恋が世界を変え、僕がきみを救う

 夢は見ないし、未来に期待なんてしない。それが私の生き方だ。
 私だけじゃない、二年三組の人間はみんなそう思っている。現に、担任の南先生は、放課後の訪れを告げるチャイムが鳴っても、文化祭の実行委員をやってやろうと挙手する生徒が一人もいないことに、困り果てている。
「週末のロングホームルームでもう一回話し合いの時間取ります」
 南先生はとうとう諦めた。地獄の静寂から解放された二年三組の生徒たちは、一人残らず帰りの支度を始める。私も取り残されないよう、教科書の整理に取りかかる。
「実行委員とか面倒すぎるだろ。夏休み返上で学校来ないといけないし」
「誰かが考えてくれたのをやるのはいいけどさ、自分で考えるのはね」
「先生も伝統ある文化祭、とか言ってさ。恥ずかし」
「どうせ誰もやりたくないんだから、適当にくじで決めればいいのにね」
 後ろの席の梓に背中をつつかれ、振り返る。頷いて、「こういうとき、一番前の席って最悪。めっちゃ先生見てくるの」と笑った。
「桃子、全力で俯いてるなーって思ってたよ」
 そう、夢は見ないし、未来に期待なんてしない。見たい夢はないし、描きたい未来もない。流れるままに生きて、たまに与えられた役割をこなす。そうしているうちにいつか幸せになれればいい。
「帰り、カラオケ寄ろうよ。桃子の上手な歌が聴きたいなー」
「おだてても何も奢らないよ」
 夕方に、小さいころに夢中で見ていたテレビアニメの再放送があったはずだ。そして私はそれを録画していない……。今日はお母さんもお父さんも仕事だから、誰にも録画を頼めない。とはいえそれは、友だちからの誘いを断る理由にならない。
 私たちもかなりの早さで席を立ったけど、教室を出るころにはもうクラスメイトの三分の二はいなくなっていた。みんなにとってさっきまでの時間は、心底無駄な時間だったんだろう。ああ……。
「そういえばさ、秋に公開する恋愛映画、あれに○○くん出るんだって。また一緒に見に行こうよ」
 廊下を歩いていると、二年二組の様子がよくわかる。梓越しに隣のクラスをのぞき見る。ホームルームが長引いているようだった。全員が席に着いていると、たった一つの空白がよく目立つ。梅雨が始まる前までは、あの教室にも、いつも背筋をまっすぐに伸ばした強気なまなざしの女の子が座っていた。そのことを、もう誰も、忘れてしまったみたいだ。
「桃子? 聞いてる?」
「ああ、うん。○○くんね。梓の好きなアイドルだっけ?」
「違う、それは××くん」
「あ、そっちか、ごめん」
「××くん、週末の音楽番組に出るから見てね」
「わかったよ」
 呑気な話に愛想よく笑っている自分。すごくいい感じだ。これぞ究極の高校生活。普通でいい。みんなと同じでいい。集団を形成する一部になれるよう、一生懸命擬態するのだ。
 最悪なのは――ちょうど、前から歩いてくる背の高い男子生徒みたいな存在になることだろう。ポケットに手を突っ込みながら廊下のど真ん中を歩いてこられると、こっちが避けなきゃいけない。彼はこの百メートルほどの道を、そのことに気づかず堂々と歩き続けられるんだろう。
 その後ろ姿を見届けたいと思って、すれ違いざまに振り返る。視線は交わらない。私はすぐに前を向く。


 ☀


 ところで私の特技は、夢を見ることだ。いつでもどこでも眠れるとかそういうことじゃなくて、自分の見たい夢が見れる。夢を見る方法は、簡単だ。大好きなバンドの音楽をイヤホンで流し、今日という一日をすべて忘れて眠りにつくだけ。
 私の夢の中にはいつも、芽吹とつぐちゃんがいた。二人とも、高校の制服を着ている。つぐちゃんのブレザー姿は見慣れたものだ。胸元の細く赤いリボンは、彼女の強さを際立たせるために存在している。入学式の前、届いた制服を着てつぐちゃんの家で見せ合いっこした日から、私はそう確信している。芽吹は半袖のカッターシャツを着ている。男子の制服が中学校とほとんど変わらなくてよかった。想像しやすい。
 夢の中の私は、二人と一緒に高校の教室にいて、文化祭実行委員の証である腕章をつけていた。つぐちゃんもつけている。ノートを広げ、つぐちゃんと一緒にああでもないこうでもないと言い合っている。
「せっかくの文化祭なんだから、オープニングアクトとかもっと派手にやったほうがいいんだよ。毎年毎年吹奏楽部のへたくそな演奏聴かされるこっちの身にもなれっての」
 と、言葉を選ばないのがつぐちゃんのいいところだ。しかし、言葉を選ばなさすぎである。
「吹奏楽部だって頑張ってるんだから、そんな風に言わないの」
「うちの部活は全部だめ。吹奏楽部の弱さに比例して野球部も弱い。サッカー部もへたくそばっかり。テニス部はちょっとましだけど、バスケ部はいきってるだけ。バレー部は論外。輝かしいのは陸上部」
「それ、自分じゃん。じゃなくて、文化祭の話でしょ。でも、吹奏楽部の演奏で始まるのだってうちの高校の文化祭じゃ伝統だし、やめたくないな。演奏を聴くだけなのが退屈っていうんなら、みんなが参加できるようにしたらどうかな。立ち上がって暴れ出したくなるような……」
「いいね、じゃあ、その方法を考えよう」
 楽しいことばかりが待っている未来へ足並みそろえて向かいだした私とつぐちゃんを、窓際で見守っているのが芽吹だ。彼の髪は細くて柔らかい。私とは比べ物にならないほど……。風に吹かれると、白いレースカーテンよりも先にやさしく揺れる。
「桃子と亜未(つぐみ)ちゃんが作る文化祭、楽しそう。僕も行きたいな」


 ☀


 そんな夢を見た翌日の放課後、事件は起きた! 現場は、今日という一日の間に文化祭のぶの字も出なかったことで平和を極めた賑やかな二年三組の教室。南先生は簡易的なホームルームを終えさっさと退散していたので犯人を止められる人はいなかった。
 主犯は有生という名札をつけた男の子だった。赤色のスリッパを履いているから同級生だとわかった。昨日、廊下ですれ違ったやつだ。たった一人だというのに、我が物顔で廊下を占領していたからよく覚えている。有生少年は二年三組の教室に前側の扉からひょっこり顔をだしたかと思うと、「三組の実行委員、誰?」と言い放った。
 有生少年の、掠れてはいるのにやけに純粋な声に惹きつけられた二年三組の面々は、それぞれ仲の良い友人同士で顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。私は後ろの梓に顔をやるのが遅れた。だけどそれはたった半テンポだった。
 他人事の真ん中をいく空気を早々に察したのか、有生少年が「ねえ」とダメ押しで顔を覗き込んだ相手は、彼が立つ場所から最も近い席に座っていただけの、私。
「えっと、まだ決まってない、です」
 答えながら、両手を軽く上げて降参の意を示していたのは、ほとんど条件反射だった。
「は? 嘘だろ、何やってんの。じゃあ、今から決めろよ。もう実行委員の会議始まってんの。誰でもいいから、早よ来い」
 嘘だろ、はこっちのセリフだった。南先生の嘘つき。週末でいいみたいなこと言ってたくせに――。面倒事は私に押し付けてやろうという教室の空気を感じつつも、振り返らなかった。
 物言いも態度も荒っぽい有生少年から、目が離せなかった。こういう穏やかな世界を引っ掻き回すタイプの生徒とは距離を取って生きていた。だけど今、彼の存在を目の前にして、心が何かを語りかけてくる。うるさいうるさい。ああだけど、立ち尽くしていた私の目の前に、得体のしれない手のひらが、差し出されているような、そんな気分。
「もー……。じゃあ、きみでいいじゃん。早く来て」
 有生少年も、私から目を離さなかった。
「は、はい」
 私は立ち上がった。別に首根っこ掴まれていたわけでも、手を引いて連行されたわけでもない。私を強制するものは何もなかったけれど、私はとにかく必死で大きな猫背について行った。

 ついて行った先は、二年六組の教室だった。ここで文化祭実行委員の会議が行われているのか……。なんだか感慨深い気持ちで扉の前に立ち止まった私を置いて、有生少年はズケズケと教室へ入って行く。
「え! 来てくれた人いたんだ」
 教室には、私たち以外にたった一人しかいなかった。窓際の席、眼鏡をかけている男子生徒が私の存在に気づき、嬉しさと驚きと呆れが混ざった声で言う。
「なんて騙して連れてきたんだよ」
「実行委員決まってないって言うから、俺が決めてきた」
「それはよくないよ、元居た場所に戻してあげてきな?」
 それで、彼の言うことには、
「俺たちが勝手にやってることなんだから、巻き込んだらかわいそうだろ」
 ということだった。
 まさか、有生少年の先ほどの発言は、真っ赤な嘘だった?
「いや、ついてきたんだからやる気あるんだろ」
「どうせなんにも説明してないくせに。とりあえずきみ、こっちおいでよ」
 男子生徒に手招きされ、恐る恐る六組の教室に足を踏み入れる。六組は推薦組の自然科学コースだから、文系の私とは接点がない。同じ作りのはずなのに全く違う教室に感じてどうすればいいのかわからない。「ここにお座り」男子生徒が引いてくれた彼の隣の椅子に音を立てないように腰かける。
「俺、六組の上野」
「あ、えっと、三組の幸坂桃子です」
「で、幸坂さんを拉致ってきたあの男が、有生朔良(ありせさくら)。むかつくでしょ、ぶん殴っていいよ」
「それは理不尽」
「理不尽はおまえだ」
「おまえが言うな」
 仲良さげな二人の空気に居心地悪くしていると、上野くんがすぐに気づいて教えてくれた。「俺たち、文化祭実行委員なんだ。朔良が委員長で、俺が副委員長。朔良が、文化祭が楽しみだから先にいろいろ話し合っておこうって言いだしてさ、ほかのクラスの人たちも呼んでくるって聞かなくて」
「はあ、熱心なんだね」
「そりゃもちろん」私と上野くんの間に有生くんが割って入ってくる。いちいち距離が近い人間でびっくりする。「俺たちは、ここで文化祭がやりたくて入学したんだよ」
 上野くんは「俺は違う。こいつに付き合わされただけ」と否定したけれど、その声は私にも入ってこなかった。
「あんたさ、うちの高校の文化祭が本当はどんだけすごいか知ってる? 俺、従兄がここの卒業生で小さいころに文化祭に遊びに来たことあるんだ。そのときのことがずっと忘れられなくて。劇のクオリティとか、出店の種類とか、そういうのもだけど、何よりもみんなの楽しそうな顔をすごい覚えてる。毎年文化祭のテーマ決めてさ、それに合った出し物をクラスとか部活とかでそれぞれ考えてやるんだ。面白いよな。でも、最近じゃ全然だ。去年は心底がっかりした。昔を真似してるだけ。こういうのでいいんだろって、投げやりで、自分たちのやりたいこと、誰もやってないし、俺もできなかった。だから今年は文化祭実行委員になって、全生徒に最高の文化祭をお届けしてやるってわけ!」
 そう語ってくれた有生くんは、全身から光を放っていた。あまりに強い光だった。だから、うっかり私まで照らされてしまった。
「すごい」
「え? 今の朔良の思考強めの熱弁で伝わった?」
「ううん、あの、私も、文化祭に憧れてこの学校を選んだから」
 こんなこと、誰にも言ったことがないのに、どうしてこのときは口を滑ってしまったんだろう? 有生くんの熱意にあてられて、私まで自ら輝ける恒星であると勘違いしてしまったのかもしれない。でも、そんな勘違いさえ起こさないように、高校に入学してからずっと気をつけてたんだ。なのに、どうして? 考えてもわからない。
「へー、おんなじじゃん。きみら、気が合うね」
 と、言ったきり考え込む上野くん。「あ! わかった。朔良と桃子。きみたち二人で国民的小学生だ」
「ふーん、あんた、桃子っていうんだ」
 ああ、こういうタイプの人なのね。有生くんのことが見えてきた。
「桃子ね。オッケー、もう忘れない」
 どうだか。
「桃子ってなんか、ちっちゃい感じがしてかわいいな」
 ……。
 それは、私の身長がいまいちパッとしないことを遠回しにバカにしているともとれる発言ではあったけど、嫌な感じがしないのが不思議だった。
 それからは、私と有生くん、上野くんの三人で、今年の文化祭についての野望とこれまでの文化祭について語る時間だった。私はあまりうまく話せなかった。だけど、否定していた上野くんにも文化祭のビジョンがあって、そしてそれを自分の言葉で語っている姿が、かっこよかった。有生くんはやりたいことがたくさんありすぎて、決めかねているようだった。
 私が、文化祭テーマが「祭り」だった二〇一七年が私の原点で頂点だという話をすると、有生くんは「俺より詳しいじゃん! なんで?」と興味を持ってくれた。
「えっと、私は、友だちのお姉ちゃんに誘ってもらって、それから毎年一緒に行ってて」
「へえ。歴長いんだね」
「何はともかく、桃子とならいい文化祭が作れる気がする。やっぱり俺の目に狂いはなかった。じゃあさ、桃子はもう、今年のテーマ何にしたいか考えてる?」
「うん、えっと――」
 チャイムが鳴った。三人そろって見上げた時計の針は、六時三十分を指している。最終下校時刻を知らせる音だった。いつの間にこんなに時間が経っていたんだろう? 六月が終わって夕陽がいつまでもそこにいるようになったから、気づかなかった。
「残念、続きはまた今度だ」
 立ち上がり、リュックを背負う上野くんの姿を見て、思い出す。
「荷物、教室にそのままだ」
「待ってるよ、一緒に帰ろうよ」
 と、やさしい上野くんは言ってくれたけど、私は「ううん、自転車だから」と断ってしまう。さようならも言わずに教室を飛び出した私の背中に、有生くんの声が突撃してきて、思わず振り返る。
「桃子、またね」
「……うん、また」


 ☀


「ふうん。それが桃子が考える今年の文化祭テーマね」
 夢の中の教室でつぐちゃんと向かい合っていると、せっせと記入していたノートを覗き込まれた。
「うん、どうかな」
「いいんじゃない? でも、ここをこうしたら――もっとよくなると思う」
 つぐちゃんがノートに書いたメモは、世界一のアイディアだった。窓辺に立つ芽吹も勝手に覗き込んで、「いいじゃん!」と言ってくる。
 芽吹とつぐちゃんがいる教室が至高だ。差し込む日差しは朝のニュースで注意喚起されるくらい強いはずなのに、ちっとも痛くない。ここでなら私は、二人と一緒にやりたいことをやって、好きなように話せる。
「ねえ、二人はさ、恋の意味とかわかる?」
 つぐちゃんは即答した。「ははーん。さては、好きな人ができたな」
「違うし。ただ、なんか、変な人と出会っただけ。ちょっと話しただけで自己中でデリカシーがないんだってわかるくらい素直な人だった。初めて会ったタイプだから、印象に残りすぎただけ」
「でも、そんなことを聞いてくるってことは、気になっちゃってるんだ。一目惚れってやつだね」
 つぐちゃんと芽吹は顔を見合わせたかと思うと、ひゅうひゅう、と声を合わせてからかってくる。
「こんなの、恋なんていわないよ。でも、もう少し話してみたいなと思っただけ。あの人の前では話したいことがいつもより話せたから。どうしてかな?」
「それは、全然知らない人だったからだよ。桃子は猫かぶりだから、今後関わる可能性のある人にはいい子ぶるけど。六組の子だろ? 絶対クラス被らないから、油断してるんだよ」
 さすが芽吹、図星を突いてくる。動揺した私に、彼は畳みかけてくる。
「それに、恋をしたかどうかなんて、すぐにわかる」
「どうしてよ」
「恋をしたら、世界が変わるから。きっと桃子の世界は、これから大きく大きく変わっていくんだろうね」
 なんだか芽吹が遠くに感じた。今さらそんなことを思うなんて、ばかげているかもしれないけど。
「……ていうか、恋じゃないから。気になってるだけだから」
「またまたあ」
「好きな人ができたやつはみんなそうやって言い訳するんだよ」
「男の子と女の子の話になるとすぐ恋愛にもっていく流れ、私いや。ていうかほんとうに、ただ私は――」


 ☀


 金曜日、ロングホームルームが始まる前、梓に言われた。「そういえばこの間、大丈夫だった?」
「何が?」
「ほら、六組の有生くんに拉致られたじゃん。様子見に行ったんだけど、盛り上がってるみたいだったから退散したんだよ」
「ああ、うん、全然大丈夫だったよ」
「そっか、よかった。桃子、このまま実行委員やらされたらかわいそうだなーって心配してたんだ」
「うん、そうだよね」
 認めよう。私は、私のことが世界でいちばん嫌いだ。
 私の言葉と心はいつも裏腹だ。私の世界に変化が訪れるたびに私の心は何かしらの声を上げる。それはわかっているけれど、ずっと、聞こえないふりをしている。勇気を出すことは、怖い。うまくいかなかったときのことを考えると、何もかも無駄な気がする。自分の行動を振り返ったとき、ああ無駄だったんだと絶望する可能性が怖くてたまらない。だから、自分のすべてをかけて、心の声に蓋をしている。
 ロングホームルームで南先生が持って来たのは、自前のくじ引きだった。誰もやりたい人がいないならこうするしかないでしょう、と言って文句ばかりのクラスメイトたちを黙らせていたけど、結局そうなるなら、最初からそうしてくれればよかったのに。そしたら、奇跡に期待なんてしなかった。
 くじ引きの結果、二年三組の文化祭実行委員は、私じゃない誰かに決まった。

「桃子、実行委員の会議行こう」
 昨日と同じように私を迎えに来てくれた有生くんが声をかけてくれるまで、ロングホームルームが終わったことに気づかなかった。どうやら今日は本当に、九月末の文化祭に向けて第一回目の会議が行われるらしい。有生くんの後ろからさらにひょっこり顔を出した上野くんが、「今日は六組の教室じゃないよ。四階の空き教室」と補足してくれる。
「あー、私、実行委員じゃないから……」
「え? じゃんけん負けた?」
「じゃなくて、くじ引きで」
 私はいつも、言いたくないことばかり簡単に口に出せてしまう。昨日だけが違った。昨日の自分は、おかしかった。
「ふーん。そっか」
 有生くんの目はもう見れなかった。早くどこかに行ってほしい。私の願いが通じたようで、有生くんはそれだけ言って、上野くんを連れて去っていった。
 これでいい、これでいい、これでいい。そもそも私だけが文化祭実行委員をやろうなんて、虫がよすぎる。私なんかが関わるよりも、もっと適した人がいる。別に文化祭実行委員ができなくたって死なない。うん、大丈夫、何も問題ない。オッケー。
 自転車を押しながら駅まで梓と向かっている間、こんなことを言われた。
「昨日も思ったけど、六組の有生くん? って、綺麗な顔してるよね。桃子、仲良くなって羨ましいな」
「全然仲良くないよ。ほんとうに。ちょっと話しただけ」
「えー、でも、名前で呼ばれてたじゃん!」
「いや、ほんとにないから」
 それにやっぱり、私には彼の存在は眩しすぎる。近づきすぎて燃え尽きるのは怖いから、遠くから眺めていようって魂胆だ。大丈夫、まだ街中ですれ違ったくらいの出会いだ。振り返ってどこにいるかわからなくなってしまったのだから、その程度のものだったと諦められる。


 駅まで梓を見送ったあと、もう一度学校に戻った。二年二組の教室を通りかかると、つぐちゃんをいじめていた女の子たちがつぐちゃんじゃない女の子の悪口で盛り上がっていた。私はそれを、廊下で誰かを待っているふりをして壁にもたれながら聞いていた。彼女たちにとって、つぐちゃんは消耗品でしかない。だから、つぐちゃんが学校に来ないことにも悩まずにいられる。
 私は、怒りたかった。どうして、つぐちゃんが消費されなくちゃいけないんだ! 怒るべきかどうかはわからないけれど、声を上げたかった。ふざけるな、ばか、一生許さない、とつぐちゃんをいじめた人間全員の顔をぶん殴ってやりたかった。だけど、できなかった。何もかもが怖かった。そんなことをすると今度は私がいじめられるかもしれない。余計なことをしやがって、とつぐちゃんに嫌われるかもしれない。私の小さくも幸せな日常が変わっていくのが怖かった。そんなの、つぐちゃんが傷ついた時点で壊れていたのだから、迷う余地なんてなかったのに。私がぐずぐずしている間につぐちゃんは学校に来なくなった。つぐちゃんが学校を休んで一か月が経とうとしているのに、私は今もつぐちゃんにメッセージの一つさえ遅れていない。
 いつの間にか、廊下に座り込んでいた。二年二組からは話声の一つも聞こえない。それどころか、校舎の三階には人の気配がない。膝に顔を深く埋めていると、世界から遮断されたようで、心おきなく泣けた。このまま泣きつかれて眠りたい。そうだ、夢の中に逃げてしまおう。助けて、助けて芽吹……。
「桃子?」
 特徴のある嗄れ声だ。顔を上げなくても有生くんだとすぐにわかる。
「何してんの?」
 実行委員の会議が終わったんだろう。何でもないから帰りなよ、と言いたかったけど、声を出したら泣いていることがバレるので、口を閉じたまま微動だにしない。
「おーい、桃子? 聞こえてる? 桃子、桃子ちゃーん、もも……」
「名前で呼ばないで」
 つもりだったけど、有生くんがあまりにもうるさいので、つい口を開いてしまった。まただ、またこの、「つい」。これはいったいどういう現象なんだろう。
「ごめん。……えっと、名字なんだっけ」
 もうどうでもいい! 涙が枯れないまま顔を上げると、有生くんはわかりやすくぎょっとした。
「お、俺のせいだよな、ごめん」
 どうにか私を宥めようとしゃがみ込んでくれた有生くんに向かって喚き散らす。「違う! 文化祭の実行委員がやりたかったの」
「はあー? そんなことで泣いてんの? じゃあ、やればよかったのに」
「できない!」
「なんで」
「みんなの前で、文化祭実行委員やりたいですって言うのが恥ずかしいから。みんながやりたがらないのに、私一人だけやりたいって言うなんて、おかしいじゃん」
「そうか? 誰もやりたくないなら英雄だろ」
 話しながらも涙と鼻水が止まらない私を見て、有生くんは制服やらリュックやらを探りだす。やっと見つけたクシャクシャのティッシュをリュックの底から取り出し、渡してくれた。
「てかさー、ほんとにそれだけで泣いてんの? だったら……」
「違う、それだけじゃない」
 ここまで来たら、有生くんは何か魔法でも使っているのかもしれないと疑わざるを得ない。心を抑え込めない、抑え込むことを放棄しているみたい。有生くんがばかみたいに素直だからだろうか? 正直って、伝染するのだろうか。
「つぐちゃんと……一緒に、文化祭の実行委員やろうねって約束してたの。でも、つぐちゃん学校来れなくなっちゃって……。だから、つぐちゃんがまた学校来たいって思えるような文化祭を私が作ろうって思ってたのに……。でも、そうじゃなくて、それも逃げてるだけで、ほんとうは今すぐつぐちゃんに会いに行って助けてあげられなくてごめんねって言わなきゃいけないのに、ずっと逃げてばかりで……。こんな自分が大嫌いで、泣いてるの」
「そうなんだ……」
「ていうか文化祭だって、私がやらないほうが絶対いいものになるし。有生くんだって昨日はちょっと珍しい人種と会ったから楽しくなっておだててくれただけでしょ。私がやらないほうがつぐちゃんだって喜ぶ。だって、私だけ楽しむなんて、最低……」
「あーもう、自虐ばっかりうるさいな! 結局おまえはどうしたいんだよ」
 まずは鼻をかめ、といわんばかりに有生くんはもう一度私にティッシュを押しつける。
「おまえの泣いてる理由はよくわかったよ。でも、おまえがどうしたいのか、俺にはさっぱりわかんない。いいからさっさと言えよ、ほんとうに自分がやりたいこと。言ったら、俺はおまえを応援する」
「お、応援?」
「うん」
 有生くんは力強く頷いたけれど、私には新鮮な――いや、懐かしい響きだった。
 私が、ほんとうに、やりたいこと。
 全部、取っ払って考えてみる。過去も、未来も、想像も、理想も、夢も、全部取っ払って軽くなった自分で考えてみる。
「私……文化祭の実行委員、やりたい」
「うん、頑張れ」
 有生くんは笑ってくれた。それはもう、やさしい、やさしい笑顔だった。人間はこんな風に他人に慈愛の感情を向けられるのかと感心した。私は有生くんの笑顔を見て、私も頑張りたいと、強く思った。