葉桜の木の下で、私たちは並んで座っていた。
満開だった桜はすっかり姿を変え、若い葉が光を透かして揺れている。
木漏れ日がまだらに地面へ落ち、世界がやわらかな緑色の呼吸をしているみたいだった。
昼下がりの空気は穏やかで、少しだけ眠たくなるほど静かだ。
遠くから子どもの笑い声が聞こえてきて、ここが病院だということを、一瞬忘れそうになる。
隣に座る千尋さんの肩が、ふと触れた。
その温度に、私はほっとする。
「ねえ、蕾ちゃん」
呼ばれて振り向くと、彼女の指が私の袖をそっとつかんでいた。
細い指先が、わずかに震えている。
「どうしたの、千尋さん?」
「あのね、あれ」
彼女の視線の先を追うと、若葉の上に小さな赤い点が見えた。
一匹のテントウムシが、葉の縁でひっくり返り、かすかに脚を動かしている。
小さな体。
それでも必死に、生きようとしている動き。
千尋さんは、息を詰めるようにそれを見つめていた。
「どうしたのかな……」
そっと指を伸ばす。
その仕草は、驚くほど慎重で、優しかった。
触れた瞬間、テントウムシの体が小さく揺れる。
「虫も、人も、生き物も、みんな弱いんだね」
その言葉は、風に溶けるほど静かだったのに、私の胸には強く残った。
「命は、もっと儚い」
彼女の横顔は、どこか遠くを見ている。
目の前の虫を見ているはずなのに、もっと遠い、過去の景色の中にいるようだった。
「こんなに皆、弱いのに、どうして、こんなにも傷つけあうんだろう」
その問いに、すぐ答えられる人なんていない。
いじめ。差別。暴力。
言葉という刃。
千尋さんの背負ってきた傷の深さが、胸の奥で静かに疼く。
(この子は、どれだけ痛みを知っているんだろう)
テントウムシを見つめるその瞳は、優しすぎるほど優しかった。
自分よりも小さな命を、まるで宝物みたいに見ている。
もしかしたら彼女は、あの虫に自分を重ねているのかもしれない。
小さくて、弱くて、簡単に傷つく存在。
それでも、生きようとしている。
私は何か言わなきゃと思うのに、言葉が見つからない。
励ましは軽すぎる気がした。
正論は冷たすぎる気がした。
だから私は、ただ彼女の手を握った。
温かい手。
でも、その奥にある心は、まだ薄い氷の上に立っているみたいに感じる。
(この子は、優しすぎる)
優しさは光だけど、同時に刃にもなる。
世界の痛みを全部受け取ってしまうから。
葉桜の葉が擦れる音が、静かに響く。
風が通るたび、世界は何事もない顔で揺れている。
その穏やかさが、逆に胸を締めつけた。
この時間が壊れませんように。
この子の心が、もうこれ以上傷つきませんように。
そう願いながら、私は彼女の手を離さなかった。
テントウムシは、やがて葉の上で体勢を整え、小さな羽を震わせた。
赤い背中が光を受け、ふわりと空へ浮かび上がる。
千尋さんは、それを目で追いながら、小さく微笑んだ。
その笑顔が綺麗すぎて、私は少し怖くなった。
儚いものは、美しい。
でも、美しすぎるものほど、消えてしまいそうで。
若葉の揺れる音が、彼女の心の奥から聞こえる声みたいに、いつまでも耳に残っていた。
満開だった桜はすっかり姿を変え、若い葉が光を透かして揺れている。
木漏れ日がまだらに地面へ落ち、世界がやわらかな緑色の呼吸をしているみたいだった。
昼下がりの空気は穏やかで、少しだけ眠たくなるほど静かだ。
遠くから子どもの笑い声が聞こえてきて、ここが病院だということを、一瞬忘れそうになる。
隣に座る千尋さんの肩が、ふと触れた。
その温度に、私はほっとする。
「ねえ、蕾ちゃん」
呼ばれて振り向くと、彼女の指が私の袖をそっとつかんでいた。
細い指先が、わずかに震えている。
「どうしたの、千尋さん?」
「あのね、あれ」
彼女の視線の先を追うと、若葉の上に小さな赤い点が見えた。
一匹のテントウムシが、葉の縁でひっくり返り、かすかに脚を動かしている。
小さな体。
それでも必死に、生きようとしている動き。
千尋さんは、息を詰めるようにそれを見つめていた。
「どうしたのかな……」
そっと指を伸ばす。
その仕草は、驚くほど慎重で、優しかった。
触れた瞬間、テントウムシの体が小さく揺れる。
「虫も、人も、生き物も、みんな弱いんだね」
その言葉は、風に溶けるほど静かだったのに、私の胸には強く残った。
「命は、もっと儚い」
彼女の横顔は、どこか遠くを見ている。
目の前の虫を見ているはずなのに、もっと遠い、過去の景色の中にいるようだった。
「こんなに皆、弱いのに、どうして、こんなにも傷つけあうんだろう」
その問いに、すぐ答えられる人なんていない。
いじめ。差別。暴力。
言葉という刃。
千尋さんの背負ってきた傷の深さが、胸の奥で静かに疼く。
(この子は、どれだけ痛みを知っているんだろう)
テントウムシを見つめるその瞳は、優しすぎるほど優しかった。
自分よりも小さな命を、まるで宝物みたいに見ている。
もしかしたら彼女は、あの虫に自分を重ねているのかもしれない。
小さくて、弱くて、簡単に傷つく存在。
それでも、生きようとしている。
私は何か言わなきゃと思うのに、言葉が見つからない。
励ましは軽すぎる気がした。
正論は冷たすぎる気がした。
だから私は、ただ彼女の手を握った。
温かい手。
でも、その奥にある心は、まだ薄い氷の上に立っているみたいに感じる。
(この子は、優しすぎる)
優しさは光だけど、同時に刃にもなる。
世界の痛みを全部受け取ってしまうから。
葉桜の葉が擦れる音が、静かに響く。
風が通るたび、世界は何事もない顔で揺れている。
その穏やかさが、逆に胸を締めつけた。
この時間が壊れませんように。
この子の心が、もうこれ以上傷つきませんように。
そう願いながら、私は彼女の手を離さなかった。
テントウムシは、やがて葉の上で体勢を整え、小さな羽を震わせた。
赤い背中が光を受け、ふわりと空へ浮かび上がる。
千尋さんは、それを目で追いながら、小さく微笑んだ。
その笑顔が綺麗すぎて、私は少し怖くなった。
儚いものは、美しい。
でも、美しすぎるものほど、消えてしまいそうで。
若葉の揺れる音が、彼女の心の奥から聞こえる声みたいに、いつまでも耳に残っていた。



