可能性は売ってない

クラブの外に出ると、ガラス戸ががらっと鳴った。

その音が、妙に大きく聞こえた。

夜の商店街は、閉まりかけの店と、まだ明るい店が混ざっている。肉のこばやしは、もう片付けに入っていた。油の匂いは薄くなっていて、代わりに夜のアスファルトの湿った匂いがした。

古いビルの横には、自販機がある。

赤羽はそこで足を止めた。

「どうした?」

俺はすぐには答えられなかった。

どうした。

聞きたいのはこっちだ。

でも、その言葉はあまりにも近い。剣先を胸元に突きつけるみたいで、怖い。

「最近、変」

結局、俺の口から出たのは、それだった。

赤羽は少し笑った。

「何それ」

「上の空。リハでも止まる。スマホ鳴っても出ない。フットワークも雑」

「最後、フェンシングのダメ出しじゃん」

「大事だろ」

「朔、見るようになったな」

赤羽はそう言った。

嬉しそうでもあった。
困っているようでもあった。

俺は腹が立った。

見てる。

見てるから聞いてる。

それなのに、赤羽はまた笑って逃げようとしている。

「ごまかすなよ」

自分の声が、思ったより低かった。

赤羽の笑顔が止まった。

夜の商店街で、自販機の明かりだけが俺たちの顔を白く照らしている。

赤羽は、しばらく黙った。

それから、息を吐いた。

「……父さんがさ」

俺の胸の奥が少し固くなった。

「転勤になった」

転勤。

「どこ」

俺は聞いた。

赤羽は、少しだけ笑った。

「大阪」

大阪。

遠い。

俺の頭の中で、路線図が一瞬ぐちゃぐちゃになった。

練馬から大阪。

西武線でどうにかなる距離じゃない。
コロッケ屋に寄ってから行ける場所じゃない。
練習後に「また明日」と言って別れられる距離じゃない。

「……通えないな」

俺は馬鹿みたいなことを言った。

赤羽は小さく笑った。

「通えないだろ」

「新幹線で毎日通ったら」

「交通費でクラブがもう一個潰れる」

「笑えない冗談だな」

「ほんとにな」

笑いはすぐに消えた。

赤羽は自販機の下の方を見ていた。

「まだ決まってない。家族で行くか、父さんだけ単身赴任するか。母さんも悩んでる。家のこともあるし、金のこともあるし。俺が高校入ったばっかとか、クラブがあるとか、そういうのも話には出てる」

「赤羽は」

聞いてから、自分の声が少し震えている気がした。

「赤羽は、どうしたいんだよ」

赤羽はすぐには答えなかった。

車が一台、商店街の細い道をゆっくり通り過ぎる。
ライトが赤羽の横顔を一瞬照らして、消えた。

「俺は」

赤羽は言った。

「練馬に残りたい」

その言葉は、思っていたより静かだった。

いつもの赤羽なら、「残りたい!」と叫びそうなのに。

静かだったから、余計に本当のことに聞こえた。

「クラブもあるし。体験会もあるし。東京ノースに次は勝ちたいし。朔だって、やっと前に出るようになったし」

「俺は関係ないだろ」

反射で言ってしまった。

赤羽が俺を見た。

「関係あるだろ」

まっすぐな目だった。

そのまっすぐさが、今は少し痛かった。

赤羽は言葉を続ける。

「俺、残りたいよ。そりゃ。でもさ、父さんだけ大阪に行かせていいのかとか、母さん一人でこっちの家回せるのかとか、そういうの、俺が『フェンシングあるから無理』で終わらせていいのかって言われると、わかんない」

赤羽が「わかんない」と言った。

赤羽にも、わからないことがある。

当たり前なのに、俺は勝手に忘れていた。

こいつはいつも前へ出るから。
いつも笑うから。
いつも「次」と言うから。

迷わない人間だと思っていた。

そんな人間、いないのに。

「三枝コーチには?」

「まだ言ってない」

「白石先輩は」

「たぶん気づいてる」

「だろうな」

「朔にも、言おうとは思ってた」

「いつ」

その言い方が、自分でも嫌だった。

責めているみたいだった。

赤羽は一瞬、黙った。

「体験会が終わってから、とか」

「なんで」

「今言ったら、変になるだろ」

「もう変だろ」

「……そうだな」

赤羽は苦笑した。

それから、いつもの軽い口調に近づけようとした。

「まあ、でもさ」

その瞬間、俺は嫌な予感がした。

赤羽の声が、無理に明るくなる。

「俺がいなくても、朔ならやれるっしょ」

言葉が胸に当たった。

剣先みたいに鋭くはなかった。

むしろ、赤羽なりにこっちを安心させようとした言葉だったのかもしれない。

でも、当たった場所が悪かった。

俺がいなくても。

朔ならやれる。

赤羽がいなくても大丈夫。

そう言われた気がした。

いや、たぶん赤羽はそんな意味で言っていない。
頭ではわかった。
でも、胸の奥で何かが一気に冷えた。

「……何それ」

赤羽が少し首を傾げる。

「え?」

「俺がやれるとか、やれないとか、そういう話かよ」

声が勝手に出た。

止めようとしたけど、止まらなかった。

「赤羽が誘ったんだろ」

「うん」

「入学式の帰りに、勝手に声かけて、勝手にクラブに押し込んで、勝手に剣持たせて」

「勝手にって」

「俺の生活、勝手に変えたんだろ」

赤羽の顔が固まった。

俺はもう、引けなかった。

引く距離を間違えた。
フェンシングなら、この時点で足幅が崩れている。

「どうせいなくなるなら、無責任に誘うなよ」

言った瞬間、自分でもひどいと思った。

でも、ひどいと思ったのに、口は止まらなかった。

「俺の生活、勝手に変えて、勝手にいなくなるな」

夜の商店街が、急に遠くなった。

赤羽は、しばらく何も言わなかった。

自販機の明かりが、赤羽の目に反射している。

その目が、いつもの太陽みたいな明るさを失っていた。

「勝手にって言うなよ」

赤羽の声は低かった。

「俺だって、好きで決まったわけじゃない」

その言葉で、俺の胸がもう一度痛んだ。

わかってる。

わかってるんだよ。

赤羽が好きで転勤するわけじゃない。
赤羽が好きで大阪に行くかもしれないわけじゃない。
家族の事情を、フェンシングだけで切り捨てられないことも、わかる。

なのに、俺は今、赤羽を責めている。

「俺だって残りたいって言っただろ」

赤羽が言う。

「でも、どうなるかわかんねえんだよ。父さんも母さんも悩んでるし、俺が残るって言えばそれで済む話じゃないし。簡単じゃないんだよ」

「じゃあ、なんでそんな軽く言うんだよ」

「軽く言わないと、言えないだろ!」

赤羽の声が、夜の商店街に跳ねた。

俺は黙った。

赤羽も、自分の声の大きさに少し驚いたみたいだった。

それでも、続けた。

「朔に言ったら、どうなるかわかんなかった。クラブも大変で、体験会もあって、朔もやっと正式に入って、前に出るようになって。そこで俺が『いなくなるかも』って言ったら、全部止まる気がした」

「俺が止まるって?」

「わかんねえよ!」

赤羽は拳を握った。

剣を持っていない手。
それなのに、今まで見たどの剣先よりも痛そうだった。

「わかんねえけど、怖かったんだよ。朔がまた、どうせとか、別にとか言って、クラブから距離取るんじゃないかって。俺がいなくなるなら意味ないって思われるのも怖かったし、俺がいなくても平気って言われるのも怖かった」

俺は息を止めた。

赤羽は、俺を見ていた。

「俺、朔に頼りたかったのかもしれない」

その言葉は、いつもの赤羽からは想像しにくいくらい不器用だった。

頼りたかった。

赤羽が。

俺に。

「でも、頼り方わかんなくて、軽く言った。俺がいなくてもやれるって。そう言えば、朔が困らないかなって思った」

赤羽の声が少し揺れた。

「でも、違ったんだな」

違う。

違うんだ。

そう言えばよかった。

俺は困る。
赤羽がいなくなるのは困る。

一緒にいたい。

その言葉が頭の中に浮かんだ。

こいつが隣にいると、俺は前に出られる。
こいつがいないと、たぶん退屈に戻ってしまう。
赤羽の声がうるさいから、俺はツッコミを入れて、歩いて、剣を持って、負けて、悔しがれた。

いなくなるな。

そう言えばよかった。

でも、俺の口から出たのは、また違う言葉だった。

「……だったら、最初から言えよ」

赤羽の顔が、少しだけ歪んだ。

俺は続けた。

「黙って上の空になって、こっちに気を使わせて、最後に『俺がいなくても』って言われても、意味わかんねえよ」

「朔だって聞かなかっただろ」

赤羽の声も尖った。

「ずっと気づいてたんだろ。スマホのことも、俺が変なのも。なのに聞かなかったじゃん」

刺さった。

今度は完全に急所だった。

俺は言い返せなかった。

赤羽は息を吐いた。

「朔はさ、いつも一歩下がるだろ。フェンシングでも、普段でも。俺が勝手に近づいてるのはわかってる。でも、たまには朔からも来てくれないと、俺だってわかんねえよ」

「……俺は」

言葉が出ない。

俺は、何を言えばいい。

怖かった。
聞くのが怖かった。
赤羽がいなくなるかもしれないって、言葉にされたら現実になる気がして。

でも、それを言えない。

怖いと言えない。

代わりに出てくるのは、責める言葉だけだ。

「俺は、赤羽みたいに簡単に前に出られないんだよ」

「簡単じゃねえよ!」

赤羽が言った。

その声は、今日いちばん強かった。

「俺だって簡単に出てるわけじゃない。怖いときもあるし、負けたら悔しいし、家のことだってわかんないし。でも、止まってたらもっと怖いから前に出てるんだよ」

赤羽は一歩、俺に近づいた。

いつもなら、その近さに俺がツッコミを入れる。

近い、と。

でも、今日は言えなかった。

「朔を誘ったの、無責任だったかもしれない。でも、嘘じゃない。俺、お前とフェンシングやるの、面白いんだよ。朔が前に出たら、嬉しい。止められたら悔しい。でも、嬉しい。そういうの、勝手に始めたかもしれないけど、全部勝手だったって言われると、きつい」

赤羽の声が、少しだけ掠れた。

「俺だって、勝手にいなくなるために朔を連れてきたんじゃない」

その言葉で、胸の奥が詰まった。

俺は何か言わなきゃいけなかった。

謝るとか。
困るとか。
いなくなるなとか。
一緒に――いや、そうじゃない。

相棒がいなくなるのは嫌だと。

でも、言葉は出なかった。

代わりに、沈黙が落ちた。

長い沈黙だった。

商店街の向こうで、店のシャッターが閉まる音がした。

ガラガラ、と金属が擦れる。

クラブの金属音とは違う。
ただ終わる音だった。

赤羽は小さく息を吐いた。

「……今日は、帰る」

俺は反射で言った。

「コロッケは」

言ってから、馬鹿かと思った。

この状況でコロッケの話かよ。

赤羽も、一瞬だけ目を細めた。

笑うかと思った。
いつもの赤羽なら、「練習後のコロッケまでがフェンシングだろ」って言うかもしれない。

でも、言わなかった。

「今日はいい」

その言葉は、俺が思っていたよりずっと重かった。

赤羽は背を向けた。

「体験会の準備、明日も来る」

「……赤羽」

呼んだ。

けど、次が出てこない。

赤羽は振り向かなかった。

「じゃあな、朔」

その声は、いつもの「じゃあな」より短かった。

赤羽は商店街の向こうへ歩いていった。

俺は追いかけなかった。
その場に立ったまま、赤羽の背中が見えなくなるまで見ていた。