可能性は売ってない

声の主は、当然、赤羽慎太郎だった。

制服姿でも、昨日のジャージ姿と同じくらい圧がある。短い髪、真っすぐな目、廊下を歩くだけで周囲の空気を巻き込んでいる感じ。昨日はクラブという特殊な場所だったからあのテンションも多少は許されていたけど、学校でも同じなのか。

赤羽は俺の前まで走ってきて、にかっと笑った。

「おはよう、朔!」

「もう昼だし、声の大きさを下げろ」

「お、ツッコミが昨日より鋭い。筋肉痛?」

「なんでわかるんだよ」

「座り方。太ももかばってる」

俺は思わず自分の足元を見た。

そんなにわかるのか。怖い。フェンシングをやると人の筋肉痛まで読めるのか。占いより実用的だな。

「別に、ちょっと痛いだけ」

「やったじゃん」

「やったじゃん、じゃない。痛いんだよ」

「それ、昨日ちゃんと足使った証拠。初日で筋肉痛は才能」

「また才能って言った。昨日から才能の大安売りだな」

俺がそう言うと、赤羽はまた嬉しそうに笑った。

周囲の視線はまだ少し残っている。特に「昨日の初ポイントの人」という謎の肩書きが気になったらしい生徒が、こっちをちらちら見ていた。

俺は声を低くする。

「ていうか、なんでここにいるんだよ」

「学校だから」

「そういう哲学じゃなくて」

「俺もこの高校。一年一組」

「……同じ高校だったのか」

「昨日言ったじゃん。今日から高校一年って」

「同じ高校とは言ってなかった」

「じゃあ今言った。同じ高校。別クラス。運命の続編」

「続編を勝手に制作するな」

赤羽は胸を張った。

「一組の赤羽慎太郎です。よろしくお願いします」

「三組の青山朔です。廊下で叫ばないでください」

「朔~、距離取るよな」

「距離は大事だろ」

「フェンシングでも?」

「たぶん」

言ってから、俺は少しだけ変な気分になった。

昨日まで、フェンシングという単語はテレビの向こう側にあるものだった。今朝だって、夢かもしれないと思っていた。それなのに、自然に会話の中に入っていた。

たった一日で、脳内の辞書に新しい項目が追加されている。勝手なアップデートはやめてほしい。

赤羽は俺の焼きそばパンを見た。

「昼、それだけ?」

「これだけ」

「少ない。練習するならもっと食べないと」

「練習するとは言ってない」

「今日、来るだろ?」

「行かない」

即答した。

赤羽は目を丸くした。

「え、なんで?」

「なんでって、昨日は体験だし。入部してないし。筋肉痛だし」

「筋肉痛は練習したら治る」

「治らない」

俺は焼きそばパンの残りを食べた。口を動かしている間は、返事をしなくていい。人類が発明した防御技術のひとつだと思う。

赤羽は隣の窓枠に軽く寄りかかって、廊下の向こうを見た。

一組のほうから、赤羽の名前を呼ぶ声がした。

「赤羽ー、午後の委員決めさ、体育委員やれよ!」

「お前ぜったい向いてる!」

「もう担任にも言っといた!」

「勝手に言うなー!」

赤羽は向こうへ叫び返して、それから俺を見た。

入学二日目で、もうクラスに馴染んでいる。

馴染む、というか、侵食している。赤羽という成分が一組全体に広がっている感じだ。たぶん本人は何も考えていない。ただ声を出して、笑って、人の輪に突っ込んでいるだけ。

それができる人間と、できない人間がいる。

俺は後者だ。

別に羨ましくない。
……ということにしておく。昼休みだし、消化に悪い感情は後回しにしたい。

「朔」

「何」

「放課後、クラブ来いよ」

「だから行かないって」

「昨日のポイント、もう一回やってみたくない?」

その言葉で、俺の中の何かが一瞬だけ止まった。

もう一回。

昨日の赤いランプ。金属音。自分の足が勝手に前へ出た感覚。赤羽の肩がわずかに沈んだ瞬間。光ったかどうかわからない、あの一拍。

俺は窓の外へ目をそらした。

「……昨日のは、まぐれだろ」

「うん」

赤羽はあっさり言った。

あっさりすぎて、逆に腹が立った。

「そこは否定しろよ」

「いや、たぶんまぐれ」

「お前、誘う気あるのか」

「ある。だから来いって言ってる」

赤羽は窓枠から体を起こした。

「まぐれかどうかってさ、一回じゃわかんないだろ。二回やっても三回やっても、たぶんまだわかんない。でも、やってるうちに、まぐれじゃない部分が残るんだよ」

「……何それ」

「経験?」

「急にまともなこと言うな。怖い」

「俺、たまにまとも」

「たまになのは自覚あるんだ」

赤羽は笑った。

「放課後、門のところで待ってる」

「待たなくていい」

「待つ。朔が来なかったら、三組まで迎えに行く」

「やめろ。本当にやめろ」

「じゃ、門」

「俺の拒否権は?」

「半分だけ聞く」

「それ、拒否権じゃなくて雑音扱いだろ」

赤羽は「じゃあな!」と言って、一組のほうへ走っていった。

廊下の向こうで、また誰かに肩を組まれている。もう友だちがいる。もう呼ばれる場所がある。

俺は空になったパンの袋を握りつぶした。

別に、羨ましくない。

ただ、昨日のポイントがまぐれだと、赤羽に簡単に言われたのが、少しだけ引っかかった。

いや、少しだけじゃないかもしれない。