可能性は売ってない

家に帰ると、母さんに「疲れてる?」と聞かれた。

「別に」

いつもの返事をしたけど、たぶん声に疲れが出ていた。

夕飯を食べて、風呂に入った。

湯船に浸かると、太ももがじわっと痛んだ。今日の練習で、筋肉痛は完全に育った。赤羽が言うなら「成長」かもしれないけど、俺としては普通に迷惑だ。

部屋に戻って、カバンを開ける。

プリントを出す。校則の冊子を出す。明日の時間割を確認する。

その下に、仮入部届があった。

白い紙。
名前欄。
保護者サイン欄。
NERIMA FENCING CLUBの文字。

俺はそれを机の上に置いた。

「……入部するとは言ってない」

今日、何度目かわからない言葉を口にする。

捨ててもいい、と三枝コーチは言った。

俺は紙を持ち上げて、ゴミ箱の上まで持っていった。

手を離せば終わる。

昨日のポイントはまぐれ。今日も何度も負けた。赤羽はうるさい。白石先輩は短い言葉で変なところを突いてくる。三枝コーチは大人のくせに軽口と現実を混ぜてくる。フェンシングは難しい。足は痛い。腕も痛い。明日、階段で泣くかもしれない。

やめる理由なら、いくらでもある。

でも、今日の金属音が残っている。

カン。

俺は紙をゴミ箱の上から戻して、机の真ん中に置いた。

捨てるのは、明日でもできる。

そう思った時点で、たぶん今日の俺は負けている。

誰に負けたのかは、まだ決めたくない。
赤羽か。フェンシングか。昨日の自分か。退屈だった日常か。

どれでも腹が立つので、今日は考えないことにした。