可能性は売ってない

ロッカーでジャージに着替える。

体験用の青いジャージは、昨日と同じ匂いがした。洗ってあるのに、どこかゴムマットの匂いが残っている。

鏡を見る。

昨日より、ほんの少しだけ見慣れた自分がいた。

制服より似合っている、とは思わない。
でも、変ではない。

レーンに戻ると、三枝コーチがホワイトボードにメニューを書いていた。

『ウォームアップ』

『フットワーク』

『前進・後退』

『ランジ』

『休憩』

『もう一回フットワーク』

最後の行を見て、俺は固まった。

「休憩のあと、また足ですか」

「そう。足が基本だから」

「剣は?」

「最後にちょっと」

「フェンシングって剣の競技じゃないんですか」

「剣を当てるために足を使う競技です」

三枝コーチは爽やかに言った。

爽やかに絶望を告げる大人、怖い。

赤羽は隣で楽しそうに屈伸している。

「大丈夫、朔! 足はそのうち慣れる!」

「今、慣れてないんだよ」

「最初はみんな死ぬ!」

「励ましの方向性が終わってる」

白石先輩が淡々と言った。

「死なない。疲れるだけ」

「先輩、その違いを体が理解してくれません」

「体に教えるのが練習」

三枝コーチが手を叩いた。

「はい、オンガード」

俺は構えた。

前足を相手に向ける。後ろ足は斜め。膝を軽く曲げる。上体を起こす。剣はまだ持たない。手は前に出すだけ。

これだけで、太ももがじわっと熱くなる。

「前進。いち、に。後退。いち、に」

足裏が床を擦る。

前へ。戻る。
前へ。戻る。

簡単に見える。
というか、外から見たらたぶん簡単だ。
ただ歩いているだけに近い。

でも、ただ歩くのと違って、ずっと構えたまま動く。膝は曲げっぱなし。上体は起こしっぱなし。足幅は崩さない。前足だけ急がない。後ろ足を忘れない。

考えることが多い。
そして、考えているうちに足が死ぬ。

まだ剣を握ってもいないのに、俺のフェンシング人生は下半身から崩壊しつつあった。

「青山くん、足幅狭くなってる」

「はい」

「前足、置きにいかない。後ろ足で押す」

「はい」

「肩に力入ってる」

「足なのに肩もですか」

「人間はつながってるからね」

「不便ですね、人間」

三枝コーチは笑った。

「その不便さを使うのがスポーツです」

言ってることはたぶん正しい。
でも正しさで筋肉痛は治らない。