可能性は売ってない

クラブを出ようとしたとき、赤羽のバッグの中でスマホが鳴った。

短い電子音。

赤羽が「あ」と言って、バッグの外ポケットからスマホを取り出した。

画面がこちらにも見えた。

『父』

その文字を見た瞬間、赤羽の表情が消えた。

本当に、一瞬だった。

さっきまで笑っていた顔から、すっと色が抜けるみたいに。

太陽系の人間にも、影が落ちることがある。
そんな当たり前のことに、俺は少し遅れて気づいた。

赤羽はすぐに笑った。
いつもの顔に戻した。

戻した、というのがわかった。

「あとでかける」

誰に向かって言ったのかわからない声で、赤羽はそうつぶやいた。

通話には出なかった。
スマホの画面を伏せて、バッグに戻す。

「行こうぜ、朔。今日、コロッケ二個いける気がする」

「お前はいつも二個だろ」

「今日は三個かも」

「胃袋の距離感も覚えろ」

「何それ」

赤羽は笑った。
笑っていた。
でも、俺はさっきの一瞬を見逃せなかった。

近い相手ほど、見えなくなる。

白石先輩の声が、また頭の中で響いた。

俺は赤羽の隣を歩き出した。

商店街の明かりが、ガラス戸の向こうで揺れている。

届く距離。
届きそうで届かない距離。
相手が焦れて前に来る距離。
そして、隣にいるのに、まだ全然見えていない距離。

赤羽のスマホは、バッグの中で黙っていた。
俺はその沈黙を、忘れられなかった。