退魔? いいえ、お話を伺うぐらいです

 北畠翔太が、相手を『弁慶』と呼びかけた。
 弁慶って、あの弁慶だよね。わたしの空想世界にたくさん出てきた。そして今、日本中で大ブームが起きている『べんけー様』こと武蔵坊弁慶。
 にわかには信じられない。
 でも、消すとか、結界とか、北畠翔太が言っていたことや、おばあちゃんの手紙に書いてあったことが話題になっている。

【結界が破れ、怨霊が解き放たれるとき、十八歳の男女が現れ、現世を救う】

 ――このままじゃ現世がヤバいから。
 ――怨霊がらみでちょっとでもピンと来たら、俺に声かけてくれ!

 ピンと来た、来まくりだ。
 怨霊傾聴師。それ、ドンピシャでわたし。
 走っても、走っても、声が耳に入ってくる。どこにいても、道路の角を曲がろうがコンビニの駐車場わきを駆け抜けても、頭の中で声が響く。
 確か、前方に見えるT字路を左に曲がれば、あいつの家。って、黒い煙みたいなのが上空に漂っている。
 一戸建てが建ち並ぶ道路を曲がった。あ――――っ!!
 庭が、というよりも家全体が黒い膜で覆われている。すっごいマガマガしくて不吉な感じ。家の表札は? 
『北畠』
 散歩している人は誰も北畠の家の様子を気にとめない。平然とした顔だ。家全体がこんなにも黒々とした空気で覆われていたら、普通だったら気づくのに。声がより大きくなった。
 ――弁慶、どうして結界を壊そうとするんだよ。
 ――貴様にそれがしの気持ちがわかるかぁああああっ!
 何やってるの! 高飛車な態度で接しても、知り合ったばかりの相手は心を開かないでしょ。(←カウンセリングの本を読んだ成果)
 交渉の『こ』の字もない。説得したいなら、まず相手の言うことを傾聴しようよ。口調もやわらかく。もっと神経つかって。
 ぷりぷり苛立ちを覚えたときだった。
 ――橋本ぉおおおっ!!

 え!?

 彼の叫び声が脳を一瞬フリーズさせた。
 直後、胸中で熱い感情が沸騰(ふっとう)した。今の今まで抱いたことがない気持ちだ。なりふり構わずに彼のもとに駆けつけたい。
 わたしはバックパックからハッピを取り出して、着た。
 おばあちゃんの手紙――おまえは希望。遺志を継いで現世を救っておくれ。
 何もしなかったら、わたしの明日は、明後日も、明々後日も、ずっと、間違いなく灰色だらけ。だったら自分で変えなきゃ、希望の色に! 
 いやそれよりも。待ってて! すぐ行くから! わたし、あなたのもとへ!
「北畠ぇっ!」
 決意とともに、わたしは庭に飛び込んだ。
 ぶわんと空気というか時空の狭間みたいなものが揺れた――





 真っ黒な空間の中では方向感覚がつかめない。
 真っすぐに飛んでいるのか。横にそれているのかも、分からない。
 この先に北畠翔太がいなくて、ろくでもない場所に出てしまったらどうしよう。
 たとえば死者の国。噴火する火山をバックにもくもくと岩場を行進する(おびただ)しい数の土気色(つちけいろ)の人間。歩を急かすために金棒を振るう鬼。空想するや、得意のリアリティがめきめき頭角を現し、金切り声が出た。
「ぃやあああーっ!」

 眩い光に包まれる。無重力だった身体に重さを感じた瞬間、わたしはお尻から地面に着地していた。
「いった~い……へ?」
 本能的な恐怖をすぐさま感じとった。わたしに向けられた圧倒的な凄み。
 最初は、コスプレ好きなラグビー選手が袈裟頭巾(けさずきん)姿なんだと思った。
 目の端でチカチカと何かが光っている。なんだろう、と〝それ〟をガン見する。キッラーンと切れ味よさそうな刀身。薙刀だ。
 やっぱ本物って違うな。妙に納得しちゃうのは、現実逃避からでしょうか。
 最後にゆっくりと視線を動かし、薙刀を持つ人の顔を視界に収める。
 眼光鋭いオジサマが仁王立ちしていた。
 日常生活で出くわすことのない種類の人だと直感する。逃避していた思考がつくつくっと脳に戻って来る。バックオーライっ。そうして至るこのお名前――武蔵坊弁慶。
 デフォルメ化された缶バッヂのイラスト『べんけー様』とは似ても似つかないお姿。
 あっという間に腰が抜けた。
 わ、と声をあげたいのに、喉をふさがれたように声が出ない。息だけがひゅうひゅう漏れる。立ち上がることもできずに、お尻で地面をずりずり後退する。カッコ悪いけど、必死だ。わたしは命の危険にさらされている。

 そんなさなかだった。
 誰かがガードするようにわたしの前に立つ。あっ、と胸がキュンとする。
 運動神経の良さを彷彿(ほうふつ)させる痩せマッチョのすらりとした後ろ姿。
 メッシュの入った赤茶けた髪。
 弁慶ばかりに気を取られてて、忘れてた。(←強がり)
「サンキュ」
 北畠翔太が振り返ってわたしにキメ顔をつくる。親指を突き上げながら。
 ……。
 だからこういう気どったポーズが嫌いなんです。一瞬にして霧散(むさん)するキュン。返せ、わたしのときめきを返して下さい。
 意識が袈裟頭巾男からそれたためか、今なら立ち上がれそうだ。地面に両手を突いて起き上がる。その間も、北畠翔太はわたしを守るように立ちはだかってくれていた。
 冷静さを取り戻してみると、北畠翔太は、まるで平安時代の人が着る青い水干姿だった。ドラマやマンガで陰陽師の安倍晴明が着ている衣装みたい。背中にはわたしのハッピと同じ『祓』の文字があった。
「凄い服を着てるね」
 北畠翔太は「え?」とあらためて気づいたようだった。いつの間にあのハッピが、ともこぼしている。
「橋本も同じようなのを着てるぞ」
「嘘? わたしハッピだよ」
 自分が着ている服を確認する。「本当だ」
 わたしも、北畠翔太が着ているような水干姿だった。しかも結構かわいい。色は彼とは違って白色だ。ん? ということは、わたしの背中にも、あのダサい『祓』が。
「じーちゃんが言ってた」
 弁慶を警戒しながら北畠翔太が口にする。
「ハッピは怨霊傾聴師を守る装備だって。怨霊を召喚した空間にいられるのは、死んだ霊か、この服を着た怨霊傾聴師だけ。きっとハッピは、この空間ではこの服に変わるんだろう。あと、召喚空間では、霊とは現代語で喋ることができる」
 落ち着いてわたしたちが話せるのはここまでだった。
「おまえたち、何のつもりだ!」
 弁慶が目を逆立てる。呼吸できなくなるほどの険しい目つきだ。
「弁慶、俺たちは怨霊傾聴師だ。おまえの怨念を鎮める」
 そういう高圧的な口調で説得しない!
 北畠翔太を窘めようとすると、弁慶が「ぬははははっ」と、お腹に響くほどの重低音で哄笑(こうしょう)した。
「それがしを鎮めるだと。聞いて呆れるわ。おまえたちに何ができる」
 ずいっと弁慶が一歩前に出た。すごい圧で、わたしたちは一歩さがってしまう。
「北畠、詳しい話は後にするけど、あなたが召喚士なのね」
 北畠翔太も「やっぱりおまえが交渉士なんだな」と返してきた。
「じゃあ、目の前にいるのは、あなたが召喚した怨霊、弁慶ということね」
「ああ」
 わたしたちの会話を弁慶の恫喝が遮った。
「何をぐだぐだ言ってるんだぁあっ!」
 ちょ、何このパワフルさ。体育教師の山田(←柔道部顧問)が小粒に感じられるほどだ。青筋ピキピキでめちゃくちゃ怖い。逃げたい。泣き喚きたい。手の先から身体が震えだすほどだ。
 でも、でも……
 ――おまえは希望。遺志を継いで現世を救っておくれ。
 おばあちゃん。
 わたしは震える拳をぐっと握りしめる。
 召喚士が呼んだ怨霊を説得するのは、わたしの家系が受け継ぐ交渉士の役割。つまりは、わたし!
「弁慶さん」
 捨て(ばち)な態度じゃない。真心を込めて名前を呼ぶ。
 今まで自分が避けていた真摯さや、一生懸命になるがむしゃらさ。他人の目ばかりを意識していた自分の浅ましさ。わたしは変わらないといけない。
 おばあちゃんの手紙に書いてあった。
 交渉士であるわたしの言葉は、温かい言霊(ことだま)として怨霊に伝わる。
 それが、交渉士の能力だ。
 ゴーストバスターみたいに力づくで怨霊をねじ伏せるのではない。マンガの陰陽師みたいにお札とかで相手を暴力的に消すのでもない。
 言霊で怨念を鎮める。それが、わたし。

「な、何だ」
「わたしは弁慶さんが抱えている辛い感情を受け止めたいです」
 弁慶の瞳がチラチラっと揺らいだ。
 何かをため込んでいるのが分かる。それが弁慶の中でパンパンに膨らみ、爆発しそうになっている。だから、結界を破って現世に祟りを起こそうとしている。それって何が原因なの?
「聞かせてください。弁慶さんのことを、そしてあなたが命がけで守った源義経様のことを」
 弁慶の吊り上がる眉がちょっぴり下がった。
「おまえに話して何が変わるというのだ」
「そうだよな」
 空気を読まない北畠翔太が相槌(あいづち)を打つ。わたしはキッと彼を(にら)む。あほ。
「話すことで楽になることもあります」
 わたしは弁慶の瞳の奥を見つめた。
 過酷な戦場に立った者だけが持つ鋭い目つきをしていた。根本的に、現代人が浮かべる表情とは違う厳めしさがそこにはある。目を合わせるだけで怖い。でも、逃げない。わたしはぐっと、前に出る。
 弁慶の頬が緩んだ気がした。空気が少し弛緩する。
「おまえは不思議なおなごだ。声が酒のように染み入る」
 いっときの間が空いた。
 わたしも弁慶も、北畠翔太も口を閉ざしたままだった。
 殺伐(さつばつ)としていた空間に、穏やかな風が吹いたような凪が訪れた。
 先に口を開いたのは弁慶だった。
 昔話をするように、ぽつぽつと弁慶が主君・源義経のことを語り始めてくれた。
 交渉が成立したことに安堵の息を吐くも、大事なのはここからだ。しっかり傾聴しないといけない。
「殿は戦においては鬼の化身のようだった。とにかく強い。合戦中の視野も広い。発想も素晴らしい。一の谷の戦いで鵯越を駆けおりたときは、実に爽快な気分だった」
 断崖絶壁(だんがいぜっぺき)鵯越(ひよどりごえ)を馬で駆け、平家に奇襲をしかけた戦いのことだ。これで平家軍は総崩れになった。わたしは空想に耽ったシーンを思い出す。
「壇ノ浦の海戦では、船の漕ぎ手を射た。それによって平家軍の船は機動力を失い、我が軍の侵攻が迫力を増した。これもまた見事な戦術だった」
 それも前に、空想の中に出てきた。 
「しかし、その戦法が、梶原殿のお気に召さなかったようだ」
 弁慶が肩を落とした。ゆっくりと目を開く。
 梶原景時。頼朝に、「義経って自己チューでひどいんですよー。周囲の意見に耳をかたむけずに軍を進めるしー」と義経の悪口を言った人。
「平家討伐を成し遂げた殿は、頼朝との仲が悪くなった。頼朝から追われる身になりました」
 それが、奥州へ逃げていくことにつながる。
「道中、辛いこともあった」
 弁慶がひどく沈んだ目をして、両手のひらを見た。
「今でも、手の震えが止まらぬ」
 罪にさいなまれるように弁慶がうなだれた。無言の時間が過ぎていく。
 これってひょっとして……。わたしは、空想した勧進帳のシーンを脳裏に浮かべる。
「安宅の関で、義経様を棒でぶったのですよね。それは、辛かったですよね」
 弁慶がふうーっと長く息を吐いた。その表情は仕草と真逆で、曇ったままだ。
「弁慶さん。あなたがそうまでしたから、義経様は捕まらずに済んだのです。〝主君に忠誠を尽くす弁慶さんだからこそ、義経様をぶつはずがない〟富樫泰家にそう思わせることができ、関所を突破したのですから、ぶったことを引きずらないでください」
「されど、」
 主君を棒でぶったことが、弁慶にとって、何百年を経てもなお抱え続ける悩みの核心なのかもしれない。忠臣ならではの理由だ。でも、それだけじゃない気もする。
 苦しそうな表情をしたまま、弁慶はうつむいた。
 北畠翔太も、弁慶も、そしてわたしも、誰一人として一言も発しない時間が再度訪れる。
 聞こえてくるのは、弁慶の忙しい息づかいだけだった。(←怨霊だけど、息してる)
 弁慶が、す、と顔をあげた。

『――』

 今のは弁慶の心の声だろうか。聞き取れなかった。
 何だろう、このモヤモヤ感。背後で、北畠翔太が「おまえの水干が光ってるぜ」と口にしているけど、今は黙っててほしい。大事なトコだから。
「我らは奥州にたどり着いた。だが、思えば、もう天は我らに味方をしていなかった」
 わたしの中でモヤっとした気持ちを昇華できないまま、弁慶が話を再開させた。
 弁慶が悔しそうに、涙ながらに語る。
「奥州到着後、間もなくして藤原秀衡殿が病で亡くなった。あとを継いだ藤原泰衡が、殿が住む衣川の館を急襲し、くっ……」
 あとはただ、すすり泣く声が空間の闇に溶け込んでいく。
「弁慶さんの最期はとてもご立派だったと伝わっております」
 北畠翔太が励ますように弁慶に声をかける。何だ、ちゃんとした言葉づかいができるじゃない。さすが体育会系部活。
 ぴくびくっと、弁慶の肩・腰・背中が震えた。

 その震えは、泣いている感情とは別の気持ちみたいに、わたしには思えた。
『――』

 また心の声だ。はっきりと聞き取れない。交渉士としての経験が浅いからだろうか。
 弁慶は唇をかんで、北畠翔太とわたしを見つめた。
 一見、すべてを語ったようだが、弁慶はまだ苦しみを抱えている気がした。
「すべてを吐き出せましたか?」
 珍しく敬語を継続できている北畠翔太が、確認するように弁慶に尋ねる。
 弁慶はしばらく無言をたもった後、「はい」と弱々しい声で返事をした。「かたじけない」とも。
 弁慶がだるそうにわたしたちに背を向けた。
 帰ろうとしているのだ、時空の闇へと。黄泉の世界へと。
 ひょっとしてこれって、弁慶の怨念を鎮めたことになる? ミッション・コンプリート?
 まさに、弁慶が暗闇に身を投じようとしたとき、

「弁慶さん、それって本音?」

 北畠翔太が声をかけた。敬語を忘れたいつものぶっきらぼうな口調で。集中が切れた素の彼の言葉づかいだった。
 振り返る弁慶が目を見開いた。
 目のはしばしに鋭い光が溢れてくる。頬が小刻みに震え、顔が真っ赤になった。両方の目玉がぎょろりと鼻のほうに寄せられ、歌舞伎の見得(みえ)をきってるみたいだ。
「これ以上、何を語れというのだぁああああっ!」
 ぎゃあああ! わたしはまた腰を抜かしそうになる。周囲の闇がうねうね歪みだした。
 弁慶の逆鱗に触れたのだ。
「おのれらぁっ、時空の闇へと引きずり込んでやるっ!」
 えええええ―――っ!
 このままじゃ時空の闇へと放り込まれてしまう……。弁慶はまだ心の内に何かを抱えている。それをつきとめてカウンセリングしないといけない。でも、どうすればいい?
 今まで経験してきた女子トーク中の、本音の探り合いを思い返す。
 女として生きてきた十八年間は、絶対に役立つはず。
 口ではああ言うものの、内心は違う。それはよくあること。表情は何でもなさを装っているのに、心は傷つき病んでいる。
 来い、ピンと来い! わたしに流れる血よ、今こそパワーを下さいっ!
 弁慶のゴツゴツした手が北畠翔太の首にかかった。
 目を逆立てた弁慶が、北畠翔太を身体ごと持ち上げる。 
「北畠!」
「は、橋本ぉ……」
 苦しいのか橋本翔太が足をばたつかせた。
 救わないと。でも、腕力じゃかなわない。
 すると、わたしが着ている水干が、最初は袖のところから、じょじょに胸もとも、服全体が輝きだした。
 集中力が高められていく。
 これって、これが――怨霊傾聴師で交渉士を務めるわたしの能力発現!?
 そう思った矢先、目玉がすぼめられていく感覚があった。
 眼前の光景が途切れ、かわりに脳内で映像が流れだす。


≪希美 脳内空想中≫
 テレビを見ながらちゃぶ台前にちょこんと座る弁慶。(←ちょっとかわいい)
 画面では歌舞伎が放送されている。演目は『勧進帳』。
 弁慶役が白紙の巻き物を、寺社への寄進のための文言と思わせるように、朗々と読みあげていく。
 それをびくびくしながら聞いている義経役と、真贋を見極める目を向ける富樫泰家役。
 ここでテレビカメラが観客席を映す。
 演出がきいているのか、観劇するお客さんたちはハラハラドキドキしている様子だ。拝むように両手を合わせている人もいる。
 テレビを見ていた弁慶の背中が震えだした。
 感極まってるのかな? 凛々しい自分の姿を再現してもらえて嬉しいのかな?
 しかし、弁慶がちゃぶ台をひっくり返した!
 湯のみ茶碗がテレビにぶつかり割れる。
 リモコンの電源ボタンを押し潰さん勢いで、弁慶がテレビを消した。弁慶が振り返る。
 憤怒(ふんぬ)の形相。
 口もとをぶるぶるいわせながら魂の叫びをあげた。
「我らの戦いは演技された見せ物ではない。それこそ命がけで戦場を駆け、散ったのだぁあっ!」
 

 ぷつん、とわたしの空想が終わる。脳内映像も消えた。
 きっと、これが、弁慶の本音だ。
 弁慶が何百年も、抱え続けている苦悩だ。
 誰にも伝えられずに、弁慶は独りで思い悩んでいた。
 そんな弁慶に対して、わたしは何ができるだろうか?
 わたしは、わたしたち現代人は、――もっと耳を傾けるべきだ。
 悩んでいる人には「そうだよね」と同調してあげるべき。(←カウンセリングの基本らしい)
 その一言で、苦しんでいる人は楽になれる。
「弁慶さん」
 わたしは逃げない。立ち向かう。弁慶の想いに寄りそう。そうして、弁慶に向けて一歩前へと踏み出した。
「辛いですよね」
「そ、そなたに何が分かる」
 分からない。現代に生まれたわたしには、八百年以上前の源平時代のことを百%理解できない。それでも、
「勧進帳を歌舞伎やテレビ、映画で見せ物にされることは、時代の当事者である弁慶さんにとっては不快かもしれない」
 一度、言葉を置いた。これから大事なことを、心を込めて言う。
「でも、演じられることによって、わたしたちは弁慶さんの熱い想いを感じられます。確かに、デフォルメ化されたキャラグッズは行き過ぎだと思いますが(←わたしも反省)」
 わたしは言う。伝える。怨霊傾聴師の交渉士として、想いを言霊に乗せる。不思議なことに、しゃべるわたしの口もとが温かかった。
「義経様を助けようとした弁慶さんのひたむきな気持ちに、関守の富樫泰家は感動しました。だから、そこにいるのが義経様ご本人だと分かっていながらも彼は関所を通したのです。これは何百年を経ても変わらない日本人の、ヒトの心の美しさ。弁慶さんが身をもってそれを教えてくれたのです。大切な〝わたしたち人間の心のありかた〟を、歌舞伎などの勧進帳をとおして、後世に生きるわたしたちは知ることができます」
 口にした言葉がオレンジ色の膜に包まれていた。
 弁慶がハッとした顔になる。
「ありがとう、弁慶さん。命をかけて後の世のわたしたちに大事なことを伝えてくれて、本当にありがとうございます」
 そうしてわたしはお辞儀をする。演技じゃない、自然と頭を垂れていた。

 と、背中に温もりを感じた。
 わたしはその温もりの先、手の差出人を見やる。
 北畠翔太だ。
 彼はわたしを守るようにそばに立っていた。頷きを示して、わたしが言いやすいように促してくれた。空気を読んだのかな。成長したね。そうか、これが、怨霊傾聴師が二人そろった形なんだ。
「『立ち往生』もきっとそうですよね」
 自信を持って言うと、弁慶が更なる驚きを示した。
 思えば、立ち往生の空想シーンでも弁慶の叫びが聞こえてきた。
 ――我らの戦いは演技された見せ物ではない。それこそ命がけで戦場を駆け、散ったのだぁあっ!
「藤原泰衡が衣川の館を急襲した際、弁慶さんは主君のために身体を張った。全身に矢を浴び、絶命された。『弁慶の立ち往生』と歴史では伝えられております」
 弁慶の真っ黒な瞳が揺れる。
「弁慶さんの死後、多くの創作物で『立ち往生』の光景が華々しく脚色され、物語や芝居、映画、時代ドラマとして演じられました」
 弁慶が再び目に力を込めたのが分かった。
 わたしは臆さずに弁慶と向き合う。大丈夫、わたしは交渉士だ。隣りに北畠翔太もいる。心強いパートナーだ。
「そのことも、弁慶さんにとっては不本意。迷惑な演出ですよね」
 弁慶が薙刀を構えたままゆっくりと目を瞑る。力なく呟いた。
「さよう。まさに命がけで主君を守る戦場だった。矢で射られた者が、倒れもせずに立ち続けることなど不可能。戦場はそんな演出ができるな生やさしい場所ではござらぬ」
「はい」
 わたしは短く応答する。
「我らは、後世の者に感動を与えようと生きたわけではない」
 弁慶の声が熱を帯びていた。
「生きるために戦った。主君を守るために戦った。愛する者のために戦った」
 弁慶から立ち昇っていた空気が、凪いだ海面のように静かなものになった。
 そうしてしばらくの間、わたしたちはお互い見つめ合った。
 最後の最後で信頼を深めるのは、言葉じゃなくて、相手を想う気持ちなのかもしれない。
 誰もしゃべらない気まずさは、そこにはなかった。
 わたしと、北畠翔太と、弁慶の三人の絆が濃く強まっていく。
 弁慶の目もとから、こわばりが薄れた。自分を納得させるようにウンウンと頷いていた。
 そうして、本当に長い時間が経ってから、弁慶が改めてわたしと北畠翔太に視線を向けた。とても穏やかで、優しい目だった。
「すまぬ。おぬしらに怒りをぶつけてしまった」
「弁慶さん。あなたにお会いできてよかったです。あなたが日本人として生まれてくださったことを、わたしは誇りに思います」
 わたしは再度、深々とお辞儀をする。北畠翔太もわたしにならい頭をさげた。
「聞いてくれて、かたじけなかった」
 弁慶も手に持つ薙刀を地面に置き、ゆっくりと上体を曲げてくれた。
 召喚空間に緩やかな風が吹いた。ふわりとおでこをなでられる。
 これをもって怨霊傾聴師の役目は終了となるのだろう。弁慶が祟りを起こすことは、きっともうない。

 でも……………、崩壊は突然だった。

「とても不吉なっ!」
 弁慶が、慌てて薙刀を握り直す。背後を振り返った。
 わたしと北畠翔太も弁慶の後ろを見やった。

 え!?
 そこに美晴が、いた。

「どうして、美晴!?」「一条?」
 北畠翔太と声が重なる。
 美晴に駆け寄ろうとすると、北畠翔太がわたしの手を取った。
「待て!」
「離して! 美晴のあの様子、ちょっと変だって」
 事実、美晴は北畠翔太の眼前だというのに、ニヤリといやらしそうな表情で笑っている。清楚さのかけらもない。好きな男子の目を気にするタイプなのに。
 北畠翔太はわたしの手をぎゅっと握り、離さなかった。ゆっくりと、こう口にする。
「この空間に入れるのは、俺たち怨霊傾聴師と〝死者〟である怨霊だけだ」
 一瞬、彼が言っていることが理解できなかった。
 だってそこには美晴がいる。
「だから考えられることはただ一つ。一条美晴は、この世の者ではない。ほつれた結界の隙間をくぐり抜けた怨霊だ」

 驚きで声をあげられなかった。
 というよりも、信じたくなかった。美晴が怨霊?
 腰を曲げた美晴がずりずりと足を引きずりながら、わたしたちに近づいてくる。
 彼女の服装はおしゃれなワンピースではなく、ボロボロの麻の和服になっていた。
 つやつやと漆黒に輝いていたはずの髪もボサボサになり、肌はシワとシミが目立つ。
「弁慶、おまえがこの場に現れるのをずっと待っていた。結界に小さな穴を見つけたときは嬉しかった。黄泉では身動きがとれないからな」
 聞き慣れている美晴の声ではなかった。しわがれている。
「美晴? いったいどうしたの? そこで何をしてるの!?」
 しかし、美晴はわたしが言うことに耳を貸さない。こっちに目さえも向けてくれない。
「おまえを守る」
 北畠翔太がずいっとわたしの前に立つ。
 美晴の手には小ぶりの刀が握られていた。妖しく輝くその切っ先は、弁慶に向けられている。
 おぼつかない足どりで、ふらり、ふらり、と体を揺らしながら、弁慶へと向かっていく。
「誰だおまえは?」
 弁慶が美晴に向けて薙刀を構えた。
「弁慶さん、やめてっ! 彼女はわたしの大事な友だち」
「誰? 誰と言ったか、弁慶」
 歩みを止めた美晴が、がくんと首を折るようにその場でうつむく。長い髪がバサリと垂れ、彼女の顔が隠れた。

 いっときの静寂。

 と、冷ややかな笑い声が美晴から漏れた。
「そうだろうな。分からないだろう。おまえが殺した男の妻のことなど」
「それがしが殺した男の妻?」
 美晴は顔を下に向けた姿勢でぷるぷると震えだす。
「おまえは、さも正義ぶった話をしていた。愛する者のために戦った……、さて、その結果、愛する者を殺された女たちがいたことを、おまえはこの何百年ものあいだ考えたことがあったか?」
 ぞくりと鳥肌が立つ。
 美晴が顔をあげた――青白い頬に血の涙が伝っていた。
「あたしは、弁慶、おまえに殺された男の妻」
 えええっ――――!? 
「歴史は、おまえたちだけが作ってきたものではないっ! おまえに殺されたあたしの夫のように、後の世に名を残さぬ者、平和に暮らすことだけを考えて田畑を耕していた者たちもいた! 源氏、平氏の諍いごとに巻き込まれた民がいたことを忘れるな」
 美晴が大きく身震いする。この空間も大きく揺れた。
「待っていた。この機会を何百年もの間、待っていた。黄泉で霊同士は接触できない。夫の復讐を果たすには、おまえが結界の外に現れるこの機会しかなかった」
 そんな……いったい何百年もの間、怨霊となった美晴は機会をうかがっていたのだ。弁慶が怨霊傾聴師に召喚されるタイミングをじっと待ち続ける。それは、いつになるかしれぬ途方もない時間だ。
 美晴の怨念はそれほどまでに深いのか。そして同時に、結界が機能しなくなっていることを、美晴の存在が証明しているのだろう。
「戦とは無縁に暮らしたかった。夫と、ただ、ただ、平和に暮らしたかった。強制的に徴兵され、歯向かう者としておまえの薙刀でみじめに殺された夫の無念を思い知れ!」
 瞳を真っ赤に染めた美晴が、小刀を弁慶に向け振りかざす。
「やめてっ!!」
 わたしの金切り声に、ようやく美晴が反応を示した。わたしと目が合う。
「ねえ、美晴。お願い、やめて。やめてよ」
「黙れ」
 欠けた歯が見えるほどに歯ぐきを剥き出しにして、美晴が胴間声をあげる。
「おまえに何が分かる! 現代に生まれ育ったおまえに何が分かる」
 涙がこぼれた。
 目をつぶりかけて、堪える。目を閉じたら、すべてが終わってしまう気がした。もう二度と美晴と分かり合えないままに別れてしまう気がした……。
 そんなのは、嫌だ。
「弁慶さんを刺しても、何も解決しない。殺されたから復讐する。殺し合う。そんなのもうたくさん。ねえ、美晴。あなたがずっと抱えてきた辛さを、今この場で理解するのは難しい。だけど、わたしは美晴を信じたい。だって、友だちじゃない。わたしたちは三年一組で、一番仲の良い友だちじゃない! 美晴が人殺しするところなんて見たくないっ!」
「申し訳なかった」
 弁慶が割って入った。その場で、ゆっくりと膝をつく。
「それがしは、取り返しのつかないことを生前にした」
 うな垂れた弁慶が、その首を、美晴の方へと差し出すように伸ばした。
「討ってくだされ。それがしの首をこの場で斬り落としてくだされ。それが、美晴殿の旦那様への供養となりましょう」
 美晴が確認するようにわたしを見た。
 目が合った気がするのに、すぐにあやふやになる。それぐらいに彼女の目は泳いでいた。
 美晴が今度は弁慶に視線を向ける。その瞳が風にそよぐロウソクの火みたいに揺れた。
「美晴」
 美晴はわたしの声に反応を示さなかった。
 弁慶に向かって、傾いだ姿勢で距離を詰めていく。顔を覆う髪をかき分けもせずに、一歩一歩と踏み出していく。ぶるぶると震え、背中を丸まらせながら。
「美晴、やめて」
 わたしは弁慶の前におどり出た。
「どけ」
 短く言い放つ美晴。地の底から響くようなおどろおどろしい声。
 髪の隙間から覗く彼女の血走った眼が、下から突き上げるようにわたしを睨んでいた。
「ど、どかないから!」
 言い返し、まっすぐに美晴を見すえた。
「ならば、」
 美晴の瞳が何も映さなくなった。
「おまえごと刺し殺すまで」