可能性は売ってない

三枝コーチが手を叩いた。

「じゃあ、今の感覚で一本やってみようか。慎太郎、軽く」

「はい!」

「軽く、の意味わかる?」

「わかります!」

「三割」

「えっ」

「三割」

「……はい」

赤羽は少し不満そうだった。

三枝コーチは笑う。

「青山くんが距離を見る練習。慎太郎が暴れる練習じゃない」

「俺、暴れてないです」

白石先輩が言った。

「暴れてる」

「先輩まで!」

「事実」

赤羽は肩を落としたけど、すぐにマスクを被った。

俺もマスクを被る。
視界が格子になる。
レーンの白い線が足元に伸びる。

三枝コーチの声。

「プレッ」

俺は剣先を赤羽の胴に向ける。

赤羽が構える。

いつものように、前に来る気配がある。
太陽系の人間が、一直線にこっちへ飛んでくる。

怖い。

でも、今日は白石先輩の声が頭の中にある。

慎太郎の速さに付き合うな。
距離は、自分で決める。

「アレ!」

赤羽が前に出た。

速い。

でも、俺はすぐには大きく下がらなかった。

一歩。

剣先を外さない。

赤羽がさらに来る。

俺はもう一歩下がる。

止まる。

届きそうで、届かない。

赤羽の剣先が近い。
腕を伸ばされたら怖い。

でも、まだ届かない。

俺は赤羽の剣先だけじゃなく、肩を見た。

足を見る。
間を見る。

赤羽の前足が、ほんの少し床を噛む。

来る。

そう思った瞬間、俺は剣を横に出した。

カン!

金属音が鳴った。

赤羽の剣先が、俺の胴から少し外れた。

止まった。

いや、完全に止めたわけじゃない。

赤羽はすぐに体勢を立て直した。速い。やっぱり速い。

次の瞬間には、赤羽の剣先が俺の有効面に触れていた。

ピッ。

ランプが光る。

「赤羽」

三枝コーチの声がした。

負けた。
普通に負けた。
ポイントは赤羽。

結果だけ見れば、いつもと同じ。

でも、俺はマスクの中で、息を止めたままだった。

今の。
見えた。

赤羽の剣が、怖いだけじゃなかった。

読めた、気がした。
ほんの一瞬だけ。

赤羽の速さに飲まれる前に、赤羽が前に来る理由みたいなものが見えた。剣先がどこへ来るか、完全じゃないけど、わかった。俺の剣がそこに間に合った。

カン、という音がまだ手の中に残っている。

俺はマスクを外した。
赤羽もマスクを外す。

汗で前髪が額に張り付いている。赤羽は少しだけ目を丸くして、それから笑った。

「今の、俺ちょっと焦った」

その言葉に、胸の奥が変に跳ねた。

「……焦った?」

「うん。剣、外された。びっくりした」

「でも負けた」

「負けたけど!」

赤羽は悔しそうに、でも嬉しそうに言った。

「今の、朔が俺を止めた」

止めた。

その言葉は、当たった、よりも少し重かった。

ポイントは取っていない。
ランプは赤羽のものだった。

でも、俺はただ飲み込まれたわけじゃない。

白石先輩が近づいてきた。

「今のは勝ちじゃない」

「はい」

言われなくてもわかっている。

「でも、負け方が変わった」

俺は白石先輩を見た。

眠そうな目は、いつも通りだった。
でも、その言葉は、今日の練習で一番はっきり聞こえた。

負け方が変わった。
勝てないことには変わりない。
赤羽にはまだ全然届かない。
速いし、強いし、前に出る圧が違う。俺の足はまだ迷うし、剣先はすぐに遅れる。勝負としては、赤羽のほうがずっと先にいる。

でも、負け方が変わった。

ただ下がって突かれる負けから、見ようとして、止めようとして、それでも届かなかった負けになった。
それは負けだ。
でも、同じ負けではない。

「……負け方って、変わるんですね」

俺が言うと、白石先輩は少しだけ口元を動かした。

笑ったのかもしれない。

「変わる。勝ち方より先に」

三枝コーチがうなずく。

「いいね。青山くん、今日のそれは覚えておくといい。相手の速さに合わせて逃げない。相手を自分の距離に置く」

「置く」

「そう。距離は、ただ空いてるものじゃない。作るもの」

作るもの。

また、言葉が増えた。

フェンシングは、俺の辞書を勝手に更新していく。