕草に、一条美晴もピンとくるものがあるのか、小刀を握る腕をおろし、防御するように身構えた。
「ダメ!」
 橋本希美が俺の背中にぶつかった。
 不意打ちの衝撃で、俺と、ぶつかってきた彼女はもんどりうって倒れる。
「美晴が消えちゃう! その呪文を使ったら、美晴が消滅して、大切な人と来世で会えなくなる! それに、」
 橋本希美が激しく首を振り、俺の胸ぐらを掴んだ。
「北畠も、来世で大切な人と会えなくなる!」

 そうなのだ。

 この消滅の呪文は、諸刃の剣だ。
 自分を害そうとする怨霊を消滅させる。消された怨霊は、魂ごとその存在が完全に消える。つまりは、来世へ転生することができなくなる。
 人は来世に転生すると、愛する人と姿かたちを変えて再会する。
 だが、この呪文はそれを許さない。完全消滅させるのだ。
 さらに、余波とも言える諸刃の影響は、消滅呪文を唱えた自分にも及ぶ。唱えた者の存在と魂も死後は消され、黄泉に行くことができなくなる。転生への道が閉ざされるのだ。
 すなわち、呪文を唱えた者もまた、輪廻転生のサイクルからはじかれ、愛する者との再会が叶わない。

 これが、オヤジが呪文を唱えなかった最大の理由だったのかもしれない。
 いつの日か、来世どんなカタチであれ、愛する家族、俺やオフクロと再会したい。
 だから、オヤジは消滅呪文を唱えることはなかった。その結果――。
「何もかも壊してやる」
 つぶやく一条美晴の頭に角が生えた。口からは鋭い牙が二本とび出ていた。
 恨みの果ての〝鬼〟の姿になりかけていた。
 一条美晴の目には何も映っていない、そう思わせるほどの虚無しか感じられなかった。閉じきれない口からはよだれが幾筋も滴っている。
「もういい。来世の再会なんて叶うはずがない。おまえも、おまえも、おまえも、全員この場で刺し殺す」
 一条美晴は、俺、橋本希美、弁慶へと順に指をさし、その指先を二股に割れた舌先で舐めた。
 これは、かなりマズい。
 俺は再度、消滅呪文のために掌をかざそうとする――その手の上に、橋本希美が手を重ねた。
 彼女がゆっくりと首を振る。
「やめようね」
 見つめ合った。
「橋本」
 突如として橋本希美が両手を突き上げた。俺とは違う仕草で消滅呪文を唱えようとする。
「何してんだ! そんなことしたら、おまえが大切な人と会えなくなるだろ!」
「ううん。いいの。だって、」
 橋本希美の表情が曇る。
「わたしの毎日って灰色だから。もう終わらせていい。それに、お母さんとは仲が悪いから、別にもう会わなくても」
「何言ってんだ!」
 橋本は俺の言葉を無視した。消滅呪文の言葉を口に――。
 その口が、塞がれた。

 俺たちの顔ぐらいの大きな手のひらが、橋本希美の口に蓋をしている。
 弁慶だ。
「その術を唱えてはならぬ!」
 そう言っている最中に、一条美晴が襲ってきた。
「くそっ、くそうっ」と弁慶の背を小刀で突く。俺たちの盾となっている弁慶が顔をゆがめた。ダメージが蓄積されているようで、弁慶が片膝をついた。
「親はあなた様のことを思い、ときに耳に痛いことを申します。母上は、ずっとあなたに対してつれない態度をとっておられますか? いわゆるその……毒親?」
 意外と現代の言葉を知っているんだな。なんて感心する俺をよそに、橋本希美は逡巡するようにポカンと口を開いた。
「違う。そんなことない」
 一拍の後、橋本希美がぶんぶんと頭を振った。目尻に涙が浮かんでいる。
「お母さんは、ちょっと口うるさいけど、だけど、」
 一度言葉を区切った橋本希美は、こう断言した。
「わたし、お母さんとは縁を切りたくない」
「そう思うのであれば、その術を唱えるのはお止めなさい」
 一条美晴からの攻撃を受け続ける弁慶は、片膝どころか両膝をついた。それでも、俺たちを守ってくれていた。まるで立ち往生するときのように。
 攻撃を繰り返す一条美晴にも疲労の色が見え始める。
 一条美晴がぶるっと身体を大きく震わせた。瞼が見開かれる。
 小刀を持つ腕が垂直にあがった。赤い刀身が黒い煙に包まれた。
 いかにも最後の渾身の一撃になりそうだ。弁慶であっても、受けたらタダじゃすまない圧がある。弁慶が守ってくれている俺たちにも、きっとダメージが届く。

 やはり俺が消滅呪文を唱えないと。……だって、俺は既に一度唱えているから。
 俺にはもう転生の扉が閉ざされている。

 それを説明する時間さえもなかった、――そのときだった。
「美晴よ」
 聞き覚えのない柔らかな声がした。
 ハッと一条美晴が動きを止める。
 誰かが闇の中から歩いてくる気配があった。

 揺らめく闇から人物が――クラスでは目立たない女子・宮園葵が現れた。
 一歩進むごとに、宮園葵の姿が変貌していく。
 背の低い遠慮がちな女子生徒の姿から、優しそうな顔をした大人の男になっていた。
 男をじっと見ていた弁慶が、「あっ」と声をあげた。
「美晴よ。いや、シズよ」
 男が穏やかに呼びかけた。先ほど聞こえた声は、この男が発したものだ。
「お、おまえ、おまえさん…?」
「ああ。長い間、待たせたね。やっと当時の姿で会えたね」
 にっこり笑んだ男は、一条美晴にふわりとした眼差しを向けた。
 一条美晴が小刀を投げ捨てた。すぐに、男に抱きつく。
 あまりにも急展開だった。
 思考をめぐらそうにも脳ががちがちに固まっていて機能しない。ただ、ここに現れたということは、あの宮園葵だった者も〝死者〟、怨霊ということだ。
 男が一条美晴の頭を愛おしそうに撫で、ぎゅっと抱きしめた。そうされる彼女は男の腕の中で、幸せそうだった。

 しばらくの時間が過ぎた。
 緊迫していた空間がじょじょに落ち着きを取り戻し、辺りの雰囲気がやわらかくなっていくのを肌で感じた。
ゆったりとした動作で男が俺たちを見まわした。
「妻が、あなたたちを怖がらせてしまいました。大変申し訳なく、謝ります」
 弁慶が控えめに口を開く。
「あなた様はひょっとして」
 芝居がかったように、男が弁慶に目を向けた。ちょっとだけ意地悪さが垣間見えたのは俺だけだろうか?
「覚えておいでですか?」
 試すような口ぶりで、男は弁慶に尋ねる。
「忘れもしません。屋島での戦いの際、殿が弓を海中に落としてしまった。そのときに、殿が弓を拾えるよう、敵方にもかかわらず、攻撃を止めてくれたお方……そうではありませんか?」
 彼らが話していることは、『義経の弓流し』として伝わるエピソードだ。
「そんなこともありましたね」
 男は往時を懐かしむように、空中に視線を預けた。
「おお。やはり」
 弁慶が感じいった気持ちを声に含ませる。だが、すぐに、はっ、と鋭い息を吐いた。あっという間に顔がひきつり、身体をわなわなと震えさせた。
「ひょっとしてそれがしは、そんなことまでしていただいた、あなた様を……斬って……殺してしまったのですか……?」
「仕方ありません。合戦という大混乱の中での出来事です」
 ずしゃっと重たい音を立てて、弁慶が膝から崩れ落ちた。そのまま額を地面にこすりつけ、土下座の姿勢をとる。申し訳ございませぬ、と嗚咽まじりに何度も口にする。
「顔をおあげください。あなた様が討ったのは、歴史上、名も伝わらぬただの一兵士です」
「されど」
「弁慶殿」
 男が寂しそうに呟いた。
「戦さえなければ、わたしたちは出会うことがなかった。殺し合うこともなかった。ただ、そんなめぐりあわせになってしまった」
 義経が弓を拾えるように男が攻撃の手を緩めた。そんな話は、少なくとも俺が読んだ歴史の本には書かれていない。
 そのことが本当の事なのかは、当時を生きた本人たちだけが知りうることだ。
 男はこれ以上弁慶の発言を許さなかった。俺と橋本希美に視線を向ける。
「妻が弁慶殿を狙っていることを知るも、黄泉の世界では妻と会うことができません。そのためわたしは女子に化け、学校の教室に溶け込み、妻の報復を防ぐタイミングを、あなた方が弁慶殿を召喚する機会をうかがっておりました」
 続いて、男は一条美晴、いや、シズに声をかける。
「シズ。希美殿がおっしゃるとおり、殺し合うことを繰り返してはいけない。そんなことはお止めなさい」
 一条美晴が、ひくっ、と息を吸う、すぐにぽろりと大粒の涙が落ちた。
 男は一条美晴を愛おしそうに撫でる。時を越えてなお二人が心の底から愛し合っている、そう思わせるにじゅうぶんな光景がそこにはあった。
 すると、男と一条美晴とが、眩い光に包まれた。
 シワだらけだった一条美晴が、みるみるうちに、クラス男子の中での密かな話題《恋人にしたいランキング№1》の彼女の姿に戻っていく。
「希美」
 一条美晴が呼びかけた。声も、俺が知るクラス内での彼女の声に戻っていた。
「嬉しかったよ。一番仲の良い友だちって言ってくれたこと。絶対にその言葉を忘れないから。ずっと、ずっと」
 一条美晴と男の輪郭がぼんやりしだす。
「美晴、行かないで!」
 一条美晴が、涙を堪える顔つきで笑んだ。それはドキッとするほどの清らかさであり、同時に、消えてしまうことを物語ってもいた。
「一緒に過ごせて楽しかった。もし同じ時代に生まれていたら、」
 一条美晴が消えていく。最後の言葉を飲みこみながら消えていく――。
 弁慶が男に嘆願した。
「お待ちください! お名前だけでも。殿の威信を保ってくださった、あなた様のお名前を教えてくださりませ」
 しかし、男は首を真横に振った。
「わたしは歴史上、名も無き者です。来世、戦のない時代でお会いした際にお伝えしましょう」
 それは、男なりの意趣返しだろう。
 復讐にはこういった優しい仕返しもあるんだな。しんみりした感情のまま、俺は大人の階段を一段上がった気がした。
 ふいと、男が弁慶から視線をそらす。俺と橋本希美にまっすぐな感情を届けてきた。彼の顔は下半分まで消えかけている。
「言霊を闇の中で聞いていました。もし、あなた方が中途半端な態度で臨むのなら、わたしは怨霊としての自分を抑えられなかったでしょう。ですが、そうはならなかった」
 男が小さく口もとをほころばせた。たぶん。もう口が消えているから分からない。でも、きっとそうだ。
「歴史はきっとあなた方を待っていた。わたしは、ひょっとしたらそのために」
 男が一瞬だけ寂しそうな目をした。すぐに、

「お見事でした」

 言葉が海上に浮かんだ泡沫のように、ふつりと、消えた。
 一条美晴と男の姿もまた、消えていた。