『大和国のはじまりの物語を聞かせましょう。
昔々、神様達が気まぐれで地上に降り立ちました。その時地上では人間達が細々と暮らしていました。人間達の暮らしは貧しく、魑魅魍魎に怯える日々でありました。それを憂えた神様達は一人の青年とともに国をお造りになられました。この青年こそが初代大和王その人なのです。
国は大きくなり、人間達は豊かに暮らせるようになりました。人間達は神様達に感謝し、崇めることにしました。
人間達の感謝に応えようと、神様達はこう言いました。
「この国が豊かであり続けるよう、加護を授けよう」
「人間達が神々の事を敬い続ける限り、この国に生まれる人の中に加護を持つものが生まれる」
「彼らは国を支えて豊かにしていくだろう」
それから、国民の中に不思議な力を持つ子ども達が生まれるようになりました。
神様達の言葉通り、加護持ちの子ども達は国を支え、国はより豊かになっていったのです。』
礼装に身を包んだ宮司が読み終えて、本を閉じた。そして目の前で話を真剣に聞いていた少女に優しく微笑んだ。
「さあ、君にも八百万の神々の加護が在らんことを祈ろう」
宮司が『八百万の神々よ、少女のととのせを祝いたまえ』と告げると、あたり一面に光が浮かび上がった。まるで蛍のように淡く輝く光に蒼はうっとりした。どこか懐かしさも感じる温かさに包まれて、蒼は「わあ」と感嘆の声を漏らした。
しかし感動したのは蒼だけではなかった。
「おお、素晴らしい!」
宮司までもが思わず声をあげた。
「宮司さま?これはなあに?」
「この島に住む神様がお祝いに来てくれているんだよ」
「神様が?わあい!」
蒼は両手をあげて喜んだ。
十歳を祝う「ととのせの祝い」は、宮司が祝詞を捧げ子どもの成長を祝う儀式だ。ここ大和国ではとても大切で厳粛な儀式とされている。大和国は八百万の神々と初代王・大和王が造った国である。その神々に気に入られた者は「ととのせの祝い」で加護を授かることがあるのだ。加護を持つと神々の力を借りることができる為、大和国ではかなり重宝される。その選定の場としてもととのせの祝いは非常に重要な儀式とされている。
光は蒼の頭上に集まり、一斉に弾けた。蒼に優しく降り注ぐ様はとても神々しいものだった。光が全て消えると宮司は一礼し、それに倣って蒼もお辞儀した。
「おめでとうございます。蒼殿は加護持ちです」
儀式が終わり、宮司は満面の笑みでそう告げた。すると蒼の後ろに控えていた両親はぱっと顔を明るくして蒼に抱きついた。
「嗚呼、蒼!さすが私たちの娘だわ」
「蒼は俺たちの自慢の娘だな」
「えへへ」
両親の喜ぶ様子につられて蒼も嬉しくなった。
「それで宮司様、娘は何の加護なんですか?」
「はい、この子の加護は…」
◆◆◆
武家屋敷の街並みが美しい大和国の王都・東都では、人々が賑やかに行き交っている。そんな厳かな建物美の街の中に煉瓦造りの豪華な建物が目に止まる。
そここそが大和国立特別学校で、ととのせの祝いで加護を授かった子達「加護持ち」が通う学校である。神々の力を借りることができる学校の生徒たちは、いわば将来を約束された上流階級であり市民の憧れの的であった。
男子生徒は多くの企業や国の機関から声がかかり、女子生徒は多くの御曹司から結婚話が持ち上がる。
しかしそれは時として諍いの種ともなりえるものだった。そのため大和国立特別学校は常に厳重な警戒体制が取られており、一般人は立ち入る事が出来なくなっている。それでも少しでも加護持ちとお近づきになろうと、校門付近では大勢の人であふれかえっている。
その中の一人である恰幅の良い男性は、お目当ての女子生徒を見つけると、真っ赤な薔薇の花束を差し出した、
「茜さん!僕と付き合ってください!」
これが意中の相手ならば女性も嬉しいだろう。
が、しかし。そうでない事も少なくはない。
茜と呼ばれた少女はさっと顔を青くして悲鳴を上げた。
「きゃあ!こわあい!」
「ちょっと」
茜の悲鳴にすぐに駆け付けたのは、黒髪を一つに結い上げた凛とした女性だった。身長も平均より高く、男性が着る学ランのような服装をしている。
「蒼ちゃん!」
蒼と呼ばれた女性は、茜に微笑みかけた。
蒼の笑みは美しくもあり、かっこよくも見えた。
それを見ていた周りの女性たちは、ほんのりと頬を染めて蒼に見入ってしまっていた。
「今日も素敵だわ」
「あれが本田家の姫騎士様」
「姫騎士様に会えるなんて今日は運が良いですわ」
周囲の女性達からそんな事を言われつつも、蒼は慣れているのか平然としていた。女性達の声なんて気にせず茜に言い寄ってきた男性を睨みつけた。
「私の妹に何してるのかな」
「うっ……お、お前に用はないんだよ!俺は茜さんに」
「茜は怖がってる。残念だけど茜は貴方に用はないんだ」
「お前に関係ないだろ!そこをどけ!」
男性は次第に逆上していき、周囲も少しずつ蒼と男性から離れて行った。今にも飛びかかりそうな勢いの男性を前に蒼は全く動じていない。
「関係あるよ。茜の姉なんだから。ここは退けない」
蒼は毅然とした態度でそう言い切った。そんな態度が気に入らなかった男性はますます顔を赤くして大声になっていく。
「お、お前なんて」
そうしてついに男性はお腹の肉を揺らしながら蒼に向かって突進してきた。
「お前なんて!学園の生徒でもない加護無しのくせに!」
加護無しという言葉に蒼は小さく反応した。しかしそれも一瞬だけで、蒼はすぐに体勢を整えて、突進してくる男性と対峙した。
「茜を守るのが私の役目なの」
そう言って男性の腕を掴み、そのまま捻った。体勢を崩した男性はその場に倒れ込み、「痛てててて」とうめいている。あまり一瞬の出来事で周囲は呆然としていた。
「うぅ……っ」
「どこの誰かも分かんないような輩を、我が本田家の大事な茜に触れさせられない」
「くそっ」
男性は観念したようで動かなくなってしまった。騒ぎを聞きつけた門番がやって来て、蒼は事情を説明して男を引き渡した。
まだ観衆達の熱気冷めやまぬ中、茜がゆっくりと蒼に近づいて来る。
「さすが蒼ちゃんだね」
先程の怯えた表情とは打って変わって和かに笑みを浮かべている。微笑む姿は確かに男性達が振り返るくらいには可愛らしい少女だ。
庇護欲をそそる小柄な茜は、くりくりとした大きな瞳に幼さが残る顔立ちに似合わず、豊満な胸に女性らしい体つきをしている。艶羽色の長い黒髪も茜にとてもよく似合う。それに比べて蒼は凹凸の少ない華奢な体ながらも、長身なので王子様のように見える。茜と同じ艶羽色の黒髪も一つに結い上げているので、蒼のかっこよさを際立たせている。
可愛い茜とかっこいい蒼はとても絵になると学校では評判だった。
茜の笑顔に絆されて、蒼も思わず笑みをこぼした。
「いつものことだからね」
蒼の笑顔に小さく黄色い悲鳴が上がった。
茜は柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなことないよ。茜はいつも蒼ちゃんに助けられてるもん」
「私は茜の護衛役だから」
「ふふ。蒼ちゃん切るのは得意だもんね」
茜の言葉に蒼はさっと顔色を変えた。
茜にとっては何気ない一言だったのだろう。
茜はしばらくクスクスと笑っていた。しかし蒼の表情を見て、口元を抑えた。
「あ。ごめぇん」
つい口を滑らせたと言わんばかりの茜に、蒼は何も言えなくなってしまった。茜は目尻を下げて「悪気はないの」と言う。そのあざとい茜に蒼は何も言えなかった。
蒼は加護無しではない。
ととのせの祝いで神様からの加護を受けた立派な加護持ちなのだ。本来なら茜と同じように学園に通う決まりだが、蒼は親の意向で通っていない。
蒼の加護は「縁切り神の加護」であったからだ。蒼の両親は縁切りという縁起の悪い加護持ちがいることは恥ずかしいと考え、蒼を隠すことにしたのだ。そのため蒼の加護については家族しか知らないし、家族の中でも蒼は加護なしとして接してきた。
茜も当然蒼の加護については知っているし、親の命令で蒼の加護が秘密にされている事も知っている。だのに蒼の秘密を笑いながら軽々と口にしてしまう事がある。今回に限った事ではなく、これまで何回もこういった事があり、蒼は何度もヒヤリとしたものだ。しかし何度注意しても茜は変わらないし、親に報告しても蒼の言う事なんて相手にされないのだ。
蒼はため息をつくしかできなかった。
「そうだ蒼ちゃん知ってる?」
茜はさっきの事などなかったように明るい笑顔で問いかけてきた。
「何?」
「今日ね、財閥の御曹司様が学園に視察に来るんですって。茜、見初められちゃったらどうしよう」
そう言って頬に手を当てて嬉しそうにはしゃいでいる。まるで茜が見初められるに違いないと確信している様子だ。
茜は十六歳。婚約者がいてもおかしくはない。茜の元には多くのお見合いの打診があっているらしく、両親が吟味に吟味を重ねている状況である。本田家は最近実績を伸ばし始めた商家で、茜の結婚相手には慎重になっているのだ。そんな中で財閥御曹司と結ばれる事になれば両親も両手をあげて喜ぶに違いない。
茜はくりくりとした瞳をきらきらと輝かせている。うっとりとした表情はまるで夢見る乙女だ。
「財閥御曹司様と結婚したら、茜は綺麗な着物とか髪飾りをたくさん買ってもらうんだ。茜、可愛いから何でも似合うよね。困っちゃうなあ」
「そうだね。茜は可愛いからきっと会えれば気に入られるはずだよ」
「ふふっ。やっぱり蒼ちゃんもそう思う?どこに行ったら会えるかな?」
「私は……校内では限られた場所しか行けないから分からないな」
「蒼ちゃん、ちょっと冷たくない?」
茜が顔を顰めた。それを見た蒼は慌てて弁明する。
「私は茜と違ってこの学園に入る資格ないから、あんまり学園に詳しくないのよ。ごめんなさい」
蒼は茜の機嫌を損ねないように言葉を選ぶ。
茜の加護が分かってからと言うもの、本田家での蒼の居場所は無くなった。運動神経が良かった為に茜の護衛という役割を与えられたが、決して家族の一員に戻れた訳ではない。
本田家の長女であり加護持ちでありながら、蒼は本田家の使用人も同然だった。
だからこそ蒼は茜の言う事に逆らえないし、茜の機嫌を損ねない様振る舞っている。一見仲の良い姉妹に見えるものの、実際には妹である茜に絶対的な服従を誓わされているのだ。
「そっか。そうだよね」
茜の納得した様子に蒼はほっとした。
「蒼ちゃんは本田家の恥だもんね。期待しちゃった茜が駄目だったね」
「そう、だね」
「蒼ちゃんごめんね。役立たずの蒼ちゃんにはちょっと難しかったよね」
茜は軽く「ごめんね」と言う。嫌味を言っているつもりなどないのかもしれない。しかし同じ親から生まれた姉妹とは思えない発言に蒼は苦笑するしかなかった。もうずっと前から茜にとって蒼は姉ではなく使用人と同じだったのだと嫌でも実感させられる。
「あ。予鈴が鳴っちゃったわ。行かなくちゃ。じゃあね、蒼ちゃん」
茜は少し駆け足に教室へと向かった。
本来ならば蒼も向かうはずの教室へ。
しかし蒼は茜と同じように進むことは許されていない。蒼は立ち止まって茜を見送るしかなかった。
ーー私はいつまで……。
茜を見送るたびに、心の中に疑問が浮かぶ。
この生活はいつまで続くのだろう、と。
昔、蒼は自分が加護持ちだと告げたことがある。けれど茜という加護持ちの娘のおかげもあり、この東都で力をつけ始めた本田家に蒼の言い分を握りつぶすのは容易い事だった。子どもの戯言だと蒼の発言を無かった事にしたのだ。それどころか狂言を言うおかしな娘として家の中に長い間監禁し、蒼の存在を周囲から消していった。食事は腐りかけた残飯しかもらえず、トイレさえも監視の前でせねばならなかった。お風呂も当然入れてもらえず、生きるための最低限の事しか許されなかった。
そうして蒼は茜の護衛としてようやく社会に出てる事ができたのだ。自分が加護持ちだと告げてあの監禁生活に戻るのは絶対に嫌だった。
ーーもし。もしも茜がみそめられたら。
あの生活に戻るのだろうか。
それとも使用人として生活を続けるのだろうか。
茜は跡取り娘だ。両親も婿入りしてくれる男性を探しているはずで、蒼はずっと茜の護衛として生きるのだと思っていた。
しかし、もし財閥御曹司が茜を見初めたら。どうなるのか、蒼には想像がつかない。
ーー私はどうなるんだろう。
あの監禁生活には戻りたくない。
けれどこのままの生活を続けるのも嫌だと思う自分がいる。
蒼にも何をどうすればいいのかわからない。
それなのに状況はどんどんと変わっていく。
蒼は学園に背を向け、ゆっくりと歩き出した。蒼は茜の帰りを待つためにいつもの待機場所へと向かうのだった。
日が傾きかけた頃、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
茜を待つため、蒼は学園の入り口近くにある校庭で待機していた。学園の生徒の使用人達が送り迎えの際に待機する小さな校庭で、日中に生徒が寄ることはほぼない場所だ。送り迎えの際にしか人がいない場所だが、蒼は茜を待つために一日中この場所で過ごす。特にすることもないので日々剣や武術の鍛錬をして過ごしている。
「もうすぐ茜の帰る時間ね」
鐘の音で蒼は動きを止めて息を整えた。
ーー茜は御曹司様と上手く出会えたかしら。多分だけど、茜が見初められる事はないわね。
学園への視察は珍しくはない。加護持ちはその力で様々な恩恵をもたらすため、企業への勧誘や結婚相手探しを目的に多くの著名人が学園にやってくる。
しかし財閥の御曹司となると話は別だ。視察に来なくても持ち込まれる話は山ほどあるからだ。わざわざ学園に足を運ぶという事は、もっと別の目的があったのではないだろうか、と蒼は考えていた。
ーー茜を宥めるのに苦労しなければいいけど……。
きっと茜は思い通りにいかなくて不機嫌になっているだろう。想像するだけで憂鬱な気分になる。
しかしそれと同時にまだこの生活が変わらない事に安心している自分もいた。
もし、茜のように自分の人生を決められるのならば、蒼も自分で新しい人生を見つけたいと思った。けれどそれは叶わない夢だ。それならばあの監禁生活に戻らないよう努めるだけだ。
ーーそうだ……。私の加護を使えば……。
ふと、蒼はそう思った。
「縁切り」の加護を持つ蒼。加護を使って茜と御曹司の縁を切れば、しばらくはこのままの生活が続くはずだ。
蒼は周囲に誰もいないことを確認して、人目につかない茂みに身を潜めた。
そして手のひらを目の前に突き出す。
「我を加護せし神よ」
そう呟くと、蒼の手のひらの上に毛糸の玉のようなものが現れた。毛糸の玉は金色に輝いて神秘的に見える。
「本田茜と財閥御曹司との縁を示したまえ」
すると毛糸の玉はくるくると回って少しずつ解けていく。その中から一本の糸がするりと蒼の前に伸びてきた。
この糸は人と人との縁だ。糸にも様々な種類があり、恋仲になる縁ならば赤い糸、因縁の相手は黒い糸、友人関係は青い糸など、色によってその関係性が異なる。そしてこの糸を切ればその人同士の縁が切れる。これが蒼の力だった。
ーー糸の色が……赤じゃない。
伸びてきた糸の色は黒に近い色だった。
蒼は思わず眉間に皺を寄せた。
この関係が今後どんな影響を与えるのか分からないが、ある意味今のうちに切っておいた方がいい縁には違いない。しかし財閥御曹司というだけで名前を知らないので、この縁が未来のものか現在のものか判断がつかない。
ーーどちらにせよ、いい縁じゃないもの。切ってしまった方がいいのかも。
そう思って蒼が糸を引きちぎろうとした瞬間、背後からがさっと草音がした。
ーー誰!?
蒼は身構えた。勿論すぐに加護の力で出した糸も消した。
ーーしまった!力を使うところを見られた!?
誰にどこまで見られたかによって、蒼の対応も変わってくる。蒼は誰が出てくるのかをじっと待った。ただ近くを通っただけならこのまま黙っておけばいい。
ーーこんな所で力を使うなんて浅はかだったな。
いくら人がいないからと言って使うべきではなかったと悔やんだ。
どうかただ近くを通っただけであって欲しい。
しかしその期待はすぐに裏切られた。
一人の男性が草むらから顔を出してきた。少し目つきが悪いが、整った顔立ちで人間とは思えないような美しさだった。男性は辺りを見渡しながら、草むらを分け行ってきた。そして草むらの茂みの奥にいた蒼を見つけるとその整った顔に満面の笑みを浮かべた。
「見つけた」
そして優しく蒼を抱き寄せた。女性とはいえ武道の嗜みがある蒼を最も簡単に抱き寄せたので、蒼は恥ずかしさよりも驚きの方が大きかった。
蒼はすぐに男性から距離を取ろうとしたが、なかなかその腕の中から抜け出せない。優しく抱きしめられているのに、全く歯が立たないのだ。
蒼は困惑した。
「ようやく見つけた。私の花嫁」
花嫁と呼ばれ、蒼はぴたりと動きを止めた。
ーーえ?何を言っているの?
この男性は誰なのか。加護持ちだと知られてしまったのか。花嫁とはどういう事か。たくさんの疑問が蒼の頭をぐるぐると回る。
「は、離して!」
蒼が叫ぶと、男性は力を緩めてくれた。蒼は慌てて距離を取った。
男性は今もにこにこと嬉しそうな笑顔で蒼を見つめてくる。
「縁切りの加護を持つ姫。貴方は私の妻となるべき運命だよ。自分の力で確かめてみるといい」
蒼はさっと顔色を悪くした。
ーーまずいまずい!!縁切りの加護持ちだってこの人に知られた!
頬を赤く染めた男性とは反対に蒼の顔色は真っ青だった。
「な、何の事でしょうか。私は加護なしです」
蒼は苦し紛れに反論した。
「それは……」
「貴方が何と言おうと私に加護はありません。人違いです」
そう言って逃げるようにこの場を立ち去った。
蒼はかなり動揺していた。花嫁と呼ばれたことも意味がわからないが、それ以上に加護持ちだと知られてしまった事に動揺していた。
ーーあの人が誰かに話したら……私は本当に本田家から追い出される。追い出されるならまだマシかもしれない。もっと酷い目にあうかも。
今の生活がこのまま続くの思っていたのに、打ち砕かれてしまった。蒼はそれが何より怖かった。
どうしよう、という思いで頭がいっぱいだった。
真っ白な頭でどうすればいいのか考えたが、動揺して考えがちっともまとまらない。
「蒼ちゃん!聞いてる?!」
茜の怒りに満ちた声で、蒼は現実に引き戻された。不機嫌な様子からして財閥御曹司とは上手くいかなかったとすぐにわかる。
ーーうまくいかなかったのね。
まだ心の中に靄がかかっているものの、少し安心した自分がいた。
ーー考えても仕方ない。そもそもあの人は私の名前も知らない。これから見つからなければいいんだ。
まだ何とかなる。そう思う事で心を落ち着かせた。
「ごめんなさい。少し鍛錬しすぎてぼうっとしてたみたい」
「もう!蒼ちゃんは茜の護衛でしょ!しっかりしてよね!」
茜は周囲の目も気にせず怒っていた。
蒼は困ったように眉根を下げた。
あの男性のことがあったとはいえ失敗だったと思う。茜のことが上手くいかなくなる事も、そのせいで茜の機嫌が悪くなる事も想像がついていた。少しでも早く機嫌をとるように行動するべきだったのに、さらに不機嫌になるような行動をしてしまった。
これは茜の機嫌取りは長くなるかもしれない、と蒼は心の中でため息をついた。
「本当にごめんなさい」
茜はツンとした態度で返事もしなかった。
「茜、財閥御曹司様とは会えたの?」
「あんな人知らないわ!」
茜は声を尖らせて叫んだ。
「茜の機嫌を損ねるなんて、御曹司様は酷い事をしたのね」
「そうなの!聞いてよ蒼ちゃん。財閥御曹司様のくせに全然見る目なかったの」
「どういうこと?」
「財閥御曹司様、茜の教室に来たの。だからね、茜から声かけてあげたのに、どんなに声かけても無視されるし、先生からはしたないって注意されたの!」
「それは……災難だったね」
容易く想像できてしまう。
「財閥御曹司様も事情があったのかもね」
「事情?」
「視察という立場で来られてるなら軽々と話しちゃいけなかったかもしれないでしょ?」
「そう……よね。男性が茜を放っておくはずないもの。そうに違いないわ。だとしたらあの先生!もう信じられない!あの先生が邪魔しなきゃ話せたかもしれないじゃない!解雇してくれないかお父様に頼まなくちゃ!」
そう言って勇む茜を、蒼は何とも言えない表情で見守った。
ーーまだこの生活が続くのね。
昔々、神様達が気まぐれで地上に降り立ちました。その時地上では人間達が細々と暮らしていました。人間達の暮らしは貧しく、魑魅魍魎に怯える日々でありました。それを憂えた神様達は一人の青年とともに国をお造りになられました。この青年こそが初代大和王その人なのです。
国は大きくなり、人間達は豊かに暮らせるようになりました。人間達は神様達に感謝し、崇めることにしました。
人間達の感謝に応えようと、神様達はこう言いました。
「この国が豊かであり続けるよう、加護を授けよう」
「人間達が神々の事を敬い続ける限り、この国に生まれる人の中に加護を持つものが生まれる」
「彼らは国を支えて豊かにしていくだろう」
それから、国民の中に不思議な力を持つ子ども達が生まれるようになりました。
神様達の言葉通り、加護持ちの子ども達は国を支え、国はより豊かになっていったのです。』
礼装に身を包んだ宮司が読み終えて、本を閉じた。そして目の前で話を真剣に聞いていた少女に優しく微笑んだ。
「さあ、君にも八百万の神々の加護が在らんことを祈ろう」
宮司が『八百万の神々よ、少女のととのせを祝いたまえ』と告げると、あたり一面に光が浮かび上がった。まるで蛍のように淡く輝く光に蒼はうっとりした。どこか懐かしさも感じる温かさに包まれて、蒼は「わあ」と感嘆の声を漏らした。
しかし感動したのは蒼だけではなかった。
「おお、素晴らしい!」
宮司までもが思わず声をあげた。
「宮司さま?これはなあに?」
「この島に住む神様がお祝いに来てくれているんだよ」
「神様が?わあい!」
蒼は両手をあげて喜んだ。
十歳を祝う「ととのせの祝い」は、宮司が祝詞を捧げ子どもの成長を祝う儀式だ。ここ大和国ではとても大切で厳粛な儀式とされている。大和国は八百万の神々と初代王・大和王が造った国である。その神々に気に入られた者は「ととのせの祝い」で加護を授かることがあるのだ。加護を持つと神々の力を借りることができる為、大和国ではかなり重宝される。その選定の場としてもととのせの祝いは非常に重要な儀式とされている。
光は蒼の頭上に集まり、一斉に弾けた。蒼に優しく降り注ぐ様はとても神々しいものだった。光が全て消えると宮司は一礼し、それに倣って蒼もお辞儀した。
「おめでとうございます。蒼殿は加護持ちです」
儀式が終わり、宮司は満面の笑みでそう告げた。すると蒼の後ろに控えていた両親はぱっと顔を明るくして蒼に抱きついた。
「嗚呼、蒼!さすが私たちの娘だわ」
「蒼は俺たちの自慢の娘だな」
「えへへ」
両親の喜ぶ様子につられて蒼も嬉しくなった。
「それで宮司様、娘は何の加護なんですか?」
「はい、この子の加護は…」
◆◆◆
武家屋敷の街並みが美しい大和国の王都・東都では、人々が賑やかに行き交っている。そんな厳かな建物美の街の中に煉瓦造りの豪華な建物が目に止まる。
そここそが大和国立特別学校で、ととのせの祝いで加護を授かった子達「加護持ち」が通う学校である。神々の力を借りることができる学校の生徒たちは、いわば将来を約束された上流階級であり市民の憧れの的であった。
男子生徒は多くの企業や国の機関から声がかかり、女子生徒は多くの御曹司から結婚話が持ち上がる。
しかしそれは時として諍いの種ともなりえるものだった。そのため大和国立特別学校は常に厳重な警戒体制が取られており、一般人は立ち入る事が出来なくなっている。それでも少しでも加護持ちとお近づきになろうと、校門付近では大勢の人であふれかえっている。
その中の一人である恰幅の良い男性は、お目当ての女子生徒を見つけると、真っ赤な薔薇の花束を差し出した、
「茜さん!僕と付き合ってください!」
これが意中の相手ならば女性も嬉しいだろう。
が、しかし。そうでない事も少なくはない。
茜と呼ばれた少女はさっと顔を青くして悲鳴を上げた。
「きゃあ!こわあい!」
「ちょっと」
茜の悲鳴にすぐに駆け付けたのは、黒髪を一つに結い上げた凛とした女性だった。身長も平均より高く、男性が着る学ランのような服装をしている。
「蒼ちゃん!」
蒼と呼ばれた女性は、茜に微笑みかけた。
蒼の笑みは美しくもあり、かっこよくも見えた。
それを見ていた周りの女性たちは、ほんのりと頬を染めて蒼に見入ってしまっていた。
「今日も素敵だわ」
「あれが本田家の姫騎士様」
「姫騎士様に会えるなんて今日は運が良いですわ」
周囲の女性達からそんな事を言われつつも、蒼は慣れているのか平然としていた。女性達の声なんて気にせず茜に言い寄ってきた男性を睨みつけた。
「私の妹に何してるのかな」
「うっ……お、お前に用はないんだよ!俺は茜さんに」
「茜は怖がってる。残念だけど茜は貴方に用はないんだ」
「お前に関係ないだろ!そこをどけ!」
男性は次第に逆上していき、周囲も少しずつ蒼と男性から離れて行った。今にも飛びかかりそうな勢いの男性を前に蒼は全く動じていない。
「関係あるよ。茜の姉なんだから。ここは退けない」
蒼は毅然とした態度でそう言い切った。そんな態度が気に入らなかった男性はますます顔を赤くして大声になっていく。
「お、お前なんて」
そうしてついに男性はお腹の肉を揺らしながら蒼に向かって突進してきた。
「お前なんて!学園の生徒でもない加護無しのくせに!」
加護無しという言葉に蒼は小さく反応した。しかしそれも一瞬だけで、蒼はすぐに体勢を整えて、突進してくる男性と対峙した。
「茜を守るのが私の役目なの」
そう言って男性の腕を掴み、そのまま捻った。体勢を崩した男性はその場に倒れ込み、「痛てててて」とうめいている。あまり一瞬の出来事で周囲は呆然としていた。
「うぅ……っ」
「どこの誰かも分かんないような輩を、我が本田家の大事な茜に触れさせられない」
「くそっ」
男性は観念したようで動かなくなってしまった。騒ぎを聞きつけた門番がやって来て、蒼は事情を説明して男を引き渡した。
まだ観衆達の熱気冷めやまぬ中、茜がゆっくりと蒼に近づいて来る。
「さすが蒼ちゃんだね」
先程の怯えた表情とは打って変わって和かに笑みを浮かべている。微笑む姿は確かに男性達が振り返るくらいには可愛らしい少女だ。
庇護欲をそそる小柄な茜は、くりくりとした大きな瞳に幼さが残る顔立ちに似合わず、豊満な胸に女性らしい体つきをしている。艶羽色の長い黒髪も茜にとてもよく似合う。それに比べて蒼は凹凸の少ない華奢な体ながらも、長身なので王子様のように見える。茜と同じ艶羽色の黒髪も一つに結い上げているので、蒼のかっこよさを際立たせている。
可愛い茜とかっこいい蒼はとても絵になると学校では評判だった。
茜の笑顔に絆されて、蒼も思わず笑みをこぼした。
「いつものことだからね」
蒼の笑顔に小さく黄色い悲鳴が上がった。
茜は柔らかな笑みを浮かべた。
「そんなことないよ。茜はいつも蒼ちゃんに助けられてるもん」
「私は茜の護衛役だから」
「ふふ。蒼ちゃん切るのは得意だもんね」
茜の言葉に蒼はさっと顔色を変えた。
茜にとっては何気ない一言だったのだろう。
茜はしばらくクスクスと笑っていた。しかし蒼の表情を見て、口元を抑えた。
「あ。ごめぇん」
つい口を滑らせたと言わんばかりの茜に、蒼は何も言えなくなってしまった。茜は目尻を下げて「悪気はないの」と言う。そのあざとい茜に蒼は何も言えなかった。
蒼は加護無しではない。
ととのせの祝いで神様からの加護を受けた立派な加護持ちなのだ。本来なら茜と同じように学園に通う決まりだが、蒼は親の意向で通っていない。
蒼の加護は「縁切り神の加護」であったからだ。蒼の両親は縁切りという縁起の悪い加護持ちがいることは恥ずかしいと考え、蒼を隠すことにしたのだ。そのため蒼の加護については家族しか知らないし、家族の中でも蒼は加護なしとして接してきた。
茜も当然蒼の加護については知っているし、親の命令で蒼の加護が秘密にされている事も知っている。だのに蒼の秘密を笑いながら軽々と口にしてしまう事がある。今回に限った事ではなく、これまで何回もこういった事があり、蒼は何度もヒヤリとしたものだ。しかし何度注意しても茜は変わらないし、親に報告しても蒼の言う事なんて相手にされないのだ。
蒼はため息をつくしかできなかった。
「そうだ蒼ちゃん知ってる?」
茜はさっきの事などなかったように明るい笑顔で問いかけてきた。
「何?」
「今日ね、財閥の御曹司様が学園に視察に来るんですって。茜、見初められちゃったらどうしよう」
そう言って頬に手を当てて嬉しそうにはしゃいでいる。まるで茜が見初められるに違いないと確信している様子だ。
茜は十六歳。婚約者がいてもおかしくはない。茜の元には多くのお見合いの打診があっているらしく、両親が吟味に吟味を重ねている状況である。本田家は最近実績を伸ばし始めた商家で、茜の結婚相手には慎重になっているのだ。そんな中で財閥御曹司と結ばれる事になれば両親も両手をあげて喜ぶに違いない。
茜はくりくりとした瞳をきらきらと輝かせている。うっとりとした表情はまるで夢見る乙女だ。
「財閥御曹司様と結婚したら、茜は綺麗な着物とか髪飾りをたくさん買ってもらうんだ。茜、可愛いから何でも似合うよね。困っちゃうなあ」
「そうだね。茜は可愛いからきっと会えれば気に入られるはずだよ」
「ふふっ。やっぱり蒼ちゃんもそう思う?どこに行ったら会えるかな?」
「私は……校内では限られた場所しか行けないから分からないな」
「蒼ちゃん、ちょっと冷たくない?」
茜が顔を顰めた。それを見た蒼は慌てて弁明する。
「私は茜と違ってこの学園に入る資格ないから、あんまり学園に詳しくないのよ。ごめんなさい」
蒼は茜の機嫌を損ねないように言葉を選ぶ。
茜の加護が分かってからと言うもの、本田家での蒼の居場所は無くなった。運動神経が良かった為に茜の護衛という役割を与えられたが、決して家族の一員に戻れた訳ではない。
本田家の長女であり加護持ちでありながら、蒼は本田家の使用人も同然だった。
だからこそ蒼は茜の言う事に逆らえないし、茜の機嫌を損ねない様振る舞っている。一見仲の良い姉妹に見えるものの、実際には妹である茜に絶対的な服従を誓わされているのだ。
「そっか。そうだよね」
茜の納得した様子に蒼はほっとした。
「蒼ちゃんは本田家の恥だもんね。期待しちゃった茜が駄目だったね」
「そう、だね」
「蒼ちゃんごめんね。役立たずの蒼ちゃんにはちょっと難しかったよね」
茜は軽く「ごめんね」と言う。嫌味を言っているつもりなどないのかもしれない。しかし同じ親から生まれた姉妹とは思えない発言に蒼は苦笑するしかなかった。もうずっと前から茜にとって蒼は姉ではなく使用人と同じだったのだと嫌でも実感させられる。
「あ。予鈴が鳴っちゃったわ。行かなくちゃ。じゃあね、蒼ちゃん」
茜は少し駆け足に教室へと向かった。
本来ならば蒼も向かうはずの教室へ。
しかし蒼は茜と同じように進むことは許されていない。蒼は立ち止まって茜を見送るしかなかった。
ーー私はいつまで……。
茜を見送るたびに、心の中に疑問が浮かぶ。
この生活はいつまで続くのだろう、と。
昔、蒼は自分が加護持ちだと告げたことがある。けれど茜という加護持ちの娘のおかげもあり、この東都で力をつけ始めた本田家に蒼の言い分を握りつぶすのは容易い事だった。子どもの戯言だと蒼の発言を無かった事にしたのだ。それどころか狂言を言うおかしな娘として家の中に長い間監禁し、蒼の存在を周囲から消していった。食事は腐りかけた残飯しかもらえず、トイレさえも監視の前でせねばならなかった。お風呂も当然入れてもらえず、生きるための最低限の事しか許されなかった。
そうして蒼は茜の護衛としてようやく社会に出てる事ができたのだ。自分が加護持ちだと告げてあの監禁生活に戻るのは絶対に嫌だった。
ーーもし。もしも茜がみそめられたら。
あの生活に戻るのだろうか。
それとも使用人として生活を続けるのだろうか。
茜は跡取り娘だ。両親も婿入りしてくれる男性を探しているはずで、蒼はずっと茜の護衛として生きるのだと思っていた。
しかし、もし財閥御曹司が茜を見初めたら。どうなるのか、蒼には想像がつかない。
ーー私はどうなるんだろう。
あの監禁生活には戻りたくない。
けれどこのままの生活を続けるのも嫌だと思う自分がいる。
蒼にも何をどうすればいいのかわからない。
それなのに状況はどんどんと変わっていく。
蒼は学園に背を向け、ゆっくりと歩き出した。蒼は茜の帰りを待つためにいつもの待機場所へと向かうのだった。
日が傾きかけた頃、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
茜を待つため、蒼は学園の入り口近くにある校庭で待機していた。学園の生徒の使用人達が送り迎えの際に待機する小さな校庭で、日中に生徒が寄ることはほぼない場所だ。送り迎えの際にしか人がいない場所だが、蒼は茜を待つために一日中この場所で過ごす。特にすることもないので日々剣や武術の鍛錬をして過ごしている。
「もうすぐ茜の帰る時間ね」
鐘の音で蒼は動きを止めて息を整えた。
ーー茜は御曹司様と上手く出会えたかしら。多分だけど、茜が見初められる事はないわね。
学園への視察は珍しくはない。加護持ちはその力で様々な恩恵をもたらすため、企業への勧誘や結婚相手探しを目的に多くの著名人が学園にやってくる。
しかし財閥の御曹司となると話は別だ。視察に来なくても持ち込まれる話は山ほどあるからだ。わざわざ学園に足を運ぶという事は、もっと別の目的があったのではないだろうか、と蒼は考えていた。
ーー茜を宥めるのに苦労しなければいいけど……。
きっと茜は思い通りにいかなくて不機嫌になっているだろう。想像するだけで憂鬱な気分になる。
しかしそれと同時にまだこの生活が変わらない事に安心している自分もいた。
もし、茜のように自分の人生を決められるのならば、蒼も自分で新しい人生を見つけたいと思った。けれどそれは叶わない夢だ。それならばあの監禁生活に戻らないよう努めるだけだ。
ーーそうだ……。私の加護を使えば……。
ふと、蒼はそう思った。
「縁切り」の加護を持つ蒼。加護を使って茜と御曹司の縁を切れば、しばらくはこのままの生活が続くはずだ。
蒼は周囲に誰もいないことを確認して、人目につかない茂みに身を潜めた。
そして手のひらを目の前に突き出す。
「我を加護せし神よ」
そう呟くと、蒼の手のひらの上に毛糸の玉のようなものが現れた。毛糸の玉は金色に輝いて神秘的に見える。
「本田茜と財閥御曹司との縁を示したまえ」
すると毛糸の玉はくるくると回って少しずつ解けていく。その中から一本の糸がするりと蒼の前に伸びてきた。
この糸は人と人との縁だ。糸にも様々な種類があり、恋仲になる縁ならば赤い糸、因縁の相手は黒い糸、友人関係は青い糸など、色によってその関係性が異なる。そしてこの糸を切ればその人同士の縁が切れる。これが蒼の力だった。
ーー糸の色が……赤じゃない。
伸びてきた糸の色は黒に近い色だった。
蒼は思わず眉間に皺を寄せた。
この関係が今後どんな影響を与えるのか分からないが、ある意味今のうちに切っておいた方がいい縁には違いない。しかし財閥御曹司というだけで名前を知らないので、この縁が未来のものか現在のものか判断がつかない。
ーーどちらにせよ、いい縁じゃないもの。切ってしまった方がいいのかも。
そう思って蒼が糸を引きちぎろうとした瞬間、背後からがさっと草音がした。
ーー誰!?
蒼は身構えた。勿論すぐに加護の力で出した糸も消した。
ーーしまった!力を使うところを見られた!?
誰にどこまで見られたかによって、蒼の対応も変わってくる。蒼は誰が出てくるのかをじっと待った。ただ近くを通っただけならこのまま黙っておけばいい。
ーーこんな所で力を使うなんて浅はかだったな。
いくら人がいないからと言って使うべきではなかったと悔やんだ。
どうかただ近くを通っただけであって欲しい。
しかしその期待はすぐに裏切られた。
一人の男性が草むらから顔を出してきた。少し目つきが悪いが、整った顔立ちで人間とは思えないような美しさだった。男性は辺りを見渡しながら、草むらを分け行ってきた。そして草むらの茂みの奥にいた蒼を見つけるとその整った顔に満面の笑みを浮かべた。
「見つけた」
そして優しく蒼を抱き寄せた。女性とはいえ武道の嗜みがある蒼を最も簡単に抱き寄せたので、蒼は恥ずかしさよりも驚きの方が大きかった。
蒼はすぐに男性から距離を取ろうとしたが、なかなかその腕の中から抜け出せない。優しく抱きしめられているのに、全く歯が立たないのだ。
蒼は困惑した。
「ようやく見つけた。私の花嫁」
花嫁と呼ばれ、蒼はぴたりと動きを止めた。
ーーえ?何を言っているの?
この男性は誰なのか。加護持ちだと知られてしまったのか。花嫁とはどういう事か。たくさんの疑問が蒼の頭をぐるぐると回る。
「は、離して!」
蒼が叫ぶと、男性は力を緩めてくれた。蒼は慌てて距離を取った。
男性は今もにこにこと嬉しそうな笑顔で蒼を見つめてくる。
「縁切りの加護を持つ姫。貴方は私の妻となるべき運命だよ。自分の力で確かめてみるといい」
蒼はさっと顔色を悪くした。
ーーまずいまずい!!縁切りの加護持ちだってこの人に知られた!
頬を赤く染めた男性とは反対に蒼の顔色は真っ青だった。
「な、何の事でしょうか。私は加護なしです」
蒼は苦し紛れに反論した。
「それは……」
「貴方が何と言おうと私に加護はありません。人違いです」
そう言って逃げるようにこの場を立ち去った。
蒼はかなり動揺していた。花嫁と呼ばれたことも意味がわからないが、それ以上に加護持ちだと知られてしまった事に動揺していた。
ーーあの人が誰かに話したら……私は本当に本田家から追い出される。追い出されるならまだマシかもしれない。もっと酷い目にあうかも。
今の生活がこのまま続くの思っていたのに、打ち砕かれてしまった。蒼はそれが何より怖かった。
どうしよう、という思いで頭がいっぱいだった。
真っ白な頭でどうすればいいのか考えたが、動揺して考えがちっともまとまらない。
「蒼ちゃん!聞いてる?!」
茜の怒りに満ちた声で、蒼は現実に引き戻された。不機嫌な様子からして財閥御曹司とは上手くいかなかったとすぐにわかる。
ーーうまくいかなかったのね。
まだ心の中に靄がかかっているものの、少し安心した自分がいた。
ーー考えても仕方ない。そもそもあの人は私の名前も知らない。これから見つからなければいいんだ。
まだ何とかなる。そう思う事で心を落ち着かせた。
「ごめんなさい。少し鍛錬しすぎてぼうっとしてたみたい」
「もう!蒼ちゃんは茜の護衛でしょ!しっかりしてよね!」
茜は周囲の目も気にせず怒っていた。
蒼は困ったように眉根を下げた。
あの男性のことがあったとはいえ失敗だったと思う。茜のことが上手くいかなくなる事も、そのせいで茜の機嫌が悪くなる事も想像がついていた。少しでも早く機嫌をとるように行動するべきだったのに、さらに不機嫌になるような行動をしてしまった。
これは茜の機嫌取りは長くなるかもしれない、と蒼は心の中でため息をついた。
「本当にごめんなさい」
茜はツンとした態度で返事もしなかった。
「茜、財閥御曹司様とは会えたの?」
「あんな人知らないわ!」
茜は声を尖らせて叫んだ。
「茜の機嫌を損ねるなんて、御曹司様は酷い事をしたのね」
「そうなの!聞いてよ蒼ちゃん。財閥御曹司様のくせに全然見る目なかったの」
「どういうこと?」
「財閥御曹司様、茜の教室に来たの。だからね、茜から声かけてあげたのに、どんなに声かけても無視されるし、先生からはしたないって注意されたの!」
「それは……災難だったね」
容易く想像できてしまう。
「財閥御曹司様も事情があったのかもね」
「事情?」
「視察という立場で来られてるなら軽々と話しちゃいけなかったかもしれないでしょ?」
「そう……よね。男性が茜を放っておくはずないもの。そうに違いないわ。だとしたらあの先生!もう信じられない!あの先生が邪魔しなきゃ話せたかもしれないじゃない!解雇してくれないかお父様に頼まなくちゃ!」
そう言って勇む茜を、蒼は何とも言えない表情で見守った。
ーーまだこの生活が続くのね。

