ジャージに着替えて戻ると、赤羽はもうレーンで軽く足を動かしていた。
前へ。
後ろへ。
同じ動きなのに、やっぱり軽い。
床が赤羽にだけ優しい気がする。たぶん違う。床は公平だ。俺の足が床と仲良くないだけだ。
三枝コーチの合図でウォームアップが始まった。
前進。
後退。
ランジ。
戻る。
昨日よりは動ける。
ほんの少しだけ。
「青山くん、前足だけで行かない」
「はい」
「後ろ足で床を押す」
「はい」
「肩は軽く」
「はい」
三枝コーチの声に合わせて動く。
汗が額ににじむ。
息が上がる。
赤羽が隣で言った。
「朔、今日いいじゃん!」
「油断させるな」
「油断じゃない。本当に足軽い」
「軽いって言われても、自分の足はまだ漬物石みたいなんだが」
白石先輩が近くで聞いていたらしく、ぼそっと言った。
「漬物石は、重いけど安定してる」
「先輩まで」
「褒めてる」
「どこをですか」
「動かないところ」
「それ、フェンシングでは欠点では」
「場合による」
白石先輩はそう言って、レーンの中央へ歩いた。
「青山、慎太郎と軽く一本」
赤羽が待ってましたと言わんばかりにマスクを取った。
「よし!」
「軽く、だからな」
三枝コーチが念押しする。
「わかってます!」
赤羽の「わかってます」は、たいてい半分くらいしかわかっていない。
俺はマスクを被った。
世界が格子になる。
音が近くなる。
赤羽が向かい側に立つ。
マスク越しでも、こいつが笑っているのがわかった。
「朔、いくぞ」
「来るな」
「フェンシングでそれは無理!」
三枝コーチがホイッスルを鳴らした。
「プレッ。アレ!」
赤羽が前に出た。
速い。
昨日も速かった。今日も速い。
一歩目から圧が来る。赤羽の前進は、ただ距離を詰める動きじゃない。空気ごと押してくる。こちらの呼吸を先に乱してくる。
俺は後退した。
一歩。もう一歩。
剣先を向ける。
赤羽は止まらない。
さらに前へ。
怖い。
距離が詰まる。剣先が近くなる。マスクの向こうの赤羽の目が、まっすぐこちらを見ている。
俺はまた下がった。
下がった瞬間、足幅が崩れた。
しまった、と思ったときには、赤羽の剣先が胸元に触れていた。
ピッ。
ランプが光る。
「赤羽」
三枝コーチの声。
俺はマスクの中で息を吐いた。
やっぱり、全然勝てない。
赤羽はマスクを外して、少し首を傾げた。
「朔、また下がりすぎ」
「来るのが速すぎるんだよ」
「俺、そんな速くした?」
白石先輩が近づいてきた。
「慎太郎の速さに付き合うな」
短い言葉だった。
でも、その声は、ホイッスルより静かに耳に残った。
「付き合うな、って……下がらないってことですか?」
「違う。下がってもいい。でも、慎太郎のリズムで下がるな」
白石先輩は俺の立っている位置と、赤羽の位置を見比べた。
「慎太郎が前に来る。青山がその速さに合わせて逃げる。すると、慎太郎が決めた距離になる」
「……はい」
「今のは、青山が後退してるように見えて、距離を決めてるのは慎太郎」
俺は黙った。
たしかに。
俺は下がっている。
でも、主導権は赤羽にある。
赤羽が前に出るから、俺が下がる。赤羽が速く来るから、俺も慌てて下がる。赤羽の剣先が怖いから、どんどん遠ざかろうとする。
でも、遠ざかりすぎた瞬間、俺の足は崩れる。
引いているのに、逃げ切れていない。
「距離は、遠ければ安全ってわけじゃない」
白石先輩が言う。
「遠すぎると、自分も何もできない」
その言葉が、妙に刺さった。
フェンシングの話だ。
わかっている。
でも、俺は赤羽との会話を思い出していた。
赤羽はすぐ距離を詰める。
昼休みの廊下でも、放課後の門でも、商店街でも。声も近いし、言葉も近い。俺が「来るな」と言っても来る。「待たなくていい」と言っても待つ。
俺は引く。
声を小さくする。否定する。「別に」と言う。「仮」を強調する。
でも、引くだけだと、たぶん何も伝わらない。
とにかく、引くだけでは相手に何も渡していない。
フェンシングでも同じだ。
下がるだけでは、赤羽に全部持っていかれる。
「青山」
白石先輩の剣先が少し遠くなる。
「届きそうで届かない距離」
届きそう。
でも、今すぐ腕を伸ばしても触れない。ランジすれば届くかもしれない。でも、ちょっと足りないかもしれない。
そういう、曖昧な距離。
「ここで焦ると、前足だけ出る」
白石先輩が言う。
「相手も焦る。届きそうだから、届かせようとする」
「……はい」
「最後。相手が焦れて前に来る距離」
さらに少し下がる。
遠い。
でも、遠すぎない。
こちらから無理に行くには足りない。相手も、ただ立っているだけでは届かない。
「ここで何もしないと、相手は前に来たくなる」
「赤羽なら来そうです」
「来る」
即答だった。
赤羽が横から抗議した。
「俺、そんな単純じゃないですよ!」
白石先輩は赤羽を見た。
「来る」
「……まあ、来ますけど」
「来るんじゃん」
俺が言うと、赤羽は少し照れたみたいに笑った。
「だって、前に出たほうが楽しいし」
「楽しいで攻撃してくるな」
白石先輩は俺に視線を戻した。
「慎太郎は速い。でも、速いから待てないことがある」
赤羽が小さく「う」と言った。
白石先輩は続ける。
「青山は遅い」
「はっきり言いますね」
「でも、遅いから見えることがある」
「……遅いの、褒めてます?」
「半分」
また半分だ。
このクラブでは、人を半分だけ褒める文化があるのかもしれない。残り半分は筋肉痛で払う形式か。
白石先輩は剣を軽く持ち直した。
「近い相手ほど、見えなくなる」
その言葉で、俺は息を止めた。
「近いと、怖い。近いと、焦る。近いと、相手の全部を見てるつもりで、剣先しか見なくなる」
白石先輩の声は淡々としていた。
「慎太郎を近くで見すぎるな。速さだけ見るな。肩、足、間。全部見る」
「……全部」
「全部見ようとして力むな。軽いものほど、力むと重くなる」
剣は軽い。
軽いものほど、力むと重くなる。
「じゃあ、やってみる」
白石先輩は言った。
「俺が前に出る。青山は下がる。ただし、下がりすぎない。届きそうで届かない距離に置く」
「置く?」
「自分で決める」
白石先輩が前に出た。
俺は下がる。
一歩。
もう一歩。
下がりたい。
もっと遠くへ行きたい。
でも、白石先輩の言葉を思い出す。
遠すぎると、自分も何もできない。
俺は足を止めた。
白石先輩の剣先が、ぎりぎり届かないところにある。
近い。
怖い。
でも、さっきの赤羽ほど飲み込まれていない。
「そこ」
白石先輩が言った。
「今、青山が決めた距離」
俺は息を吐いた。
たったそれだけなのに、胸の中が少し熱くなった。
自分で決めた。
そんな大げさな言葉を使うほどのことではない。数十センチの話だ。床の上で、一歩下がって、止まっただけ。
でも、今までの俺はその一歩を赤羽に決められていた。
前へ来られて、下がらされて、崩れて、突かれる。
それが当然だと思っていた。
白石先輩は少しだけうなずいた。
「いい」
赤羽が横から口を挟んだ。
「朔、今のいい!」
「実況、頼んでない」
「でも今の、ほんとよかった。止まれた」
赤羽の声は、むくれていたさっきより明るかった。
自分が教えていないのに、俺が少しできたことを喜んでいる。
いや、喜ぶのかむくれるのか、どっちかにしろよ。忙しいやつだな。
前へ。
後ろへ。
同じ動きなのに、やっぱり軽い。
床が赤羽にだけ優しい気がする。たぶん違う。床は公平だ。俺の足が床と仲良くないだけだ。
三枝コーチの合図でウォームアップが始まった。
前進。
後退。
ランジ。
戻る。
昨日よりは動ける。
ほんの少しだけ。
「青山くん、前足だけで行かない」
「はい」
「後ろ足で床を押す」
「はい」
「肩は軽く」
「はい」
三枝コーチの声に合わせて動く。
汗が額ににじむ。
息が上がる。
赤羽が隣で言った。
「朔、今日いいじゃん!」
「油断させるな」
「油断じゃない。本当に足軽い」
「軽いって言われても、自分の足はまだ漬物石みたいなんだが」
白石先輩が近くで聞いていたらしく、ぼそっと言った。
「漬物石は、重いけど安定してる」
「先輩まで」
「褒めてる」
「どこをですか」
「動かないところ」
「それ、フェンシングでは欠点では」
「場合による」
白石先輩はそう言って、レーンの中央へ歩いた。
「青山、慎太郎と軽く一本」
赤羽が待ってましたと言わんばかりにマスクを取った。
「よし!」
「軽く、だからな」
三枝コーチが念押しする。
「わかってます!」
赤羽の「わかってます」は、たいてい半分くらいしかわかっていない。
俺はマスクを被った。
世界が格子になる。
音が近くなる。
赤羽が向かい側に立つ。
マスク越しでも、こいつが笑っているのがわかった。
「朔、いくぞ」
「来るな」
「フェンシングでそれは無理!」
三枝コーチがホイッスルを鳴らした。
「プレッ。アレ!」
赤羽が前に出た。
速い。
昨日も速かった。今日も速い。
一歩目から圧が来る。赤羽の前進は、ただ距離を詰める動きじゃない。空気ごと押してくる。こちらの呼吸を先に乱してくる。
俺は後退した。
一歩。もう一歩。
剣先を向ける。
赤羽は止まらない。
さらに前へ。
怖い。
距離が詰まる。剣先が近くなる。マスクの向こうの赤羽の目が、まっすぐこちらを見ている。
俺はまた下がった。
下がった瞬間、足幅が崩れた。
しまった、と思ったときには、赤羽の剣先が胸元に触れていた。
ピッ。
ランプが光る。
「赤羽」
三枝コーチの声。
俺はマスクの中で息を吐いた。
やっぱり、全然勝てない。
赤羽はマスクを外して、少し首を傾げた。
「朔、また下がりすぎ」
「来るのが速すぎるんだよ」
「俺、そんな速くした?」
白石先輩が近づいてきた。
「慎太郎の速さに付き合うな」
短い言葉だった。
でも、その声は、ホイッスルより静かに耳に残った。
「付き合うな、って……下がらないってことですか?」
「違う。下がってもいい。でも、慎太郎のリズムで下がるな」
白石先輩は俺の立っている位置と、赤羽の位置を見比べた。
「慎太郎が前に来る。青山がその速さに合わせて逃げる。すると、慎太郎が決めた距離になる」
「……はい」
「今のは、青山が後退してるように見えて、距離を決めてるのは慎太郎」
俺は黙った。
たしかに。
俺は下がっている。
でも、主導権は赤羽にある。
赤羽が前に出るから、俺が下がる。赤羽が速く来るから、俺も慌てて下がる。赤羽の剣先が怖いから、どんどん遠ざかろうとする。
でも、遠ざかりすぎた瞬間、俺の足は崩れる。
引いているのに、逃げ切れていない。
「距離は、遠ければ安全ってわけじゃない」
白石先輩が言う。
「遠すぎると、自分も何もできない」
その言葉が、妙に刺さった。
フェンシングの話だ。
わかっている。
でも、俺は赤羽との会話を思い出していた。
赤羽はすぐ距離を詰める。
昼休みの廊下でも、放課後の門でも、商店街でも。声も近いし、言葉も近い。俺が「来るな」と言っても来る。「待たなくていい」と言っても待つ。
俺は引く。
声を小さくする。否定する。「別に」と言う。「仮」を強調する。
でも、引くだけだと、たぶん何も伝わらない。
とにかく、引くだけでは相手に何も渡していない。
フェンシングでも同じだ。
下がるだけでは、赤羽に全部持っていかれる。
「青山」
白石先輩の剣先が少し遠くなる。
「届きそうで届かない距離」
届きそう。
でも、今すぐ腕を伸ばしても触れない。ランジすれば届くかもしれない。でも、ちょっと足りないかもしれない。
そういう、曖昧な距離。
「ここで焦ると、前足だけ出る」
白石先輩が言う。
「相手も焦る。届きそうだから、届かせようとする」
「……はい」
「最後。相手が焦れて前に来る距離」
さらに少し下がる。
遠い。
でも、遠すぎない。
こちらから無理に行くには足りない。相手も、ただ立っているだけでは届かない。
「ここで何もしないと、相手は前に来たくなる」
「赤羽なら来そうです」
「来る」
即答だった。
赤羽が横から抗議した。
「俺、そんな単純じゃないですよ!」
白石先輩は赤羽を見た。
「来る」
「……まあ、来ますけど」
「来るんじゃん」
俺が言うと、赤羽は少し照れたみたいに笑った。
「だって、前に出たほうが楽しいし」
「楽しいで攻撃してくるな」
白石先輩は俺に視線を戻した。
「慎太郎は速い。でも、速いから待てないことがある」
赤羽が小さく「う」と言った。
白石先輩は続ける。
「青山は遅い」
「はっきり言いますね」
「でも、遅いから見えることがある」
「……遅いの、褒めてます?」
「半分」
また半分だ。
このクラブでは、人を半分だけ褒める文化があるのかもしれない。残り半分は筋肉痛で払う形式か。
白石先輩は剣を軽く持ち直した。
「近い相手ほど、見えなくなる」
その言葉で、俺は息を止めた。
「近いと、怖い。近いと、焦る。近いと、相手の全部を見てるつもりで、剣先しか見なくなる」
白石先輩の声は淡々としていた。
「慎太郎を近くで見すぎるな。速さだけ見るな。肩、足、間。全部見る」
「……全部」
「全部見ようとして力むな。軽いものほど、力むと重くなる」
剣は軽い。
軽いものほど、力むと重くなる。
「じゃあ、やってみる」
白石先輩は言った。
「俺が前に出る。青山は下がる。ただし、下がりすぎない。届きそうで届かない距離に置く」
「置く?」
「自分で決める」
白石先輩が前に出た。
俺は下がる。
一歩。
もう一歩。
下がりたい。
もっと遠くへ行きたい。
でも、白石先輩の言葉を思い出す。
遠すぎると、自分も何もできない。
俺は足を止めた。
白石先輩の剣先が、ぎりぎり届かないところにある。
近い。
怖い。
でも、さっきの赤羽ほど飲み込まれていない。
「そこ」
白石先輩が言った。
「今、青山が決めた距離」
俺は息を吐いた。
たったそれだけなのに、胸の中が少し熱くなった。
自分で決めた。
そんな大げさな言葉を使うほどのことではない。数十センチの話だ。床の上で、一歩下がって、止まっただけ。
でも、今までの俺はその一歩を赤羽に決められていた。
前へ来られて、下がらされて、崩れて、突かれる。
それが当然だと思っていた。
白石先輩は少しだけうなずいた。
「いい」
赤羽が横から口を挟んだ。
「朔、今のいい!」
「実況、頼んでない」
「でも今の、ほんとよかった。止まれた」
赤羽の声は、むくれていたさっきより明るかった。
自分が教えていないのに、俺が少しできたことを喜んでいる。
いや、喜ぶのかむくれるのか、どっちかにしろよ。忙しいやつだな。



