可能性は売ってない

――練習が終わる頃には、外は夕方になっていた。

ジャージから制服に着替えると、足が制服のズボンを拒否しているみたいだった。布が太ももに触れるだけで、今日のメニューを思い出す。

人間の記憶は脳だけにあるわけじゃない。筋肉にもある。しかも筋肉の記憶は文句が多い。

受付の机の上には、さっきの封筒がもう見えなかった。

三枝コーチは何事もなかったみたいに、子どもたちの忘れ物を確認している。

「青山くん、仮入部初日、お疲れ」

「仮でもメニューは本格的なんですね」

「仮のうちに逃げられないように」

「本音が怖い」

「冗談。半分」

三枝コーチは笑った。

「無理しすぎないこと。でも、続けるなら足は大事にね。フェンシングは、剣より先に足が嘘をつくから」

「足、嘘つくんですか」

「疲れてくると、行けるふりをして行けない。戻れるふりをして戻れない」

「今日の俺の足は、ずっと正直に無理って言ってました」

「それも才能」

「赤羽語が感染してます」

「慎太郎の近くにいると移るよ」

「予防法は?」

「距離」

白石先輩が後ろから短く言った。

赤羽がすぐに反応する。

「先輩、それ俺が迷惑みたいじゃないですか!」

「近すぎると見えなくなる」

「え、フェンシングの話?」

「半分」

白石先輩はそれだけ言って、バッグを肩にかけた。

俺はその言葉を、また持ち帰ることになった。

近すぎると見えなくなる。

赤羽は近い。
距離の詰め方が、商店街の呼び込みより早い。
でも、その近さのおかげで、俺はここに来た。
そして、その近さの中で、赤羽は俺の足が昨日より出ていることを見ていた。

近すぎて見えなくなるものもある。
近いから見えるものもある。

どっちなんだよ。

答えをくれない先輩は、やっぱりずるい。