可能性は売ってない

商店街へ向かう道は、いつもの春の夕方だった。

八百屋の前に玉ねぎの箱。魚屋の前に氷の匂い。パン屋から甘い匂い。少し先から、油の匂い。

肉のこばやしの前に差しかかったとき、赤羽の足がいつものように一瞬止まりかけた。

「練習後」

俺が言うと、赤羽は満足そうにうなずいた。

「復習完璧」

店先では、小林さんがショーケースの中を並べ直していた。

いつもなら「慎太郎、今日も練習か」と声をかけてくる。

でも、その日は少し違った。

小林さんは店先の掲示板の前に立って、隣の八百屋のおばさんと何か話していた。
二人の声は低かった。

赤羽が明るく手を上げる。

「こんにちは!」

小林さんが顔を上げた。

「ああ、慎太郎。青山くんも」

俺の名前が呼ばれた。

少し前なら、驚いたと思う。
今は、驚きはするけど、前より小さい。

この街に名前を呼ばれることに、俺は少しずつ慣れ始めている。まずい。

赤羽が首を傾げた。

「どうしたんですか?」

「いや、ちょっとな」

八百屋のおばさんがため息をついた。

「商店街、また家賃上がるんだってさ」

「家賃?」

赤羽の声が少し大きくなった。

小林さんは苦笑いした。

「この辺一帯の建物、管理会社が変わってな。更新に合わせて賃料改定だと。まあ、難しい言葉で言えばそうだけど、要するに値上げだ」

値上げ。

その言葉は、コロッケ一個の値段が十円上がる話のようでいて、店の人たちの顔を見ると、それだけでは済まないものだとわかった。

八百屋のおばさんが掲示板に貼られた紙を指で叩く。

「こっちも店、続けられるか考えなきゃいけないって話になってるのに、ふれあい市だ協賛だって、もう笑うしかないよ」

掲示板には、前にも見たポスターが貼られていた。

『練馬さくら大根通り商店街 ふれあい市』

『体験ブース参加団体募集』

『協賛店募集中』

その横に、新しい紙が貼られている。

『商店街臨時会合のお知らせ』

赤羽が小林さんを見る。

「こばやしも、ですか」

「うちもだな。まあ、何とかするしかないけど」

「何とかって」

「大人の何とかは、子どもにはつまらん話だよ」

小林さんは笑った。
笑ったけど、いつもの「コロッケ二個?」の顔ではなかった。