そして、約束の日が来た。
朝の光は透き通っていて、病院の白い壁さえやわらかく見えた。
消毒液の匂いも、足音の反響も、いつもと同じはずなのに、今日はどこか違う世界の入り口に立っているみたいだった。
千尋さんの手は、私の指をぎゅっと握っている。
小さくて、少し汗ばんでいて、でも確かに“生きている温度”があった。
(この手を離さないでいられる時間が、少しでも長く続けばいいのに)
そんなことを思ってしまう自分に、私は少しだけ戸惑う。
自動ドアを抜けると、春の風が頬を撫でた。
中庭の桜は、ちょうど満開だった。
淡い花びらが空を埋め、光をまとい、風に揺れている。
まるで世界そのものが、やわらかな色に塗り替えられたみたいだった。
「わあ……! 本当に綺麗……!」
千尋さんの声は、光を含んで弾んだ。
彼女は私の手を離し、桜の木の下へ駆けていく。
その背中は軽く、初めて出会った日の“泣いていた子”の面影はどこにもなかった。
くるり、と回る。
スカートが揺れ、花びらが舞い上がる。
その姿は、ようやく安全な場所に辿り着いた迷子のようでで、胸がぎゅっと締めつけられた。
(ああ……千尋さんは、ちゃんと笑えるんだ)
その事実が、涙が出そうなほど嬉しかった。
「ねえ、蕾ちゃん」
振り返った千尋さんの瞳は、桜色を映してきらきらしていた。
「なあに?」
「私、ここにいると、なんだか安心するの。蕾ちゃんがそばにいてくれるからだよ」
その言葉は、春の風よりもやわらかく、まっすぐ私の胸に落ちてきた。
看護師として、何度も「ありがとう」は言われてきた。
でも今のこれは、どこか違う。
役割を超えて、私という“存在”に向けられた言葉。
静かに胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。
(少しでも、千尋さんの支えになれているんだろうか…)
そう思えたことが、誇らしくて、同時に少し怖かった。
私は看護師であり、医療従事者だ。
距離を保つことも、守るべき線も、ちゃんと知っているはずなのに。
それでも。
「そっか。じゃあ今日は、いっぱい桜見ようね」
そう言った私の声は、思ったよりもやさしく、思ったよりも私的だった。
風が強く吹く。
花びらが一斉に舞い上がり、世界が白と薄紅色に染まる。
千尋さんは笑っている。
その隣で、私も笑っている。
それは“患者と看護師”ではなく、ただ春を分け合う二人の人間みたいだった。
(この時間が続けばいいのになぁ、なんて)
願ってしまった瞬間、胸の奥に小さな影が差す。
ここは病院で、彼女は患者で、私は看護師。
春は永遠じゃない。
それでも今だけは、この光の中に立っていたかった。
桜の木の下で、私たちの間には確かな何かが芽生え始めていた。
友情と呼ぶには繊細で、仕事と呼ぶには温かすぎる感情。
あの日の約束は、彼女にとって“外の世界への一歩”であり、
私にとっては、“心の境界線が揺らいだ日”になった。
桜はただ、何も知らない顔できょ咲いている。
この穏やかな時間の先に、
私たちの心を試す出来事が待っていることを――
この時の私は、まだ知らなかった。



