言いふらしたい僕らの話


「末広風雅です。えー……えーっと……」
 入学してすぐの自己紹介。視線を彷徨(さまよ)わせながら、結局そのまま、すとん、と席に座ってしまった末広の姿を、よく覚えている。
「恐竜だろ、恐竜!」
「あー、あの子? たしかにちょっと、目いっちゃってるね」
「やめなよ~。いっちゃってるはさすがに言い過ぎ!」
 周囲のそんな声は、きっと末広の耳にも届いていたと思う。けれど末広は、ノートに向き合い、夢中で手を動かしていた。
 ――恐竜……好きなんだ、あの子。
 二年前に突然できた年の離れた弟は、大の恐竜好きだった。
 そのせいか俺は初めから、末広に謎の親近感をもっていて。仲良くなれたらいいな、なんて思っていた。
 末広は、いつも一人でいる。だから話しかけるチャンスなんていくらでもあると思っていたけど、いつ見ても真剣にノートに向き合っていて、逆に隙が無かった。
 そしたら偶然、席替えで前後の席になれたんだ。
「うっわ、うみんちゅの後ろ、博士クンじゃん!」
「だーから、うみんちゅって呼び方やめろってば!」
「えー、だってかわいーじゃん、だめ?」
「だめだめだめ」
 なんて言っても、どうせ杏里はやめてくれない。他の子とは違う呼び方で、周囲にマウントを取る――そういうことをしてくる子は、なにも初めてじゃなかったし。でも。
「それに、博士クンじゃなくて、末広クン、だろ」
 末広は、そうじゃないかもしれない。博士クンというあだ名に、こっそり胸を痛めていたら嫌だなと思った。
「……まじでうみんちゅっていい子だよね、推せる~」
「推さなくていいでーす」
 いい子、なんて言い過ぎだ。
 相手が末広じゃなかったら、べつに聞き流していたような気もする。
 俺はなんとなく、末広がバカにされるのは嫌だった。
 それは、ハルと末広を重ね合わせていたのかもしれないし、あんなに夢中になれるものがあるのって、素直にすごいことだとも思っていたから。
 周りになんと言われても、それでもずっと、末広は恐竜を描いている。
 その姿は、俺にはすごく、まぶしかったんだ。

 末広は、普段はぼんやりとした目つきで、なにもないところを眺めているような――いや、目つきだけじゃない。ほんとうにぼーっとしていて、あまり人の話を聞いていないところがあった。
「おい、末広? プリント、後ろから回ってきてんぞ?」
 末広の後ろの席のやつは、呼びかけても返事がなかったとかで、末広のことを抜かして俺にプリントを渡そうとしてきた。
 それさえ目に入ってないんだから、すさまじい集中力だ。やっぱり末広の左手は、恐竜を描いていた。
「……あ。ごめん、ハイ」
「いや、なんも書いてねーじゃん……いいの?」
「え? うん、もう間に合わないし」
 いや、きょとん? じゃないだろ。俺のほうが焦るわ。
 まっさらな回答欄に反して、プリントの余白や、裏面には、びっしりと恐竜が描かれていた。あまり見過ぎるのも失礼かと思って、さっと前へ回してしまったけど、すごくリアルで迫力のある絵だった気がする。
 ――でも、なんでちゃんと描かねーんだろ?
「末広って美術部?」
「……違うけど」
「えー、もったいねー」
「…………ん」
 中休みにたまに話しかけてみるけど、会話は一言二言で終わってしまう。
 しかもその顔が、心底迷惑そうなんだ。わかりやす過ぎて、思わずこっちが笑ってしまいそうになるほどだった。
 どうやら末広の世界には、末広と恐竜。それしかいないらしい。
 だから俺もむやみに話しかけるのをやめようと思っていた、ある日のことだ。
 ハルと一緒にテレビで観た恐竜を、末広が描いていた。覚えたてのそれを見て、俺はつい、興奮してしまって。
「まって、それバジャダサウルス!?」
 ――あ、やべ。
 むやみに話しかけないって決めたそばから、なにやってんだ俺。
「こらー、末広。また恐竜描いてんのか」
 なのになぜか先生は、授業中にでかい声を出した俺じゃなく、末広のことを注意する。末広、なんも悪くないのに。あ、いや、授業は聞かなきゃだめだけどさ。
 でも――俺、末広のこの目、いいと思うから。なるべく曇らせたくなかった。
「ごめんな、末広」
 普段はぼーっとうつろな目が、恐竜を描くときだけは、鋭く、熱をもつ。
 末広はすごい。自分の好きなもの、ちゃんと手の中に握り締めて。周りになんて言われても、絶対()くさないように、奪われないように、大事に大事に持ち続けている。かっこいいよ、そんなの。
 ――もっと知りてーな、末広のこと。
「カラオケ行かね?」
「行かねーよ」
 誘いをばっさり切り捨てられても、なんだかそれさえよかった。
 新しい末広の姿を知れたのが、嬉しかった。
 その夜、寝る前に必ず恐竜図鑑を開くハルの隣で、俺はやっぱり末広のことを思い出していた。
「ハル、最近この恐竜好きな?」
「んー? そう! デイノケイルスってゆーんだ!」
 デイノケイルス……ねえ。
 俺はその『デイノケイルス』とやらをスマホのカメラにおさめ、翌朝、末広に見せた。
 きっとハルが喜ぶから――というのは、とんでもない建前で。実際嬉しかったのは、末広と話すネタができた俺のほうだ。
 声をかけたときの末広は、案の定いつもの白けた顔を向けてきたけど。恐竜を見せた途端、目の色が変わる。
「……指か」
 そう言って、くしゃっと笑った顔。初めて見たんだ、あのとき。
「末広が笑ってんの初めて見た! かわいー顔すんのなぁ」
 うっかり声に出ていたけど、末広はそれにたじろいだりはしない。
 むしろ、やり返された。
「うみんちゅの目やべーな」
「は!? うみんちゅ!?」
 こいつ、絶対俺の名前知らないくせに。なんでその妙なあだ名は覚えてんだ。
 中休みに話しかけたときには、心底迷惑そうで、絶対に会話を続けたくないという意思が、ひしひしと伝わって来たけれど。
 たった一つ、恐竜という話題を振っただけで、こんなに心を開いてくれるのか。……末広、なんかいいな。
 そうやって、気を抜いていたときだった。
「うみんちゅのための名前って感じだな」
 末広の何気ないその一言が、グサリと刺さった。
 ――俺のための、名前……。
 俺が二年前に『瀬ノ尾(せのお)』から『朝倉』になったことを、末広は絶対に知らない。知っている奴なら、わざわざ名前に触れてこないだろうし。
 物心ついた頃から母ちゃんと二人きりだったから、ハルと父さんが家族になってくれたことは、ほんとうに嬉しい。家に帰って部屋が明るいのは、幸せだなって思ってる。
 それでも時々ふと、自分が家族の一員になれているのか、不安になるときがあるんだ。理由なんてなく、ただ漠然と。
 だから末広のその一言は、自分がちゃんと『朝倉海』になれているんだなと、自信を持たせてくれた。何も知らない末広の言葉だからこそ――嬉しかった。
「末広、俺たち友達になろ?」
 いや、なんで俺、上から目線なんだよ?
 言ったあとで気づいたけど、わざわざ訂正するのも恥ずかしくて、結局そのままにしてしまった。
 けれど末広はそれ以来、少しずつだけど俺と話してくれるようになった。
 それだけで俺は、学校が三割増しくらいに楽しくなったんだ。

 夏休みに入る、少し前のことだ。
「なんでおまえ、最近博士クンにかまってんの?」
「……え?」
「休み時間もずーっと博士クンといるじゃん」
 放課後遊んだ帰りに、馬渕に聞かれてはっとした。
 たしかに俺、最近ずっと末広といる気がする。
「なんでってべつに、席前後だし」
「へー? あいつ、ちゃんと喋れんの?」
「は?」
「俺、あいつがまともに喋ってんの聞いたことねーわ」
 かちん、ときた次には、謎の優越感でまんざらでもない気持ちになる。最低かよ、俺。
「……さあ。どうだろうね」
「はぁ~?」
 なんでだろう。
 馬渕にも、他の奴にだって、知られたくないと思った。
 末広が、案外おもしろい奴だってこと。笑うと小動物みたいでかわいいんだってこと。たまにびっくりするくらい純粋で、言葉を失うこと。恐竜を描くときの、熱い視線。
 なにも教えたくない。知られたくなかったのに。
「おい、スエ~」
「なに」
「おまえ、もうちょっと愛想よくしろよ!」
「なんで馬渕に愛想よくしなきゃいけないんだよ」
「はぁー!?」
 夏休み中、馬渕に誘われてバイト終わりに近所のファミレスに出向いたら、なぜか末広がいた。
 しかも『スエ』とか呼ばれてるし。いつの間にそんなに仲良くなったわけ?
「あ! 朝倉っ! こっちこっち!」
 俺を見つけて、大きく手を振って合図してくれる末広。
 もうここにいるので、そんなに大きな身振り手振りはいらないんだけど……なんなの、鬼かわいい。
 けど、ちょっとむかつくな。だってあいつ、この前図書館で俺に『好き』って言ったくせに。俺じゃなくて馬渕と遊んでんのは、どういうことだ?
「……なんで末広いんだよ、言えよ~」
 おもしろくない気持ちを悟られないよう平静を装いつつ、馬渕の肩にガチめのグーパンをお見舞いすると。
「いやこいつさ、俺の誘いは断ったんだぜ。で海のこと誘って、それ言ったら、やっぱ行く! とか即レスしてきやがって」
「いった! まじでデコピンやめろ!」
 ああそうですか、気安く触れ合う仲なんですか、はいはい。
 とはいえ馬渕が話してくれたそのエピソードは、俺のおもしろくない気持ちをかき消すには十分すぎた。
「じゃ、俺、末広のとーなりっ」
「ん!」
 るん、とした目で見つめられると、悪い気なんてしなかった。
 自分にこんな顔を向けてくれるようになるなんて、数か月前までは思いもしなかったのに。今ではすっかり、見慣れたものになりつつある。
「あっは、なにおまえ、海に懐きすぎだろ! 犬みてーだな」
「いいから馬渕、メニュー取ってよ」
「取ってください、な」
「馬渕に敬語を使う義理はない」
「生意気だな、まじで!」
 ぎゃいぎゃい言い合う二人の姿に、胸がざわつく。
 ぼーっとして、どこを見ているのかもわからないような目。話しかけたら迷惑そうに眉をひそめる顔。今、馬渕に向けているしれーっとした表情も。もう俺には見せてくれない。
 それはいいことだと思う。末広と友達になれたってことだと思うから。
 なのに――なんか、やっぱり、おもしろくない。
「……末広、なに頼んだの」
「へ? あ、これ。ジュラシックバーグ。期間限定なんだって」
 ぴたっと顔を寄せても、末広はよけずにそう教えてくれた。
 動揺なんてこれっぽっちも見えないのが、ちょっと悔しい。
「ジュラシックバーグって、よくそんなドンピシャなのあったな」
「な! 馬渕が教えてくれたんだ」
「そーそー。CMで見て、ぜってースエが喜ぶなって思って」
 はぁ? なんだよおまえ、馬渕。そんなキャラじゃないだろうが。
「それは……ありがと、馬渕」
「いーえー。いつでもそうやって素直にしとけよな」
「いちいち一言多いんだよ!」
 あーあーあー。
「え……どうしたの、朝倉?」
「え?」
「腹減り過ぎておかしくなった?」
「なにが……?」
 二人揃って、怪異を見るような目でなんだよ?
「いきなり、あーあーあーってうなってたじゃん」
「……俺が?」
 末広はこくりと頷いたあと、けらけらとかわいく笑いだす。
「朝倉、やっぱおもれーな」
 ぐう……っと生唾と一緒に、よくわからない感情も呑み込んだ。
 なんだその顔。そんなかわいい顔するな。馬渕も見てんだぞ。
「……ふーん?」
 末広のかわいい笑い声の合間に、妙に(いぶか)し気な声が聞こえた気がする。
 けど俺は、それには気づかないふりを貫いた。
 ……だって、どう考えても面倒な予感しかしないもん。

 それから末広との予定は合わないまま、あっという間に夏休みが終わった。こんなことになるなら、バイトなんか始めるんじゃなかったと何度も後悔した。
 とはいえ学校が始まれば無問題だ。これでやっと毎日末広に会える――そう思っていたのも束の間。二学期早々の席替えで、末広とは席が離れてしまった。しかもよりにもよって、正反対の場所だ。
 けれどなにより最悪なのは、末広の前の席が、馬渕だということ。
「海、交換してやろっか?」
 あの日から馬渕は、俺が末広のことを好きだ、というていで接してくるようになって、俺はちょっと……いや、かなりむかついていた。
 自分のなかでもまだ不確かな気持ちを、わかったような顔されたら誰だって嫌だろ。
「……いい、ずるはだめだし」
 と強がった次の瞬間には、とてつもない後悔が押し寄せてくる。
 やっぱりここは、素直に頷くべきだったかもしれない。
 せーのでくじ引きの紙を開いたとき、しょぼん、として見えた末広の顔が心に浮かんでくる。
「だって、スエ。残念だったな~」
「ずるはだめだろ、そりゃ」
 ……あれ? 案外あっさり引かれてしまった。
 いそいそと席の移動を始めようとする末広は、いつも通りだった。さっきしょぼくれて見えたのは、ただの俺の願望だったらしい。
「じゃ、な」
「ん」
 別れるとき、俺はいつも通りの笑顔を意識してみたけど、うまく笑えてたか自信はない。なのに末広は――。
「それはモササウルス。海にいる」
「そりゃわかるよ、海にいるのは! 脚ねーもん」
「おまえがなにって聞いたんだろ……!」
 馬渕と、それはそれは楽しそうに恐竜話に花を咲かせていた。
 ……あの場所、俺のだったのに。
「うみんちゅ、よろしく~!」
「朝倉じゃーん! これで授業当てられても安心だわー」
「……ははっ、よろしくー」
 周りにどれだけ友達がいたって、あんまり楽しくない。上手く笑えない。
 俺は末広と過ごしたあの場所に、ただただ戻りたかった。

 けれど冷静になって考えてみれば、末広に友達が増えるのは、きっといいことだ。自分と友達になってもいいことがない、なんて、もう二度と末広に言わせたくないし。馬渕が損得で友達を選ぶような奴じゃないことも、もちろん知っている。
 だから、末広と馬渕が友達になるのは喜ぶべきことのはず……と、頭ではわかっているんだけど。
「なー、スエのそれ、うまい?」
「べつに普通」
「一口ちょーだい」
「はぁ? やだよ、てか口つけてるし」
 あいつら最近、二人だけで昼食ってる。
 席替えした当初は二人のところへ出向いていたけど、目の前でああいう気のないやりとりを繰り広げられると、無性にいらついた。
 それで足を運ばなくなったら、それっきりだ。
 なんで末広、俺のことは呼びに来ないんだよ……とか、思わんでもない。
「ねー最近のまぶちん、なんで博士クンとつるんでんの?」
「しらねー。席近いからじゃん? あと博士クンじゃなくて、末広な」
「まだ言うの、それ!」
 それはこっちのセリフだ。いい加減そのあだ名やめろっての。
「せっかくうみんちゅが戻ってきてくれたのにさぁ。今度はまぶちんがいないっていうね」
 杏里は不服そうに二人を見やるけど。それにまったく気づかないほど、あいつらの会話は盛り上がっているらしい。
「博士クン、そんなおもしろいの?」
「へ?」
「うみんちゅも一時期めっちゃかまってたじゃん!」
「……べつに、普通だよ」
「普通~? あの博士クンが普通はないっしょ~」
 杏里は興味なさげにクスクス笑っていたけど。ほんとうにお願いだから、もうこれ以上誰も、末広に興味を持たないでほしいと思う自分がいた。
 俺が見つけた末広の笑顔を、これ以上誰にも知られたくない。
 ……おかしいだろ、こんなの絶対。

「朝倉、一緒に行こ?」
「……ん!」
 末広は、週に一度の選択授業で美術室へ移動するときだけは、俺を誘いに来てくれる。それがたまらなく嬉しい。
 末広が俺の隣にいてくれると、なんだか安心する。
「末広?」
「ん?」
 つぶらな瞳は、きょとんと俺を見つめる。
 ……いや、当たり前だろ。呼んだの俺なんだから。
「ふはっ……」
「え、なに」
 この目――ハルが俺を見上げるときの目に似てる。
 純粋に『なに?』と問いかけるその瞳が、愛くるしいなって思う。
 かわいさに思わず口元が緩んでしまったけど、それでも決して俺の顔色を窺おうとしないところが、末広のいいところだ。
 たとえば俺なら、きっと愛想笑いを返してしまうのに。末広はすんっと目を細めて俺を見やっている。
 末広は誰に対しても態度を変えないし、相手の態度に自分を左右されないのって、地味にすごいと思う。
「今日もかわいいなって思っただけで~す」
「またそれだよ……ほんと眼科行けって」
「それ自分で言うなよ、自信持ってこ?」
「いらないいらない、そういうの」
 ぽん、ぽん、ぽん。なんの気なく返ってくる返事が、楽しい。嬉しい。
 末広と二人だけで話せるこの時間が、ずっと続けばいいのに。

 そんな気持ちとは裏腹に、末広と二人きりになれる時間はほとんどなかった。
 だって、いつも末広の隣には馬渕がいる。……こんなことなら、あのとき意地張らずに、席を交換してもらえばよかった。そんな後悔、今更だけど。
 そしてついに、俺は末広を怒らせたんだ。
「だから意味わかんねえって言ってんの!」
 聞いたことのない末広の大声が、廊下に響き渡る。
 いつもやられてばかりだから、たまにはやり返したいという、ちょっといじわるな気持ちだった。
 少しくらいヤキモチ妬いてくれないかなっていう、俺のつまんない意地。そのせいで末広にこんな苦しそうな顔をさせてしまった。
「俺も同じだ……。ずっと朝倉と二人になりたかったんだ」
 なのに末広は、そんな俺に呆れることもなく、あまりに素直に気持ちを返してくれた。
 小さく丸まったダンゴムシみたいな末広を、このまま抱えてどこかに連れ去ってしまいたくなる。こんな姿、他の奴に見せてたら、ほんとうに許せない。
 絶対嫌だ。絶対俺だけにしろよ、末広――。
「遊び行こ、二人で」
 友達同士なら、なんてことないたった一言。
 どうしてそれを、上手く言えずにいたんだろう。
 どうしてこんなにも、心臓がうるさいんだろう。
 恋なんてよくわからない俺にとって、その答えを認めるのは、まだ少し怖かった。

 念願だった末広と二人きりの時間は、母ちゃんのお人好しによってぶち壊しになってしまったけど。ハルと末広のツーショットはとてもいい。
 うん、とても――。
「ふーが!」
 だけど、名前呼びだけはだめだ。いくらハルでも、許すわけにはいかない。
 俺だってまだ『末広』って呼んでいるんだし、あの馬渕でさえ『スエ』だぞ。
いきなり名前呼びだなんて、看過できるわけがない。
 俺とハルがそんなやり取りをしている間も、末広は一生懸命になにかを紙に描き続けていた。
 あの目――好きだな、やっぱ。かっけーんだよな。
「えーっ! ふーがやばい! おにいちゃん、みて!」
 そう言ってハルが奪い取ったそれに描かれていたのは、思わず目を逸らしたくなるような、嘘つきの俺だった。
「だめ」
 瞬間的に、そう言葉にしていた。
「は? まだ途中なんだけど」
「これでいい、これ以上はだめ」
 俺は、末広に嘘をついている。
 ハルは、俺のほんとうの弟じゃない。血の繋がった弟じゃない。
 なのに末広は、俺とハルをまるで本物の兄弟みたいに似せて描いてくれていたから。……罪悪感に押しつぶされそうだった。
 厳密には、嘘とは言わないのかもしれない。聞かれなかったから言わなかった、それだけのことだけど。
 普通は、弟と血が繋がってるの?なんて疑問にも思わないだろうから、ちょっと厳しい言い訳な気もする。
「おにーちゃん、ふーがおこってるよ」
「んー……でもこれは、だめ」
 再婚とか連れ子とか言うと、周りの空気はほんの一瞬、かたくなる。
 そりゃそうだと思う。よくある話だけど、実際自分の周りにそう転がっている話でもないと思うから。今までは、特にそれを気にしたことはなかった。
 ハルは俺のかわいい弟だし、父さんは俺のたった一人の父さんだと思ってるし。だけど――末広にだけは、大変そうとか、不憫だなんて、思われたくなかくて。ハルの話を自分からしたくせに、どうしてもこのことは言い出せなかったんだ。
 それがこんなふうな形で返ってくるなんて、思ってもいなかった。
「見たまんま描いたって。それに、朝倉はいいお兄ちゃんだよ」
 あまりにもまっすぐな目で末広がそう言ってくれるから、素直に信じたい気持ちと。それでも頭とか撫でてくるもんだから、やっぱり気を遣わせてるのかもという不安と。色んな気持ちが交差していたときだ。
「先輩だから褒めてやってんの、毎日お兄ちゃんやっててえらいねーって」
 お兄ちゃんやっててえらいね――?
 末広の言葉が、勝手に脳内でリピートされる。
 なにが、えらいね、だよ。先輩って言ったからって調子乗んなよな、まったく……って、言ってやりたいのに。どうしても上手く声にならない。
「……はー?」
 どれだけ茶化そうと頑張っても、どんどん、どんどん胸の奥が熱くなってくる。
 末広って、出会った頃からこうだ。
 俺が心の隅っこに追いやって見ないふりしている気持ちを、軽くすくいあげてしまう。
 救われる、なんて大袈裟なことじゃないけど。ただ、誰にも見せられないような弱気な自分を、末広だけは許してくれるような気がして。たまらない気持ちになるんだ。
 これ以上頭を撫でられていたら、ほんとうに涙がこぼれてしまう。だから掴んだ末広の手を、離せなかった。くっきりと血管の浮き出た、自分と同じ男の手を。
「くすぐってー!」
 もっと触れたい。この笑顔を、俺以外の誰にも見せてほしくない。末広のことを、独り占めにしたい。そばにいてほしい。隣にいてほしい。
 もう、誤魔化せない。こんな気持ち、友達に抱くわけがないだろ。
 ――俺、好きなんだ。末広のことが。
「あ、もう駅着いちゃう」
 とっさに出てしまった本音が重なって、は? と心の中で続けた。
 俺とは違う意味だって、わかってる。けど、隣を歩く末広は尻尾の幻覚が見えてくるくらい、ご機嫌な様子だったから。ほんの少しだけ、期待してしまったんだ。
「じゃー……恋人繋ぎでもしちゃう?」
「なに言ってんの、するなら友達繋ぎだろーが」
 ……撃沈。いや、わかってたけど。友達繋ぎってなんだよ、というツッコミは、声にならなかった。
 ただずっと、末広の手首をぎゅっと握って。ぐるぐる駅の周りを歩いていると、ふいに末広が呟いたんだ。なにかを噛みしめるように、ぽつりと。
「……俺、朝倉と友達になれてよかった」
 思わず足を止めそうになって、小さく深呼吸をした。
 いつも一人でノートに向き合って、恐竜しか目に映っていなかったあの末広が。俺と友達になれてよかった、なんて思ってくれてたんだ。
 末広の世界に、間違いなく俺がいる――唯一無二の、友達として。
「ん、俺も」
 この気持ちは、俺だけが持っていればいい。同じじゃなくていい。
 末広の世界に入れてもらえただけで、十分すぎるだろ。
「俺も、末広と友達になれてよかったよ」
 大丈夫だ。ちゃんと言えてる。そう思えてる。
 友達になろうと言い出したのは、俺のほうだ。やっぱりそれじゃ満足できません、なんて勝手だし。
 もしそう言ったら……きっと末広は、俺から離れてく。
 それなら、友達のままでいい。関係性なんてなんだっていいから、俺は末広の隣にいたい。末広の特別でいたい。
 そう、思っていたのに――。
 馬渕と手を繋ぐ末広を見たら、なにもかも忘れて、勝手に足が動いていた。