当カフェでは、言いにくい話、聞かれたくない話、抱えきれない話、伝える相手がいない話など、いくらでも話してくださって構いません。何せ店員は――
荷台のビールケースが揺れる音に紛れ、メロディを口ずさむ。このメロディは幼い頃一度聴いたきりで、作者も題名もわからない。
でも、いつも自分を励ましてくれた。
(教わったとおり言えば問題ない。「ご注文ありがとうございます、納品書をご確認ください」……)
清水透哉はこの春、東京の私大に入学した。すべり止めだし、人並みの学生生活が送れればいい。ただ先立つものは必要なため、個人酒店の配達バイト中だ。
ラスト一軒は繁華街の居酒屋。早く済ませよう。
ペダルを踏み込み、車の通行できない通りに入る。怪訝な目で見られないよう喉に蓋をした。途端、
「ど、で……ちゃあ、の、あぅあ~ッ!」
子どもの泣き声が耳を劈いた。
五歳くらいのツインテールの女の子が、暮れなずむ空に向かって咆哮している。行き交う人たちはぎょっとしつつも足を止めない。
(……)
きこえているのに平然とはできなかった。
自転車を停める。息を吐く。もう一度吐く。
「ママと、はぐれたの?」
「にゃっ、てないッ! そぉう、いう!」
泣き声がフォルテからフォルティッシモになる。
「おなまえは?」
「……結花」
「結花ちゃんのママは、この建物に、いるんだな」
根気強くさっきの言葉を確認すれば、結花はしゃくりあげながらも頷いた。
彼女が仁王立ちするのは三階建てビルの前。ガラス戸は堅く閉まり、量販店の黒パーカーとデニムを纏う無表情な男――自分を映している。入りづらい。
「スマホは?」
祈るように訊く。結花がスカートのポケットからキッズスマホを取り出す。
画面は暗く沈黙していた。充電切れだ。……はあ。
「一緒に行、ぎょあ」
太腿を掴まれ、「♯ファ」「ラ」の悲鳴が漏れた。稚い指は構わずビル側面を差す。
(扉?)
地下へと螺旋階段が伸びている。扉も内壁も階段も焦茶色で気づかなかった。
成人男子平均の自分の身長より低い扉を、潜る。
結花ごと辿り着いた階下には、ポーチライトに照らされたオークの扉があるのみだ。インターホンも看板もない。手前になぜかパウンドケーキが落ちて……。
否、サビ猫が寝そべっている。おずおず尋ねた。
「ここは、何かの店ですか?」
「にゃあお」
「危ない店ではありませんか」
「うにゃ」
よかった。返答をきき、身構えを解いて扉を押す。
焦茶色の壁も天井もでこぼこして、無数の小さな穴が開いていた。土や木の中みたいだが、カフェだ。
カウンターに一人、壁を向いたテーブル席に二人、女性客がいる。二人は一心にスマホ入力し、カウンターの一人は小声で話していたのを止めた。
カフェらしからぬ空気のせいか、結花が後ろに隠れてしまう。母親のほうから名乗り出ることもない。まさか入れ違い?
(あとは自力でどうにかしろというのもな)
ちょうどカウンターから、髪の表面だけアッシュシルバーに染めた男性店員が出てきた。
息を吸う。もう一度吸う。
「この子のお母さんは、どなたでしょう?」
アーモンド形の目と目が合い――きれいに無視された。
「律っくん、聞いてよー」
律と呼ばれた店員は、奥のテーブルの客に珈琲を運び、しばし雑談に応じる。戻り際にカウンターの客が「おめでと」とスマホを見せれば、長身を屈めて微笑む。
(対応が違い過ぎないか?)
はじめて会うタイプの男だ。呆気に取られていたら、結花に太腿を掴み直される。ぎょあ。
「いた」
強張った二音。とはいえ朗報だ。店内に母親がいたらしい。
「どの人?」
結花は一途で悲愴で奇妙そうな顔で、律の背中を指差す。
(そういうことか)
きき違いをしたようだ。結花が探していたのは「ママ」でなく「パパ」。ならばと律の正面に進み出る。
よく見ると美形だ。顎まで伸ばした髪が様になる。白シャツに黒のギャルソンエプロンという鍵盤みたいな装いは、骨格の美しさを強調している。鎖骨には小さな長方形チャームのついたシルバーネックレス。
息を二度吐く間に余計な観察をしてしまった。
「君の、娘だろう」
核心を衝いた。何があったか知らないが、早く受け渡して肩の荷を下ろしたい。
だが、律はこれみよがしに溜め息を吐く。エプロンからオーダーメモを取り出し、何やらペンを走らせてぞんざいに押しつけてくる。
『オレ二十。不可能』
メモに気を取られた隙に、横をすり抜けられた。
知らんぷりする気か? 母親が歳上なら不可能ではない。
(それに、結花ちゃんは嘘を吐いてなかった)
その結花が、唇を開く。
「ママ」
エスプレッソマシンを操作する律を一心に見つめている。……やはり「ママ」なのか。
無視され続け、再び嗚咽し始めた。
「ぁんで、ど、ちて? も、ぁ、なおっ?」
「いやなわけがない」
ひとまず小さな背中をさする。
「でっお、ま……っ、ぱ、あに、んぁちゃあっ」
「何が、パパに、なったんだ?」
「っま、あぁう~っ!」
(どういうことだ)
事は思ったより複雑だ。一言目の「もうママいやなの?」は、律にぶつける問いとして理解できる。勇敢にも両親を仲直りさせにきたとみた。ただその次の「ママがパパになっちゃった」は、解釈が難しい。
(昔から、どんな声でもメロディとリズムで何となくきき取れるが)
理解できるか、的確に反応できるかはまた別だ。
「あぅあ~っ!」
顔には出ないが困り果てる。目に入れないようにしていた、隅の白いグランドピアノを見ざるを得ないほどに。めったにお目にかかれないベーゼンドルファー社製のピアノだと、本当は一目でわかっていた。
人並みの学生生活を送りたいだけ。弾かない。弾く――。
(もう弾かないと決めたが、仕方ない)
テーブル席のもう一人を接客する律の肩を叩く。他に店員はいない。
「ピアノを、弾いてもいいか?」
律はこちらの無表情顔を見据え、弾けるもんなら弾けばとばかりに肩を竦めた。
許可は得た。ピアノチェアに腰を下ろす。
(はじめまして。どんな音ですか)
癖で挨拶してから、鍵盤のタッチやペダルの具合を確かめる。年代物だが手入れが行き届いている。
洟を啜る結花に微笑みかける。実際は気持ちだけだが。
「なんでも、好きな曲を、弾いてあげる」
「じゃあ『夢見る☆ミラクル』」
間髪入れず、日曜朝の女児向けアニメ「ドリーム☆プリンセス」の主題歌を指定された。幸い地元で歳の離れた女の子たちと交流があったので、知っている。
右手で主旋律を弾く。結花の目がきらめいた。
左手の伴奏もつける。結花の身体が揺れ出す。
「二人ならドリーム☆ミラクル!」
サビでは公式の振りつけを完コピしてのけた。
ピアノは結構音が大きいが、女性客は気にせず律と話していてくれてありがたい。
いつしか律がこちらを見ている。彼の目が逸れないよう、メロディを奏で続けた。
注目されると腹が痛くなる。結花が泣き止むや、そそくさと壁際に避難する。
自分の心音に混じって、くるるう、と小さな咆哮が聞こえた。
「お腹空いちゃった」
結花の腹の音らしい。
「何か、頼むか?」
「オムライス」
またしても即答。律の攻略を中断し、メニューに目を走らせる。
カフェ、カフェ・アロンジェ、カフェ・クレム。フランス風だ。食べ物はプティフールしかない。
「結花ね、いつも、商店街の洋食屋さんで夕ごはん食べるの」
「……うん?」
結花は泣いて踊って発散できたのか、さっぱりと話し出した。
「ママが働いてるんだ。オムライスがいちばん美味しいよ。写真見せてあげる。ってスマホの充電ないんだった」
助かった。重要な情報を得られた。商店街はすぐ近くだ。
「洋食屋さんに、行こう」
空腹を満たし、「ママ」の謎も解けるはず。
だが結花はツインテールが頬にばしばし当たるのも厭わず、首を振った。
「結花ひとりで何でもできるし。ひとりで洋服屋さんに寄って……あっ、見てただけ。見てたら、ママが歩いてたの」
「ふうん?」
「歩くの速くて、『王様の耳はロバの耳』の穴みたいな階段下りちゃって」
言われてみればカフェの入口は、童話に出てくる木の洞に似ている。床屋が秘密を叫ぶあの洞だ。
「ママはパパになって、結花のこと忘れちゃったのかなあ」
なるほど。身振り手振りつきの話から、少しきき取れた。
――「ママ」に会いたい。でも、「ママ」は自分に会いたくないんじゃないかと怖くもある。
(「ママ」は、彼だよな)
律はカウンター内で、悪びれもせずシルバーのスマホを操作している。
改めて踏み出した。
「結花ちゃんは、君に、会いにきたんだ」
一拍、律が目を瞠る。でもすぐ逸らす。
『オレにじゃない』
カフェの静けさを保つためか知らないが、今度はスマホのメモ画面を突きつけてきた。それきり作業に戻ってしまう。
この男はなぜこうも頑ななのだ。途方に暮れていたら、
「結花!」
長身美女が駆け込んできた。
アッシュシルバーのボブで、耳の後ろに丸い髪留めが覗く。モノトーンの服に身を包み、シルバーのスマホを鷲掴む手にネイルは施されていない。
結花は足音高らかに通路を駆けた。美女のスラックスを握り締める。
「ママッ!」
彼女も、「ママ」?
「なんで別の店入ってんの」
「だってママだと思ったんだもん」
美女は律を見て一転、「こりゃしょうがない」という顔をする。
二人は後ろ姿がそっくりだった。カフェの仄暗さだと見分けがつかない。
人違い――だったらしい。
そう理解したときにはもう、律は結花の母親をカウンターへ案内していた。砂糖みたいに甘い笑顔で、結花までハイスツールに抱え上げる。
(美女にはサービスが手厚いな)
押し退けられたが、文句を言う気力もない。
結花が「ママ」と再会できた。それで充分。きこえた声は胸にしまい、オークの扉に手を伸ばす。
「あの小さいおにいちゃんが一緒にいてくれたんだよ」
しかし肩甲骨にぐさぐさ視線を感じた。観念して向き直る。
「邪な、考えは、ないです」
音飛びする中古CDくらい切れ切れに弁明する。結花の母親は眉間に皺を寄せた。
「こっち来て、もう一度言ってもらえます?」
「邪な、考えは、ないです」
カウンターまで出頭して、同じ科白を繰り返す。
「ヨコハマ? な考えはないって」
結花が手振りつきで弁護してくれたおかげで、母親は相好を崩した。
「ヨコシマだったらぶっ飛ばしてるよ。店のインスタにメッセージありがとね」
バシッと背中を叩かれ、よろめく。ぶっ飛ばされたも同然な気がしつつ首を捻る。
(メッセージ?)
SNSはやっていない。オンラインの人間関係まで手が回らない。
そうと知らない結花の母親が、スマホを掲げた。
『ゆかちゃんが「murmur」に来てるよ。買い出しに出た店員とあなたを見間違えたみたい。迎えにきてあげて』
送信者の名は「桜井律」。
続けて見せてもらった洋食店の投稿一覧には、名物オムライスと結花の母親が載っている。
律は結花の話に聞き耳を立て、このアカウントに辿り着いたのだろう。スマホの操作はメッセージを打ち込んでいたのだ。自分と違って機転が利く。
(それならそれで、ひと声かけてくれてもよくないか)
恨めしく見やれば、視線が交錯した。何だ?
律はまたもスマホを弄ったかと思うと、瓶入りシロップ三種類とガムシロップ、炭酸水、細長いショットグラスをリズミカルに作業台に並べる。
フランスのカフェの定番、「シロアロー」――シロップの炭酸水割りをつくろうというのか。
「三つとも使うの? 雨の後の不忍池みたいな色になるよ」
結花が警告してくれた。なのに律は考え直す素振りもない。これが本性。
「……」
頭ではわかっても、そのなめらかな指さばきについ見入ってしまう。
グラスの底に苺シロップと炭酸水を注ぐ。ガムシロップを足す。
氷を二粒入れ、ブルーキュラソーシロップ、炭酸水、さっきの半量のガムシロップを伝わせる。
最後にマンゴーシロップと炭酸水を静かに注ぐ。
シロアローはくっきり三層になった。半分に切ったストローをそっと挿せば完成だ。
「ユメとミラと、マホの色!」
結花が声を弾ませる。青と赤は「ドリーム☆プリンセス」のダブル主人公、黄色は敵に囚われてしまっているキャラのイメージカラーだ。
逆に言えば、母親と再会できても元気がなかった。
(この男も、きこえていた?)
結花は目にも楽しいシロアローをひと口吸うや「おぃしぃ!」と頬を手で包む。涙の痕が、見えなくなる。
「絵の具三色だときれいにならないのに。もしかして、おにいちゃんもミラクル☆パワー使えるの?」
律は片目を瞑り、アニメの設定を否定しない。実際はガムシロップで比重を調節したに過ぎない。
結花を泣かせた男と同一人物とは思えない優しさ。
(いや、美女へのサービスか)
ついでという感じで、自分の前にもミニシロアローを置かれる。はじめて客扱いされたが……。
「甘いものを食べると、腹を下すんだ」
やむをえず押し返す。それはもう哀しいほどに腹がごろごろ痛み出す。結花くらいの頃からずっと。
律は地元を覆う雪より冷たい目になる。だったらカフェなぞ来るなと言いたげだ。
それはそうだ。帰ろう。
「ママ、あのね。あのね……」
しかし結花に太腿を掴まれて動けない。たぶん無意識だ。
「『内緒話カフェ』に来たから内緒話? いいよ」
ここ「murmur」は、「内緒話カフェ」とも呼ばれているらしい。
それで律が聞き役に回り。先客は他の客が泣いてもおいそれと立ち入らず。「王様の耳はロバの耳」の床屋のように話し、すっきりしたら帰っていったのか。
「結花のママするの、たいへん? 結花が呼んでないときも、いっぱい振り返らなきゃいけないでしょ」
結花がぽつぽつ打ち明け始める。木のふりをしていよう。
「さっき、ママ……じゃなかったけど、ママの背中見て、こわかった」
それでもやはり、きこえてしまう。
元気がないのは、走って迎えにきてくれてもまだ、母親は自分に会いたくないんじゃないかと不安だから。
母親は息を呑んだ。しかしすぐ結花を正面から見て、堂々と笑う。
「結花がママを呼んでないときないじゃない。大丈夫、ぜんぶきこえてるよ」
結花の目がきらめく。泡が踊るシロアローを大事そうに抱え、「ミラクル☆パワーすごい」と呟く。
混ぜこぜにせず、勇気を出して伝えたから、不安が弾け消えた。彼女にとって律がつくったプティフールが「ミラクル☆パワー」になったわけだ。
律とは最後まで噛み合わずじまいだが、少し見直した。
地上は夜色に塗り替わっていた。停めた自転車を見て、はっとする。
(配達)
完全に失念していた。しかも急ぎたいときに限って男が荷台を覗き込んでいる。酒をくすねようというのか。
欠伸した男は口髭を生やし、腕まくりして逞しい手根伸筋を見せびらかしていた。威圧され声を掛けあぐねていたら、ポケットのスマホが震える。酒店の主人だ。
『清水ゥ! 今どこいんだよ!』
「通りの入口、です」
『配達はどうした』
「これから、急いで、」
『あーいい。とうに俺が行ってきた。明日から来なくていいよ。だーから学生バイトはよォ』
あっさりクビを宣告されてしまう。事の顛末を説明しようにも、うまく言葉が出てこない。
昔からそうだ。そのせいで第一志望の大学にも落ちるし、誰にも何も届けられない……。
「どうも、大将。話が聞こえたんですが」
打ちのめされていたら、口髭男が会話に割り込んできた。近くで見ると垂れ目が幼いが、それでもいくつか年上だろう。
「不要になったクラフトビール、安く買い取れたりしますかねえ。はあ。代金は元バイトの子に渡しますんで領収書つくっといてください」
(ど)
男は白シャツに黒いベストで、腕にギャルソンエプロンを引っ掛けている。――内緒話カフェの店長か?
店長(仮)が再び「どうも」と言ったら通話終了した。自分抜きで話がまとまった。
「ありがとう、ございます」
「いいんだよ。身体で払ってもらうしな」
店長はゆったり笑った。そういうことか。
「では、酒を下まで運びます」
力仕事で払おうと、ケースから瓶を数本引き抜き螺旋階段へ向かう。ケースごと持ち上げられなくもないが指が痺れる。
(痺れてもいいんだった)
思い直すのと前後して、店長が吹き出した。
「清水だっけ。バイトクビになったろ、うちで働けって意味だよ」
ありがたい誘いに振り返る。正直、一から探し直すのは手間だ。
いや、テンポよく話せないのにカフェなんて。
「無理、です」
すぐ前に向き直る。という挙動不審のせいで、手からつるりと瓶が抜け落ちた。ぎょああ。
店長が指を差し伸べる。と思いきや直前で引っ込めた。大きな音を立てて瓶が路地に転がる。
「あ痛たた」
店長が足首を押さえて蹲った。
「大丈夫、ですか」
「重症だなあ。あ、救急車は呼ばなくていい。だが明日から店に立てるかなあ」
怪我させてしまった。土下座の勢いで頭を下げる。
「僕が、代わりに……なるかはわかりませんが、働きます」
「なるさ。あの癖ありピアノを歌わせたろ」
店長はけろりと笑った。
違和感がふくらむ。怪我は? 癖ありピアノ? 店内で聞いた小さな咆哮は本当に結花の腹の音のみだったか?
「基本時給千二百円。オーナーが気前いいから、音で会話掻き消してくれりゃあ上乗せ」
「……ピアノは、もう、弾きません」
どうにか申告した。
店長がじっと見つめてくる。何も読み取れはしまい。感情と表情筋を結ぶ回路はつながった試しがない。
「いいよ。うちは『聞くカフェ』だから、弾かないピアニストだっていい」
店長は何も訊かず受け入れてくれた。それもピアニストと呼ばれ、ひどく泣きたくなる。
何のことはない。音大受験失敗を機に十五年間続けたピアノをやめたという、よくある話だ。ずるずる弾いていたらいつまでも忘れられない。
だから、弾かない。これからは、聞こう。
「営業は十時から十八時だけど、授業どんくらい詰まってる? 学生だよな」
指を握り込んで気持ちを切り替え、答える。
「夜間の、学部なので、毎日来られます」
「そりゃいい。てことは授業、そろそろ始まんじゃないか」
「……!」
顔には出ないが焦った。二部生の一限に当たる六限は十八時十五分開始だ。
「失礼、します」
「はいよ。ビールは預かった」
バイト先が変わっただけで、人並みの学生生活は守られた。と、思ったのだが。
翌日、「murmur」に出勤する。
「もういい、です。これから、バイトですんで」
下宿から徒歩十五分の道中、地元の恩師から電話がきて弱ったが、到着を口実に切らせてもらった。
ビルは今日も静かだ。外壁にポスター――星斗音大の「女王」のピアノリサイタルの告知がある。
まさに自分がはね返された大学だ。東大より狭き門とも言われる。隣の私大の経営学部の二部が実技試験翌日に試験で学費も安かったので、すべり止めに受けておいた。
まあもう終わった話だと、螺旋階段を下りていく。
(無表情過ぎてクビになりませんように)
出勤時間を指定されなかったので、開店一時間前に来てみた。
「もう入って構いませんか?」
「んにゃな」
今日もサビ猫の許可を得て、オークの扉を押す。内開きはめずらしい。
カウンターの内側に、律がいた。意外にも開店準備に勤しんでいる。
彼の印象はあまりよくない。でも同僚として働くなら、最低限の関係は築いておいたほうがいい。それに店長の姿はなく、仕事内容は彼に訊くしかない。
「……桜、井さん」
声を遮るBGMもないのに、返事はない。
(この男、同性とは口も利かないんだった。ん?)
歩み寄ると、律は鍋でビールとジンジャーエールとレモン汁を温めていた。洋酒シロップにスポンジ生地を浸す、サヴァランが今日のプティフールらしいが。
(あれは昨日の)
自分のせいでビールの消費を余儀なくされたに違いない。居たたまれず目を逸らす。
作業台に乾燥中の琥珀糖もあった。固めた後よく乾かすと表面の糖分が結晶化する――などと現実逃避していたら、奥のガラス棚の反射で律と目が合う。
「っ、」
律が鋭く振り向く。……存在感がなさ過ぎたか。
律はすぐ驚きを引っ込め、何か用? と目で尋ねてきた。整った顔というのは真顔だと迫力が凄まじい。
「挨拶、を」
圧されながらも、鞄から最中の折箱を取り出そうとした。だが律の大きな手に腕を掴まれ阻まれる。
『下向かれるとわかんない』
またもやスマホのメモ画面を突きつけられる。じっと目を――いや、口を見られている。
(もしや。彼は、音が、聞こえないのか?)
女性客とのやり取りからは想像もつかなかった。そうだとすれば昨日一言目を無視されたのも、さっきの反応も辻褄が合う。カフェの扉だって、目で来客がわかるよう内側に開く仕様にしていると取れる。
(この男には、僕の平凡な音を聴かれなくて済む)
もうピアノは弾かないのに一拍よぎった安堵は、首を振って掻き消した。
自分もスマホを出す。口の動きより文を見せたほうが確実だ。昨日の客もそうしていた。
『すみそ 死なぬ イエァ』
フリック入力が壊滅的でない場合に限り。
見兼ねたのか、律がペンとオーダーメモをカウンターに置いた。ありがたく拝借する。
『清水透哉だ。カフェで働くことになった。何を手伝えばいい?』
名前の横に平仮名も添えた。
と、う、や。律の唇が小さく動く。たちまちピアノの蓋が開いてメロディを奏で出したかのように感じた。心地いいメロディだ。
(心地、いい?)
困惑する間に、律は視線を三度左から右へ動かす。自分のスマホをカウンターに置く。
『ふたつ手伝って』
入力される文字を目で追った。
『ひとつは、白ピアノの持ち主を殺した人探し』
今度はこちらが三度、文字列を読み直す。
(殺し……コロシタ。ころしたひと!?)
このカフェいちばんの内緒話ではないか。というかギャルソンの仕事の範疇を越えている。
反射的にボールペンを握ったものの、言葉が出てこない。それでも律は入力の手を止めて待ってくれた。何か言おうとしているとわかってもらえるのは、思いのほか安心する。
『どういう人が怪しい?』
『追い追い教える』
いきなりすべての秘密は打ち明けられないときた。切り込みあぐね、ピアノを眺める。今日も奏でられることなく佇んでいる。
(持ち主は亡くなってたのか)
漠然とした犯人への怖さより、惜しいという気持ちが湧いた。
(でも、人並みの学生生活が脅かされるのは……)
向き直ると、同じスマホ画面を覗き込む律の顔がすぐ近くにあった。まっすぐ射抜かれる。
常連の女性客に協力してもらえばいいと思わなくもない。だがこうも真摯に見つめられては、断れない。
「わかった。もうひとつは?」
自分の言ったことをメモに書き直す前に、律が答えを打ち込む。
『上白糖買ってきて』
ひとつ目との落差に、ほかりと口を開けた。
同時に律のスマホが震える。メッセージ通知が見えてしまう。
『今日カフェ寄るね』
『またお菓子屋さんめぐり? 話聞いてもらえなくてがっかりしたんだから』
『欲しがってた限定アクセ、誕生日祝いに買っといたよ[画像]』
すべて女性からとみた。律は返信でなくメモの続きを打つ。
『砂糖与えとけばみんな機嫌いい。から早く行って』
やはり、噛み合わない。憮然として扉の外へ出る。
信頼されている、と一拍思った。だが頼まれたのは使い走り。律は嘘を吐いていなかった――とも限らない。無機質なデジタル文字だ。
つまり白ピアノの持ち主が殺されたという話も。
「騙されかけた……」
あんな男と二人でやっていけるのか。
かと言って、日中他にすることもない。
(ピアノを忘れるには、他に手のかかるものがあったほうがいいか)
半ば自分に言い聞かせた。
当カフェでは、言いにくい話、聞かれたくない話、抱えきれない話、伝える相手がいない話など、いくらでも話してくださって構いません。
何せ店員は、聞こえませんので。内緒話のお供には、貴方の背中を押すプティフールをどうぞ。
ただし「聞こえないふりをしている声」に限り、見習いにきこえてしまいます。
荷台のビールケースが揺れる音に紛れ、メロディを口ずさむ。このメロディは幼い頃一度聴いたきりで、作者も題名もわからない。
でも、いつも自分を励ましてくれた。
(教わったとおり言えば問題ない。「ご注文ありがとうございます、納品書をご確認ください」……)
清水透哉はこの春、東京の私大に入学した。すべり止めだし、人並みの学生生活が送れればいい。ただ先立つものは必要なため、個人酒店の配達バイト中だ。
ラスト一軒は繁華街の居酒屋。早く済ませよう。
ペダルを踏み込み、車の通行できない通りに入る。怪訝な目で見られないよう喉に蓋をした。途端、
「ど、で……ちゃあ、の、あぅあ~ッ!」
子どもの泣き声が耳を劈いた。
五歳くらいのツインテールの女の子が、暮れなずむ空に向かって咆哮している。行き交う人たちはぎょっとしつつも足を止めない。
(……)
きこえているのに平然とはできなかった。
自転車を停める。息を吐く。もう一度吐く。
「ママと、はぐれたの?」
「にゃっ、てないッ! そぉう、いう!」
泣き声がフォルテからフォルティッシモになる。
「おなまえは?」
「……結花」
「結花ちゃんのママは、この建物に、いるんだな」
根気強くさっきの言葉を確認すれば、結花はしゃくりあげながらも頷いた。
彼女が仁王立ちするのは三階建てビルの前。ガラス戸は堅く閉まり、量販店の黒パーカーとデニムを纏う無表情な男――自分を映している。入りづらい。
「スマホは?」
祈るように訊く。結花がスカートのポケットからキッズスマホを取り出す。
画面は暗く沈黙していた。充電切れだ。……はあ。
「一緒に行、ぎょあ」
太腿を掴まれ、「♯ファ」「ラ」の悲鳴が漏れた。稚い指は構わずビル側面を差す。
(扉?)
地下へと螺旋階段が伸びている。扉も内壁も階段も焦茶色で気づかなかった。
成人男子平均の自分の身長より低い扉を、潜る。
結花ごと辿り着いた階下には、ポーチライトに照らされたオークの扉があるのみだ。インターホンも看板もない。手前になぜかパウンドケーキが落ちて……。
否、サビ猫が寝そべっている。おずおず尋ねた。
「ここは、何かの店ですか?」
「にゃあお」
「危ない店ではありませんか」
「うにゃ」
よかった。返答をきき、身構えを解いて扉を押す。
焦茶色の壁も天井もでこぼこして、無数の小さな穴が開いていた。土や木の中みたいだが、カフェだ。
カウンターに一人、壁を向いたテーブル席に二人、女性客がいる。二人は一心にスマホ入力し、カウンターの一人は小声で話していたのを止めた。
カフェらしからぬ空気のせいか、結花が後ろに隠れてしまう。母親のほうから名乗り出ることもない。まさか入れ違い?
(あとは自力でどうにかしろというのもな)
ちょうどカウンターから、髪の表面だけアッシュシルバーに染めた男性店員が出てきた。
息を吸う。もう一度吸う。
「この子のお母さんは、どなたでしょう?」
アーモンド形の目と目が合い――きれいに無視された。
「律っくん、聞いてよー」
律と呼ばれた店員は、奥のテーブルの客に珈琲を運び、しばし雑談に応じる。戻り際にカウンターの客が「おめでと」とスマホを見せれば、長身を屈めて微笑む。
(対応が違い過ぎないか?)
はじめて会うタイプの男だ。呆気に取られていたら、結花に太腿を掴み直される。ぎょあ。
「いた」
強張った二音。とはいえ朗報だ。店内に母親がいたらしい。
「どの人?」
結花は一途で悲愴で奇妙そうな顔で、律の背中を指差す。
(そういうことか)
きき違いをしたようだ。結花が探していたのは「ママ」でなく「パパ」。ならばと律の正面に進み出る。
よく見ると美形だ。顎まで伸ばした髪が様になる。白シャツに黒のギャルソンエプロンという鍵盤みたいな装いは、骨格の美しさを強調している。鎖骨には小さな長方形チャームのついたシルバーネックレス。
息を二度吐く間に余計な観察をしてしまった。
「君の、娘だろう」
核心を衝いた。何があったか知らないが、早く受け渡して肩の荷を下ろしたい。
だが、律はこれみよがしに溜め息を吐く。エプロンからオーダーメモを取り出し、何やらペンを走らせてぞんざいに押しつけてくる。
『オレ二十。不可能』
メモに気を取られた隙に、横をすり抜けられた。
知らんぷりする気か? 母親が歳上なら不可能ではない。
(それに、結花ちゃんは嘘を吐いてなかった)
その結花が、唇を開く。
「ママ」
エスプレッソマシンを操作する律を一心に見つめている。……やはり「ママ」なのか。
無視され続け、再び嗚咽し始めた。
「ぁんで、ど、ちて? も、ぁ、なおっ?」
「いやなわけがない」
ひとまず小さな背中をさする。
「でっお、ま……っ、ぱ、あに、んぁちゃあっ」
「何が、パパに、なったんだ?」
「っま、あぁう~っ!」
(どういうことだ)
事は思ったより複雑だ。一言目の「もうママいやなの?」は、律にぶつける問いとして理解できる。勇敢にも両親を仲直りさせにきたとみた。ただその次の「ママがパパになっちゃった」は、解釈が難しい。
(昔から、どんな声でもメロディとリズムで何となくきき取れるが)
理解できるか、的確に反応できるかはまた別だ。
「あぅあ~っ!」
顔には出ないが困り果てる。目に入れないようにしていた、隅の白いグランドピアノを見ざるを得ないほどに。めったにお目にかかれないベーゼンドルファー社製のピアノだと、本当は一目でわかっていた。
人並みの学生生活を送りたいだけ。弾かない。弾く――。
(もう弾かないと決めたが、仕方ない)
テーブル席のもう一人を接客する律の肩を叩く。他に店員はいない。
「ピアノを、弾いてもいいか?」
律はこちらの無表情顔を見据え、弾けるもんなら弾けばとばかりに肩を竦めた。
許可は得た。ピアノチェアに腰を下ろす。
(はじめまして。どんな音ですか)
癖で挨拶してから、鍵盤のタッチやペダルの具合を確かめる。年代物だが手入れが行き届いている。
洟を啜る結花に微笑みかける。実際は気持ちだけだが。
「なんでも、好きな曲を、弾いてあげる」
「じゃあ『夢見る☆ミラクル』」
間髪入れず、日曜朝の女児向けアニメ「ドリーム☆プリンセス」の主題歌を指定された。幸い地元で歳の離れた女の子たちと交流があったので、知っている。
右手で主旋律を弾く。結花の目がきらめいた。
左手の伴奏もつける。結花の身体が揺れ出す。
「二人ならドリーム☆ミラクル!」
サビでは公式の振りつけを完コピしてのけた。
ピアノは結構音が大きいが、女性客は気にせず律と話していてくれてありがたい。
いつしか律がこちらを見ている。彼の目が逸れないよう、メロディを奏で続けた。
注目されると腹が痛くなる。結花が泣き止むや、そそくさと壁際に避難する。
自分の心音に混じって、くるるう、と小さな咆哮が聞こえた。
「お腹空いちゃった」
結花の腹の音らしい。
「何か、頼むか?」
「オムライス」
またしても即答。律の攻略を中断し、メニューに目を走らせる。
カフェ、カフェ・アロンジェ、カフェ・クレム。フランス風だ。食べ物はプティフールしかない。
「結花ね、いつも、商店街の洋食屋さんで夕ごはん食べるの」
「……うん?」
結花は泣いて踊って発散できたのか、さっぱりと話し出した。
「ママが働いてるんだ。オムライスがいちばん美味しいよ。写真見せてあげる。ってスマホの充電ないんだった」
助かった。重要な情報を得られた。商店街はすぐ近くだ。
「洋食屋さんに、行こう」
空腹を満たし、「ママ」の謎も解けるはず。
だが結花はツインテールが頬にばしばし当たるのも厭わず、首を振った。
「結花ひとりで何でもできるし。ひとりで洋服屋さんに寄って……あっ、見てただけ。見てたら、ママが歩いてたの」
「ふうん?」
「歩くの速くて、『王様の耳はロバの耳』の穴みたいな階段下りちゃって」
言われてみればカフェの入口は、童話に出てくる木の洞に似ている。床屋が秘密を叫ぶあの洞だ。
「ママはパパになって、結花のこと忘れちゃったのかなあ」
なるほど。身振り手振りつきの話から、少しきき取れた。
――「ママ」に会いたい。でも、「ママ」は自分に会いたくないんじゃないかと怖くもある。
(「ママ」は、彼だよな)
律はカウンター内で、悪びれもせずシルバーのスマホを操作している。
改めて踏み出した。
「結花ちゃんは、君に、会いにきたんだ」
一拍、律が目を瞠る。でもすぐ逸らす。
『オレにじゃない』
カフェの静けさを保つためか知らないが、今度はスマホのメモ画面を突きつけてきた。それきり作業に戻ってしまう。
この男はなぜこうも頑ななのだ。途方に暮れていたら、
「結花!」
長身美女が駆け込んできた。
アッシュシルバーのボブで、耳の後ろに丸い髪留めが覗く。モノトーンの服に身を包み、シルバーのスマホを鷲掴む手にネイルは施されていない。
結花は足音高らかに通路を駆けた。美女のスラックスを握り締める。
「ママッ!」
彼女も、「ママ」?
「なんで別の店入ってんの」
「だってママだと思ったんだもん」
美女は律を見て一転、「こりゃしょうがない」という顔をする。
二人は後ろ姿がそっくりだった。カフェの仄暗さだと見分けがつかない。
人違い――だったらしい。
そう理解したときにはもう、律は結花の母親をカウンターへ案内していた。砂糖みたいに甘い笑顔で、結花までハイスツールに抱え上げる。
(美女にはサービスが手厚いな)
押し退けられたが、文句を言う気力もない。
結花が「ママ」と再会できた。それで充分。きこえた声は胸にしまい、オークの扉に手を伸ばす。
「あの小さいおにいちゃんが一緒にいてくれたんだよ」
しかし肩甲骨にぐさぐさ視線を感じた。観念して向き直る。
「邪な、考えは、ないです」
音飛びする中古CDくらい切れ切れに弁明する。結花の母親は眉間に皺を寄せた。
「こっち来て、もう一度言ってもらえます?」
「邪な、考えは、ないです」
カウンターまで出頭して、同じ科白を繰り返す。
「ヨコハマ? な考えはないって」
結花が手振りつきで弁護してくれたおかげで、母親は相好を崩した。
「ヨコシマだったらぶっ飛ばしてるよ。店のインスタにメッセージありがとね」
バシッと背中を叩かれ、よろめく。ぶっ飛ばされたも同然な気がしつつ首を捻る。
(メッセージ?)
SNSはやっていない。オンラインの人間関係まで手が回らない。
そうと知らない結花の母親が、スマホを掲げた。
『ゆかちゃんが「murmur」に来てるよ。買い出しに出た店員とあなたを見間違えたみたい。迎えにきてあげて』
送信者の名は「桜井律」。
続けて見せてもらった洋食店の投稿一覧には、名物オムライスと結花の母親が載っている。
律は結花の話に聞き耳を立て、このアカウントに辿り着いたのだろう。スマホの操作はメッセージを打ち込んでいたのだ。自分と違って機転が利く。
(それならそれで、ひと声かけてくれてもよくないか)
恨めしく見やれば、視線が交錯した。何だ?
律はまたもスマホを弄ったかと思うと、瓶入りシロップ三種類とガムシロップ、炭酸水、細長いショットグラスをリズミカルに作業台に並べる。
フランスのカフェの定番、「シロアロー」――シロップの炭酸水割りをつくろうというのか。
「三つとも使うの? 雨の後の不忍池みたいな色になるよ」
結花が警告してくれた。なのに律は考え直す素振りもない。これが本性。
「……」
頭ではわかっても、そのなめらかな指さばきについ見入ってしまう。
グラスの底に苺シロップと炭酸水を注ぐ。ガムシロップを足す。
氷を二粒入れ、ブルーキュラソーシロップ、炭酸水、さっきの半量のガムシロップを伝わせる。
最後にマンゴーシロップと炭酸水を静かに注ぐ。
シロアローはくっきり三層になった。半分に切ったストローをそっと挿せば完成だ。
「ユメとミラと、マホの色!」
結花が声を弾ませる。青と赤は「ドリーム☆プリンセス」のダブル主人公、黄色は敵に囚われてしまっているキャラのイメージカラーだ。
逆に言えば、母親と再会できても元気がなかった。
(この男も、きこえていた?)
結花は目にも楽しいシロアローをひと口吸うや「おぃしぃ!」と頬を手で包む。涙の痕が、見えなくなる。
「絵の具三色だときれいにならないのに。もしかして、おにいちゃんもミラクル☆パワー使えるの?」
律は片目を瞑り、アニメの設定を否定しない。実際はガムシロップで比重を調節したに過ぎない。
結花を泣かせた男と同一人物とは思えない優しさ。
(いや、美女へのサービスか)
ついでという感じで、自分の前にもミニシロアローを置かれる。はじめて客扱いされたが……。
「甘いものを食べると、腹を下すんだ」
やむをえず押し返す。それはもう哀しいほどに腹がごろごろ痛み出す。結花くらいの頃からずっと。
律は地元を覆う雪より冷たい目になる。だったらカフェなぞ来るなと言いたげだ。
それはそうだ。帰ろう。
「ママ、あのね。あのね……」
しかし結花に太腿を掴まれて動けない。たぶん無意識だ。
「『内緒話カフェ』に来たから内緒話? いいよ」
ここ「murmur」は、「内緒話カフェ」とも呼ばれているらしい。
それで律が聞き役に回り。先客は他の客が泣いてもおいそれと立ち入らず。「王様の耳はロバの耳」の床屋のように話し、すっきりしたら帰っていったのか。
「結花のママするの、たいへん? 結花が呼んでないときも、いっぱい振り返らなきゃいけないでしょ」
結花がぽつぽつ打ち明け始める。木のふりをしていよう。
「さっき、ママ……じゃなかったけど、ママの背中見て、こわかった」
それでもやはり、きこえてしまう。
元気がないのは、走って迎えにきてくれてもまだ、母親は自分に会いたくないんじゃないかと不安だから。
母親は息を呑んだ。しかしすぐ結花を正面から見て、堂々と笑う。
「結花がママを呼んでないときないじゃない。大丈夫、ぜんぶきこえてるよ」
結花の目がきらめく。泡が踊るシロアローを大事そうに抱え、「ミラクル☆パワーすごい」と呟く。
混ぜこぜにせず、勇気を出して伝えたから、不安が弾け消えた。彼女にとって律がつくったプティフールが「ミラクル☆パワー」になったわけだ。
律とは最後まで噛み合わずじまいだが、少し見直した。
地上は夜色に塗り替わっていた。停めた自転車を見て、はっとする。
(配達)
完全に失念していた。しかも急ぎたいときに限って男が荷台を覗き込んでいる。酒をくすねようというのか。
欠伸した男は口髭を生やし、腕まくりして逞しい手根伸筋を見せびらかしていた。威圧され声を掛けあぐねていたら、ポケットのスマホが震える。酒店の主人だ。
『清水ゥ! 今どこいんだよ!』
「通りの入口、です」
『配達はどうした』
「これから、急いで、」
『あーいい。とうに俺が行ってきた。明日から来なくていいよ。だーから学生バイトはよォ』
あっさりクビを宣告されてしまう。事の顛末を説明しようにも、うまく言葉が出てこない。
昔からそうだ。そのせいで第一志望の大学にも落ちるし、誰にも何も届けられない……。
「どうも、大将。話が聞こえたんですが」
打ちのめされていたら、口髭男が会話に割り込んできた。近くで見ると垂れ目が幼いが、それでもいくつか年上だろう。
「不要になったクラフトビール、安く買い取れたりしますかねえ。はあ。代金は元バイトの子に渡しますんで領収書つくっといてください」
(ど)
男は白シャツに黒いベストで、腕にギャルソンエプロンを引っ掛けている。――内緒話カフェの店長か?
店長(仮)が再び「どうも」と言ったら通話終了した。自分抜きで話がまとまった。
「ありがとう、ございます」
「いいんだよ。身体で払ってもらうしな」
店長はゆったり笑った。そういうことか。
「では、酒を下まで運びます」
力仕事で払おうと、ケースから瓶を数本引き抜き螺旋階段へ向かう。ケースごと持ち上げられなくもないが指が痺れる。
(痺れてもいいんだった)
思い直すのと前後して、店長が吹き出した。
「清水だっけ。バイトクビになったろ、うちで働けって意味だよ」
ありがたい誘いに振り返る。正直、一から探し直すのは手間だ。
いや、テンポよく話せないのにカフェなんて。
「無理、です」
すぐ前に向き直る。という挙動不審のせいで、手からつるりと瓶が抜け落ちた。ぎょああ。
店長が指を差し伸べる。と思いきや直前で引っ込めた。大きな音を立てて瓶が路地に転がる。
「あ痛たた」
店長が足首を押さえて蹲った。
「大丈夫、ですか」
「重症だなあ。あ、救急車は呼ばなくていい。だが明日から店に立てるかなあ」
怪我させてしまった。土下座の勢いで頭を下げる。
「僕が、代わりに……なるかはわかりませんが、働きます」
「なるさ。あの癖ありピアノを歌わせたろ」
店長はけろりと笑った。
違和感がふくらむ。怪我は? 癖ありピアノ? 店内で聞いた小さな咆哮は本当に結花の腹の音のみだったか?
「基本時給千二百円。オーナーが気前いいから、音で会話掻き消してくれりゃあ上乗せ」
「……ピアノは、もう、弾きません」
どうにか申告した。
店長がじっと見つめてくる。何も読み取れはしまい。感情と表情筋を結ぶ回路はつながった試しがない。
「いいよ。うちは『聞くカフェ』だから、弾かないピアニストだっていい」
店長は何も訊かず受け入れてくれた。それもピアニストと呼ばれ、ひどく泣きたくなる。
何のことはない。音大受験失敗を機に十五年間続けたピアノをやめたという、よくある話だ。ずるずる弾いていたらいつまでも忘れられない。
だから、弾かない。これからは、聞こう。
「営業は十時から十八時だけど、授業どんくらい詰まってる? 学生だよな」
指を握り込んで気持ちを切り替え、答える。
「夜間の、学部なので、毎日来られます」
「そりゃいい。てことは授業、そろそろ始まんじゃないか」
「……!」
顔には出ないが焦った。二部生の一限に当たる六限は十八時十五分開始だ。
「失礼、します」
「はいよ。ビールは預かった」
バイト先が変わっただけで、人並みの学生生活は守られた。と、思ったのだが。
翌日、「murmur」に出勤する。
「もういい、です。これから、バイトですんで」
下宿から徒歩十五分の道中、地元の恩師から電話がきて弱ったが、到着を口実に切らせてもらった。
ビルは今日も静かだ。外壁にポスター――星斗音大の「女王」のピアノリサイタルの告知がある。
まさに自分がはね返された大学だ。東大より狭き門とも言われる。隣の私大の経営学部の二部が実技試験翌日に試験で学費も安かったので、すべり止めに受けておいた。
まあもう終わった話だと、螺旋階段を下りていく。
(無表情過ぎてクビになりませんように)
出勤時間を指定されなかったので、開店一時間前に来てみた。
「もう入って構いませんか?」
「んにゃな」
今日もサビ猫の許可を得て、オークの扉を押す。内開きはめずらしい。
カウンターの内側に、律がいた。意外にも開店準備に勤しんでいる。
彼の印象はあまりよくない。でも同僚として働くなら、最低限の関係は築いておいたほうがいい。それに店長の姿はなく、仕事内容は彼に訊くしかない。
「……桜、井さん」
声を遮るBGMもないのに、返事はない。
(この男、同性とは口も利かないんだった。ん?)
歩み寄ると、律は鍋でビールとジンジャーエールとレモン汁を温めていた。洋酒シロップにスポンジ生地を浸す、サヴァランが今日のプティフールらしいが。
(あれは昨日の)
自分のせいでビールの消費を余儀なくされたに違いない。居たたまれず目を逸らす。
作業台に乾燥中の琥珀糖もあった。固めた後よく乾かすと表面の糖分が結晶化する――などと現実逃避していたら、奥のガラス棚の反射で律と目が合う。
「っ、」
律が鋭く振り向く。……存在感がなさ過ぎたか。
律はすぐ驚きを引っ込め、何か用? と目で尋ねてきた。整った顔というのは真顔だと迫力が凄まじい。
「挨拶、を」
圧されながらも、鞄から最中の折箱を取り出そうとした。だが律の大きな手に腕を掴まれ阻まれる。
『下向かれるとわかんない』
またもやスマホのメモ画面を突きつけられる。じっと目を――いや、口を見られている。
(もしや。彼は、音が、聞こえないのか?)
女性客とのやり取りからは想像もつかなかった。そうだとすれば昨日一言目を無視されたのも、さっきの反応も辻褄が合う。カフェの扉だって、目で来客がわかるよう内側に開く仕様にしていると取れる。
(この男には、僕の平凡な音を聴かれなくて済む)
もうピアノは弾かないのに一拍よぎった安堵は、首を振って掻き消した。
自分もスマホを出す。口の動きより文を見せたほうが確実だ。昨日の客もそうしていた。
『すみそ 死なぬ イエァ』
フリック入力が壊滅的でない場合に限り。
見兼ねたのか、律がペンとオーダーメモをカウンターに置いた。ありがたく拝借する。
『清水透哉だ。カフェで働くことになった。何を手伝えばいい?』
名前の横に平仮名も添えた。
と、う、や。律の唇が小さく動く。たちまちピアノの蓋が開いてメロディを奏で出したかのように感じた。心地いいメロディだ。
(心地、いい?)
困惑する間に、律は視線を三度左から右へ動かす。自分のスマホをカウンターに置く。
『ふたつ手伝って』
入力される文字を目で追った。
『ひとつは、白ピアノの持ち主を殺した人探し』
今度はこちらが三度、文字列を読み直す。
(殺し……コロシタ。ころしたひと!?)
このカフェいちばんの内緒話ではないか。というかギャルソンの仕事の範疇を越えている。
反射的にボールペンを握ったものの、言葉が出てこない。それでも律は入力の手を止めて待ってくれた。何か言おうとしているとわかってもらえるのは、思いのほか安心する。
『どういう人が怪しい?』
『追い追い教える』
いきなりすべての秘密は打ち明けられないときた。切り込みあぐね、ピアノを眺める。今日も奏でられることなく佇んでいる。
(持ち主は亡くなってたのか)
漠然とした犯人への怖さより、惜しいという気持ちが湧いた。
(でも、人並みの学生生活が脅かされるのは……)
向き直ると、同じスマホ画面を覗き込む律の顔がすぐ近くにあった。まっすぐ射抜かれる。
常連の女性客に協力してもらえばいいと思わなくもない。だがこうも真摯に見つめられては、断れない。
「わかった。もうひとつは?」
自分の言ったことをメモに書き直す前に、律が答えを打ち込む。
『上白糖買ってきて』
ひとつ目との落差に、ほかりと口を開けた。
同時に律のスマホが震える。メッセージ通知が見えてしまう。
『今日カフェ寄るね』
『またお菓子屋さんめぐり? 話聞いてもらえなくてがっかりしたんだから』
『欲しがってた限定アクセ、誕生日祝いに買っといたよ[画像]』
すべて女性からとみた。律は返信でなくメモの続きを打つ。
『砂糖与えとけばみんな機嫌いい。から早く行って』
やはり、噛み合わない。憮然として扉の外へ出る。
信頼されている、と一拍思った。だが頼まれたのは使い走り。律は嘘を吐いていなかった――とも限らない。無機質なデジタル文字だ。
つまり白ピアノの持ち主が殺されたという話も。
「騙されかけた……」
あんな男と二人でやっていけるのか。
かと言って、日中他にすることもない。
(ピアノを忘れるには、他に手のかかるものがあったほうがいいか)
半ば自分に言い聞かせた。
当カフェでは、言いにくい話、聞かれたくない話、抱えきれない話、伝える相手がいない話など、いくらでも話してくださって構いません。
何せ店員は、聞こえませんので。内緒話のお供には、貴方の背中を押すプティフールをどうぞ。
ただし「聞こえないふりをしている声」に限り、見習いにきこえてしまいます。


