可能性は売ってない

俺の相手は、同じ一年生らしい男子だった。
名前は江田、と呼ばれていた。

礼をして、マスクを被る。

視界が格子になる。
でも、いつものクラブより照明が強いせいか、格子の向こうの世界がやけに白かった。

「プレッ」

審判役の相手コーチが言う。

俺は構える。

剣先を相手の胴へ向ける。
後ろ足で床を感じる。
距離を、作る。

そう思った。

「アレ!」

江田が動いた。

赤羽みたいに、まっすぐ飛び込んでくるわけじゃない。
一歩、軽く入る。
剣先が少し揺れる。
俺は反応しようとする。

次の瞬間、胸元に衝撃があった。

ピッ。

ランプが光る。

「アタック。ポイント、江田」

「……え?」

声が出た。

今、何が起きた。

赤羽のときは、速すぎても「来た」という感覚があった。
来る、と思う前に来ることはあっても、それでも何かが迫ってくる圧はあった。

今のは違う。

気づいたら、いた。
気づいたら、当たっていた。

「青山くん、構え直して」

三枝コーチの声がする。

俺はうなずく。

二本目。

「アレ!」

今度は下がる。
最初から少し下がって、距離を置く。

江田は前に来る。
俺は剣先を向ける。
相手の剣を払おうとする。

でも、空を切った。

俺の剣が何かを探している間に、江田の剣先がまた俺の有効面に触れた。

ピッ。

「ポイント、江田」

マスクの中が暑い。

呼吸がうるさい。
自分の息だけが近い。

三本目。
四本目。

俺は何かしようとした。

下がる。
止まる。
剣を出す。
払う。
踏み込む。

でも、全部、遅い。

遅いというより、噛み合わない。
赤羽相手に負けるときは、押されて負ける。
飲み込まれて負ける。
でも、今はそもそも勝負の場所に立てていない気がした。

俺が「ここだ」と思った場所には、もう相手はいない。
俺が「来る」と思った瞬間には、もう来た後だ。
俺の剣先は、相手のいない空気を突いている。

五本目。

江田が軽く前に出る。
俺は今度こそ、と思って足を止めた。

届きそうで、届かない距離。

白石先輩の声を思い出す。

相手が焦れて前に来る距離。

でも、焦れたのは俺のほうだった。

相手が一瞬止まったように見えて、俺は前足を出した。
ランジの形にはなっていない。
ただ、身体が前へ落ちただけ。

江田の剣が俺の剣を軽く払う。

カン。

次の瞬間、胸元。

ピッ。

「ポイント、江田。五対〇」

終わった。

マスクを外すと、空気が冷たかった。
汗が額を伝う。

俺は負けた。

それはわかっていた。
でも、赤羽に負けるのとは違った。

赤羽に負けると、悔しい。
うるさい相手に負けると、腹が立つ。次は一回くらい止めたいと思う。こいつの前進を止めてやりたいと思う。

今の負けには、それすらうまく湧かなかった。

何もできなかった。

負けた、というより、いなかった。
俺がレーンにいたのかどうか、疑いたくなるくらい何も残らなかった。