可能性は売ってない

デモが終わると、父親が赤羽に声をかけた。

「慎太郎」

赤羽は逃げなかった。

俺はその場から少し離れた。

でも、声は聞こえた。

聞いていいのか迷ったが、赤羽は隠すようにはしていなかった。

「俺、練馬に残りたい」

赤羽の声は、大きくなかった。
でも、逃げていなかった。

「フェンシングを続けたい。このクラブで、こいつらと続けたい」

こいつら。

雑な言い方だ。

でも、赤羽らしかった。

俺や白石先輩や三枝コーチや小学生たちや、商店街の人たちまで、赤羽の中ではたぶん全部「こいつら」に入っている。

広い。

赤羽の距離感は本当に雑だ。

父親はすぐに「いいぞ」とは言わなかった。

黙って、商店街のブースを見た。

子どもたちが防具を畳んでいる。
三枝コーチが保護者に説明している。
白石先輩がテープをはがしやすいように端を折っている。
小林さんが店先からこちらを見ている。
田端さんが山浦さんに何か話している。
俺は受付表を持ったまま立っている。
そして赤羽は、父親の前でまっすぐ立っている。

父親は言った。

「簡単じゃないぞ」

赤羽はうなずいた。

「わかってる」

「家のことも、母さんのことも、考えなきゃいけない」

「考える。手伝う」

赤羽は一度、息を吸った。

「でも、何も言わずに大阪に行くのは嫌だ」

父親は赤羽を見た。

長い沈黙だった。

商店街の音が戻ってくる。

子どもの声。
自転車のベル。
テントをたたむ音。
油の匂い。

父親はゆっくり言った。

「まずは、父さんが単身で行く」

赤羽の目が少し開いた。

「その代わり、お前もこっちで逃げるな。学校も、家のことも、フェンシングも。言った分は、自分でやれ」

赤羽は、すぐには返事をしなかった。

たぶん、言葉を飲み込んでいた。

それから、はっきり言った。

「やる」

父親はうなずいた。

「簡単に決まるわけじゃない。母さんとも、まだ細かい話はある。でも、お前が今日ここで何をしているかは見た」

赤羽は口を結んだ。

泣きそう、というほどではない。
でも、いつもの赤羽より、顔が少し子どもに戻っていた。

俺は見ないふりをした。

相棒にも、見られたくない顔はある。

赤羽は、父親の前で頭を下げた。

「ありがとう」

父親は少しだけ困ったように笑った。

「礼を言うのは、まだ早い」

「じゃあ、後で言う」

「そうしろ」

赤羽がこちらを見た。

俺と目が合う。

俺は何も言わず、親指を少しだけ立てた。

赤羽は笑った。

今度は、ちゃんと十割の笑いだった。