可能性は売ってない

その夜、俺はまた机の前に座った。

スマホと、母さんの古いノートパソコンを開く。
チラシのデータは、三枝コーチから共有してもらった。
見出しは、まだ仮のまま。

『フェンシング体験会』

普通だ。
情報としては正しい。

でも、何か足りない気がした。

知らない人に届く距離。
少し前の俺に届く距離。

入学式の帰りに、退屈な住宅街で、金属音に釣られて足を止めた俺。
「可能性って、どこに売ってんだろ」と思っていた俺。

そんな俺が、ガラス戸の向こうに入る理由。

赤羽みたいに最初から「剣ってかっこいい」で前に出られる人間じゃない。
俺はたぶん、体験して初めてわかった。
わかる前に、全部を信じることはできない。

可能性なんて、言われても困る。
売ってないし、買えないし、棚に並んでいない。
でも、体験はできた。

一回だけ、と言われて。
一回だけのはずが、仮入部になって。
仮のはずが、正式になって。

その先に、今の俺がいる。

俺はキーボードに指を置いた。

見出しの文字を選択する。

『フェンシング体験会』

削除。

画面が一瞬、空白になる。

空欄。

中学の卒業文集みたいだ。

俺は息を吐いた。

そして、新しい文字を打った。

『可能性は売ってない。でも、体験はできます。』

打ち終わった瞬間、顔が熱くなった。

「……何書いてんだ俺」

部屋で一人、声が出た。

恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。

校長先生の「可能性」二十回スピーチに文句を言っていた俺が、チラシの見出しに可能性とか書いている。

人間、変化が急すぎると危険だ。
検索履歴より危険だ。

俺は文字を消そうとして、指を止めた。

画面の中で、その見出しは少しだけ浮いていた。

でも、悪くなかった。

少なくとも、少し前の俺なら、足を止めるかもしれない。

可能性は売ってない。

でも、体験はできます。

俺は赤面したまま、保存ボタンを押した。

そして、誰にも送らないまま、しばらく画面を見ていた。