【……もう……堪忍ならぬ……】
え?
おどろおどろしい声が聞こえたと思った矢先、ぐらりと来た。
また、地震。
二階の俺の部屋が揺れやすいのだろうか。最近、緊急地震速報ばかりを聞いている気がする。
古い木造一軒家だから、耐震性自体に問題があるかもしれない。
階段をギシギシ鳴らして一階のリビングルームに降りていく。
じーちゃんがカーペットにちょこんと正座して、テレビで時代劇を見ていた。
さっきの地震に気づいていない?
……いや、平然としているフリに見える。
俺、テレビが見たいんだ。土曜の夜八時は俺優先って、何度言えば分かってくれるかな。
「じーちゃ――」
声を出している途中、テレビ画面の端に、
【山口県で震度5強】
とテロップが表示された。
山口県?
俺が住んでいるのは千葉県だ。
震源地が山口県で、千葉県も揺れるなんて広範囲すぎないか? 千葉県は震度4だ。
『どうもこうもあるかぁあっ!』
テレビ画面では、今から800年くらい前にいたとされる、武蔵坊弁慶が薙刀を振り回している。放たれた矢を何本かばさばさと斬り落とすも、うち一本が弁慶の身体に突き刺さった。
『ぬおおおっ!』
血を吹きながら弁慶が凄まじい形相で呻く。かっ、と開かれた瞼は歌舞伎を連想させた。
めちゃくちゃ痛そうで迫真の演技。俺としては主演男優賞をあげたいぐらい。
それにしても、最近、弁慶のネタが巷に溢れている。
弁慶が登場人物の小説、マンガ、ドラマ、映画、コマーシャル、ミュージックビデオ……それらは売り上げ何十万部とか、視聴率何十%などと、ネットを見るたびに絶えずヘッドラインで目につく。
萌えキャラにデフォルメ化された弁慶グッズ『べんけー様』までヒットしているほどだ。学校でも『べんけー様』のスマホグッズや缶バッヂを持ってる人がたくさんいる。
今の弁慶は、アイドルだ。推して推して推しまくられている。
地震・雷・火事・オヤジ。
身近にある怖いものの例え。ここまでテレビや映画、ファッショングッズに弁慶が出てくると、地震・雷・火事・弁慶だ。
ちなみに、俺のオヤジは全然怖くなかった。『べんけー様』も怖くない。むしろカワイイぐらい。
『そんなものでそれがしを倒せると思うかぁあっ!』
絶叫した弁慶が、薙刀を地面に突き立てる。直後、おびただしい数の矢が、弁慶の体を貫いた。
弁慶の立ち往生シーン。
この時代劇の最大の見せ場だ。ここで、このドラマの評価が決まると言っても差し支えない。
それにしたって――
主君の源義経がこもる館を守るために、弁慶がその身を盾にしたまま死ぬ……そんなことは果たして可能なのだろうか? 矢が刺さり死んだら、立ち続けることは不可能だ。
このやりすぎ感に、俺は弁慶がちょっとかわいそうに思えてきた。何十年と定番になっている演出に、こんな感想を抱く俺がおかしいのだろうか。
【この……屈辱……。こんな結界……ぬうううっ……】
ん? 近所で誰かが呻いている。それにしては、すごく近く、まるで脳内に直接声を流し込まれたみたいに。
「――っ!」
また揺れた。さっきよりも大きい。緊急地震速報が間に合っていない。
テレビで地震速報が流れる。
【岩手県で震度6弱】
岩手?
西日本の山口県で震度5強。今度は東北の岩手県も震度6弱? 日本列島全体が揺れているのか? こんなことは初めてだ。
じーちゃんはテレビ画面に目を向けたまま固まっている。歳をとっても、やっぱり地震は怖いんだな。
「地震、すごかったね」
話しかけたけど、じーちゃんは振り返らない。
もっと大声を出すか。俺は大きく息を吸いこんだ。その途中、じーちゃんがまるで首だけをぐるりと回したように、こっちを向いた。
「ひっ!」
妖怪みたいに振り返らないでくれ。
「翔太……」
じーちゃんが俺の名前を呼んだ。それっきり、黙ってしまう。唇がわなわな震えている。
俺も口を閉ざしたまま、じーちゃんと向き合う。五秒、十秒、もっと長い時間を見つめ合い、じーちゃんがふいと目をそらした。俺はひそかにホッと息を吐く。
「……ああ、何でもない。歌番組を見たいんじゃったな」
じーちゃんが俺にテレビのリモコンを渡した。その手先が細かく震えていた。歳とったな、じーちゃん。
テレビ画面では、義経がこもる館が炎に包まれていた。
立ち往生した弁慶の巨大な影が、爆ぜる火の明かりを受け大きく濃くなりながら、エンドロールが流れていく。静謐な感動を誘う笛の音がエンディングミュージックとなり、ゆっくりと身に染み入る――
それから一か月が経ち、季節はまもなく初夏を迎えようとしていた。
高校三年の俺はこの日、十八歳の誕生日を迎えた。
「んしょっ!」
誕生日だろうと俺の日課は変わらない。
まずはジョギングから。
俺はサッカー部のエースストライカーだ。ゴールを決めるにはスタミナが肝心。走り込み不足で試合中に息を切らすエースにはなりたくない。
家を出てジョグしていると、毎度思うことがある。この街は辛気臭い。
特に俺が住むエリアは、昔の戦後復興区画整理という大がかりな開発を経て、今の碁盤の目状の居住区が成立した。
これが、ランナーにとって非常に走りにくい。
二~三軒、戸建ての前を過ぎるとすぐに十字路の生活道路があり、車やバイク、自転車が駆け抜けてくる。それにプラスして、近所の高齢者にぶつからないよう、用心して走らないといけないのだ。
神経を張り巡らせているようで、実はあまり集中せずに走っているときだった。
「ん?」
道路の先に、ぼんやりと光の筒のようなものが降りている。見つめていると、段々とその光度が増してきた。
綺麗だな。
いや、そうじゃない。ここは、こんなプロジェクトマッピングが(おそらく)日本一似合わない住宅地だ。
そう思いながら走り続けていると、次第に光の中から人の姿が見え、その輪郭が濃くなっていく。不審になった矢先、長い包丁を手にした甚平姿のおじさんが、光の筒の中から現れた。
じろっと甚平おじさんが俺を見た。標的を定めたみたいに。
え? 刹那、心臓がバクバクと暴れだす。
周囲を見渡してみるも、誰もいない。助けを呼べるだろうか。心臓がはちきれそうだ。このまま進むことに躊躇を覚えた。
俺を凝視する甚平おじさんの表情は剣呑としていた。頬がこけた青白い顔、血走った目。誰が見ても、普通じゃない。
【……成仏……成仏】
不気味な声が、ふつりふつりと聞こえてくる。
【……成仏】
鳥肌が立った。
古い住宅街特有の庭木の薫風を吸い、爽やかにジョギングをしていたはずなのに、俺は今、修羅場に遭遇している。
ふらりと一歩前に踏み出す甚平おじさん。すぐに、迷いのない足どりで俺に突進してきた。
剥きだしの刃が鈍い光を放つ……長い。よく見ると包丁じゃなくて、日本刀だ。
甚平おじさんが駆ける足を速める。その迫力は、駅で見かけるサラリーマンが醸し出せるレベルを超えていた。古武術の達人のような圧だ。
通り魔? 冗談じゃない。十八歳の誕生日に非業の死を遂げる感涙映画の主人公にはなりたくない。
その場でターンして、俺は全力ダッシュで逃げる。現役サッカー部高校生の走力をなめるなよ……って、「げ!」
甚平おじさんをぶっちぎるどころか、追いつかれていた。
【成仏……させてください……】
その声は、凄みとともに悲哀まで混じっていた。虚ろな表情が恐怖を煽る。走る俺の息が激しくあがっているのに対して、甚平おじさんは息を荒げていない。むしろ口を閉じたままだった。では、声はいったいどこから出ているのだ?
「そんなこと俺に頼むなよっ!」
思わず返答すると、甚平おじさんの顔つきが急変した。目を逆立て、日本刀を振りかぶる仕草を見せた。
咄嗟に俺は手を甚平おじさんに向ける。そんなことをしても、刃物でスパッとやられるだけなのに。これが防御反応というやつか。
そのとき、手をかざしながら古めかしい言葉を口ずさんでいた。
「我、今まさに滅を選ぶ」
どうしてこんな言葉を口にしたのか自分でも分からない。脳裏にパッと閃いた言葉だった。
と――いきなり、俺の掌に熱がこもった。
直後、甚平おじさんが虹色の光に包まれた。
「へ?」
かっと目を見開き、苦悶の表情を浮かべた甚平おじさんと、一瞬目が合った。その眼差しは先ほどとは打って変わり、奈落の底を見るような、希望を失った空虚さで満たされていた。その口が初めて開かれた。
【な……ぜ……】
甚平おじさんが空中に溶けるようにふつりと消えた。
「……」
道路上には俺以外に、誰もいない。何の痕跡も残されておらず、俺を襲った出来事は夢だったのかとさえ思えてきた。
それでも、甚平おじさんが最後に向けたあの眼差しが、俺の脳裏から離れなかった。
無念さ、悔しさ、諦め。抗えない負の感情に絶望しながら、甚平おじさんが消えた気がした。そうして最後の言葉――【な……ぜ……】これは、何故、と言いたかったのだろうか。
膝に力が入らず道端に座り込んだ俺は、暴れる呼吸を鎮めながら、起きたことを反すうする。
『光の筒。
いきなり現れた甚平おじさん(手に日本刀)。
斬られたくなくて手をかざし、記憶にない言葉を口にした。
甚平おじさんが消えた』
自分の手をしげしげと眺める。何の変てつもない掌だ。
朝の陽ざしが煌めいている。今日も暑くなりそうだ。そう、これは普通の日常のはず。
夏の始まりにふさわしい爽やかな誕生日。この現実世界において、俺はどこかマズい領域に踏み入ってしまったのか。
帰宅し、日本刀を持った甚平おじさんに追いかけられたことを、じーちゃんに話した。
こんなときこそ、じーちゃんの人生経験に頼らせてもらおう。
すると、いつも酔っぱらったように上機嫌なじーちゃんが、険しい目つきで俺を見すえた。
「そうか……とうとうこの日が来たか」
じーちゃんが遠くを見つめるように、天井に目をやった。
「翔太。これから話すことは、絶対に、内緒だぞ」
いかめしい顔つきのまま、じーちゃんは背後の襖を開けた。
一瞬、躊躇したのか、じーちゃんの動きが止まった。が、覚悟を決めたように長く息を吐き、古そうな風呂敷包みを厳かに引っ張り出した。それを、俺に渡した。その手は、リモコンを渡してきたときよりも、もっと震えている。
風呂敷包みはかなりボロボロで、あちこちにドス黒い染みがついていた。
「随分と古汚い風呂敷だな」
「バカ者」
じーちゃんから𠮟られるも、ふと冷静に、俺はあることを思い出す。
俺の誕生日プレゼントは?
どーんとおこづかいをもらえると期待を膨らませていた。少なくとも、ジョギングに行くまでは。
「じーちゃん、その、誕生日……」
眉間にシワを寄せて、じーちゃんにアピールする。
こうすると、じーちゃんは俺の感情を読みとって、たまに千円札を握らせてくれる。部活帰りに腹がへるだろう、と。
だけど今日のじーちゃんは違った。古い風呂敷包みを俺にプレゼントした。とてもじゃないけど、この中に俺が欲しい物が入っているとは思えない。手っ取り早く言えば、お金とか。
頑として財布に手を伸ばしてくれないじーちゃん。
財布がしまわれている木製の小さなタンスに熱い視線を送る俺。じーちゃん、気づいてください。
心のこもった邪心が通じたのか、じーちゃんが口を開いた。
しかし、その言葉は、爆弾だった。
「おまえの父は、車の事故で死んだのではない」
「……はい?」
三年前、自動車事故で死んだ、そう聞かされた。
「おまえは、父の死んだ姿を見なかっただろう」
俺は頷く。
「対向車に押しつぶされてぐちゃぐちゃだったから、俺には見せられないって」
家族葬なのに死んだオヤジに対面することさえ叶わなかった。見たいといっても頑なに拒まれた。そういえば、あのとき、俺の心はかなり荒れた。
「嘘だ」
「嘘?」
じーちゃんの顔をまじまじと見る。
しれっとした顔つきで、じーちゃんが、一度、大きく息を吐いた。
俺はこぶしをぎゅっと握る。せり上がるやり場のない感情を、手の中に収めようと必死になる。
「急なことで、おまえに本当のことを話せなかった。なんというか、あれは霊に……殺された」
「はい?」
霊……って。ひょっとして、ボケたか、じーちゃん。ついにこの日が来たのか。
ボケ話に朝っぱらから付き合いたくない。
しかも死んだオヤジネタ。痴呆が進んだにしても、聞く側としてはちょっとひいてしまう。
「じーちゃん、俺、もう行くよ。学校に遅刻しちゃう」
立ち上がる矢先、ぐらりと家が揺れた。
たぶん震度3ぐらいの揺れだ。
それとも、じーちゃんがぶっ飛んだことを口にしたので、俺が動揺しているのか。
「話す時が来た」
じーちゃんが風呂敷の包みを解いた。
中には、風呂敷よりももっと古そうでボロボロな布の服がしまわれていた。ハッピだ。お祭りで係の人が着てそうなもの。それを、じーちゃんが広げた。
まさか、これを俺に着させようとしている? ファッションセンスが微塵にも感じられないこのハッピを。
「これは宿命、いやおまえの番が来た。北畠一族に受け継がれし『怨霊傾聴師』としての」
……今年の俺の誕生日、ヘヴィーすぎ。
*
「北畠家は、千年前から代々、『怨霊傾聴師』を生業としている」
居住まいを正したじーちゃんにつられて、俺も正座をした。
「生業って、オヤジは心理カウンセラーだったろ」
父の顔を思い浮かべる。ちょっと垂れ目の、イヤミな感じが一ミリもない、柔和な顔つき。思春期に突入していた俺でも、オヤジは優しいと思えるほどだった。
「それはな、裏の職業だ。正業は、怨霊の無念をじっと聴き、頃合いを見て成仏を促す怨霊傾聴師じゃ」
それ、正業と副業が逆になってません? いや、そもそも――
「怨霊って、そんなのいるわけない」
「今朝、遭遇したじゃろ」
甚平おじさんに追いかけられたシーンが脳裏を過ぎる。北風が首筋を吹き抜けたみたいに、俺はぶるりと震えた。
「我々一族は、歴史の表舞台に立つことなく、裏で連綿と怨霊傾聴師を受け継ぎ、世に平和と安定をもたらしてきた」
昨日までの俺だったら絶対に耳を貸さない、演説口調の話だ。まだ半信半疑で、俺は質問する。
「ってことは、じーちゃんも怨霊傾聴師だったの?」
「うむ」
めっちゃくちゃドヤ顔のじーちゃん。何でも尋ねてくれオーラが出ているので、俺はストレートに質問する。
「そもそも怨霊傾聴師って、なに?」
じーちゃんがニタッと口角を上げた。ドヤを通り越して気味が悪い。
「怨霊傾聴師とは、長屋王や菅原道真の祟りで疲弊した国土を護るために、千年前、冥府と行き来する小野篁が閻魔と協議のうえに設けた職。古い話だが、概ねそう伝わっている」
じーちゃん、それ丸暗記して、何度も言う練習したでしょ。だから、ニタッと笑ったんだな。
「菅原道真って大宰府に左遷された後、怨霊になったんだっけ」
「天皇家で不慮の死が続き、都に大きな落雷があった。さらにはもっと大きな祟りを菅原道真は引き起こそうとしておったが、それを鎮めた」
だから、丸暗記ぶりがハンパないよ、じーちゃん。
「鎮めたって、誰が?」
「おまえの先祖だ。このハッピが何よりの証拠だ」
じーちゃんは、大事なものを扱う仕草でハッピを指し示した。
「……」
どう考えても、単に古いだけのハッピだ。ドス黒い染みが乾いた血の跡っぽくて、グロテスクにも感じられる。やっぱり、じーちゃんボケたか。そんな話、信じられるわけが――
「信じられんと思ってるようだの」
ニタッと笑むじーちゃん。だから、妖怪みたいで怖いんです、その顔。
「そりゃ、そうじゃない? どう考えても都市伝説でしょ」
「では、確認するが、今朝襲われそうになったときに、翔太は怨霊の声を聞いたか?」
「声? ……ああ、成仏、成仏とかって甚平おじさんブツブツ言ってたぜ」
「やはり……それじゃよ」
じーちゃんが声を低くした。
「わしら一族は、怨霊傾聴師としての能力が開花すると、怨霊の声を聞き、怨霊と話せるようになる。わしも、おまえの父親もそうだった。そのタイミングで、この風呂敷包みが継承者へ引き継がれる。おまえの父もこれを着た」
オヤジも……。少し湿っぽい気持ちになった。おそるおそるハッピに触れてみる。気のせいかハッピが薄い光を纏った気がした。ドクン、と心臓が高鳴った。
「だったら、あの成仏うんぬんの声は」
「まぎれもなく、怨霊がおまえに話しかけてきた」
さらりと言ってのけるじーちゃんの顔つきは、どこまでも真剣だ。
じーちゃんを真っすぐに見つめるも、視線を逸らされることはなかった。これは……嘘じゃない。何よりもこのハッピが、俺の血と共鳴している。血が騒いでいる。
「それで、ここからが重要じゃ」
ごくり。大きな音を立てて、俺は唾を飲みこむ。すると、カタカタとじーちゃんの湯呑みの底がテーブルに当たる音がした。すぐに、細かい縦揺れとなり、地震が発生したことを知る。いつしか、横にも揺れていた。心臓がぎゅっと縮こまる。
「時間がないっ!」
激しい揺れの中で、じーちゃんが怒鳴るように、俺に向けて叫んだ。
「結界がもう限界だ! このままでは、現世が怨霊の祟りで壊滅してまう。翔太、一刻も早く、もう一人の怨霊傾聴師を見つけろ。現世の安寧は、もはやおまえたちでしか成しえぬっ」
◇◆◇◆
授業にまったく集中できない。
当たり前だ。朝っぱらから、あんな話を聞かされたのだから。
あの後、地震がおさまると、じーちゃんはもう一人の怨霊傾聴師について、途切れ途切れに話してくれた。
それによると、もともと怨霊傾聴師は、怨霊を召喚する『召喚士』と、怨霊と交渉する『交渉士』の二人がセットで怨霊の恨みに耳を傾け、その祟りを鎮めていたらしい。俺は『召喚士』の血筋を受け継いでいるようだ。
江戸時代の初期、特に優秀だった二人の怨霊傾聴師が現世に強力な結界を張ることに成功した。これにより怨霊の祟りを未然に防げるようになった。
祟りがなくなり、最初のうちはよかった。
しかし、時が経つにつれて、怨霊傾聴師の二人は疎遠になっていく。いつしか『交渉士』の承継者は行方不明となった。
結界が張られて四百年が経った現在、堅牢だった結界はいつ崩壊しても不思議ではないほど綻び始めている。
事実として、今まで結界ではじかれていた怨霊たちが、少しずつ現世に影響を及ぼすようになってきた。それが、今朝見た怨霊であり、また……俺のオヤジを殺した怨霊であった、とのこと――
正直、気持ちをどう整理すればいいのか、分からない。
スマホで『怨霊傾聴師』を検索しても、何もヒットしない。
じーちゃんによると、怨霊傾聴師の『召喚士』は一子相伝で、能力が子に伝わると先代からはその能力が消えるそうだ。
オヤジが怨霊傾聴師に目覚めたと同時に、じーちゃんは怨霊の声を聞くことも、怨霊と話すこともできなくなったらしい。
図書室へ行ってみるか。
ネットにない情報だから、本で調べるしかない。ということで、俺は昼休みに図書室へと向かっている。
うちの学校はそこそこ進学校だけあって、図書室が広い。蔵書数もそれなりだから、何かヒントになる本があってほしい。
図書室のドアをスライドさせて入室した。
ああ、やっぱりいた。
閲覧テーブルで、せっせと何かを読んでいる女子生徒。俺がたまに図書室に来ると大抵いるから、彼女は相当な本好きなんだろう。
今まではクラスが違うから無視していた。今年度からは同じクラスだ。んー、声かけるべきかな? でも、図書室では静かにしないといけないから、無視でいいや。現状維持ってことで。ちょっと気にはなっているんだけどね……。
目指す棚は、歴史資料棚。
怨霊傾聴師が平安時代から続いているのならば、歴史関係の本を漁るのが手っ取り早い。さすがに、進路関係の本に、職業『怨霊傾聴師』なんて記載はないだろう。
で、歴史資料棚の前で立ち読みすること数十分。
……ない。
見つからない。
「あああああ~っ」
思わずボヤいてしまった。
「!?」
「あ?」
ボヤいた口のまま固まる俺。その視線の先にいる、女子生徒。今年度からクラスメイトの橋本希美。別名クール・ビューティ橋本、って誰かが言っていた。
「よう」
とりあえず挨拶をしてみる。それとも「初めまして」がいいかな。いや、クラスメイトに「初めまして」はないか。
橋本は閲覧テーブルで読んでいた本を棚に戻しに来たようだ。七~八冊を両手で抱えたまま、さっきの俺みたいにフリーズしていた。
いつ溶けるのかと、じーっと眺めていると、彼女が手にしている本も歴史書、しかもどれもが平安時代の本であることに気づいた。
へえ、と思う俺は、自然と言葉がついて出た。
「橋本、ひょっとして歴史好きか?」
俺としては、怨霊傾聴師の手がかりを知りたいぐらいの気安さで訊いたのだが、
「――ひはっ!?」
かけられた呪縛魔法を自ら解くような声を橋本はあげ、俺の前から走り去っていった。
……あの、俺、何か悪いこと言った?
彼女にはもう届かない言葉を胸にしまったまま、俺も小さく呟く。ひはっ!? 女心、難しすぎ。
それよりも、俺に傾聴の才能なんてあるのだろうか? 怨霊どころか、人間の橋本でさえ話をしてくれなかったぞ。
*
「なあ、じーちゃん」
部活から帰った俺は、さっそく怨霊傾聴師について質問する。朝の登校前よりは、ゆっくり話せそうだ。
「怨霊の無念を聴いて成仏を促すって言ってたけど、そんなので祟りは鎮まるの? ほら、陰陽師みたいにバーッって怨霊を消しちゃった方が手っ取り早くない?」
湯呑み片手にじーちゃんの好々爺然とした表情が、一変した。
「とんでもない! 怨霊を消し去ると、その怨霊は成仏できなくなる!」
「成仏って、そんなに大事なこと?」
じーちゃんの目が険しくなっていた。怨霊傾聴師としてお勤めを果たしたからこその矜持がありそうだ。
「ああ、大事だ。輪廻転生の意味は知っておるか?」
「死んだら生まれ変わるぐらいのことは」
「さよう。死んで生まれ変わるためには、一度成仏しなくてはいけない」
重々しく告げたじーちゃんが何かを言いあぐねるように、下を向いた。
嫌な予感がビンビンしてきた俺は、小さな声で確認する。
「じゃあ、怨霊傾聴師が怨霊を成仏させずに、何らかの方法で相手を消滅させたら、やっぱりマズい?」
じーちゃんが物凄い速さで顔を上げ、俺を睨んだ。
「おまえ、まさか!」
「いやいやいや、もしもの例え話……」
俺が手を向けて甚平おじさんが消えたことは、まだじーちゃんには告げていない。脇から汗がダラダラ流れて、脇腹あたりがぐっしょりしている。
「怨霊傾聴師には、禁忌の消滅呪文がある。怨霊に向けて掌をかざし、『我、今まさに滅を選ぶ』と唱えることで、対峙していた怨霊を消し去ることができる」
ズキン。棒で心臓を突かれたような心理的衝撃。
俺は……まさに、それをやった。
ふるふると頭を振りながら、じーちゃんが話を続けた。
「だが、これはやむを得ない緊急事態用の呪文だ。怨霊を消し、成仏の道を途絶えさせると、その魂は輪廻転生の道が断たれてしまう。文字どおり、魂ごと消滅させてしまうからな。それに、唱えた者にも――」
ワキ汗どころじゃなくなった。こめかみから幾筋もの汗が頬を伝う。
二の句が継げず、俺は居間の畳をじっと見ていた。震えそうになる背中を平静に保つのがやっとだ。
甚平おじさんが消滅する、その直前の顔がフラッシュバックする。
気が触れたような目つきだったが、それは俺に縋るしかなかったがゆえの必死さからだったのではないか。それならば、あの時の眼差しが意味するところが分かる。絶望を目の当たりにして、無念のままに消えていった――。
【成仏……させてください】
言葉が俺に重くのしかかってきた。甚平おじさんの業を背負ったみたいに。魂の重みを感じるみたいに。
【な……ぜ……】
息を呑んだ。その言葉が意味するところ……怨霊傾聴師になのに『なぜ』成仏させてくれないのか。
手が震えだす。臀部も、肩も、頭も、体全体が痙攣し、後悔に埋め尽くされていく。
俺は……俺は……何ということをしてしまったのだ。
怨霊傾聴師の子孫として、成仏を支援するどころか、二度と現世の光を浴びられないようにしてしまった。
奥歯を噛み、両拳をぐっと握り込む。爪が手のひらに食いこんだ。
俺は、俺は――
「――太。翔太」
じーちゃんから呼びかけられていることにしばらく気づけなかった。畳を見たまま、顔を上げることができない。
「今だからこそ話そう。おまえの父親が死んだ理由を」
条件反射のようにじーちゃんを見た。顔が上がっていた。
「おまえの父親は、まさに命を奪われかねない緊急事態に陥ってもなお、眼前の怨霊に対して、消滅呪文を唱えなかった。いつか怨霊が成仏し、生まれ変われる日が来るよう願い、父親自らが散った」
視界が涙で曇る。腹の底から冷たさを感じ、座り続けることさえできずに、俺は両手を畳についた。四つん這いの姿勢で、額を畳にこすりつける。抑えきれない衝動が湧いてきた。自分の浅はかさ、オヤジの優しさ、甚平おじさんの諦念、すべてが俺を刺す。きっとこれは、生涯をかけて耐え続けなければならない痛み。
「ああ…………ああああああああ―――――っ!!」
俺は、俺は……とんでもない馬鹿野郎だ。
自らの死を選んでまでして怨霊の成仏を願ったオヤジ。
それに対して、俺は――。
「翔太よ」
じーちゃんの眼差しが、柔らかくなっていた。俺を包み込むように、穏やかな表情を浮かべていた。
ひょっとすると、じーちゃんは悟ったのかもしれない。
俺が――消滅呪文で、怨霊を成仏させずに消したことを。
「もう一人の怨霊傾聴師を探すのじゃ」
「……そんな。俺、怨霊の無念を聞いて成仏させるなんて、できっこないよ」
悔しいけど、本音だった。
安易に引き受けてしまうと、甚平おじさんのときみたいに、魂を消滅させてしまうかもしれない。二度とこの世に生まれないように、俺がしてしまう……。
自分の出来の良し悪しでそれが決まってしまうなんて、肝が縮み、とてもじゃないが荷が重すぎる。あの恨めし気な言葉【な……ぜ……】を再び聞きたくない。
俺は力なく首を振った。
そんな俺を、じーちゃんは責めなかった。
怨霊傾聴師を継ぐときに、じーちゃんも悩んだのかもしれない。
ただ、一枚の手ぬぐいのような布切れを俺の前にそっと置いた。
俺はハッとする。
小学生のとき、家庭科の時間で裁縫をした。その際に、オヤジの名前『はやと』を糸で縫ったハンカチだった。
「このハンカチを握り込んだまま、隼人は死んだ」
じーちゃんが愛おしそうに息子の名前を、俺のオヤジの名前を口にし、ハンカチに手をやった。
束の間、俺は意識を手放しかけた。目の前が真っ白になった瞬間があった。
でもすぐに、オヤジが手を引いてくれるように、ハンカチが目に飛び込んできた。
ぽたりと滴がハンカチに落ちた――俺の涙。
震える声で、一言だけ呟いた。
「うん」
そのまま、子どものときみたいに頷く。
じーちゃんが俺の肩をぐっと、熱い手で握った。俺が背負った業を、じーちゃんも引き受けると言ってくれているみたいだった。同時に、罪の重さをも知らしめてくる。
そのまま二人黙って、暫くの間、オヤジのハンカチを見つめていた。
オヤジの、じーちゃんの、先祖代々の血が体内を巡り、弱気な心をどこかへ押しやっていく、そんな実感が芽生えた直後、俺は武者震いが止まらなくなった。
このままじゃ引きさがれない。
俺はエースだ。どんな逆境でもゴールを決めてチームを救う。それが北畠翔太だ。
「俺、怨霊傾聴師になる。オヤジみたいな怨霊傾聴師になってみせる」
結界を張り直せるぐらいの怨霊傾聴師に、なってみせる。
甚平おじさんを、再び輪廻転生の道へと回帰させることができるほどの怨霊傾聴師になってみせる。
それほどまでの怨霊傾聴師に――俺はならなければいけない!
オヤジのハンカチを、ぎゅっと握り締める。
「翔太、いい顔になったな」
じーちゃんが泣きながら、俺に微笑んだ。
自分でも清々しく感じられるほど、迷いは消え去っていた。
俺は、最近ずっと思っていたことをじーちゃんに尋ねた。
「最近の地震って、脆くなった結界と関係あるの?」
「ふむ……おそらくは、巨大な大怨霊が結界を揺さぶっておる」
じーちゃんが、事の重大さを物語るように、俺を真っすぐに見つめる。
「日本列島の各地で地震が起きておるが、中でも大きな揺れは山口県の壇ノ浦付近と岩手県の平泉周辺じゃ」
その地名って、日本史で習った――。
「察するに、巨大な怨霊の正体は、平安時代末期の源氏か平氏の武将であろう。壇ノ浦は平氏が滅亡した地。平泉は、平氏を討った源義経が死んだと伝えられる地」
「俺、何となく分かった」
だって、俺、声を聞いた。
【……もう……堪忍ならぬ……】
【この……屈辱……。こんな結界……ぬうううっ……】
じーちゃんも、「うむ」と俺に頷きを示した。
「おそらくは、源義経か、武蔵坊弁慶など義経に従い平泉で亡くなった武将」
俺もそう思った。
「じーちゃん、もう一人の怨霊傾聴師を見つけるヒントはないの?」
「おまえと同い年の、空想癖の強い女の子じゃ」
「え?」
「もう一人の怨霊傾聴師は、代々、空想を好み、それを活かした傾聴をすると伝わっておる。空想に耽る際はまるでネコのように瞳をきゅーっとさせるとも。また、二人の怨霊傾聴師は同じ年に生まれる」
それ、見つけるのは不可能です。とてつもなく無理です。
さっきまでの緊張感がふつっと切れる。
ふと、あることを思いついた。ちょっとだけ逡巡してから、じーちゃんに尋ねる。
「じーちゃんが結界を張り直せばよかったんじゃない?」
「……わし、あんまり優秀じゃなかったのよ」
くるりと踵を返しトイレに向かうじーちゃんの背中が丸まった。
え?
おどろおどろしい声が聞こえたと思った矢先、ぐらりと来た。
また、地震。
二階の俺の部屋が揺れやすいのだろうか。最近、緊急地震速報ばかりを聞いている気がする。
古い木造一軒家だから、耐震性自体に問題があるかもしれない。
階段をギシギシ鳴らして一階のリビングルームに降りていく。
じーちゃんがカーペットにちょこんと正座して、テレビで時代劇を見ていた。
さっきの地震に気づいていない?
……いや、平然としているフリに見える。
俺、テレビが見たいんだ。土曜の夜八時は俺優先って、何度言えば分かってくれるかな。
「じーちゃ――」
声を出している途中、テレビ画面の端に、
【山口県で震度5強】
とテロップが表示された。
山口県?
俺が住んでいるのは千葉県だ。
震源地が山口県で、千葉県も揺れるなんて広範囲すぎないか? 千葉県は震度4だ。
『どうもこうもあるかぁあっ!』
テレビ画面では、今から800年くらい前にいたとされる、武蔵坊弁慶が薙刀を振り回している。放たれた矢を何本かばさばさと斬り落とすも、うち一本が弁慶の身体に突き刺さった。
『ぬおおおっ!』
血を吹きながら弁慶が凄まじい形相で呻く。かっ、と開かれた瞼は歌舞伎を連想させた。
めちゃくちゃ痛そうで迫真の演技。俺としては主演男優賞をあげたいぐらい。
それにしても、最近、弁慶のネタが巷に溢れている。
弁慶が登場人物の小説、マンガ、ドラマ、映画、コマーシャル、ミュージックビデオ……それらは売り上げ何十万部とか、視聴率何十%などと、ネットを見るたびに絶えずヘッドラインで目につく。
萌えキャラにデフォルメ化された弁慶グッズ『べんけー様』までヒットしているほどだ。学校でも『べんけー様』のスマホグッズや缶バッヂを持ってる人がたくさんいる。
今の弁慶は、アイドルだ。推して推して推しまくられている。
地震・雷・火事・オヤジ。
身近にある怖いものの例え。ここまでテレビや映画、ファッショングッズに弁慶が出てくると、地震・雷・火事・弁慶だ。
ちなみに、俺のオヤジは全然怖くなかった。『べんけー様』も怖くない。むしろカワイイぐらい。
『そんなものでそれがしを倒せると思うかぁあっ!』
絶叫した弁慶が、薙刀を地面に突き立てる。直後、おびただしい数の矢が、弁慶の体を貫いた。
弁慶の立ち往生シーン。
この時代劇の最大の見せ場だ。ここで、このドラマの評価が決まると言っても差し支えない。
それにしたって――
主君の源義経がこもる館を守るために、弁慶がその身を盾にしたまま死ぬ……そんなことは果たして可能なのだろうか? 矢が刺さり死んだら、立ち続けることは不可能だ。
このやりすぎ感に、俺は弁慶がちょっとかわいそうに思えてきた。何十年と定番になっている演出に、こんな感想を抱く俺がおかしいのだろうか。
【この……屈辱……。こんな結界……ぬうううっ……】
ん? 近所で誰かが呻いている。それにしては、すごく近く、まるで脳内に直接声を流し込まれたみたいに。
「――っ!」
また揺れた。さっきよりも大きい。緊急地震速報が間に合っていない。
テレビで地震速報が流れる。
【岩手県で震度6弱】
岩手?
西日本の山口県で震度5強。今度は東北の岩手県も震度6弱? 日本列島全体が揺れているのか? こんなことは初めてだ。
じーちゃんはテレビ画面に目を向けたまま固まっている。歳をとっても、やっぱり地震は怖いんだな。
「地震、すごかったね」
話しかけたけど、じーちゃんは振り返らない。
もっと大声を出すか。俺は大きく息を吸いこんだ。その途中、じーちゃんがまるで首だけをぐるりと回したように、こっちを向いた。
「ひっ!」
妖怪みたいに振り返らないでくれ。
「翔太……」
じーちゃんが俺の名前を呼んだ。それっきり、黙ってしまう。唇がわなわな震えている。
俺も口を閉ざしたまま、じーちゃんと向き合う。五秒、十秒、もっと長い時間を見つめ合い、じーちゃんがふいと目をそらした。俺はひそかにホッと息を吐く。
「……ああ、何でもない。歌番組を見たいんじゃったな」
じーちゃんが俺にテレビのリモコンを渡した。その手先が細かく震えていた。歳とったな、じーちゃん。
テレビ画面では、義経がこもる館が炎に包まれていた。
立ち往生した弁慶の巨大な影が、爆ぜる火の明かりを受け大きく濃くなりながら、エンドロールが流れていく。静謐な感動を誘う笛の音がエンディングミュージックとなり、ゆっくりと身に染み入る――
それから一か月が経ち、季節はまもなく初夏を迎えようとしていた。
高校三年の俺はこの日、十八歳の誕生日を迎えた。
「んしょっ!」
誕生日だろうと俺の日課は変わらない。
まずはジョギングから。
俺はサッカー部のエースストライカーだ。ゴールを決めるにはスタミナが肝心。走り込み不足で試合中に息を切らすエースにはなりたくない。
家を出てジョグしていると、毎度思うことがある。この街は辛気臭い。
特に俺が住むエリアは、昔の戦後復興区画整理という大がかりな開発を経て、今の碁盤の目状の居住区が成立した。
これが、ランナーにとって非常に走りにくい。
二~三軒、戸建ての前を過ぎるとすぐに十字路の生活道路があり、車やバイク、自転車が駆け抜けてくる。それにプラスして、近所の高齢者にぶつからないよう、用心して走らないといけないのだ。
神経を張り巡らせているようで、実はあまり集中せずに走っているときだった。
「ん?」
道路の先に、ぼんやりと光の筒のようなものが降りている。見つめていると、段々とその光度が増してきた。
綺麗だな。
いや、そうじゃない。ここは、こんなプロジェクトマッピングが(おそらく)日本一似合わない住宅地だ。
そう思いながら走り続けていると、次第に光の中から人の姿が見え、その輪郭が濃くなっていく。不審になった矢先、長い包丁を手にした甚平姿のおじさんが、光の筒の中から現れた。
じろっと甚平おじさんが俺を見た。標的を定めたみたいに。
え? 刹那、心臓がバクバクと暴れだす。
周囲を見渡してみるも、誰もいない。助けを呼べるだろうか。心臓がはちきれそうだ。このまま進むことに躊躇を覚えた。
俺を凝視する甚平おじさんの表情は剣呑としていた。頬がこけた青白い顔、血走った目。誰が見ても、普通じゃない。
【……成仏……成仏】
不気味な声が、ふつりふつりと聞こえてくる。
【……成仏】
鳥肌が立った。
古い住宅街特有の庭木の薫風を吸い、爽やかにジョギングをしていたはずなのに、俺は今、修羅場に遭遇している。
ふらりと一歩前に踏み出す甚平おじさん。すぐに、迷いのない足どりで俺に突進してきた。
剥きだしの刃が鈍い光を放つ……長い。よく見ると包丁じゃなくて、日本刀だ。
甚平おじさんが駆ける足を速める。その迫力は、駅で見かけるサラリーマンが醸し出せるレベルを超えていた。古武術の達人のような圧だ。
通り魔? 冗談じゃない。十八歳の誕生日に非業の死を遂げる感涙映画の主人公にはなりたくない。
その場でターンして、俺は全力ダッシュで逃げる。現役サッカー部高校生の走力をなめるなよ……って、「げ!」
甚平おじさんをぶっちぎるどころか、追いつかれていた。
【成仏……させてください……】
その声は、凄みとともに悲哀まで混じっていた。虚ろな表情が恐怖を煽る。走る俺の息が激しくあがっているのに対して、甚平おじさんは息を荒げていない。むしろ口を閉じたままだった。では、声はいったいどこから出ているのだ?
「そんなこと俺に頼むなよっ!」
思わず返答すると、甚平おじさんの顔つきが急変した。目を逆立て、日本刀を振りかぶる仕草を見せた。
咄嗟に俺は手を甚平おじさんに向ける。そんなことをしても、刃物でスパッとやられるだけなのに。これが防御反応というやつか。
そのとき、手をかざしながら古めかしい言葉を口ずさんでいた。
「我、今まさに滅を選ぶ」
どうしてこんな言葉を口にしたのか自分でも分からない。脳裏にパッと閃いた言葉だった。
と――いきなり、俺の掌に熱がこもった。
直後、甚平おじさんが虹色の光に包まれた。
「へ?」
かっと目を見開き、苦悶の表情を浮かべた甚平おじさんと、一瞬目が合った。その眼差しは先ほどとは打って変わり、奈落の底を見るような、希望を失った空虚さで満たされていた。その口が初めて開かれた。
【な……ぜ……】
甚平おじさんが空中に溶けるようにふつりと消えた。
「……」
道路上には俺以外に、誰もいない。何の痕跡も残されておらず、俺を襲った出来事は夢だったのかとさえ思えてきた。
それでも、甚平おじさんが最後に向けたあの眼差しが、俺の脳裏から離れなかった。
無念さ、悔しさ、諦め。抗えない負の感情に絶望しながら、甚平おじさんが消えた気がした。そうして最後の言葉――【な……ぜ……】これは、何故、と言いたかったのだろうか。
膝に力が入らず道端に座り込んだ俺は、暴れる呼吸を鎮めながら、起きたことを反すうする。
『光の筒。
いきなり現れた甚平おじさん(手に日本刀)。
斬られたくなくて手をかざし、記憶にない言葉を口にした。
甚平おじさんが消えた』
自分の手をしげしげと眺める。何の変てつもない掌だ。
朝の陽ざしが煌めいている。今日も暑くなりそうだ。そう、これは普通の日常のはず。
夏の始まりにふさわしい爽やかな誕生日。この現実世界において、俺はどこかマズい領域に踏み入ってしまったのか。
帰宅し、日本刀を持った甚平おじさんに追いかけられたことを、じーちゃんに話した。
こんなときこそ、じーちゃんの人生経験に頼らせてもらおう。
すると、いつも酔っぱらったように上機嫌なじーちゃんが、険しい目つきで俺を見すえた。
「そうか……とうとうこの日が来たか」
じーちゃんが遠くを見つめるように、天井に目をやった。
「翔太。これから話すことは、絶対に、内緒だぞ」
いかめしい顔つきのまま、じーちゃんは背後の襖を開けた。
一瞬、躊躇したのか、じーちゃんの動きが止まった。が、覚悟を決めたように長く息を吐き、古そうな風呂敷包みを厳かに引っ張り出した。それを、俺に渡した。その手は、リモコンを渡してきたときよりも、もっと震えている。
風呂敷包みはかなりボロボロで、あちこちにドス黒い染みがついていた。
「随分と古汚い風呂敷だな」
「バカ者」
じーちゃんから𠮟られるも、ふと冷静に、俺はあることを思い出す。
俺の誕生日プレゼントは?
どーんとおこづかいをもらえると期待を膨らませていた。少なくとも、ジョギングに行くまでは。
「じーちゃん、その、誕生日……」
眉間にシワを寄せて、じーちゃんにアピールする。
こうすると、じーちゃんは俺の感情を読みとって、たまに千円札を握らせてくれる。部活帰りに腹がへるだろう、と。
だけど今日のじーちゃんは違った。古い風呂敷包みを俺にプレゼントした。とてもじゃないけど、この中に俺が欲しい物が入っているとは思えない。手っ取り早く言えば、お金とか。
頑として財布に手を伸ばしてくれないじーちゃん。
財布がしまわれている木製の小さなタンスに熱い視線を送る俺。じーちゃん、気づいてください。
心のこもった邪心が通じたのか、じーちゃんが口を開いた。
しかし、その言葉は、爆弾だった。
「おまえの父は、車の事故で死んだのではない」
「……はい?」
三年前、自動車事故で死んだ、そう聞かされた。
「おまえは、父の死んだ姿を見なかっただろう」
俺は頷く。
「対向車に押しつぶされてぐちゃぐちゃだったから、俺には見せられないって」
家族葬なのに死んだオヤジに対面することさえ叶わなかった。見たいといっても頑なに拒まれた。そういえば、あのとき、俺の心はかなり荒れた。
「嘘だ」
「嘘?」
じーちゃんの顔をまじまじと見る。
しれっとした顔つきで、じーちゃんが、一度、大きく息を吐いた。
俺はこぶしをぎゅっと握る。せり上がるやり場のない感情を、手の中に収めようと必死になる。
「急なことで、おまえに本当のことを話せなかった。なんというか、あれは霊に……殺された」
「はい?」
霊……って。ひょっとして、ボケたか、じーちゃん。ついにこの日が来たのか。
ボケ話に朝っぱらから付き合いたくない。
しかも死んだオヤジネタ。痴呆が進んだにしても、聞く側としてはちょっとひいてしまう。
「じーちゃん、俺、もう行くよ。学校に遅刻しちゃう」
立ち上がる矢先、ぐらりと家が揺れた。
たぶん震度3ぐらいの揺れだ。
それとも、じーちゃんがぶっ飛んだことを口にしたので、俺が動揺しているのか。
「話す時が来た」
じーちゃんが風呂敷の包みを解いた。
中には、風呂敷よりももっと古そうでボロボロな布の服がしまわれていた。ハッピだ。お祭りで係の人が着てそうなもの。それを、じーちゃんが広げた。
まさか、これを俺に着させようとしている? ファッションセンスが微塵にも感じられないこのハッピを。
「これは宿命、いやおまえの番が来た。北畠一族に受け継がれし『怨霊傾聴師』としての」
……今年の俺の誕生日、ヘヴィーすぎ。
*
「北畠家は、千年前から代々、『怨霊傾聴師』を生業としている」
居住まいを正したじーちゃんにつられて、俺も正座をした。
「生業って、オヤジは心理カウンセラーだったろ」
父の顔を思い浮かべる。ちょっと垂れ目の、イヤミな感じが一ミリもない、柔和な顔つき。思春期に突入していた俺でも、オヤジは優しいと思えるほどだった。
「それはな、裏の職業だ。正業は、怨霊の無念をじっと聴き、頃合いを見て成仏を促す怨霊傾聴師じゃ」
それ、正業と副業が逆になってません? いや、そもそも――
「怨霊って、そんなのいるわけない」
「今朝、遭遇したじゃろ」
甚平おじさんに追いかけられたシーンが脳裏を過ぎる。北風が首筋を吹き抜けたみたいに、俺はぶるりと震えた。
「我々一族は、歴史の表舞台に立つことなく、裏で連綿と怨霊傾聴師を受け継ぎ、世に平和と安定をもたらしてきた」
昨日までの俺だったら絶対に耳を貸さない、演説口調の話だ。まだ半信半疑で、俺は質問する。
「ってことは、じーちゃんも怨霊傾聴師だったの?」
「うむ」
めっちゃくちゃドヤ顔のじーちゃん。何でも尋ねてくれオーラが出ているので、俺はストレートに質問する。
「そもそも怨霊傾聴師って、なに?」
じーちゃんがニタッと口角を上げた。ドヤを通り越して気味が悪い。
「怨霊傾聴師とは、長屋王や菅原道真の祟りで疲弊した国土を護るために、千年前、冥府と行き来する小野篁が閻魔と協議のうえに設けた職。古い話だが、概ねそう伝わっている」
じーちゃん、それ丸暗記して、何度も言う練習したでしょ。だから、ニタッと笑ったんだな。
「菅原道真って大宰府に左遷された後、怨霊になったんだっけ」
「天皇家で不慮の死が続き、都に大きな落雷があった。さらにはもっと大きな祟りを菅原道真は引き起こそうとしておったが、それを鎮めた」
だから、丸暗記ぶりがハンパないよ、じーちゃん。
「鎮めたって、誰が?」
「おまえの先祖だ。このハッピが何よりの証拠だ」
じーちゃんは、大事なものを扱う仕草でハッピを指し示した。
「……」
どう考えても、単に古いだけのハッピだ。ドス黒い染みが乾いた血の跡っぽくて、グロテスクにも感じられる。やっぱり、じーちゃんボケたか。そんな話、信じられるわけが――
「信じられんと思ってるようだの」
ニタッと笑むじーちゃん。だから、妖怪みたいで怖いんです、その顔。
「そりゃ、そうじゃない? どう考えても都市伝説でしょ」
「では、確認するが、今朝襲われそうになったときに、翔太は怨霊の声を聞いたか?」
「声? ……ああ、成仏、成仏とかって甚平おじさんブツブツ言ってたぜ」
「やはり……それじゃよ」
じーちゃんが声を低くした。
「わしら一族は、怨霊傾聴師としての能力が開花すると、怨霊の声を聞き、怨霊と話せるようになる。わしも、おまえの父親もそうだった。そのタイミングで、この風呂敷包みが継承者へ引き継がれる。おまえの父もこれを着た」
オヤジも……。少し湿っぽい気持ちになった。おそるおそるハッピに触れてみる。気のせいかハッピが薄い光を纏った気がした。ドクン、と心臓が高鳴った。
「だったら、あの成仏うんぬんの声は」
「まぎれもなく、怨霊がおまえに話しかけてきた」
さらりと言ってのけるじーちゃんの顔つきは、どこまでも真剣だ。
じーちゃんを真っすぐに見つめるも、視線を逸らされることはなかった。これは……嘘じゃない。何よりもこのハッピが、俺の血と共鳴している。血が騒いでいる。
「それで、ここからが重要じゃ」
ごくり。大きな音を立てて、俺は唾を飲みこむ。すると、カタカタとじーちゃんの湯呑みの底がテーブルに当たる音がした。すぐに、細かい縦揺れとなり、地震が発生したことを知る。いつしか、横にも揺れていた。心臓がぎゅっと縮こまる。
「時間がないっ!」
激しい揺れの中で、じーちゃんが怒鳴るように、俺に向けて叫んだ。
「結界がもう限界だ! このままでは、現世が怨霊の祟りで壊滅してまう。翔太、一刻も早く、もう一人の怨霊傾聴師を見つけろ。現世の安寧は、もはやおまえたちでしか成しえぬっ」
◇◆◇◆
授業にまったく集中できない。
当たり前だ。朝っぱらから、あんな話を聞かされたのだから。
あの後、地震がおさまると、じーちゃんはもう一人の怨霊傾聴師について、途切れ途切れに話してくれた。
それによると、もともと怨霊傾聴師は、怨霊を召喚する『召喚士』と、怨霊と交渉する『交渉士』の二人がセットで怨霊の恨みに耳を傾け、その祟りを鎮めていたらしい。俺は『召喚士』の血筋を受け継いでいるようだ。
江戸時代の初期、特に優秀だった二人の怨霊傾聴師が現世に強力な結界を張ることに成功した。これにより怨霊の祟りを未然に防げるようになった。
祟りがなくなり、最初のうちはよかった。
しかし、時が経つにつれて、怨霊傾聴師の二人は疎遠になっていく。いつしか『交渉士』の承継者は行方不明となった。
結界が張られて四百年が経った現在、堅牢だった結界はいつ崩壊しても不思議ではないほど綻び始めている。
事実として、今まで結界ではじかれていた怨霊たちが、少しずつ現世に影響を及ぼすようになってきた。それが、今朝見た怨霊であり、また……俺のオヤジを殺した怨霊であった、とのこと――
正直、気持ちをどう整理すればいいのか、分からない。
スマホで『怨霊傾聴師』を検索しても、何もヒットしない。
じーちゃんによると、怨霊傾聴師の『召喚士』は一子相伝で、能力が子に伝わると先代からはその能力が消えるそうだ。
オヤジが怨霊傾聴師に目覚めたと同時に、じーちゃんは怨霊の声を聞くことも、怨霊と話すこともできなくなったらしい。
図書室へ行ってみるか。
ネットにない情報だから、本で調べるしかない。ということで、俺は昼休みに図書室へと向かっている。
うちの学校はそこそこ進学校だけあって、図書室が広い。蔵書数もそれなりだから、何かヒントになる本があってほしい。
図書室のドアをスライドさせて入室した。
ああ、やっぱりいた。
閲覧テーブルで、せっせと何かを読んでいる女子生徒。俺がたまに図書室に来ると大抵いるから、彼女は相当な本好きなんだろう。
今まではクラスが違うから無視していた。今年度からは同じクラスだ。んー、声かけるべきかな? でも、図書室では静かにしないといけないから、無視でいいや。現状維持ってことで。ちょっと気にはなっているんだけどね……。
目指す棚は、歴史資料棚。
怨霊傾聴師が平安時代から続いているのならば、歴史関係の本を漁るのが手っ取り早い。さすがに、進路関係の本に、職業『怨霊傾聴師』なんて記載はないだろう。
で、歴史資料棚の前で立ち読みすること数十分。
……ない。
見つからない。
「あああああ~っ」
思わずボヤいてしまった。
「!?」
「あ?」
ボヤいた口のまま固まる俺。その視線の先にいる、女子生徒。今年度からクラスメイトの橋本希美。別名クール・ビューティ橋本、って誰かが言っていた。
「よう」
とりあえず挨拶をしてみる。それとも「初めまして」がいいかな。いや、クラスメイトに「初めまして」はないか。
橋本は閲覧テーブルで読んでいた本を棚に戻しに来たようだ。七~八冊を両手で抱えたまま、さっきの俺みたいにフリーズしていた。
いつ溶けるのかと、じーっと眺めていると、彼女が手にしている本も歴史書、しかもどれもが平安時代の本であることに気づいた。
へえ、と思う俺は、自然と言葉がついて出た。
「橋本、ひょっとして歴史好きか?」
俺としては、怨霊傾聴師の手がかりを知りたいぐらいの気安さで訊いたのだが、
「――ひはっ!?」
かけられた呪縛魔法を自ら解くような声を橋本はあげ、俺の前から走り去っていった。
……あの、俺、何か悪いこと言った?
彼女にはもう届かない言葉を胸にしまったまま、俺も小さく呟く。ひはっ!? 女心、難しすぎ。
それよりも、俺に傾聴の才能なんてあるのだろうか? 怨霊どころか、人間の橋本でさえ話をしてくれなかったぞ。
*
「なあ、じーちゃん」
部活から帰った俺は、さっそく怨霊傾聴師について質問する。朝の登校前よりは、ゆっくり話せそうだ。
「怨霊の無念を聴いて成仏を促すって言ってたけど、そんなので祟りは鎮まるの? ほら、陰陽師みたいにバーッって怨霊を消しちゃった方が手っ取り早くない?」
湯呑み片手にじーちゃんの好々爺然とした表情が、一変した。
「とんでもない! 怨霊を消し去ると、その怨霊は成仏できなくなる!」
「成仏って、そんなに大事なこと?」
じーちゃんの目が険しくなっていた。怨霊傾聴師としてお勤めを果たしたからこその矜持がありそうだ。
「ああ、大事だ。輪廻転生の意味は知っておるか?」
「死んだら生まれ変わるぐらいのことは」
「さよう。死んで生まれ変わるためには、一度成仏しなくてはいけない」
重々しく告げたじーちゃんが何かを言いあぐねるように、下を向いた。
嫌な予感がビンビンしてきた俺は、小さな声で確認する。
「じゃあ、怨霊傾聴師が怨霊を成仏させずに、何らかの方法で相手を消滅させたら、やっぱりマズい?」
じーちゃんが物凄い速さで顔を上げ、俺を睨んだ。
「おまえ、まさか!」
「いやいやいや、もしもの例え話……」
俺が手を向けて甚平おじさんが消えたことは、まだじーちゃんには告げていない。脇から汗がダラダラ流れて、脇腹あたりがぐっしょりしている。
「怨霊傾聴師には、禁忌の消滅呪文がある。怨霊に向けて掌をかざし、『我、今まさに滅を選ぶ』と唱えることで、対峙していた怨霊を消し去ることができる」
ズキン。棒で心臓を突かれたような心理的衝撃。
俺は……まさに、それをやった。
ふるふると頭を振りながら、じーちゃんが話を続けた。
「だが、これはやむを得ない緊急事態用の呪文だ。怨霊を消し、成仏の道を途絶えさせると、その魂は輪廻転生の道が断たれてしまう。文字どおり、魂ごと消滅させてしまうからな。それに、唱えた者にも――」
ワキ汗どころじゃなくなった。こめかみから幾筋もの汗が頬を伝う。
二の句が継げず、俺は居間の畳をじっと見ていた。震えそうになる背中を平静に保つのがやっとだ。
甚平おじさんが消滅する、その直前の顔がフラッシュバックする。
気が触れたような目つきだったが、それは俺に縋るしかなかったがゆえの必死さからだったのではないか。それならば、あの時の眼差しが意味するところが分かる。絶望を目の当たりにして、無念のままに消えていった――。
【成仏……させてください】
言葉が俺に重くのしかかってきた。甚平おじさんの業を背負ったみたいに。魂の重みを感じるみたいに。
【な……ぜ……】
息を呑んだ。その言葉が意味するところ……怨霊傾聴師になのに『なぜ』成仏させてくれないのか。
手が震えだす。臀部も、肩も、頭も、体全体が痙攣し、後悔に埋め尽くされていく。
俺は……俺は……何ということをしてしまったのだ。
怨霊傾聴師の子孫として、成仏を支援するどころか、二度と現世の光を浴びられないようにしてしまった。
奥歯を噛み、両拳をぐっと握り込む。爪が手のひらに食いこんだ。
俺は、俺は――
「――太。翔太」
じーちゃんから呼びかけられていることにしばらく気づけなかった。畳を見たまま、顔を上げることができない。
「今だからこそ話そう。おまえの父親が死んだ理由を」
条件反射のようにじーちゃんを見た。顔が上がっていた。
「おまえの父親は、まさに命を奪われかねない緊急事態に陥ってもなお、眼前の怨霊に対して、消滅呪文を唱えなかった。いつか怨霊が成仏し、生まれ変われる日が来るよう願い、父親自らが散った」
視界が涙で曇る。腹の底から冷たさを感じ、座り続けることさえできずに、俺は両手を畳についた。四つん這いの姿勢で、額を畳にこすりつける。抑えきれない衝動が湧いてきた。自分の浅はかさ、オヤジの優しさ、甚平おじさんの諦念、すべてが俺を刺す。きっとこれは、生涯をかけて耐え続けなければならない痛み。
「ああ…………ああああああああ―――――っ!!」
俺は、俺は……とんでもない馬鹿野郎だ。
自らの死を選んでまでして怨霊の成仏を願ったオヤジ。
それに対して、俺は――。
「翔太よ」
じーちゃんの眼差しが、柔らかくなっていた。俺を包み込むように、穏やかな表情を浮かべていた。
ひょっとすると、じーちゃんは悟ったのかもしれない。
俺が――消滅呪文で、怨霊を成仏させずに消したことを。
「もう一人の怨霊傾聴師を探すのじゃ」
「……そんな。俺、怨霊の無念を聞いて成仏させるなんて、できっこないよ」
悔しいけど、本音だった。
安易に引き受けてしまうと、甚平おじさんのときみたいに、魂を消滅させてしまうかもしれない。二度とこの世に生まれないように、俺がしてしまう……。
自分の出来の良し悪しでそれが決まってしまうなんて、肝が縮み、とてもじゃないが荷が重すぎる。あの恨めし気な言葉【な……ぜ……】を再び聞きたくない。
俺は力なく首を振った。
そんな俺を、じーちゃんは責めなかった。
怨霊傾聴師を継ぐときに、じーちゃんも悩んだのかもしれない。
ただ、一枚の手ぬぐいのような布切れを俺の前にそっと置いた。
俺はハッとする。
小学生のとき、家庭科の時間で裁縫をした。その際に、オヤジの名前『はやと』を糸で縫ったハンカチだった。
「このハンカチを握り込んだまま、隼人は死んだ」
じーちゃんが愛おしそうに息子の名前を、俺のオヤジの名前を口にし、ハンカチに手をやった。
束の間、俺は意識を手放しかけた。目の前が真っ白になった瞬間があった。
でもすぐに、オヤジが手を引いてくれるように、ハンカチが目に飛び込んできた。
ぽたりと滴がハンカチに落ちた――俺の涙。
震える声で、一言だけ呟いた。
「うん」
そのまま、子どものときみたいに頷く。
じーちゃんが俺の肩をぐっと、熱い手で握った。俺が背負った業を、じーちゃんも引き受けると言ってくれているみたいだった。同時に、罪の重さをも知らしめてくる。
そのまま二人黙って、暫くの間、オヤジのハンカチを見つめていた。
オヤジの、じーちゃんの、先祖代々の血が体内を巡り、弱気な心をどこかへ押しやっていく、そんな実感が芽生えた直後、俺は武者震いが止まらなくなった。
このままじゃ引きさがれない。
俺はエースだ。どんな逆境でもゴールを決めてチームを救う。それが北畠翔太だ。
「俺、怨霊傾聴師になる。オヤジみたいな怨霊傾聴師になってみせる」
結界を張り直せるぐらいの怨霊傾聴師に、なってみせる。
甚平おじさんを、再び輪廻転生の道へと回帰させることができるほどの怨霊傾聴師になってみせる。
それほどまでの怨霊傾聴師に――俺はならなければいけない!
オヤジのハンカチを、ぎゅっと握り締める。
「翔太、いい顔になったな」
じーちゃんが泣きながら、俺に微笑んだ。
自分でも清々しく感じられるほど、迷いは消え去っていた。
俺は、最近ずっと思っていたことをじーちゃんに尋ねた。
「最近の地震って、脆くなった結界と関係あるの?」
「ふむ……おそらくは、巨大な大怨霊が結界を揺さぶっておる」
じーちゃんが、事の重大さを物語るように、俺を真っすぐに見つめる。
「日本列島の各地で地震が起きておるが、中でも大きな揺れは山口県の壇ノ浦付近と岩手県の平泉周辺じゃ」
その地名って、日本史で習った――。
「察するに、巨大な怨霊の正体は、平安時代末期の源氏か平氏の武将であろう。壇ノ浦は平氏が滅亡した地。平泉は、平氏を討った源義経が死んだと伝えられる地」
「俺、何となく分かった」
だって、俺、声を聞いた。
【……もう……堪忍ならぬ……】
【この……屈辱……。こんな結界……ぬうううっ……】
じーちゃんも、「うむ」と俺に頷きを示した。
「おそらくは、源義経か、武蔵坊弁慶など義経に従い平泉で亡くなった武将」
俺もそう思った。
「じーちゃん、もう一人の怨霊傾聴師を見つけるヒントはないの?」
「おまえと同い年の、空想癖の強い女の子じゃ」
「え?」
「もう一人の怨霊傾聴師は、代々、空想を好み、それを活かした傾聴をすると伝わっておる。空想に耽る際はまるでネコのように瞳をきゅーっとさせるとも。また、二人の怨霊傾聴師は同じ年に生まれる」
それ、見つけるのは不可能です。とてつもなく無理です。
さっきまでの緊張感がふつっと切れる。
ふと、あることを思いついた。ちょっとだけ逡巡してから、じーちゃんに尋ねる。
「じーちゃんが結界を張り直せばよかったんじゃない?」
「……わし、あんまり優秀じゃなかったのよ」
くるりと踵を返しトイレに向かうじーちゃんの背中が丸まった。
