目が覚めた瞬間、俺は自分の太ももを疑った。
いや、太ももに人格があるわけじゃない。あったら怖い。朝から「昨日はよく頑張ったな、朔」とか話しかけてきたら、俺はそのまま二度寝を選ぶ。
でも、それくらい違和感があった。
布団の中で足を少し動かしただけで、太ももの前側がじわっと痛む。ふくらはぎも重い。右腕は、昨日ずっと鉛筆じゃなくて何か別の細長い金属を握っていたみたいにだるい。
……握っていた。
細長い金属。
剣。
「……夢じゃなかったのか」
自分の声が、朝の部屋にやけに間抜けに落ちた。
昨日、入学式の帰りに、俺は古い三階建てのビルの一階でフェンシングクラブを見つけた。赤羽慎太郎という太陽系の人間に声をかけられて、流されて、押し込まれて、着替えて、剣を持って、マスクを被って、なぜかポイントを取った。
ここまで文字にすると、完全に夢だ。
夢じゃないなら、何かの詐欺か、春の陽気にやられた高校一年生の一時的な判断ミスだ。どっちにしても、あまり誇れるものではない。
俺は枕元のスマホを手探りで取って、時間を確認した。
六時四十二分。
高校生活二日目にして、すでに身体が「今日は休もう」と提案している。早すぎる。まだ皆勤賞が夢を見られる段階なのに、筋肉痛のせいで未来が狭まっている。
起き上がろうとして、太ももがもう一度抗議した。
「痛っ……」
声に出したら負けな気がしたけど、もう出ていた。敗北は早朝から始まる。
制服は椅子の背にかけてある。昨日の入学式で着たばかりの、まだ硬い制服。カバンは机の横に置きっぱなしで、口が少し開いていた。
俺はのろのろと布団から出て、カバンの中を覗いた。
教科書はまだ少ない。プリントの束。筆箱。昨日配られた校則の冊子。定期入れ。
その隙間から、ふわっと妙な匂いがした。
汗と、柔軟剤と、ゴムマットみたいな匂い。
昨日のクラブの匂いだった。
体験用ジャージは返したはずだ。なのに、バッグの布地に、あの場所の空気が少しだけ移っている。ガラス戸の向こうの白い床、蛍光灯の唸り、カン、という金属音。赤羽のやたら大きな声。白石先輩の眠そうな目。三枝コーチの軽い口調。
全部、ちゃんと昨日あった。
夢じゃなかった。
俺はカバンを閉じた。
閉じたのに、匂いは消えなかった。
「……いや、だから何だよ」
誰に向かって言ったのかわからない。
夢じゃなかったからって、今日また行く必要はない。昨日はたまたま通りかかっただけだ。入学式の帰り道で、ちょっと浮かれていた。浮かれていたというのは俺にしては大事件だけど、まあ、人間誰にでも誤作動はある。
昨日のポイントも、たまたまだ。
赤羽が油断した。俺の足が偶然出た。機械が光った。そういうことだ。世界にはたまに、説明できない偶然がある。落とした消しゴムが机の脚に当たって戻ってくるとか、自販機で押し間違えた飲み物が意外とうまいとか。昨日のポイントは、その親戚だ。
親戚なら、たまに会うくらいでいい。毎日顔を出す必要はない。
そう決めて、俺は制服に袖を通した。
いや、太ももに人格があるわけじゃない。あったら怖い。朝から「昨日はよく頑張ったな、朔」とか話しかけてきたら、俺はそのまま二度寝を選ぶ。
でも、それくらい違和感があった。
布団の中で足を少し動かしただけで、太ももの前側がじわっと痛む。ふくらはぎも重い。右腕は、昨日ずっと鉛筆じゃなくて何か別の細長い金属を握っていたみたいにだるい。
……握っていた。
細長い金属。
剣。
「……夢じゃなかったのか」
自分の声が、朝の部屋にやけに間抜けに落ちた。
昨日、入学式の帰りに、俺は古い三階建てのビルの一階でフェンシングクラブを見つけた。赤羽慎太郎という太陽系の人間に声をかけられて、流されて、押し込まれて、着替えて、剣を持って、マスクを被って、なぜかポイントを取った。
ここまで文字にすると、完全に夢だ。
夢じゃないなら、何かの詐欺か、春の陽気にやられた高校一年生の一時的な判断ミスだ。どっちにしても、あまり誇れるものではない。
俺は枕元のスマホを手探りで取って、時間を確認した。
六時四十二分。
高校生活二日目にして、すでに身体が「今日は休もう」と提案している。早すぎる。まだ皆勤賞が夢を見られる段階なのに、筋肉痛のせいで未来が狭まっている。
起き上がろうとして、太ももがもう一度抗議した。
「痛っ……」
声に出したら負けな気がしたけど、もう出ていた。敗北は早朝から始まる。
制服は椅子の背にかけてある。昨日の入学式で着たばかりの、まだ硬い制服。カバンは机の横に置きっぱなしで、口が少し開いていた。
俺はのろのろと布団から出て、カバンの中を覗いた。
教科書はまだ少ない。プリントの束。筆箱。昨日配られた校則の冊子。定期入れ。
その隙間から、ふわっと妙な匂いがした。
汗と、柔軟剤と、ゴムマットみたいな匂い。
昨日のクラブの匂いだった。
体験用ジャージは返したはずだ。なのに、バッグの布地に、あの場所の空気が少しだけ移っている。ガラス戸の向こうの白い床、蛍光灯の唸り、カン、という金属音。赤羽のやたら大きな声。白石先輩の眠そうな目。三枝コーチの軽い口調。
全部、ちゃんと昨日あった。
夢じゃなかった。
俺はカバンを閉じた。
閉じたのに、匂いは消えなかった。
「……いや、だから何だよ」
誰に向かって言ったのかわからない。
夢じゃなかったからって、今日また行く必要はない。昨日はたまたま通りかかっただけだ。入学式の帰り道で、ちょっと浮かれていた。浮かれていたというのは俺にしては大事件だけど、まあ、人間誰にでも誤作動はある。
昨日のポイントも、たまたまだ。
赤羽が油断した。俺の足が偶然出た。機械が光った。そういうことだ。世界にはたまに、説明できない偶然がある。落とした消しゴムが机の脚に当たって戻ってくるとか、自販機で押し間違えた飲み物が意外とうまいとか。昨日のポイントは、その親戚だ。
親戚なら、たまに会うくらいでいい。毎日顔を出す必要はない。
そう決めて、俺は制服に袖を通した。



