精神科病院に勤めて一年目の春。
私――桜井 蕾は、白衣のポケットに手を入れたまま、静かな廊下を歩いていた。
窓の外では桜が散りはじめている。
春の陽射しは柔らかいはずなのに、病院の空気はどこか薄く、冷たい水の中にいるみたいに感じる。
消毒液の匂い、足音が吸い込まれる床、感情を置き去りにしたような静寂。
ここで働きはじめて一年。
泣き声にも怒鳴り声にも慣れたはずだった。
それでも――
その日、耳に届いた小さなすすり泣きは、なぜか胸の奥を直接つかまれるようだった。
音のする方へ視線を向ける。
三階の奥の病室。陽の当たりにくいその廊下は、いつもより長く感じた。
(もしかして、申し送りで聞いてた新しい患者さんかな……?)
胸の奥が、わずかにざわつく。
“看護師として”ではなく、“ひとりの人間として”反応している自分に気づいて、私はそっと息を整えた。
「…失礼します」
ノックの音がやけに乾いて響く。
ドアを開けると、そこにはベッドの上で小さく丸まる女の子がいた。
黒く染めた髪が顔にかかり、肩は小刻みに震えている。
泣く音が、部屋の静けさに溶けきれず、行き場を失って漂っていた。
私は足音を立てないように近づく。
どう声をかければいいのか、頭の中で言葉が迷子になる。
「あの……大丈夫? 誰か呼ぼうか?」
声は思ったよりも柔らかく出た。
けれどその優しさが、彼女を壊してしまわないか少し怖かった。
彼女はびくりと肩を揺らし、ゆっくり顔を上げる。
涙で濡れた瞳。まだ熱を持った涙の跡。
そばかすの残る頬は幼くみえて、壊れそうで、痛いほどまっすぐだった。
「……大丈夫……」
大丈夫な人の声じゃない。
その震えを聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む。
私はベッドの端に腰を下ろした。
「私、看護師の桜井 蕾。今日から担当させてもらうことになったんだ。よろしくね。」
言い慣れた自己紹介なのに、この時だけは“仕事の言葉”じゃなかった。
ちゃんと届いてほしいと思った。
「椎名……千尋……」
小さく名乗る声は、切れてしまいそうな糸みたいにか細いものだった。
「千尋さん、だね。つらい時は、我慢しなくていいんだよ。泣きたい時は、泣いていいんだから。」
言いながら、自分の言葉がどこまで本当なのか、少し不安になる。
私はちゃんと、この子の涙を受け止めきれるんだろうか。
そっと背中に手を当てる。
驚くほど細い肩。
温もりが、私の手のひらを通して心に流れ込んでくる。
千尋さんは、堰を切ったように私の肩に顔を埋めた。
私は何も言わず、ただ背中をゆっくりさすり続けた。
遠くで食器の触れ合う音。看護師の足音。救急車のサイレン。
日常の音はそこにあるのに、この部屋だけ時間がゆっくり沈んでいく。
(ああ、私はこの瞬間のためにここにいるのかもしれない)
仕事だからじゃない。
義務でもない。
ただ、この子の涙を一人にしないために。
「ありがとう……」
しばらくして顔を上げた千尋さんは、涙でぐしゃぐしゃのまま微笑んだ。
その笑顔は、まだ傷つく前の子どもみたいで、胸の奥に柔らかい痛みが広がる。
中学校でのいじめが原因で心を閉ざしてしまった子。
カルテの文字が、急に現実の重さを持つ。
不安は消えない。
私はまだ未熟だし、正解なんてわからない。
それでも――
(この子の笑顔を、もう一度ちゃんと咲かせたい)
その願いだけは、迷わず胸の中に根を張った。
春の光がカーテンの隙間から差し込む。
小さな出会いが、静かに未来を動かし始めていた。
これが、千尋さんと私の、
そして“誰かの痛みに寄り添う”という、私自身の物語の始まりだった。



