桜の花が散り、淡い桃色だった世界は、いつの間にかやわらかな緑に塗り替えられていた。
中庭の桜の木は葉桜になり、風に揺れる若葉が光を細かく砕いている。
春はもう、終わりかけているのかもしれない。
私は千尋さんと並んでベンチに座っていた。
遠くから聞こえる鳥の声。
病院の窓が閉まる音。
誰かの笑い声が風にほどけて消えていく。
穏やかで、何も起こらない午後。
それなのに、胸の奥はなぜか静まり返らない。
「ねえ、蕾ちゃん」
隣から呼ばれて顔を向けると、千尋さんは葉桜を見上げていた。
花がなくなった木。
それでも彼女は、そこに何かを見るみたいに、じっと視線を向けている。
「ん? どうしたの?」
「あのね、私、おばあちゃんから聞いた話があるの」
その声は、いつもより少し低くて、やわらかかった。
彼女は遠い記憶をなぞるみたいに、ゆっくり話し始める。
「私のおじいちゃんが亡くなった時ね、おばあちゃん、ずっと悲しんでたんだって」
風が吹く。
若葉がさわさわと鳴る。
「ある日ね、すっごく綺麗な青い蝶が飛んできたんだって」
「青い蝶……?」
空を見上げると、淡い雲が流れている。
今にも何かが舞い降りてきそうな、静かな午後だった。
「その蝶ね、おばあちゃんの周りをひらひら飛んでね、しばらくそばにいてくれたんだって」
彼女の声は、物語の中へ溶けていくみたいだった。
「だからおばあちゃんは言ったの。
“亡くなった人はね、大切な人にもう一度会うために、神様に羽をもらって帰ってくる。蝶になって、一度だけ会いに来るんだよ”って」
私は思わず苦笑いする。
「千尋さん、…それちょっと怖い話?」
そう言ったのに、千尋さんは笑わなかった。
ただ、葉桜を見つめたまま、真剣な目をしていた。
その横顔は幼くて、でもどこか大人びていて、胸がきゅっとする。
「そっか……おばあちゃん、寂しかったんだね」
そう言うと、千尋さんは小さく頷いた。
「でもね、その蝶のおかげで、おばあちゃんはまた頑張ろうって思えたんだって」
風が吹く。
葉が揺れ、光がこぼれる。
「だから私もね、あの青い蝶みたいになれたらいいなって、時々思うの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。
“なりたい”
その意味が、すぐには掴めない。
励ましたいのか。
誰かの支えになりたいのか。
それとも――
(違う意味だったら、どうしよう)
看護師としての警戒が、静かに胸を叩く。
でも同時に、彼女の声の中には確かな“生きたい気持ち”も混じっていると感じた。
過去に縛られたままの少女が、それでも誰かの光になりたいと願っている。
その健気さが、痛いほど伝わってきて、私は目を逸らせなくなる。
葉桜の葉が揺れるたびに、千尋さんの髪がふわりと動く。
光の中で、彼女は透明になりそうだった。
(千尋さんは、どこまで回復しているんだろう)
嬉しさと、不安が、同じ場所に同時に生まれる。
私は彼女の隣にいる。
手を伸ばせば触れられる距離。
それなのに、彼女の心の奥の深さは、まだ見えない海みたいだった。
「千尋さんは、蝶にならなくていいよ」
気づいたら、そう言っていた。
「ここで、生きて、笑ってればいいの」
その言葉は、看護師としての答えなのか、
それとも私個人の願いなのか、自分でもわからなかった。
でも、伝えたかった。
あなたは“いなくなる側”じゃない。
“ここにいる人”なんだって。
千尋さんは少し驚いた顔をして、それから、静かに笑った。
その笑顔は、葉桜の隙間からこぼれる光みたいに、儚くて、優しかった。
彼女の語った物語は、きっと彼女自身の心そのものだ。
綺麗で、繊細で、壊れやすくて、でも確かに未来を見ようとしている心。
私は隣でその光を受けながら、初めてはっきり感じていた。
千尋さんを、ただの“患者”として見続けるよりも、今ある瞬間を守っていきたい。
ずっとこのまま何事もなく笑っていてほしい。
ゆっくりと燃やし始めた灯を消さないでほしい。
そんな感情が、確実に胸の奥へ奥へと絵の具が水に溶け込んでいくように沈んでいった。
若葉が揺れる。
そして季節はそんな私達を置いていくようにどんどん
進んでいく。



