「どうなってるんだ!!」
今日も天宮家には怒号が飛び交っている。
「ずっと雨続きで作物は腐っちまった!」
「いつになったら晴れるんだ!」
夕紀が玄関の様子を伺うと、どうやら近くに住む農民達がまた怒鳴りに来ていたらしい。
ここ数週間晴れ間がなく、雨が降るか曇り空が続いていた。そのため農作物は大打撃を受けていたのだ。天気を読み晴れを告げる役職にある天宮家は、国の中でかなり重要な地位にいる。そのため恩恵も大きく莫大な財産も築いてきた。それほど天気を読む仕事は重要な役目なのだ。だというのに天宮家は雨や曇を予報できず無責任に「明日は晴れになる」と言い続けてきた。それに不満を積もらせた農民達は、こうして天宮家に怒鳴り込みに来るようになっていた。
対応している使用人はオロオロするばかりで何も言えずにいた。その煮え切らない態度に、怒りが収まらない農民達は気持ちが昂り、次第に声が大きくなっていく。
そうして屋敷の奥にまで声が届いてきていたのだ。
「また苦情だわ」
洗濯物を片付けていた使用人達は声を潜めてそう話していた。
「やあねえ。怖いわ」
「でも仕方ないわよね」
「そうね。天気を読むのが役目なのにずっと予報を外してるんだもの」
「本当に全然当たんないわよね。梅雨もなかなかあけなかったし」
天宮家の予報外れは最近のことではなかった。冬に大雪になった時も、春になったのに暑い日が続いた時も、梅雨がなかなか明けなかった時も、天宮家は「晴れるでしょう」としか予報しなかった。きちんと予報してくれていたら、農民達も対策が出来たというのに。
役目を果たせていない天宮家に農民達の不満が募るわけである。
「もう天宮家も終わりかしら」
「私、別の働き口を探そうかしら」
「私も。噂じゃ龍宮家がもうすぐ花嫁を迎えるらしいわよ。きっと求人があるはずだわ」
そして使用人達からの評判も良くなかった。代々仕えてくれていた人々も次々と辞めていった。夕紀は何とも言えない表情で使用人達を見つめていた。
そんな夕紀の視線に気がついた使用人達は、顔を見合わせていそいそと洗濯物を取り込み始めた。
夕紀も気まずくて、俯いて視線を逸らした。
「このままこの屋敷に仕えてたらあの子みたいに惨めな扱いされるに決まってるわ」
「そんなの御免よね」
そう言いながら使用人達は足早に洗濯物を持って過ぎ去って行った。使用人達はクスクスと笑いながら、あえて夕紀に聞こえるようにそう話したのだ。
夕紀はその使用人達を直視することができず、俯いたままだった。
夕紀はとぼとぼと歩き始めた。しとしとと雨が降り始め、夕紀の気持ちはさらに沈んでいく。
気持ちが重いまま、夕紀は天宮朝陽の待つ部屋に来た。襖を開けて中に入ろうとすると、空よりもさらに重い雰囲気が漂っていた。
「夕紀、何やってたの?」
朝陽が険しい顔で夕紀を睨みつけた。鬼と見間違う程恐ろしい表情に、夕紀は足を止めてしまった。
天宮朝陽は、この家の主である天宮家の娘だ。天宮家に相応しく美しく着飾っているというのに、その表情で台無しだ。
しかし、夕紀はそれを見てこれはまずいと思った。
「あ……ご、ごめんなさい」
さっきまで機嫌が良かったと思っていたのに、まさかお茶の準備をしていたほんの少しの短い時間で機嫌が悪くなってしまうなんて。
「私、疲れてるの。知ってるでしょ」
「朝陽、私の配慮が足りなかったわ」
「本当にそうよね。夕紀はいつもそう」
そう言いながら朝陽はゆっくりと立ち上がった。一歩一歩ゆっくり近付いてくる朝陽に、夕紀は震えて待つしか出来ない。
「これだから忌み子は嫌よ」
ぱしんっ!といい音が響いた。
その瞬間、夕紀の頬に衝撃が走る。夕紀は歯を食いしばって耐えた。
夕紀は「忌み子」と言われ、体を小さくした。
天宮夕紀は、朝陽の姉であり、天宮家の長女である。しかし生まれながらの雨女で、行事の時は勿論、夕紀が外に出ると必ず雨が降るのだ。天気を読み晴れを占う一族に、必ず雨を呼ぶ存在がいるとなると外聞が悪い。それ故に家族からは「忌み子」と呼ばれていた。夕紀の存在は一部しか知らず、いつもは朝陽の世話係として使用人と同じように振る舞うことで隠されている。
「本当うんざりするわ」
そしてまるで汚物を見るかのように夕紀を睨みつけた。
じんじんと痛む頬を押さえて、夕紀は耐えた。文句を言えば何倍にもなって返ってくる。倒れたら今度は踏みつけられる。夕紀にとってはどんなに辛くても、黙って耐えるのが最善なのだ。
そんな夕紀に朝陽の暴言は止まらない。
「このやまない雨も、夕紀の存在も、この天宮家にはいらないわ!いっそ人柱になって雨を止ませてくれればいいのにっ!」
そう言い終わると、朝陽は椅子にどすんと荒々しく座り、湯呑みを夕紀に向かって投げつけた。
「何してるのよ!早くお茶を入れ直して!」
「は、はい!」
湯呑みは夕紀にあたり、鈍い音を立てて床に転がった。それを慌てて拾い上げ、夕紀は持ってきた茶器で新しいお茶を入れ始めた。
「騒がしいわよ、朝陽。来客中は静かにしなさいと言ったでしょう」
その時、夕紀と朝陽の母親が入ってきた。
「仕方ないでしょ。夕紀がまたお茶をこぼしたんですもの。見てよ、畳に染みがついてしまったわ」
「なら畳を変えればいいでしょう。騒がしいと淑女として変な噂がたってしまうわよ」
「はあい」
朝陽は不満そうにしつつも、素直に頷いた。
隅でお茶を淹れていた夕紀は、二人のやりとりをひっそり気配を消して見ていた。母親には夕紀の姿はいつも見えていない。ここで夕紀が一言でも話すと、母親は鬼の如く怒るのだ。それはもう朝陽の比ではない。そのため夕紀は気配を消してやり過ごそうとしていた。
が、何故かこの日はそうはいかなかった。
「夕紀」
「はっ!はい!お、お母様」
しまった、と思った。
母親の顔がみるみる歪んでいく。そして地を這うような低い声がした。
「貴方に母と呼ばれる筋合いはありません」
夕紀は深々と頭を下げた。顔を見るのも怖かった。
一方で朝陽は楽しそうにニヤニヤと見ている。まるでここから楽しい劇でも始まるかのようだ。
「す、すみませんでした。奥様」
そう。いつもなら、夕紀は青あざだらけになるまで殴られるのだ。しかし今日は機嫌が良かったらしい。
「貴方に話したいことがあります。この場で、と思ったけれど汚れているなら仕方ないわね。すぐに応接室にいらっしゃい」
「えっ!?」
そんな母親の態度に夕紀よりも朝陽の方が驚いて声を上げた。しかし母親はそれ以上何も言わずに背を向けた。
夕紀はこれ以上機嫌を損ねまいと慌てて返事をした。
「かしこまりました」
その声が届いているかどうかは分からなかった。顔を上げる前に襖が閉じる音がした。
朝陽は何が起こったのか分からず、夕紀を睨んでいる。睨まれても夕紀にも何が起こっているのか分からない。ただ、いつもと違う様子に夕紀の胸はざわつくのだった。
しかし、夕紀はいつまでもここでじっとしているわけにはいかない。遅くなればきっとまた暴力を振るわれる。夕紀は慌てて応接室へと向かおうと立ち上がった。
朝陽の刺さるような視線を背中で感じたが、気付かないふりをして部屋の襖を閉めた。
応接室はそれほど遠くない場所にある。すぐに追いかけたおかげで応接室に入る母親の背中が見えた。夕紀も息を整えて部屋に入った。
「失礼します」
「ああ来たか」
部屋には恰幅の良い中年の男性が座って待っていた。天宮家現当主であり、夕紀と朝陽の父親である。
「早速本題だがな、夕紀。お前を龍皇子に捧げる事になった」
「喜びなさい、貴方の様な忌み子が役にたつ日が来たのよ」
嬉しそうに報告する両親に、夕紀は何も言えなかった。
ーー捧げる?それは奴隷になるということ?
この国には人間だけではなく、多くのあやかし達も住んでいる。特に龍族、鬼族、天狗族、妖狐族の四種族は大きな力を持ち、政治や経済でも大きな影響力を誇る。いくら天宮家が重役を担う由緒ある家柄と言ってもこの四種族には足元にも及ばない。
そんなところに「捧げる」と言われれば、奴隷のようにこき使われるために売られるのかと思うのも無理はない。
しかし次に聞こえた言葉は夕紀には想像も出来ないものだった。
「お前には龍族筆頭・龍宮家の次男、龍宮弥天に嫁いでもらう」
「え……私が結婚ですか?」
「おほほほほ!貴方も運が良いわね」
てっきり奴隷として売られるのかと思っていたが、そうではないらしい。
しかも結婚ときたのだから驚くのも無理はない。夕紀はこの家にいる限り絶対に結婚なんて出来ないと思っていたのだから。何故このような話になったのかと聞きたくても聞けない。夕紀は狼狽えるしか出来なかった。
その時、襖が勢いよく開かれた。
「結婚ですって!?何で夕紀が!私には!?私には結婚話はないの!?」
朝陽が物凄い剣幕で叫んだ。朝陽に睨まれて夕紀はびくっと肩を震わせた。
令嬢らしからぬ態度の朝陽に両親は深いため息をついた。
「落ち着け。縁談は龍宮家次男との縁談だ」
「少しでも逆鱗に触れれば殺されると有名で巷では荒神と呼ばれる有名な方ですからね。夕紀、あの方の逆鱗に触れない様、気をつけなさい」
ずっと使用人として働いていた夕紀は龍宮家の事について詳しくない。しかしどうやら龍宮家の次男は悪い意味で有名らしい。
朝陽は態度をころりと変えた。先程の怒り狂った態度から一変して楽しそうに嘲笑って夕紀を見下した。
「あらそうなの。私はてっきり龍宮家長男の篁様との婚姻かと」
「そんな訳ないでしょう。でもこれでようやく荷物整理ができるわ」
そう呟く母は心から安堵した表情をしていた。
「本当に。これで我々の威厳も取り戻せるはずだ」
「近年の雨は全部この子のせいですからね」
三人に嘲笑われて、夕紀はこの時からプツリと何かの糸が切れたような気持ちになった。
元々家族のような扱いをされた事などなかった。期待するだけ無駄だと分かっていても、これが最後になるかもしれないと言うのにこの態度である。
どんなに朝陽や父親から罵詈雑言を浴びせられようとも反応しない夕紀に、母親は不満そうに部屋を追い出して身支度するように告げた。
心のどこかで頑張っていればいつか優しくしてもらえるかもしれないと思っていた。けれど結局応接室を追い出された今でも、三人からは別れの言葉一つ出てこない。夕紀はこれまでの自分の頑張りを全て否定された気持ちになった。
気がつけば、外はほんのりと薄暗くなり部屋に影を落とし始めていた。そうして蛙が鳴き始め、その声が屋敷に響き渡った。
夕紀が空を見上げると、空はどんよりとした鉛色に染まっていた。忙しなく廊下を行き交う使用人達が空を見上げて恨めしそうに呟いた。
「あらやだ。また雨かしら……?」
今にも降り出しそうな様子に、眉間に皺を寄せている。
「鬱陶しい」
夕紀はびくりと体を震わせた。夕紀に向けて言った言葉ではないと分かっていても、夕紀はさっと顔を青くした。
雨が降るのは夕紀のせい。
そう教え込まれてきた夕紀は、雨は全て自分のせいだと思えてしまい、鬱々とした気持ちになってしまう。
ーーこれから、私はどうなるのかしら。
あれから数日後。
夕紀は一人、湿地帯の中にある町を歩いていた。
あやかし達はそれぞれが住みやすい地域に住んでいる。龍族は水辺を好んで住むため、龍族の住む地域は水の都とも呼ばれている。大きな池の中にいくつもの優美な建物が建っている情景は非常に幻想的だった。
その中でも特に豪奢な建物の前に夕紀は来ていた。天宮家から最小限の荷物だけを持たされて出てきた夕紀は、当然門の前で止められていた。
「貴方が天宮家の花嫁ですか?」
人間では想像もつかないような美しい男性が怪訝そうに夕紀を見てくる。疑われるのも仕方ない。貧相な夕紀はどうしても名門天宮家の令嬢には見えないのだ。
男性はため息をついた。
「まあいいでしょう。弥天様が会えばすぐに分かりますから」
そう言って門番に説明をして屋敷の中へと案内してくれた。夕紀は何も言わずに男性の後ろをついて行った。屋敷の中には川がひいてあり、屋敷だけでなく庭まで広く天宮家など比べ物にならないほどの広さだった。
夕紀はその中でも一番大きな建物の中に案内された。とても大きくて、この屋敷だけでも迷子になりそうだ。しばらく進むと男性がようやくある扉の前で足を止めた。
そして男性が扉を叩いた。
「弥天様。花嫁をお連れしました」
しかし返事はない。男性がまたため息をつき、もう一度扉を叩こうとすると、扉の中から怒号が聞こえた。
「ふざけんな!!」
あまりの勢いに夕紀は体をこわばらせた。
「またですか……」
男性は重いため息をついた。どうやらこれが日常風景のようだ。ふと弥天が天宮家で「荒神」と呼ばれていた事を思い出した。あまり実感がなかったが、こうしてドスの効いた声を聞くと血の気が引く思いがする。
しかし男性は躊躇なく扉を開けた。
「どうぞ」
夕紀は手をぎゅっと握りしめて部屋の中へと足を踏み入れた。
そこには頭を下げて小さくなっている中年の男性と、まだ若く漢気溢れる男性がいた。おそらく若い男性が弥天だろう。鍛えられた体つきからは机仕事をしそうには見えないが、男性の机の上には山のような書類が積み上がっていた。しかし机の上は綺麗に整理されている。
弥天は切れ長の鋭い目をしており、鍛えられた体格と相まって、かなり怖い印象だった。荒神と呼ばれるのも納得の風貌だ。
「こんな予算案持ってきやがって頭沸いてんじゃねえのか!!」
「し……しかしこれは大事な祭事に必要な経費でして……。毎年と変わらない金額で計上しているのですが……」
「それが無駄だって言ってんだろうが!それとも何だ?お偉い経理担当様のくせして一から十まで懇切丁寧に教えなきゃわかんねえのかよ」
「っ!」
「わかるよなぁ?俺みたいな荒くれ者にだってこの金額がふざけてんのがわかんだからよ」
中年男性は睨むように弥天を見て、口を開いた。しかし弥天は何も言わせなかった。中年男性の首元に刀を向けたのだ。中年男性はあまりの早業に言葉も出ず、ただただ恐怖していた。
「次はその首を差し出す覚悟で予算案持ってこい」
中年男性は嫌な汗を流しながら、足早に部屋を出ていった。夕紀はその男性を少しかわいそうな気持ちで見送るしかできなかった。
「あ?んだよ周助いたのか」
夕紀をここまで案内してくれた男性は周助と言うらしい。
弥天はまだ不機嫌なようで苛々した口調だった。夕紀は体をこわばらせたまま部屋の隅で小さくなっていた。
周助は困ったような表情を見せた。
「ええ。少し前から。お取り込み中だったので声掛けを控えましたが、花嫁殿を連れてきましたよ」
そう言って周助は夕紀に視線を送った。
夕紀の姿を見た弥天は勢いよく立ち上がった。そして何も言わず真剣な表情をして夕紀に駆け寄ってきた。その迫力に夕紀は震えるしか出来ない。
そのまま突き飛ばされるのではないかと思うほどの勢いに夕紀は思わず目をつぶった。しかし予想は外れ、突き飛ばされる事はなかった。夕紀の前に立ち止まってじっと見つめてくる。
「あ、あの……」
真剣な弥天の様子に夕紀は何と声をかけていいのか戸惑ってしまう。
「お初にお目にかかります。天宮夕紀と申します」
とりあえず挨拶をせねばと慌てて頭を下げた。
と、次の瞬間。
夕紀は体を引き寄せられ、暖かい腕の中に閉じ込められていた。
「会いたかった」
耳元でそう呟かれた夕紀は顔を赤くした。体温が一気に上がっていき、頭が上手く回らない。
家族にだってこんな風に抱きしめられた事はない。耐性のない夕紀は弥天の腕の中でじっとしているしかできなかった。
一方で弥天は愛おしそうに夕紀を優しくあつく抱きしめて話そうともしない。
そんな二人の様子を見て、周助はため息をついた。
「弥天様」
「あ?んだよ周助」
「目の前で乳繰り合うのはやめてくれません?」
「何言ってんだ。生まれた時からずっと待ち望んだ嫁だぞ。少しぐらい大目に見ろ」
「私にまで威圧するの辞めてくださいよ。貴方の本性は小さい頃から知ってますから」
「だったら余計見逃せ」
周助の言葉で夕紀もようやく今の状況が恥ずかしいものだと気がついた。体をもぞもぞと動かして弥天から少し距離を取る。
「あ……あのぅ。苦しいです」
「すまない!」
夕紀が訴えるとすぐに解放してくれた。そして心配そうに夕紀を上から下まで確認してくる。しかし手はずっと握ったまま離そうとしない。
その手の温もりに夕紀の顔の熱が下がる事はなかった。しかしその温もりが嫌ではなくて、離してほしいとも言えなかった。
「痛かった……?」
「いえ。痛くなかったです」
「良かった」
甘く蕩けるような笑顔に夕紀はまたもや頭がくらくらした。先程までの剣幕とは全く違い、今ではものすごく懐いてくれる大型犬のようにも見える。
夕紀には耳と尻尾まで見えた。
「本当に。ようやく会えた」
「あ、えっと……」
「焦ってる姿も可愛いね」
これでは埒が開かないと、夕紀は焦ってつい後ろの周助に助けを求めた。
周助も見かねたようで、今度は眉間に皺を寄せて弥天の肩を叩いた。
「弥天様。本当にそろそろ説明をしなくては混乱していますよ」
「あ?わかってるよ」
弥天は夕紀から名残惜しそうに手を離し、真剣な眼差しで跪いた。あまりに突然のことで夕紀は開いた口が塞がらない状態になった。
「私は弥天。大和弥天。龍族の龍宮家の次男だ。夕紀が生まれた時からずっと探していた……。私の運命の彩人」
「私が、弥天様の彩人……?」
あやかしと人間が共存関係にあるのは、人間の中にはあやかしの力を高めてくれる人間がいるためである。この人間の存在をあやかし達は「彩人」と呼んでいる。特に高位のあやかしほどこの彩人をそばに置きたがるのだ。
人間にとって彩人に選ばれるのはとても名誉な事だった。しかしまさか自分がその彩人だとは夕紀は思ってもいなかった。
先程の荒々しい態度とは全く違う恭しい態度に、夕紀は混乱する。荒くれ者と有名でその態度を目の前で見たはずなのに、今夕紀に向けられる優しく熱のこもった眼差しからはとてもそうは思えない。
「これから夕紀には、私の妻として離宮に入ってもらう。ああ。安心して。私の妻は夕紀だけだから」
はっきりと「妻」と言われ、この弥天が夕紀の旦那様になるのだと実感する。すると全身が沸騰したかのように熱くなっていく。
「どうしたの?」
「いえ。何でもありません」
心配そうに顔を覗かれると、もう立っているのも限界に近い。夕紀は顔を横に振って弥天から顔を逸らした。
「夕紀は来たばかりで色々疲れたんだろう。離宮に案内するよ」
「ありがとうございます」
夕紀は案内してくれる弥天の背中をじっと見つめた。
荒々しい態度が本物なのか、それとも自分に向けられる熱く優しい眼差しが本物なのか、夕紀には分からない。ただ、今までに感じたことの無い温かさに、夕紀は戸惑うしかなかった。家族から虐げられてきた夕紀はその温かさをどう受け取っていいのか正直分からない。
と、その時優しい声に呼び止められた。
「弥天」
そこには弥天に似た切れ長の目をした男性がいた。しかし弥天とは違い穏やかな目つきと優しい雰囲気をしていた。
「篁兄上、どうなさいましたか?」
「使用人達から弥天がいないと報告があって探してたんだよ」
篁と言えば、弥天の兄であり龍宮家次期当主である。弥天の態度が夕紀に対する甘いものでもなく、使用人に対する威圧的なものでもない、嬉しそうな態度になった。その様子からもとても仲の良い兄弟なのだろうと思われた。
夕紀が弥天の背に隠れながら様子を伺っていると、篁と目が合ってしまった。夕紀は慌てて弥天の背に隠れて目を逸らした。
「ちっ。堪え症のねえ奴らだな」
弥天の態度が急変した。夕紀は思わずびくっと体を震わせたが、男性はころころと笑うだけだった。
「どうやらお取り込み中だったみたいだね。ところで弥天。早くそこの女性を紹介してくれないかな?」
「すみません。こちらは今日から離宮に住む私の花嫁です」
そう言って、弥天が夕紀の背中を押して前に出した。
「貴方が弥天が待ち望んだ花嫁だね」
「お初にお目にかかります。天宮夕紀と申します」
「私は大和篁。弥天の兄だよ。これから弟をよろしくね」
篁は笑顔を崩さなかった。しかしどこか萎縮してしまう笑顔だ。
「弟は私のために嫌な役回りをしていてね。だから兄としては少しでも弥天の周りには沢山の味方いて欲しいと思っているんだ」
ひやりとした視線に夕紀は悪寒を感じた。篁に試されているのだとひしひしと感じる。
そんな夕紀を庇うように弥天か前に出た。
弥天の大きな背中に夕紀は思わず頬を紅潮させた。
「兄上。夕紀は大丈夫です。私が何よりも守り抜きますから」
「全く。弥天は昔からそうだったね」
篁はそれ以上夕紀を問い詰めることもせず、肩をすくめた。
「ようやく花嫁に会えた可愛い弟のためにこの後はゆっくり休むといい。使用人達には私から伝えよう」
篁がそう言うと、弥天からも緊張した雰囲気が緩んで見えた。
「ああ、言い忘れていたよ」
篁は優しい笑顔を見せた。
「おめでとう、弥天。これから幸せにね」
今日も天宮家には怒号が飛び交っている。
「ずっと雨続きで作物は腐っちまった!」
「いつになったら晴れるんだ!」
夕紀が玄関の様子を伺うと、どうやら近くに住む農民達がまた怒鳴りに来ていたらしい。
ここ数週間晴れ間がなく、雨が降るか曇り空が続いていた。そのため農作物は大打撃を受けていたのだ。天気を読み晴れを告げる役職にある天宮家は、国の中でかなり重要な地位にいる。そのため恩恵も大きく莫大な財産も築いてきた。それほど天気を読む仕事は重要な役目なのだ。だというのに天宮家は雨や曇を予報できず無責任に「明日は晴れになる」と言い続けてきた。それに不満を積もらせた農民達は、こうして天宮家に怒鳴り込みに来るようになっていた。
対応している使用人はオロオロするばかりで何も言えずにいた。その煮え切らない態度に、怒りが収まらない農民達は気持ちが昂り、次第に声が大きくなっていく。
そうして屋敷の奥にまで声が届いてきていたのだ。
「また苦情だわ」
洗濯物を片付けていた使用人達は声を潜めてそう話していた。
「やあねえ。怖いわ」
「でも仕方ないわよね」
「そうね。天気を読むのが役目なのにずっと予報を外してるんだもの」
「本当に全然当たんないわよね。梅雨もなかなかあけなかったし」
天宮家の予報外れは最近のことではなかった。冬に大雪になった時も、春になったのに暑い日が続いた時も、梅雨がなかなか明けなかった時も、天宮家は「晴れるでしょう」としか予報しなかった。きちんと予報してくれていたら、農民達も対策が出来たというのに。
役目を果たせていない天宮家に農民達の不満が募るわけである。
「もう天宮家も終わりかしら」
「私、別の働き口を探そうかしら」
「私も。噂じゃ龍宮家がもうすぐ花嫁を迎えるらしいわよ。きっと求人があるはずだわ」
そして使用人達からの評判も良くなかった。代々仕えてくれていた人々も次々と辞めていった。夕紀は何とも言えない表情で使用人達を見つめていた。
そんな夕紀の視線に気がついた使用人達は、顔を見合わせていそいそと洗濯物を取り込み始めた。
夕紀も気まずくて、俯いて視線を逸らした。
「このままこの屋敷に仕えてたらあの子みたいに惨めな扱いされるに決まってるわ」
「そんなの御免よね」
そう言いながら使用人達は足早に洗濯物を持って過ぎ去って行った。使用人達はクスクスと笑いながら、あえて夕紀に聞こえるようにそう話したのだ。
夕紀はその使用人達を直視することができず、俯いたままだった。
夕紀はとぼとぼと歩き始めた。しとしとと雨が降り始め、夕紀の気持ちはさらに沈んでいく。
気持ちが重いまま、夕紀は天宮朝陽の待つ部屋に来た。襖を開けて中に入ろうとすると、空よりもさらに重い雰囲気が漂っていた。
「夕紀、何やってたの?」
朝陽が険しい顔で夕紀を睨みつけた。鬼と見間違う程恐ろしい表情に、夕紀は足を止めてしまった。
天宮朝陽は、この家の主である天宮家の娘だ。天宮家に相応しく美しく着飾っているというのに、その表情で台無しだ。
しかし、夕紀はそれを見てこれはまずいと思った。
「あ……ご、ごめんなさい」
さっきまで機嫌が良かったと思っていたのに、まさかお茶の準備をしていたほんの少しの短い時間で機嫌が悪くなってしまうなんて。
「私、疲れてるの。知ってるでしょ」
「朝陽、私の配慮が足りなかったわ」
「本当にそうよね。夕紀はいつもそう」
そう言いながら朝陽はゆっくりと立ち上がった。一歩一歩ゆっくり近付いてくる朝陽に、夕紀は震えて待つしか出来ない。
「これだから忌み子は嫌よ」
ぱしんっ!といい音が響いた。
その瞬間、夕紀の頬に衝撃が走る。夕紀は歯を食いしばって耐えた。
夕紀は「忌み子」と言われ、体を小さくした。
天宮夕紀は、朝陽の姉であり、天宮家の長女である。しかし生まれながらの雨女で、行事の時は勿論、夕紀が外に出ると必ず雨が降るのだ。天気を読み晴れを占う一族に、必ず雨を呼ぶ存在がいるとなると外聞が悪い。それ故に家族からは「忌み子」と呼ばれていた。夕紀の存在は一部しか知らず、いつもは朝陽の世話係として使用人と同じように振る舞うことで隠されている。
「本当うんざりするわ」
そしてまるで汚物を見るかのように夕紀を睨みつけた。
じんじんと痛む頬を押さえて、夕紀は耐えた。文句を言えば何倍にもなって返ってくる。倒れたら今度は踏みつけられる。夕紀にとってはどんなに辛くても、黙って耐えるのが最善なのだ。
そんな夕紀に朝陽の暴言は止まらない。
「このやまない雨も、夕紀の存在も、この天宮家にはいらないわ!いっそ人柱になって雨を止ませてくれればいいのにっ!」
そう言い終わると、朝陽は椅子にどすんと荒々しく座り、湯呑みを夕紀に向かって投げつけた。
「何してるのよ!早くお茶を入れ直して!」
「は、はい!」
湯呑みは夕紀にあたり、鈍い音を立てて床に転がった。それを慌てて拾い上げ、夕紀は持ってきた茶器で新しいお茶を入れ始めた。
「騒がしいわよ、朝陽。来客中は静かにしなさいと言ったでしょう」
その時、夕紀と朝陽の母親が入ってきた。
「仕方ないでしょ。夕紀がまたお茶をこぼしたんですもの。見てよ、畳に染みがついてしまったわ」
「なら畳を変えればいいでしょう。騒がしいと淑女として変な噂がたってしまうわよ」
「はあい」
朝陽は不満そうにしつつも、素直に頷いた。
隅でお茶を淹れていた夕紀は、二人のやりとりをひっそり気配を消して見ていた。母親には夕紀の姿はいつも見えていない。ここで夕紀が一言でも話すと、母親は鬼の如く怒るのだ。それはもう朝陽の比ではない。そのため夕紀は気配を消してやり過ごそうとしていた。
が、何故かこの日はそうはいかなかった。
「夕紀」
「はっ!はい!お、お母様」
しまった、と思った。
母親の顔がみるみる歪んでいく。そして地を這うような低い声がした。
「貴方に母と呼ばれる筋合いはありません」
夕紀は深々と頭を下げた。顔を見るのも怖かった。
一方で朝陽は楽しそうにニヤニヤと見ている。まるでここから楽しい劇でも始まるかのようだ。
「す、すみませんでした。奥様」
そう。いつもなら、夕紀は青あざだらけになるまで殴られるのだ。しかし今日は機嫌が良かったらしい。
「貴方に話したいことがあります。この場で、と思ったけれど汚れているなら仕方ないわね。すぐに応接室にいらっしゃい」
「えっ!?」
そんな母親の態度に夕紀よりも朝陽の方が驚いて声を上げた。しかし母親はそれ以上何も言わずに背を向けた。
夕紀はこれ以上機嫌を損ねまいと慌てて返事をした。
「かしこまりました」
その声が届いているかどうかは分からなかった。顔を上げる前に襖が閉じる音がした。
朝陽は何が起こったのか分からず、夕紀を睨んでいる。睨まれても夕紀にも何が起こっているのか分からない。ただ、いつもと違う様子に夕紀の胸はざわつくのだった。
しかし、夕紀はいつまでもここでじっとしているわけにはいかない。遅くなればきっとまた暴力を振るわれる。夕紀は慌てて応接室へと向かおうと立ち上がった。
朝陽の刺さるような視線を背中で感じたが、気付かないふりをして部屋の襖を閉めた。
応接室はそれほど遠くない場所にある。すぐに追いかけたおかげで応接室に入る母親の背中が見えた。夕紀も息を整えて部屋に入った。
「失礼します」
「ああ来たか」
部屋には恰幅の良い中年の男性が座って待っていた。天宮家現当主であり、夕紀と朝陽の父親である。
「早速本題だがな、夕紀。お前を龍皇子に捧げる事になった」
「喜びなさい、貴方の様な忌み子が役にたつ日が来たのよ」
嬉しそうに報告する両親に、夕紀は何も言えなかった。
ーー捧げる?それは奴隷になるということ?
この国には人間だけではなく、多くのあやかし達も住んでいる。特に龍族、鬼族、天狗族、妖狐族の四種族は大きな力を持ち、政治や経済でも大きな影響力を誇る。いくら天宮家が重役を担う由緒ある家柄と言ってもこの四種族には足元にも及ばない。
そんなところに「捧げる」と言われれば、奴隷のようにこき使われるために売られるのかと思うのも無理はない。
しかし次に聞こえた言葉は夕紀には想像も出来ないものだった。
「お前には龍族筆頭・龍宮家の次男、龍宮弥天に嫁いでもらう」
「え……私が結婚ですか?」
「おほほほほ!貴方も運が良いわね」
てっきり奴隷として売られるのかと思っていたが、そうではないらしい。
しかも結婚ときたのだから驚くのも無理はない。夕紀はこの家にいる限り絶対に結婚なんて出来ないと思っていたのだから。何故このような話になったのかと聞きたくても聞けない。夕紀は狼狽えるしか出来なかった。
その時、襖が勢いよく開かれた。
「結婚ですって!?何で夕紀が!私には!?私には結婚話はないの!?」
朝陽が物凄い剣幕で叫んだ。朝陽に睨まれて夕紀はびくっと肩を震わせた。
令嬢らしからぬ態度の朝陽に両親は深いため息をついた。
「落ち着け。縁談は龍宮家次男との縁談だ」
「少しでも逆鱗に触れれば殺されると有名で巷では荒神と呼ばれる有名な方ですからね。夕紀、あの方の逆鱗に触れない様、気をつけなさい」
ずっと使用人として働いていた夕紀は龍宮家の事について詳しくない。しかしどうやら龍宮家の次男は悪い意味で有名らしい。
朝陽は態度をころりと変えた。先程の怒り狂った態度から一変して楽しそうに嘲笑って夕紀を見下した。
「あらそうなの。私はてっきり龍宮家長男の篁様との婚姻かと」
「そんな訳ないでしょう。でもこれでようやく荷物整理ができるわ」
そう呟く母は心から安堵した表情をしていた。
「本当に。これで我々の威厳も取り戻せるはずだ」
「近年の雨は全部この子のせいですからね」
三人に嘲笑われて、夕紀はこの時からプツリと何かの糸が切れたような気持ちになった。
元々家族のような扱いをされた事などなかった。期待するだけ無駄だと分かっていても、これが最後になるかもしれないと言うのにこの態度である。
どんなに朝陽や父親から罵詈雑言を浴びせられようとも反応しない夕紀に、母親は不満そうに部屋を追い出して身支度するように告げた。
心のどこかで頑張っていればいつか優しくしてもらえるかもしれないと思っていた。けれど結局応接室を追い出された今でも、三人からは別れの言葉一つ出てこない。夕紀はこれまでの自分の頑張りを全て否定された気持ちになった。
気がつけば、外はほんのりと薄暗くなり部屋に影を落とし始めていた。そうして蛙が鳴き始め、その声が屋敷に響き渡った。
夕紀が空を見上げると、空はどんよりとした鉛色に染まっていた。忙しなく廊下を行き交う使用人達が空を見上げて恨めしそうに呟いた。
「あらやだ。また雨かしら……?」
今にも降り出しそうな様子に、眉間に皺を寄せている。
「鬱陶しい」
夕紀はびくりと体を震わせた。夕紀に向けて言った言葉ではないと分かっていても、夕紀はさっと顔を青くした。
雨が降るのは夕紀のせい。
そう教え込まれてきた夕紀は、雨は全て自分のせいだと思えてしまい、鬱々とした気持ちになってしまう。
ーーこれから、私はどうなるのかしら。
あれから数日後。
夕紀は一人、湿地帯の中にある町を歩いていた。
あやかし達はそれぞれが住みやすい地域に住んでいる。龍族は水辺を好んで住むため、龍族の住む地域は水の都とも呼ばれている。大きな池の中にいくつもの優美な建物が建っている情景は非常に幻想的だった。
その中でも特に豪奢な建物の前に夕紀は来ていた。天宮家から最小限の荷物だけを持たされて出てきた夕紀は、当然門の前で止められていた。
「貴方が天宮家の花嫁ですか?」
人間では想像もつかないような美しい男性が怪訝そうに夕紀を見てくる。疑われるのも仕方ない。貧相な夕紀はどうしても名門天宮家の令嬢には見えないのだ。
男性はため息をついた。
「まあいいでしょう。弥天様が会えばすぐに分かりますから」
そう言って門番に説明をして屋敷の中へと案内してくれた。夕紀は何も言わずに男性の後ろをついて行った。屋敷の中には川がひいてあり、屋敷だけでなく庭まで広く天宮家など比べ物にならないほどの広さだった。
夕紀はその中でも一番大きな建物の中に案内された。とても大きくて、この屋敷だけでも迷子になりそうだ。しばらく進むと男性がようやくある扉の前で足を止めた。
そして男性が扉を叩いた。
「弥天様。花嫁をお連れしました」
しかし返事はない。男性がまたため息をつき、もう一度扉を叩こうとすると、扉の中から怒号が聞こえた。
「ふざけんな!!」
あまりの勢いに夕紀は体をこわばらせた。
「またですか……」
男性は重いため息をついた。どうやらこれが日常風景のようだ。ふと弥天が天宮家で「荒神」と呼ばれていた事を思い出した。あまり実感がなかったが、こうしてドスの効いた声を聞くと血の気が引く思いがする。
しかし男性は躊躇なく扉を開けた。
「どうぞ」
夕紀は手をぎゅっと握りしめて部屋の中へと足を踏み入れた。
そこには頭を下げて小さくなっている中年の男性と、まだ若く漢気溢れる男性がいた。おそらく若い男性が弥天だろう。鍛えられた体つきからは机仕事をしそうには見えないが、男性の机の上には山のような書類が積み上がっていた。しかし机の上は綺麗に整理されている。
弥天は切れ長の鋭い目をしており、鍛えられた体格と相まって、かなり怖い印象だった。荒神と呼ばれるのも納得の風貌だ。
「こんな予算案持ってきやがって頭沸いてんじゃねえのか!!」
「し……しかしこれは大事な祭事に必要な経費でして……。毎年と変わらない金額で計上しているのですが……」
「それが無駄だって言ってんだろうが!それとも何だ?お偉い経理担当様のくせして一から十まで懇切丁寧に教えなきゃわかんねえのかよ」
「っ!」
「わかるよなぁ?俺みたいな荒くれ者にだってこの金額がふざけてんのがわかんだからよ」
中年男性は睨むように弥天を見て、口を開いた。しかし弥天は何も言わせなかった。中年男性の首元に刀を向けたのだ。中年男性はあまりの早業に言葉も出ず、ただただ恐怖していた。
「次はその首を差し出す覚悟で予算案持ってこい」
中年男性は嫌な汗を流しながら、足早に部屋を出ていった。夕紀はその男性を少しかわいそうな気持ちで見送るしかできなかった。
「あ?んだよ周助いたのか」
夕紀をここまで案内してくれた男性は周助と言うらしい。
弥天はまだ不機嫌なようで苛々した口調だった。夕紀は体をこわばらせたまま部屋の隅で小さくなっていた。
周助は困ったような表情を見せた。
「ええ。少し前から。お取り込み中だったので声掛けを控えましたが、花嫁殿を連れてきましたよ」
そう言って周助は夕紀に視線を送った。
夕紀の姿を見た弥天は勢いよく立ち上がった。そして何も言わず真剣な表情をして夕紀に駆け寄ってきた。その迫力に夕紀は震えるしか出来ない。
そのまま突き飛ばされるのではないかと思うほどの勢いに夕紀は思わず目をつぶった。しかし予想は外れ、突き飛ばされる事はなかった。夕紀の前に立ち止まってじっと見つめてくる。
「あ、あの……」
真剣な弥天の様子に夕紀は何と声をかけていいのか戸惑ってしまう。
「お初にお目にかかります。天宮夕紀と申します」
とりあえず挨拶をせねばと慌てて頭を下げた。
と、次の瞬間。
夕紀は体を引き寄せられ、暖かい腕の中に閉じ込められていた。
「会いたかった」
耳元でそう呟かれた夕紀は顔を赤くした。体温が一気に上がっていき、頭が上手く回らない。
家族にだってこんな風に抱きしめられた事はない。耐性のない夕紀は弥天の腕の中でじっとしているしかできなかった。
一方で弥天は愛おしそうに夕紀を優しくあつく抱きしめて話そうともしない。
そんな二人の様子を見て、周助はため息をついた。
「弥天様」
「あ?んだよ周助」
「目の前で乳繰り合うのはやめてくれません?」
「何言ってんだ。生まれた時からずっと待ち望んだ嫁だぞ。少しぐらい大目に見ろ」
「私にまで威圧するの辞めてくださいよ。貴方の本性は小さい頃から知ってますから」
「だったら余計見逃せ」
周助の言葉で夕紀もようやく今の状況が恥ずかしいものだと気がついた。体をもぞもぞと動かして弥天から少し距離を取る。
「あ……あのぅ。苦しいです」
「すまない!」
夕紀が訴えるとすぐに解放してくれた。そして心配そうに夕紀を上から下まで確認してくる。しかし手はずっと握ったまま離そうとしない。
その手の温もりに夕紀の顔の熱が下がる事はなかった。しかしその温もりが嫌ではなくて、離してほしいとも言えなかった。
「痛かった……?」
「いえ。痛くなかったです」
「良かった」
甘く蕩けるような笑顔に夕紀はまたもや頭がくらくらした。先程までの剣幕とは全く違い、今ではものすごく懐いてくれる大型犬のようにも見える。
夕紀には耳と尻尾まで見えた。
「本当に。ようやく会えた」
「あ、えっと……」
「焦ってる姿も可愛いね」
これでは埒が開かないと、夕紀は焦ってつい後ろの周助に助けを求めた。
周助も見かねたようで、今度は眉間に皺を寄せて弥天の肩を叩いた。
「弥天様。本当にそろそろ説明をしなくては混乱していますよ」
「あ?わかってるよ」
弥天は夕紀から名残惜しそうに手を離し、真剣な眼差しで跪いた。あまりに突然のことで夕紀は開いた口が塞がらない状態になった。
「私は弥天。大和弥天。龍族の龍宮家の次男だ。夕紀が生まれた時からずっと探していた……。私の運命の彩人」
「私が、弥天様の彩人……?」
あやかしと人間が共存関係にあるのは、人間の中にはあやかしの力を高めてくれる人間がいるためである。この人間の存在をあやかし達は「彩人」と呼んでいる。特に高位のあやかしほどこの彩人をそばに置きたがるのだ。
人間にとって彩人に選ばれるのはとても名誉な事だった。しかしまさか自分がその彩人だとは夕紀は思ってもいなかった。
先程の荒々しい態度とは全く違う恭しい態度に、夕紀は混乱する。荒くれ者と有名でその態度を目の前で見たはずなのに、今夕紀に向けられる優しく熱のこもった眼差しからはとてもそうは思えない。
「これから夕紀には、私の妻として離宮に入ってもらう。ああ。安心して。私の妻は夕紀だけだから」
はっきりと「妻」と言われ、この弥天が夕紀の旦那様になるのだと実感する。すると全身が沸騰したかのように熱くなっていく。
「どうしたの?」
「いえ。何でもありません」
心配そうに顔を覗かれると、もう立っているのも限界に近い。夕紀は顔を横に振って弥天から顔を逸らした。
「夕紀は来たばかりで色々疲れたんだろう。離宮に案内するよ」
「ありがとうございます」
夕紀は案内してくれる弥天の背中をじっと見つめた。
荒々しい態度が本物なのか、それとも自分に向けられる熱く優しい眼差しが本物なのか、夕紀には分からない。ただ、今までに感じたことの無い温かさに、夕紀は戸惑うしかなかった。家族から虐げられてきた夕紀はその温かさをどう受け取っていいのか正直分からない。
と、その時優しい声に呼び止められた。
「弥天」
そこには弥天に似た切れ長の目をした男性がいた。しかし弥天とは違い穏やかな目つきと優しい雰囲気をしていた。
「篁兄上、どうなさいましたか?」
「使用人達から弥天がいないと報告があって探してたんだよ」
篁と言えば、弥天の兄であり龍宮家次期当主である。弥天の態度が夕紀に対する甘いものでもなく、使用人に対する威圧的なものでもない、嬉しそうな態度になった。その様子からもとても仲の良い兄弟なのだろうと思われた。
夕紀が弥天の背に隠れながら様子を伺っていると、篁と目が合ってしまった。夕紀は慌てて弥天の背に隠れて目を逸らした。
「ちっ。堪え症のねえ奴らだな」
弥天の態度が急変した。夕紀は思わずびくっと体を震わせたが、男性はころころと笑うだけだった。
「どうやらお取り込み中だったみたいだね。ところで弥天。早くそこの女性を紹介してくれないかな?」
「すみません。こちらは今日から離宮に住む私の花嫁です」
そう言って、弥天が夕紀の背中を押して前に出した。
「貴方が弥天が待ち望んだ花嫁だね」
「お初にお目にかかります。天宮夕紀と申します」
「私は大和篁。弥天の兄だよ。これから弟をよろしくね」
篁は笑顔を崩さなかった。しかしどこか萎縮してしまう笑顔だ。
「弟は私のために嫌な役回りをしていてね。だから兄としては少しでも弥天の周りには沢山の味方いて欲しいと思っているんだ」
ひやりとした視線に夕紀は悪寒を感じた。篁に試されているのだとひしひしと感じる。
そんな夕紀を庇うように弥天か前に出た。
弥天の大きな背中に夕紀は思わず頬を紅潮させた。
「兄上。夕紀は大丈夫です。私が何よりも守り抜きますから」
「全く。弥天は昔からそうだったね」
篁はそれ以上夕紀を問い詰めることもせず、肩をすくめた。
「ようやく花嫁に会えた可愛い弟のためにこの後はゆっくり休むといい。使用人達には私から伝えよう」
篁がそう言うと、弥天からも緊張した雰囲気が緩んで見えた。
「ああ、言い忘れていたよ」
篁は優しい笑顔を見せた。
「おめでとう、弥天。これから幸せにね」

