可能性は売ってない

その夜、俺は机の前でメールを書いた。

件名から詰まった。

『取材のお願い』

いや、重い。

『フェンシング体験会について』

普通すぎる。

『可能性は売ってない。でも、体験はできます。』

見出しを件名に流用するのは危険だ。自意識が二重に焼かれる。

俺は何度も消した。
本文も消した。

最初に書いた文は、これだった。

『僕はこのクラブに救われました。』

打った瞬間、背中がぞわっとした。

重い。
重すぎる。
誰だ、お前。

俺は何から救われたんだ。

退屈か。
無気力か。
高校生活初日の校長先生の「可能性」二十回攻撃か。

いや、嘘ではない。

このクラブに入っていなければ、俺はたぶん今も、教室の隅で「別に」と言って、放課後をやり過ごしていた。

赤羽に会わなければ、白石先輩に距離を教わらなければ、三枝コーチに足を壊されなければ、肉のこばやしのコロッケを練習後の正義だと認識することもなかった。

救われた、という言葉は、たぶん間違いではない。

でも、初対面の記者に送る一文としては、湿度が高すぎる。

メールを開いた瞬間、相手のパソコンが結露する。

俺は削除した。

次に書いた。

『突然のご連絡失礼します。練馬フェンシングクラブ所属の青山朔と申します。』

所属。

俺、所属しているのか。

している。

正式部員なので。

自分の中で変な声が響いた。赤羽が知ったら保存されるから絶対に言わない。

俺は続けた。

『今週日曜、練馬さくら大根通り商店街の春のふれあい市で、フェンシング体験会を行います。フェンシングを知らない方や小学生にも、安全に剣や足さばきを体験してもらう企画です。』

ここまではいい。

たぶん。

『クラブは古い三階建てビルの一階にある小さな場所ですが、商店街の中で子どもたちがフェンシングを続けている場所です。』

少しだけ、息が止まった。

この文は、俺の言葉っぽかった。

恥ずかしいけど、嘘ではない。

『もしご関心がありましたら、体験会当日にご覧いただけないでしょうか。詳しい内容は、責任者の三枝コーチからもご説明できます。突然のお願いで申し訳ありません。よろしくお願いいたします。』

短い。
素直。

たぶん、これでいい。

俺は送信ボタンの上に指を置いた。

小林さんに紹介してもらった。

でも、三枝コーチにはまだ言っていない。

小林さんに「ちゃんと話しな」と言われたのに、俺は今、先に送ろうとしている。

ここで止めるのが正しいのか。

でも、体験会まで三日。

正しさを確認している間に、時間は消える。

俺は送信した。

送信音は、小さかった。

カン、と剣が鳴る音より、ずっと小さい。

でも、俺の中では、かなり大きく響いた。