可能性は売ってない

クラブに着くと、ガラス戸の向こうからいつもの金属音がした。

カン。
カン、カン。

最初はただ珍しい音だった。
今は少しだけ、音の中身がわかる。

剣同士が強くぶつかった音。
軽く払った音。
床を蹴った足音。
誰かが息を吐くタイミング。

世界の解像度が上がる、というと大げさだ。
でも、今まで聞き流していたものが、急に意味を持つ瞬間がある。

意味を持たれると困る。
退屈は、意味がないから退屈で済んでいたのに。

「こんにちはー!」

赤羽が入る。

俺も後ろから「こんにちは」と言った。

レーンでは小学生たちがフットワークをしていた。
白石先輩は壁際で剣を拭いている。
三枝コーチはホワイトボードの前に立っていた。

いつもの風景。

ただ、その日のホワイトボードには、いつものメニューとは違う文字が書かれていた。

『日曜 練習試合』

俺は立ち止まった。

練習。
試合。

赤羽の顔が明るくなった。

「お、練習試合!」

「お、じゃない」

俺は反射で言った。

三枝コーチがこっちを見る。

「青山くん、ちょうどいい。今週の日曜、東京ノースフェンシングアカデミーと練習試合があります」

「へえ」

俺はできるだけ他人事の声を出した。

「頑張ってください」

「君も行くよ」

「なぜ」

「仮入部員だから」

「仮です」

「仮でも部員」

「まだ正式じゃないです」

「正式じゃなくても剣は持ってる」

赤羽が横から、待ってましたみたいに言った。

「仮でも剣持ったら選手だろ」

白石先輩が剣を拭く手を止めずに言った。

「試合では、相手は仮かどうか聞いてくれない」

「先輩まで」

「聞いてくれたとしても、突いてくる」

「礼儀正しいのか怖いのかわからないですね」

三枝コーチは笑った。

「大丈夫。最初から勝てとは言わない。外のクラブの空気を見るだけでも勉強になる」

「見るだけなら、見学でいいのでは」

「剣を持って見るのと、持たずに見るのは違うよ」

それは、たぶん本当だ。

剣を持つと、世界の距離が変わる。
相手がただ立っているだけでも、胸のあたりに冷たいものが触れている気がする。自分の足がどこにあるのか、相手の剣先がどこへ来るのか、呼吸の浅さまで全部、急に自分のものになる。

面倒だ。
非常に面倒だ。

「……俺、まだルールもちゃんとわかってないんですけど」

「フルーレは胴体が有効面。攻撃権があって、先に有効な攻撃をしたほうが優先される。難しく考えすぎなくていい」

三枝コーチが簡単に言う。

簡単に言われると、逆に信用できない。

「今の説明で勝てるんですか」

「勝てない」

「でしょうね」

「でも、始めるには足りる」

赤羽が隣で頷いた。

「そうそう。負けても次がある」

「お前、負ける前から次を用意するな」

「次がないとつまんないだろ」

その言い方が、いかにも赤羽だった。

次。

俺はまだ、今で精一杯なのに。
赤羽はいつも、次を見ている。