体育祭が終わり、息つく間もなくテスト期間に入った。それが終われば今度は文化祭、それからまたテスト――高校生の二学期は、結構忙しい。
これまでの陰キャぼっちの俺なら、きっと面倒で、退屈で、しかたなかったと思う。
「スエ、テスト勉強してんの?」
「してない、やばいかな」
「やばいだろ! わりーけど、俺今回は赤点回避するから」
「えー……」
「えー……じゃねえんだよ、ったくスエは相変わらずだな~」
休み時間になってもノートに向き合う俺に、馬渕は呆れ顔を浮かべている。
俺の悪癖は、相変わらずだった。ノートの片隅に恐竜を描く――これまでの俺の人生で、唯一の楽しみだった時間。
けれど今の俺には、この手を止めて、顔を見合わせて話したいと思える人が、何人かいる。
「そのわかったような口の利き方、やめてもろて」
背後から腕が伸びてきたかと思えば、耳元で響くやわらかな声。
「朝倉……!」
その声が聞こえれば、馬渕のことはすっかり頭から飛んで、意気揚々とノートを掲げていた。
「スティラコサウルス描いた!」
「ん、かわいい~。このくちばし? かわい~」
「だろぉ」
ただ一人、俺の悪癖に目を輝かせてくれる特別な人。俺の落書きを、朝倉は相変わらずべた褒めにしてくれる。甘い笑顔を寄せられると、全身がとろけてしまうかと思った。
「……おまえら、どっか違うとこでやってくんねぇ……?」
今にも吐きそうな素振りをした馬渕。こんな甘ったるい朝倉を目の前にして、よく平常心を保っていられるな。
「座る?」
「じゃあここに……」
「いいよ」
「よくねえよ!」
俺の膝の上に乗っかってこようとした朝倉を、馬渕が全力で拒否した。
せっかく朝倉とくっつけるチャンスだったのに……。ちょっといじけた気持ちになってしまう。
体育祭で朝倉への『好き』が友達としての『好き』じゃなかったと自覚してからの俺は、毎分毎秒こんな感じだ。
頭のなかは朝倉のことばかりで、穏やかな大海原にぷかぷか浮かんでるような気分のときもあれば、ほんの些細なことで大しけになって、ひっくり返って溺れてしまいそうになる。
人間と付き合うのは大変だなぁと、しみじみ思うこともある。
けど、そういう不安定さまで楽しめている気がするのは、それが朝倉も同じだと知ったからだ。
体育祭の打ち上げの帰り道、二人でたくさん話をした。
そこで聞いた。朝倉は俺のことを好きでいてくれたけど、友達でいようとしてたこと。それでもなるべく、囲っておこう?と思っていたらしいことも。
「秒で恋人繋ぎ断られたときは、ちょっと凹んだけどな~?」
朝倉はおどけてそう言ってくれたけど、もう俺にだってわかる。
それがどれほど、朝倉を傷つけてしまったか。
「ごめん……だから馬渕にも鈍くさいって言われんだな」
「いま馬渕の話すんな」
むっと唇をとがらせた横顔が、なんだかたまらなかった。
水谷さんといると、すぐに飛んできて距離を取ろうとしてきたことも。馬渕と手を繋いだだけで、見たこともないほど不機嫌になっていたことも。
ぜんぶ、朝倉が俺のことを好きだからだったなんて――そんなのちょっと、ドキドキして、やばいだろ。
「俺も同じだよ。朝倉が女子に呼び出されたら、不安になる。できれば行かないでほしい」
「当たり前だろ、もう行かない。行くわけない」
淡々とそう言って、朝倉の手が俺の手を優しく握った。……朝倉、俺のこと重いとか、思ってないかな。ちょっと不安だ。
「俺ってさ……なんでもすぐ忘れるんだよ。いいことも、悪いことも、ぜんぶ。気づくと忘れて恐竜描いてる。母さんには、なにを言っても響かない、ってよく言われるんだけど」
俺も朝倉の手をぎゅっと握り返して、言葉を続ける。恥ずかしいけど、言うなら今しかないと思った。直したほうがいいなら、善処したいし。
「でも、朝倉のことはそうじゃないところがあって。いいことも、悪いことも、なんか忘れられない。だからこう……いつもの俺でいられないときが多くて。それで解釈違い起こされたらやだから、先言っとく」
「解釈違いて」
あはは、と軽く笑ったあと、朝倉は自販機の前で足を止めた。
それからさりげなく俺の手を引き、向き合う格好になる。
「ないよ。ていうかそれは普通に嬉しい。俺だけ特別、ってことでしょ?」
「いや……まあ、うん。そうっちゃそう」
朝倉ってすごいな。どこまでポジティブなんだ。
「でも、それってきっと面倒じゃない? 俺の忘れっぽいところは、短所でもあり長所でもあると思ってるんだけど」
「まてまて、忘れっぽいが長所になる理由を教えてくれよ」
「は? だって、やなことは早く忘れたほうが、強くいられるじゃん」
ひどいことを言われても、傷つくのはそのときだけ。しばらくすれば忘れてるし。嫌なことだってそうだ。一瞬ぴりっと痛むだけで、そのうち忘れてる。
それってつまり、いつでも強くいられる。無敵ってことでもあると思うから。
「……ん、まあ、そうな。末広はそうやって強くなってきたんだ。えらいな」
「うわでたよ、またお兄ちゃんムーブ――」
「末広」
え、と思ったときには、すぐそこに朝倉の綺麗な顔が迫っていた。
もしかして――と目を閉じた瞬間、こつん、とおでこをぶつけられる。後頭部にはしっかり手が添えられ、逃げられないようにされていた。
「俺が末広に嫌な思いさせたときは、許してもらえるまで謝るから。それまで絶対、忘れないで」
そんな真剣な顔で『絶対』なんて言われると、ちょっと自信がないんだけど。たぶん忘れたくても忘れられないので、俺はこくりと頷く。
「俺が末広のこと傷つけたら、前みたいに大声で怒鳴り散らしていいよ」
「もうやめろって、その話――!」
それ、いつかの放課後に、俺が廊下で朝倉にブチ切れたことだよな?
思い出すと恥ずかしいから、もうあれを擦るのはやめてほしい……。自分でも、自我を失い過ぎてやばかったなって、思っているのに。
「いいんだよ、嫌なことされたら怒って。言い返して。なかったことにしなくていい。俺には全部ぶつけてよ」
そう言って朝倉は、指切りのポーズで小指を差し出してくる。
「約束な?」
「約束って……約束しなくてもそうなんだってば、朝倉には」
「ん、だからこれからもずっとそうでいて。俺の前では強くならないって約束!」
「なにそれ……?」
変なの、朝倉。
こんなこと約束しなくたって、俺は朝倉に対してはかなり粘着してしまうし、強くなんて、なりたくてもなれなかった。そんなの俺らしくないと思うのに。
――それでいい、なんて。朝倉ってやっぱおもれー奴だな。
指切りげんまんをしたら、朝倉はふにゃっと微笑んで、それから俺を抱き締めてくれた。
やっぱり朝倉の腕の中って、ドキドキするのに、すごく落ち着く。
「好きだよ、まじで」
「……っ……んな声で言わないで……!」
「あは、そんな声ってどんな声だよ!」
なんだよ、こいつ。自覚ないのか?
「なんつうかこう……甘えた声だよ」
「あー……そうな、俺、末広に甘やかされたいなぁ?」
「思ってねーくせに!」
と言いながらも、俺も俺で、そんなかわいい朝倉にまんざらでもない気持ちだった。そっと腕を回し、俺に抱き着いたままの朝倉の後頭部を撫でてみる。
「……ふふ……これが末広流の甘やかし?」
「なっ、なんで笑うんだよ! もーやらない!」
「うそうそうそ! もっとやって!」
「やだ!」
腕の中から抜け出そうとすると、抱き締める力がぎゅうっと強くなる。
「だめ。まだこうしてよ」
「だからその声やめろってば……!」
経験値の差がつらい。一生こうして朝倉にもてあそばれるんだろうか、俺の人生……。まあ、それも、悪くないな。
「末広」
低く甘やかな声に顔を持ち上げると、熱っぽい瞳がゆらりと揺れる。
今度こそと俺も目を閉じたら、ほんとうに唇にやわらかなものが触れた。
この世のどんな食べ物よりやわふわな感触に、息が止まる。
俺の唇はきっと、こんなにふわふわじゃないぞ。朝倉、大丈夫かな。嫌な気持ちになってないかな。
ふ、と唇が離れると、朝倉は瞳に熱を宿したまま、不安げに首を傾げた。
「……大丈夫? いやじゃない?」
「え、なんで」
嫌なわけないのに。まだ朝倉は、俺の気持ちを疑っているのか。
こんなに――こんなにうるさい心臓の音、どうして朝倉の耳まで届かないんだろう。この音聴いたら、絶対朝倉だって信じてくれるのに。
だから俺は、真っ赤な顔も、恥ずかしい気持ちも、うまくできないかもという不安も、ぜんぶいとわず、ゆっくり朝倉に顔を近づけた。
そしたら朝倉は察して目を閉じてくれて、俺たちは、二回目のキスをした。
「……意外と手ぇ早いんだな、末広……」
「えっ!?」
手が早い、という感想に、冷や汗がだらだらと流れ落ちる。
「ご、ごめん! したくなったらしていいのかと思ってた! 作法がわかんねーわ!」
慌てふためく俺を、朝倉は貴族のような高笑いで見つめてくる。
「あはは! いいよ、したくなったらすれば。俺もそうするし」
「それは……大体何回くらいまでいいの?」
「そんなしてーのかよ!」
本音を言えば、そうだ。けど、手が早いってきっとよくないことだと思って、唇をしまって我慢したのに。噛み締めた唇を解くように、今度はまた、朝倉からキスをされた。
「……やっぱりそうだ……一生こうやって朝倉にもてあそばれて生きていくんだ、俺は……」
「ふはっ!」
「笑いごとじゃねえよ! どうすんのこれから……!」
きっとこれから先、この道を通るたび……いや、もはや自販機を見つけるたびに。
俺は今日ここで交わした、朝倉とのキスを思い出すんだろうなと思った。
「おまえ、すげー盛り上がってっけどさ。明日になって、やっぱ友達のほうが……とか言い出すなよ?」
朝倉は俺の手に指を絡めて、そんなふうに言う。
「そんなことあるわけねーだろ……」
俺もその手をぎゅっと握り返して、やっぱり絶対、ありえないって確信する。
「友達じゃ、キスできない」
目を合わせたらまたキスしちゃうなって、俺も、きっと朝倉もわかってたから。俺たちは恋人繋ぎのまま、邪念を振り払うようにせっせと歩いた。
「……末広のスケベ」
「遺伝だ、それは」
「なにそれ」
「こっちの話」
黄昏時、高架線の上を電車が走り抜けてく音が耳にさみしい。
俺たちはその日も、やっぱりちょっと遠回りして帰ったんだ。
――なんて、俺が一人、あの日にトリップしていれば。
水谷さんにげんこつをお見舞いされた。
「いった!」
「きもっ、なに一人で笑ってんだよ」
「こら杏里! ……じゃなくて、水谷! 末広に触んな!」
「うざぁ! まじでなんで博士なのっ!? 人のこと出し抜きやがって! このミーハー!」
朝倉は俺のわがままを覚えていてくれて、付き合ってからは水谷さんのことを『杏里』と呼ばなくなった。それが癪に障るようで、水谷さんの俺への当たりは以前よりずっと激しい……。
「ミーハーじゃない、俺は朝倉の――んぐっ」
「言わないで! 黙って!」
「だから触んなって!」
「カオス……」
休み時間、俺の周りがこんなに賑やかになった。
落書きしたくたって、なかなかできない。
それを嬉しいと思う自分が、たしかにいる。
「……楽しいな」
口から水谷さんの手が離れて、解放感からうっかり言葉がこぼれていた。
「楽しかないわ!」
「のわりに、杏里も懲りずに来るもんな」
「それはうみんちゅがいるから……!」
「どーだかぁ」
「まぶちんうざいっ! もう合コン誘ってあげない!」
「はぁ!?」
馬渕と水谷さんがやいやい言い合ってるあいだ、朝倉は机の下の俺の手に、かすかに触れてくる。
「ん?」
俺が首を傾げると、朝倉は「んーん」と言いつつ、優しく微笑みかけてくれた。
まるでそれは『よかったね』とでも言ってくれているように感じて、俺もそれに微笑みを返す。
すると、さっきまで言い合っていた二人が、急に静かになった。どうしたのかと目を向けると、二人は揃って、虚無の顔で俺たちを見やっている。
「……うっざ……まぶちん合コンしよ」
「だな、今すぐしよ」
なんだよ、さっきまでもう誘わないとか言ってたくせに……相変わらず水谷さんの変わり身の早さは、目を見張るものがあるな。
「大体博士のなにがいいんよ、うみんちゅやっぱコンタクトあってなくない? 眼科一緒行く?」
「バカ杏里! それ聞いたら――!」
その馬渕の制止を遮って、朝倉はいつもよりかなり早口で喋り始めた。
「まずフラットなとこだろ。末広は誰に対しても態度が変わんねえのが超いい。それから笑った顔。ハムスターみたいでかわいくね? 枝豆両手で食ってんのまじやばいよ、写真見る? あとなんといっても集中力、探究心、恐竜に対する愛――」
「ちょ、朝倉黙って黙って……!」
このままじゃ、俺の命がやばい。水谷さんの殺気を察して慌てて咎めたけれど……遅かった。
「いってぇ!」
必殺、すね蹴りが飛んでくる。
「大袈裟なんだよ! 男なんだからこれくらいでひぃひぃ言うな!」
「関係ねーよ、すねは誰でも痛い! やってやろーか……」
「はい、もーおしまい」
水谷さんに反撃しようとすると、朝倉の顔が曇る。
「朝倉、今日も一緒に帰ろうな?」
「ん、当たり前~」
けど、俺のたった一言で、その雲を晴らすことだってできるらしい。
それが、嬉しい。
「うっっっざ! もーやだぁ!」
水谷さんにはごめんってたしかに思うのに。人間の感情って、複雑だ。
選択授業の時間、今日は二人一組になって、お互いの似顔絵を描くと先生が言う。
「それじゃあ、二人一組になって――」
「朝倉っ」
「おーい、先生まだ話してるぞー」
「あ、すみません……」
くすくす、小さな声で笑われた。
大人気の朝倉を手に入れるために、俺はちょっとフライングしてしまった。
「いーよ」
アリさんの声で、朝倉が囁く。
「ありがと!」
ゾウさんの声に、先生はもはや呆れていた。
絵を描くことそのものは、得意じゃない。俺は恐竜を描くことだけに秀でていて、りんご一つさえまともに描けない人間なのだ。
「まずはよーく相手の特徴を観察して」
けど、どうしてだろう。朝倉のことだけは、これまでも何度も、描きたい、と思った。
朝倉の綺麗な顔を、じっと見つめる。
スケッチブックに鉛筆を滑らせると、もうそこからは、世界に朝倉しかいなくなる。
きゅっとシャープな顎のラインを描けば、あの場所に唇で触れたときの感触を思い出して、胸がふつふつ熱くなる。
左耳たぶに小さなホクロがあることは、今知った。後ろの席から眺めていたときには、うなじに二つ、ホクロを見つけたっけ。
顔はこれだけ小さいのに、目は人並み以上に大きいな。あの瞳には驚くほど光が集まってくる。それがハルくんと似ていると思った。
やっぱり嘘やお世辞なんかじゃない。二人は似ていると、俺は思う。
あの長いまつ毛に、いつか触れてみたいと願ったり。触れ合ったことのある薄い唇を描くときは、鼓動がかすかに手元を揺らす気がした。
――綺麗だな、朝倉は。
初めて声をかけられたとき。朝倉が俺の落書きに目をまあるくしていたあのときから、結局この印象は変わらない。朝倉は綺麗だ。
絹のようにしなやかで触り心地のよい、やわらかな黒髪を描く。少し伸びたな。目にかかるくらいの長さの前髪は、色気が爆発していてちょっと心配だ。
さっさっ、と鉛筆を滑らせる。
ほんとうに、ただそれだけのことなのに。
それだけが、いつも俺の心を躍らせ、落ち着けてくれる。
持て余す衝動を、すべて呑みこんでくれるんだ。
――好きだよ、朝倉。
朝倉に出会ってからの毎日は、べつにいいことばかりじゃない。
けど、明日に想いを馳せながら目をつむる毎日は、生きてる、って感じがする。
寝ても覚めても恐竜だけが俺のすべてで、もうそれでいいって諦めかけてたのにな。
そんな俺の毎日を変えてくれた人。俺に、人間の楽しさを教えてくれた人。
――好き。大好きだ、朝倉のこと。俺も朝倉の毎日を変えられたりして……は、ないか。
ならせめて、これから先ずっと、幸せにしよう、この人のこと。
「おーい、末広くーん?」
ぱっと目の前に、誰かの手のひらが割り込んできた。
「……へ」
「ほんっと、すさまじい集中力だねぇ……先生感動です、色んな意味で」
メガネをくいっと持ち上げて、感心したように先生は言う。
「すご……」
「写真みたい……」
「やっぱモデルがいいから……?」
気づけば背後には、多くの生徒が立っていた。俺の目の前にいる生徒は、朝倉、ただ一人だけ。
「見ていい?」
潤いのある瞳で、朝倉が聞く。
「あ……う、うん。まだ途中だけど……」
「これ途中なのか」
先生が言うと同時、授業の終わるチャイムが美術室に響いた。
俺ってば、またやった――。
時間を忘れて絵を描いてしまう、それはしょっちゅう親に咎められてきたことだ。過集中というらしく、母さんのことをよく困らせた、俺の悪癖の一つ。
「先生すみません、俺また……」
「いやいや。ようやく本領発揮、だね。末広くん」
「え?」
朝倉が隣にきて、それから自分の絵を改めて目に映した。
「……やば。末広、おまえまじでやべーな。やばいしか出てこないのがくやしんだけど」
朝倉が、俺の肩を抱く。
「俺……こんなの描けんだ」
――恐竜、じゃないのに。
「描けんだなぁ……」
なんだか、他人事みたいに言った。
ほんとうに自分が描いたのか、ちょっと自信を失くすくらい。没頭すると記憶が曖昧になるのも、俺の悪い癖だ。
けど、線一本一本に込めた想いが、間違いなく俺から朝倉への気持ちを伝えてくれている。これを描いたのは、俺以外ありえない。
「朝倉くんへの愛が伝わるじゃない、恐竜とおんなじで」
先生はそう言ったけど。全然違うよ。
「愛してますよ、恐竜より全然」
先生に答えたつもりだったけれど、まだ背後に残っていた生徒たちには「ぎゃあー!」と叫ばれた。
そんなおっかないもの見ちゃったみたいな声、やめろよ……せめて「きゃあっ」くらいでお願いしたい。
「……ん、俺も。すっげー愛してる!」
朝倉は、まだ立ち上がれずにいる俺に思い切り抱き着いてきて。それにはちゃんと「きゃあーっ!」と黄色い声が浴びせられていた。
……うん、まったく複雑な気持ちだ。
その日の帰り道。冷静になった俺は、ただひたすら透明になりたかった。
「あ、あのさ……なんかごめんな。俺ちょっと……いや、だいぶ、ハイになっちゃってたというか……」
「だよな、愛してるっつってたもん」
「それは間違ってないんだけど」
「ぶはっ! まじで末広って最高の彼ピ」
選択授業のあとの昼休み、朝倉と俺を見に、何人もの見物客がやってきた。
馬渕と水谷さんだって、授業が違うのに俺がやってしまった『愛してる』の一件を知っていたし。
「どうしよう、朝倉が変な目で見られる……」
「べつにいーっしょ、どうでも」
「いい……のか、それは」
俺ならそういうの慣れっこだけれども。朝倉はそうじゃないだろ。
「大体、毎日手繋いで帰ってんだぞ? 知ってるやつは知ってるわ、とっくに」
「あ、そっか」
たしかに、なにも考えずに毎日恋人繋ぎで下校してた……。
「俺ってほんと至らないな……作法がわかんねーのよ」
情けない気持ちで懺悔すると、朝倉はまぶしい笑顔で「作法なんてねーよ」と励ましてくれる。
「でもまあ、節度はあるな」
「せつど?」
「あんなとこで愛してるとか言われてもさ? なんもできなくて困るだろ」
「なぁっ……! このスケベ!」
「どっちが」
なんもできなくて、なんて言うくせに、あのときの朝倉、まあまあなことやってたよな。
思い切り抱き着いてきたし、それからそのー……愛してる、って、言われた気もするし。
「……あのとき朝倉も、愛してる、って言った?」
「エ、記憶ニアリマセンケド」
「ぜってー言ってんじゃん! ほんとおもれー男だな」
「おまえには負けるわ!」
けらけらと笑いながら、朝倉は俺の顔を覗き込む。
「だってかわいーんだもん、しょうがねーじゃん」
「かわいくねーっつうの、ほんと――」
と、いつもの返しをしようとしたら。ほんの一瞬、唇にやわらかな感触が押し当てられる。
「おま……節度ってさっき言ってなかった……!?」
「まあまあ。誰もいないし、いーじゃん?」
「いー、のか、まあ、うん。いいか」
「まじでおもれーな、末広。大好きすぎるわ」
そんな涼しい顔で言うな。朝倉にとっては冗談でも、俺にとっては、冗談じゃ済まない。
高架下まで来てしまったので、ここを抜けたら、もうすぐ駅が見えてくる。その焦燥を、なんとか誤魔化していたっていうのに。
キスされて、大好きなんて言われたら、もう、我慢できなくなるだろ。
「……朝倉ぁ」
「ん?」
まだ、もうちょっとだけ。
もうちょっとだけ、一緒にいたい。
もうちょっとだけ、くっつきたいんだけど。
「あ……えと……」
だめだ、さすがに恥ずかしくて、言葉がうまく出てこない。
今日はもう諦めようと思った、そのとき。
「あー……はは、その顔は反則」
「え」
ぐい、と腕を引かれ、そのまま抱き寄せられる。
「朝倉――んっ」
こんな道の真ん中で、キスなんてしちゃだめだろ。そういう気持ちと、この時間は人通りも少ないし、暗くてなにしてるかなんて見えないだろ、というやましい気持ちがせめぎあう。
「ん……っ!?」
突然甘噛みされた唇に、びくっと肩が跳ねてしまった。
こんなキスは知らない。知らないし、これはさすがに、ここじゃだめだろ……!
「ちょっ……朝倉……っ」
「……末広、あーんして」
「はぁ!?」
「……だめか、やっぱ」
そんなわかりやすくしょげないでほしい。ここじゃだめだろ、それは。
「外でそれは……だめなんじゃないの」
「外じゃなかったらいいの?」
「それはいいよ、だって……その……なあ」
「なあ」
「だから笑うなってば!」
まったくずるい。朝倉が笑うと、色んなことがどうでもよくなってしまう。
朝倉の笑顔は、まるで魔法みたいだな。俺が知らなかった感情を、いくつもいくつも与えてくれるんだから。
「ごめんごめん。許して、末広」
「……もっかい、だけ」
「え?」
「もう一回だけ」
離れたくないな、朝倉と。ずっとこの手を繋いでいたい。
朝倉の右手と、俺の左手がくっついて離れなくなって、もう二度と恐竜が描けなくなったとしても。俺は朝倉と離れずに済むほうがいいなって思う。
いや、嫌だけど。究極の二択ならって話で。
「おまえさぁ……その無自覚どうにかしろ、まじで!」
「無自覚じゃない、自覚してる!」
「はぁ!?」
「俺は……俺は、朝倉のこと愛してんの」
さっきもそう言っただろ。恐竜よりもずっと、朝倉のこと、愛してんだよ。
「はーーーーーーーー」
「息ながぁっ」
「これ、一生もてあそばれて生きていくのは、俺のほうだろ……」
朝倉は力なくぼやいたあと、ゆっくり、俺の唇を指でなぞる。
「今日は……いつものだけど。次俺んち来たら、あーんしてもらうからな」
「なんだよ、その予告……!」
「覚悟しとけってこと!」
それから、ぷに、と唇がくっついて、すぐに離れていく。やめろと言ったのは俺だけど、ちょっとだけ名残惜しい。
あーん、のキスなら、もう少し長く、朝倉とくっついていられるのかな。
それなら――うん。やっぱり、悪くない。
「……幸せだな、俺」
恐竜だけしかいない、真っ白な世界。それが俺のすべてだと思ってたのに。
今はそこに、朝倉や、それから――片手で数えられるほどだけど、友達だって。失くしたくない、大切な人たちがいる。人間と意思疎通できるようになるなんて、そんな自分の姿は、想像したこともなかった。
「そんなの俺だって……末広に出会えて、めっちゃ幸せですぅーっ!」
「!? なんだよ、急に大声で!」
高架下なんだから、ただでさえ声が響くっていうのに。びっくりするだろ。
すると今度の朝倉は、やけに真面目な顔で俺を見つめてくる。情緒どうした。
「末広のこと、もっと幸せにするから。これからもずっと」
熱い視線が、突き刺さる。好きだ。意志の強いこの視線も。真っ直ぐな物言いも。朝倉のすべてが、好き。大好き。
……うん、なんか、大声で叫びたくなる気持ち、ちょっとわかるな。
「……恥ず」
「おい、茶化すなよ! まじで言ってんのに!」
「わかってるわ」
わかってるから、恥ずかしいんだろうが。
どんどん赤らんでいく朝倉の耳たぶにつられて、俺まで顔が熱い。もう、際限がない。俺の彼氏、かわいすぎてしんどい。
そのとき、自転車が向かってくるのが見えて、俺はとっさに朝倉の顔を両手で覆い隠してしまった。
「え、なに!? どした!?」
「……朝倉のこと、俺の彼氏だって自慢したいのに、誰にも見せたくないって、なんか変じゃね?」
普段はかっこいい朝倉の、こんなかわいい顔、誰にも見せたくない。たった一秒、俺たちを追い越していく自転車のおじちゃんにだって、見せたくない。
だけど「このメロい男、俺の彼氏でーっす!」って大声で言いふらしたい気持ちも、たしかにある。人間ってやっぱり複雑だな。
「あは、わかる!」
と吹きだした朝倉が、そっと俺の手を握って顔を覗かせる。
「末広が俺のだってことは、学校中……つか世界中に言いふらしたいけど。末広のこんな顔他の奴に知られるのは、ぜってーやだもん」
「そう、それ。まじでそれ」
指をさしあって、笑い合って、それからまた、こそっと触れるだけのキスをする。幸せって、絶対このことだなって思う。
――ずっと……俺、ずっと、朝倉の隣にいたいなぁ。
「ずっと一緒にいような、末広」
「うわ、それ今、俺が言おうとしたのに!」
「あっははは! まじ? じゃあ、せーので言う?」
なんだそれ、すげえバカっぽいけど。
「せーの!」
二人、ゾウさんの声で叫んだ。
「「ずーっと、一緒にいような!」」
誰かに聞こえたかな。聞こえてないかな。どっちでもいいか。
だって、きっと何度だって、叫ばずにはいられなくなる。
世界中に言いふらしたい、俺と朝倉の、幸せな恋の話。
おわり



