可能性は売ってない

クラブの古いビルが見えてきた。

ガラス戸の向こうから、昨日と同じ金属音がした。

カン。

カン、カン。

胸の奥が、少しだけ反応した。

赤羽が俺を見る。

「どう?」

「何が」

「音」

「……うるさい」

「いい音ってことだな」

「勝手に翻訳するな」

でも、たぶん翻訳としては間違っていなかった。

ガラス戸を開けると、昨日と同じ熱気が顔に当たった。

汗、柔軟剤、ゴムマット。朝、バッグの中に残っていた匂いの本体だ。

「こんにちはー!」

赤羽が大声で言う。

奥のレーンにいた白石先輩が、マスクを外してこちらを見た。

眠そうな目が、俺を一秒だけ観察する。

「来たんだ」

それだけだった。

歓迎でも、驚きでも、からかいでもない。

来たんだ。

その短さが、逆に逃げ道をふさいだ。大げさに喜ばれたら「いや別に」と言える。赤羽みたいに叫ばれたら「うるさい」と返せる。でも、ただ事実として言われると、返事に困る。

「……来ただけです」

「うん。来ただけでも、昨日より進んでる」

「そういう言い方、ずるくないですか」

「慎太郎ほどじゃない」

「先輩!」

赤羽が抗議する。

白石先輩は聞こえなかったみたいにマスクを脇に抱えた。

その奥から、三枝コーチが出てきた。黒いポロシャツにホイッスル。昨日と同じなのに、今日は少しだけ見慣れた感じがした。

「お、昨日の初ポイントくん」

「その呼び方、定着させないでください」

「じゃあ、青山くん」

「それでお願いします」

三枝コーチは笑った。

「筋肉痛?」

「……少し」

「いいねえ。若いねえ。私は筋肉痛が二日後に来るから、君の若さがまぶしい」

「それ、笑っていいやつですか」

「笑うとメニュー増える」

「真顔で聞きます」

「賢い」

赤羽がロッカーのほうを指した。

「朔、ジャージあるよ」

「昨日のやつ?」

「そう。洗った」

「昨日の今日で?」

「うちの洗濯力をなめるな」

「クラブの謎の能力を誇るな」

三枝コーチが腕を組む。

「今日は無理しなくていい。基礎を少しやって、昨日の感じを確認するくらいで」

「俺、まだ入部するとは……」

「言ってないね。だから体験二回目」

「体験って何回まで許されるんですか」

「うちの経営的には、早めに入ってくれると嬉しい」

「現実的だ」

「大人だからね」

三枝コーチは軽く笑ったけど、その一瞬だけ、昨日より少しだけ疲れて見えた。