可能性は売ってない

俺が走っても、世界はすぐには変わらない

翌朝、目が覚めた瞬間、俺は天井に向かって言った。

「……最悪だ」

別に、太ももが筋肉痛だったわけじゃない。

いや、筋肉痛ではあった。フェンシングを始めてから、俺の太ももはだいたい毎朝、不機嫌な他人みたいに振る舞う。持ち主に無断でストライキしている。労働組合を結成されたら負ける気がする。

でも、今朝の「最悪」はそこじゃなかった。

昨日、赤羽慎太郎と喧嘩した。

喧嘩、という言葉でいいのかはわからない。

俺が一方的に、言わなくていいことを言って、赤羽も言いたくなかったことを言って、互いの剣先を防具なしで突きつけ合ったみたいなやり取りをした。

『どうせいなくなるなら、無責任に誘うなよ』

思い出しただけで、枕に顔を埋めたくなった。

やめろ、脳。

朝から再放送するな。

しかも高画質で。

『俺の生活を勝手に変えて、勝手にいなくなるな。』

昨日の俺は、そんなことまで言った。

文字にすると、だいぶひどい。

いや、音にしてもひどかった。赤羽の顔が固まった瞬間を、俺はまだ覚えている。覚えているどころか、さっきから何度も頭の中でリピート再生されている。最低な記憶ほど、脳内の保存容量を無駄に食う。

俺は布団の中でスマホを取った。

通知はない。

赤羽からのメッセージもない。

当たり前だ。

昨日あんなふうに別れて、朝起きたら「おはよう! 今日も前に出ようぜ!」みたいなメッセージが来ていたら、それはそれで怖い。赤羽の生命力ならあり得そうなのが一番怖い。

でも、なかった。

画面は無言だった。

俺はスマホを伏せた。

「……謝る」

声に出してみた。

部屋の空気が、何も答えなかった。

謝る。

簡単な二文字だ。

ごめん。

三文字でもいい。

昨日は言いすぎた。

八文字くらい。

文字数の問題なら、俺にもできる。中学の読書感想文だって、内容は薄かったけど規定文字数は埋めた。言葉を並べる能力だけなら、まあ、人並みにはあるはずだ。

でも、謝るためには、相手の前に立たなきゃいけない。

それが問題だった。

フェンシングで前に出るのもまだ下手なのに、現実で前に出る必要にも迫られている。

三枝コーチ、これは聞いてない。