可能性は売ってない

隣の赤羽は、同じメニューをやっているのに軽かった。

前へ出る一歩が、弾む。
後ろへ戻る一歩が、滑る。

床と喧嘩していない。俺は床と毎歩交渉しているのに、赤羽は床と昔からの友人みたいに付き合っている。

「朔、もっとこう!」

赤羽が横で動いて見せる。

「ビュッて行って、スッて戻る」

「擬音で人類は上達しない」

「え、わかりやすくない?」

「ビュッとスッで理解できるのは、お前の足だけだ」

「じゃあ、シュッて行って、サッて戻る」

「擬音の種類を増やすな」

赤羽は真剣に首を傾げた。

「うーん。じゃあ、床を押して、前に飛ぶ感じ?」

「急に人語になった」

「でも、やっぱりビュッなんだよな」

「戻るな」

白石先輩が近づいてきた。
眠そうな目のまま、俺の足元を見た。

「慎太郎の擬音は、聞かなくていい」

「先輩!」

「青山は、後ろ足が止まってる。前に出ようとして、前足だけで頑張ってる」

白石先輩は俺の後ろ足の横に、自分の足先を軽く置いた。

「前に行くとき、後ろ足で床を押す。前足は運ぶだけ。戻るときは、先に後ろ足を逃がしすぎない。距離を保つ」

「距離を保つ」

「近づきたいからって、前足だけ出すと崩れる。離れたいからって、後ろ足だけ逃げても崩れる」

短い言葉なのに、妙に残った。

フェンシングの話だ。
足の話だ。

なのに、どこか人との距離の話みたいにも聞こえる。

近づきたいから前足だけ出すと崩れる。
離れたいから後ろ足だけ逃げても崩れる。

俺は思わず赤羽を見た。

赤羽は白石先輩の説明に「なるほど!」という顔をしていた。たぶん君はもうできてる側の人間だ。なるほどを消費しなくていい。