可能性は売ってない

三枝コーチは電話を切って、少しだけ息を吐いた。

「……聞いた?」

白石先輩が先に言った。

「商店街の家賃の話なら」

赤羽が言う。

「こばやしのおじさんが」

三枝コーチは受付机に手を置いた。

軽口を言う準備をしているみたいに口元を動かしたけど、出てきた声は軽くなかった。

「うちのビルも同じ。賃料改定」

赤羽の肩がこわばった。

「どれくらい、ですか」

「今のままだと、かなり厳しい」

「厳しいって」

「続けるのが」

その言葉は、金属音よりも鋭かった。

続けるのが、厳しい。

誰かが剣を落としたみたいに、クラブの空気が一瞬止まった。
小学生たちのフットワークの足音まで、少し小さくなった気がした。

三枝コーチは俺たちを見る。

「まだ決まったわけじゃない。交渉もするし、他の方法も探す。でも、今の会費と人数だけでは、更新後の家賃を払うのは難しい」

「じゃあ、会費上げれば」

赤羽が即座に言った。

三枝コーチは首を横に振った。

「簡単にはできない。小学生の子もいるし、家庭の事情もある。フェンシングはただでさえ道具にお金がかかる。続けたくても続けられなくなる子が出る」

赤羽は黙った。
珍しく、言葉が出なかった。

白石先輩が剣を拭く手を止めた。

「閉める可能性は?」

三枝コーチは少しだけ目を伏せた。

「ある」

ある。

その一音で、俺の中の何かが、ゆっくり沈んだ。

なくなる。
この古いビルの一階が。
ガラス戸のレールに砂が入っていて、開けるとがらっと鳴る扉が。
蛍光灯が少し唸る白いレーンが。
汗と柔軟剤とゴムマットの匂いが。
赤羽が「朔!」と叫ぶ場所が。
白石先輩が眠そうな目で距離を教える場所が。
三枝コーチが軽口で絶望的なメニューを告げる場所が。
小学生たちが練習後にこばやしへ走っていく流れが。
肉のこばやしの「フェンシングの子たち」が。

なくなる。

俺はまだ仮入部だ。
正式な部員でもない。
だから、本来なら距離を取れるはずだった。
「大変ですね」と言って、少し離れて見ていられるはずだった。
でも、胸の奥がざらっとした。

距離を取るには、もう近すぎた。
近いから見えてしまった。

ここがなくなったら困る、ということを。

赤羽が一歩前に出た。

「じゃあ、増やせばいいんですよ」

「何を」

三枝コーチが聞く。

「人数。会員。あと、スポンサーとか。協賛とか。体験会とか」

「慎太郎」

「だって、やるしかないじゃないですか」

赤羽の声は強かった。

でも、少し速すぎた。
試合のときと同じだ。
前に出ることで、怖さを置き去りにしようとしている。

「うち、春のふれあい市の体験ブースに出ればいいじゃないですか。フェンシング体験。商店街で。あと、学校でも声かけて。俺、一組で勧誘します。朔は三組」

「勝手に俺を配置するな」

反射で言った。

言ったけど、赤羽の顔を見ると、強くは突っ込めなかった。

赤羽はこっちを見た。

「朔もやるだろ」

「……何を」

「クラブ残すやつ」

クラブ残すやつ。

雑な言い方だ。
雑すぎる。
でも、その雑さの中に、必死さがあった。

三枝コーチが静かに言う。

「気持ちはありがたい。でも、これは大人の話でもある。君たちが全部背負うことじゃない」

白石先輩が短く言った。

「背負うな。でも、動くなとは言ってない」

三枝コーチは白石先輩を見た。

白石先輩はいつもの眠そうな顔で続ける。

「聞こえたことを、聞くかどうかは別。聞いたなら、何かしたくなるのは自然」

その言葉は、また答えではなかった。
でも、今の俺には、答えよりたちが悪かった。

考えさせられる。

三枝コーチは少しだけ笑った。
困ったような、嬉しいような、疲れたような笑いだった。