可能性は売ってない

家に着くと、玄関で靴を脱ぐだけで太ももが文句を言った。

「ただいま」

「おかえり」

台所から母さんの声がした。

夕飯の匂いがする。

俺はカバンを置いて、リビングへ入った。

母さんが俺を見て、少し笑った。

「昨日より疲れてる顔」

「普通」

「歩き方、さらに変」

「普通」

「服、油の匂いする」

「……普通じゃないかもしれない」

母さんは手を拭いて、俺のほうへ少し近づいた。

「仮入部届、出した?」

「出した」

「そう」

母さんはそれだけ言った。

怒るでも、喜ぶでも、詳しく聞くでもなく。

ただ、そう、と。

それで終わるかと思った。
でも、母さんはふと、俺の顔を見て言った。

「フェンシング、楽しい?」

俺は返事をしようとして、口を開けた。

――別に。

いつもの言葉なら、すぐに出せるはずだった。

でも、今日の金属音が残っている。

後ろ足で床を押した感覚。
赤羽の「昨日より足出てた」という声。
白石先輩の「距離を保つ」。
三枝コーチのホワイトボード。
肉のこばやしの熱いコロッケ。
商店街のポスター。
フェンシングの子たち。

全部が、俺の中でまだ少し熱かった。

俺はコロッケの匂いが残った指先を見た。

答えは、すぐには出てこなかった。

でも、「別に」だけでは、もう片付かなかった。