テントウムシの小さな命を見送ったあと、私たちは並んで病室へ戻った。
中庭の光がまぶしかったせいか、病棟の廊下はいつもより薄暗く感じる。
白い壁、規則正しい足音、消毒液の匂い。
現実の世界に戻ってきた、という感覚が、ゆっくり身体に馴染んでいく。
千尋さんは歩きながら、何度も後ろを振り返るように窓の外を見ていた。
そこにはもうテントウムシはいないのに、何か大切なものを置いてきてしまったみたいに。
病室へ戻ると、夕方の光がカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
オレンジ色の光が、彼女の横顔を淡く染める。
「ねえ、蕾ちゃん」
「ん?」
「私、今日、たくさん話したけど、大丈夫だった?」
不安が、声の端に滲んでいる。
言葉を差し出したあとに、拒まれないかを確かめるような目。
(ああ、この千尋さんはまだ、“話してもいい存在かどうか”を確かめながら生きているんだろうか)
胸がぎゅっとなる。
「全然大丈夫だよ。むしろ、千尋さんと話せて、私の方が楽しかったくらい」
そう言うと、彼女は小さく息を吐いた。
張りつめていた糸が、少しだけ緩むみたいに。
「ありがとう、蕾ちゃん」
「こちらこそ、ありがとう」
言葉のやり取りは短いのに、そこに込められた感情は静かに深い。
病室の中は、夜へ向かう準備を始めていた。
遠くでカートの車輪が鳴る音。
廊下を歩く看護師の足音。
時計の秒針が刻む規則的なリズム。
日常の音が、まるで静寂を縁取る額縁みたいに、この空間を包んでいる。
千尋さんは、ベッド脇に置いた折り紙の鶴を見つめていた。
色とりどりの小さな鶴たち。
彼女がこの病院で過ごした時間の数だけ、そこにある。
一つ一つに、どんな願いが折り込まれているのだろう。
ふと、青い蝶の話がよぎる。
(この子は、どこへ行こうとしているんだろう)
回復している。
笑っている。
話してくれる。
それでも、彼女の心の奥に、まだ深い水底みたいな場所がある気がしてならない。
「また、明日も、桜の木の下で、お話できる?」
その声は、明日を信じている響きだった。
私は迷わず頷く。
「もちろん。いつでも聞くよ」
その瞬間、胸の中にあたたかいものが広がる。
同時に、気づいてしまう。
私はもう、“担当看護師”という枠だけでこの子を見ていない。
この時間を守りたいと思っている。
この子の明日を、当たり前みたいに信じている。
それは優しさかもしれない。
でも同時に、危うい感情でもある。
看護職として保つべき距離が、静かに溶けている。
それでも、今はただ願う。
この静かな時間が続きますようにと…
病室の明かりが灯る。
やわらかな光が、千尋さんの横顔を包む。
その穏やかな光景が、あまりに綺麗で――
私はなぜか、理由のない不安を胸の奥に感じていた。
まるで、何か大切なものを守る前の嵐の前触れのように。
中庭の光がまぶしかったせいか、病棟の廊下はいつもより薄暗く感じる。
白い壁、規則正しい足音、消毒液の匂い。
現実の世界に戻ってきた、という感覚が、ゆっくり身体に馴染んでいく。
千尋さんは歩きながら、何度も後ろを振り返るように窓の外を見ていた。
そこにはもうテントウムシはいないのに、何か大切なものを置いてきてしまったみたいに。
病室へ戻ると、夕方の光がカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
オレンジ色の光が、彼女の横顔を淡く染める。
「ねえ、蕾ちゃん」
「ん?」
「私、今日、たくさん話したけど、大丈夫だった?」
不安が、声の端に滲んでいる。
言葉を差し出したあとに、拒まれないかを確かめるような目。
(ああ、この千尋さんはまだ、“話してもいい存在かどうか”を確かめながら生きているんだろうか)
胸がぎゅっとなる。
「全然大丈夫だよ。むしろ、千尋さんと話せて、私の方が楽しかったくらい」
そう言うと、彼女は小さく息を吐いた。
張りつめていた糸が、少しだけ緩むみたいに。
「ありがとう、蕾ちゃん」
「こちらこそ、ありがとう」
言葉のやり取りは短いのに、そこに込められた感情は静かに深い。
病室の中は、夜へ向かう準備を始めていた。
遠くでカートの車輪が鳴る音。
廊下を歩く看護師の足音。
時計の秒針が刻む規則的なリズム。
日常の音が、まるで静寂を縁取る額縁みたいに、この空間を包んでいる。
千尋さんは、ベッド脇に置いた折り紙の鶴を見つめていた。
色とりどりの小さな鶴たち。
彼女がこの病院で過ごした時間の数だけ、そこにある。
一つ一つに、どんな願いが折り込まれているのだろう。
ふと、青い蝶の話がよぎる。
(この子は、どこへ行こうとしているんだろう)
回復している。
笑っている。
話してくれる。
それでも、彼女の心の奥に、まだ深い水底みたいな場所がある気がしてならない。
「また、明日も、桜の木の下で、お話できる?」
その声は、明日を信じている響きだった。
私は迷わず頷く。
「もちろん。いつでも聞くよ」
その瞬間、胸の中にあたたかいものが広がる。
同時に、気づいてしまう。
私はもう、“担当看護師”という枠だけでこの子を見ていない。
この時間を守りたいと思っている。
この子の明日を、当たり前みたいに信じている。
それは優しさかもしれない。
でも同時に、危うい感情でもある。
看護職として保つべき距離が、静かに溶けている。
それでも、今はただ願う。
この静かな時間が続きますようにと…
病室の明かりが灯る。
やわらかな光が、千尋さんの横顔を包む。
その穏やかな光景が、あまりに綺麗で――
私はなぜか、理由のない不安を胸の奥に感じていた。
まるで、何か大切なものを守る前の嵐の前触れのように。



