蝶になった彼女。


春の光が、病院の窓ガラスをやわらかく透かす季節になった。

無機質だった廊下にも、どこか色が差したように見えるのは、きっと光のせいだけじゃない。

千尋さんの表情が、少しずつ変わってきていたからだ。

以前は、何かに怯えるように視線を落とし、心を閉じ込めるように膝を抱えていた彼女が、最近は時折、窓の外を眺めるようになった。

光の方へ、ほんの少しだけ顔を向けるようになった。

それは、花が咲く前に、蕾がそっとほどける瞬間に似ていた。

(回復してきている…のだろうか)

カルテの数値や医師の所見とは違う、“肌で感じる変化”。

担当看護師としての安堵と、ひとりの人間としての喜びが、胸の奥で静かに重なっていた。



そんなある日。


消灯前の静かな時間、千尋さんがベッドの端に座ったまま、そっと私を呼んだ。

「ねえ、蕾ちゃん」

呼ばれた瞬間、胸が少し跳ねる。
“看護師さん”じゃなく、“蕾ちゃん”。

その呼び方に、心の距離がにじんでいた。

「千尋さん?どうしたの?」

彼女は窓の方を見つめながら言った。

「あのね、病院の中庭に、桜の木があるでしょう? あれ、とっても綺麗だよね!」

声はやわらかく、どこか夢を見るみたいだった。
私はつられて窓の外を見る。

淡い桃色が風に揺れている。
花びらがひとつ、ふわりと舞い上がり、光の中でほどけて消えた。

「うん、綺麗だよね。私も、あの桜の木、好きだよ」

そう言った瞬間、千尋さんの横顔がほころんだ。

あの泣きはらした初日の面影が、遠い記憶みたいに思えるほど、穏やかな顔だった。

けれど私は知っている。その笑顔の奥に、まだ癒えきらない傷があることを。

「あのね……もしよかったら、私、あそこまで散歩に行ってもいいかな」

その言葉は、小さな勇気そのものだった。

閉ざされた心が、“外”を望んだ瞬間。

私は一瞬だけ迷う。

病状は安定してきている。でも、ここは精神科病棟。
慎重であるべき場所。

“看護師としての判断”が頭をよぎる。

でも。

彼女の瞳が、春の光を映してきらきらしていた。
怖がっていた世界を、もう一度見たいと願う目だった。

(この子は今、きっと前に進もうとしてる)

その事実が、理屈よりも先に心を動かした。

「もちろん。いいよ。仕事の合間になるけど、一緒に行こう」

言った瞬間、胸の奥がふっとあたたかくなる。

それは職務ではなく、“約束”に近い感覚だった。

「ほんと!? やったー!」

千尋さんは子どもみたいに笑った。

その笑顔は年相応というより、時間が止まっていた十四歳の少女のままだった。

過去に縛られたまま成長が止まってしまった心。

それでも、春の光の中では、ちゃんと“今”を生きている。

窓の外で、花びらがまた一枚舞い上がる。

(この子がもう一度、外の世界を好きになれたらいいな)

そう思ったとき、私は気づく。

これは“担当患者”への感情だけじゃない。

もっと、静かで、深いもの。

守りたい。
笑っていてほしい。
この小さな一歩を、絶対に折らせたくない。
そんな気持ちが、胸の奥で根を張りはじめていた。


春の光は優しくて、残酷だ。

過去の影も、未来の希望も、全部照らしてしまうから。
それでも。

千尋さんが「外へ行きたい」と言ったこの日を、私はきっと忘れない。

これは、彼女が世界へ踏み出した日。

そして、私の中で“看護師”と“ひとりの人間”の境界が、少しだけ溶けはじめた日だった。