*
目が覚めたとき天井が白くて、それはいつもと同じ白でいつもと同じ朝のはずだったのに、カーテンの隙間から差し込む八月の光に照らされた部屋の空気がもう生温くなっていることに気づいた瞬間、なにか決定的に違うものが混じっている気がした。枕元のスマホを手に取って時刻を確認すると六時四十八分で、アラームが鳴る二分前だった。
体を起こして窓を開けると空が広くて、いつもより広いわけではなくいつもと同じ空のはずなのに何かが足りない、何かが欠けている。夏の朝の青い空に光が散らばっていて雲がすこし浮かんでいて、それだけ、それだけの空だった。
海月がいない。
最初は時間帯のせいだと思って、朝早いから見えにくいのだろうと自分に言い聞かせながら目を凝らし、空の端から端までゆっくり視線を動かして青色の影を探したのだけれど、いつもそこにいたのだ、どの時間でもどの天気でも空を見上げれば必ずそこに浮かんでいた海月、透明な傘を広げてゆっくりと漂っている、あの——。
いない。どこにも、いない。
窓枠に手をついて身を乗り出して、屋根の向こうの空、電線の上の空、隣の家の屋根と屋根の隙間に覗く空と順に目を走らせたけれど、どこを見ても何も浮かんでいなくて、ただの空だった。ただの八月の青い空がどこまでもだらしなく広がっているだけで、それ以外には何もない。
心臓の鼓動が自分でも苛立つくらいはっきりと聞こえていて、その拍動に重なるように紬の声が頭の中で響いた。防波堤の上で膝を抱えて海を見ながら笑っていた声——たぶんね、海月って、私なんだと思う。
あのとき私はその言葉の意味をちゃんと受け止めきれていなかった、いや、受け止めたくなかったのだと思う。受け止めてしまったらそれが現実になるような気がして、だから聞こえないふりをした、聞こえないふりをしたまま夏が終わろうとしている。
スマホを握りしめてLINEを開くと、紬のトーク画面がなかった。
指が止まって、トーク一覧をスクロールして、天音のトーク、クラスのグループ、母、秋帆姉、それ以外の数人の名前がいつも通りに並んでいるのを確認しながら紬を探したけれど、夜宮紬のトークが一覧のどこにもない。
友だちリストを開いてあ行、か行、さ行と順番に辿っていき、や行まで来ても夜宮紬の名前がなかった。
画面を見つめたまま指先が冷たくなっていくのがわかって、八月の朝なのに指先だけが冷たくなっていて、自分でもおかしいと思うのに体温が指から抜け落ちていくのが止められなかった。
写真フォルダを開いて神社で撮った写真を探した。二人で手すりの前に並んで海を背景に撮った写真、紬が風に乱れた髪のまま穏やかに笑っていた写真、あの写真は旅行のときに——ない。
フォルダをスクロールしても夏祭りの写真もなく、旅行の写真もなく、図書室の窓際で本を読んでいる紬の横顔をいちごミルクを飲むふりをしながら撮った写真もなかった。全部ない、最初からなかったみたいにフォルダの中には私と天音の写真と風景と猫の写真しか残っていない。
——私が消えたら、海月も消える。私の存在ごと。最初から何もなかったみたいに。きれいに。
パジャマのまま部屋を出て階段を駆け下りると、母がキッチンに立っていて足音に振り向いた。
「幸、どうしたの、そんな顔——」
「お母さん、夜宮紬って知ってる?」
母が首を傾げて、名前に覚えがないらしい、まったく心当たりのないものを聞かれたときの、きょとんとした顔をしていた。
「よみや……? 誰?」
「私の友達。何度も話したでしょ、紬のこと。旅行に行くって言ったとき——」
「旅行? 幸、旅行なんて行ったっけ」
母の声には嘘がなかった。困惑しているのでもなくて、本当に知らないのだ、夜宮紬という名前に何の引っかかりも感じていない。
私が何度もこの食卓で紬の話をしたことを、旅行に行くと言って鞄を詰めたことを、いちごミルクを二つ買うようになった理由を、何ひとつ覚えていない。
いや、覚えていないのではない。
最初からなかったことになっている。覚えていないのと、なかったことになっているのとでは意味がまるで違うのだ。前者には忘れた記憶がどこかに残っている可能性があるけれど、後者には何もない。消されたのではなく、最初から存在しなかったことにされている。
玄関で靴を履いた。紐を結ぶ手間を惜しんでかかとを踏んだまま外に出ると朝の空気が肌に当たって、八月の朝はもう暑い。財布とスマホだけ持って走り出す、鞄はない、いちごミルクを買っていない。
走りながら空を見上げたけれど何度見ても同じだった。海月がいない、空はただの空で、雲はただの雲で、電線はただの電線で、あの青色の、あの透明な傘を広げた、あの——いない、消えている、紬が言った通りに。
駅まで走って改札を通ってホームに降りると、電車が来るまで三分だった。スマホを開いてもう一度LINEの友だちリストを見たけれど、夜宮紬はいない。
トーク履歴もなかった。紬と交わした何百通ものメッセージが、「大丈夫だよ」の五文字が、「おやすみ」が、「好きだよ」が、全部消えている。
電車が来て、乗った。二駅、たった二駅なのに各駅停車が一駅ごとに止まるたびに息が詰まって、窓の外を海月のいない空が流れていく。あの空を紬は最初からただの夜空として見ていた、みんなが海月を見上げているとき紬だけが星を見ていた。
その孤独を私は知らなかった。知ろうとしなかったのかもしれない、知ってしまったら紬がいかに遠い場所にいるのか認めなければならなくなるから。
電車の中で記憶が洪水のように押し寄せてくる。
図書室で初めて話しかけた日の紬の横顔、本を閉じてこちらを見て「なに」と言った低い声、カフェで向かい合って勉強したとき紬が消しゴムのかすを指先で集めていた仕草、夏祭りの人混みの中で手を繋いだとき紬の指が冷たかったこと、冷たいのに離さなかったこと、パンケーキ屋で天音と三人で笑ったとき紬がフォークを止めて私たちを見ていた目、あの目に何が映っていたのか、映っていたのは海月ではなくてただの——、神社の石段で紬の手が柵に触れたこと。
堪えきれなくて口を手で覆った。電車の中で、朝の乗客たちの中で、パジャマにスニーカーのかかとを踏んだ高校生が手で口を押さえて肩を震わせている。おかしな光景だと思われているだろう、でもそんなのどうでもよかった。
どうでもいい、紬がいないのに他人の目なんかどうでもいい。
駅に着いて改札を出て走った。坂を上る、パジャマの裾が足にまとわりつく、息が切れる、八月の朝の空気が肺を焼いた。
病院が見えた。白い建物で、自動ドアを抜けると冷房の空気が汗ばんだ肌にぶつかって、その温度差に一瞬だけ足がもたついた。
受付に駆け寄った。
「夜宮紬さんの、面会に来ました」
受付の看護師がこちらを見て、パジャマ姿で息を切らしている高校生を怪訝そうに見ながら端末のキーボードを叩いて画面を確認した。
「……夜宮さん?」
「はい。305号室。三階の」
看護師が画面をもう一度見て、首を傾げた。
「申し訳ないんですけど、305号室は現在空き部屋になっていまして——夜宮さんという患者さんは、当院にはいらっしゃらないですね」
空気が止まった。耳の奥で何かがぷつんと切れたような感覚があって、自分の体の中で今なにが起きているのかうまく把握できなかった。怒っているのか、怖いのか、悲しいのか、たぶん全部だ、全部が同時に押し寄せてきていてどれか一つを選ぶことができない。
「いないって……いるんです。夜宮紬、十七歳。ずっと入院してて、私毎日お見舞いに来てて——」
声が大きくなっていく、自分で制御できなかった。受付の看護師の表情が困惑から警戒に変わっていくのがわかって、隣のカウンターにいた別の看護師がこちらを見た。
「落ち着いてください。もう一度確認しますね」
端末を叩く音、画面を見る目、そして同じ答え。
「やはり該当する患者さんはいらっしゃいません。お名前の漢字が違うということは——」
「違いません。夜の宮に、紡ぐの紬。305号室、窓際のベッド、点滴をしてて、カーディガン着て散歩に出てて、海が近いことを知ってて——」
言葉が溢れていった。看護師に紬の存在を証明しようとして、証明するための材料が記憶の中にしかないことに気づいた、写真はない、LINEの履歴もない、証拠がない、私の記憶以外の何もなにひとつない。
こんなに確かに覚えているのに、この世界には紬がいた痕跡がどこにも残っていない、その事実に気づいた瞬間、足元がぐらりと傾いた気がした。
「あの、お嬢さん——」
「お願いします。三階に行かせてください。305号室を見ればわかるから」
「それはちょっと——」
「お願いします」
看護師が何か言いかけたのは聞こえていた、聞こえていたけれどもう足が動いていて、受付のカウンターを離れてエレベーターのほうに歩き出していた。後ろから「ちょっと、待ってください」という声が追いかけてくる、聞こえない、聞こえているけれど止まれない。
エレベーターのボタンを押したけれど開かなくて、まだ上の階にいる、階段だ、階段を探して非常階段の扉を押し開けて一段飛ばしで駆け上がった。パジャマの裾が足に絡んで、サンダルの底が金属の段を叩く音が反響する、二階、三階、扉を押し開けると白い廊下に消毒液の匂いが漂っていた。
ナースステーションの前を走り抜けて、看護師が「あ、ちょっと——」と声を上げるのが聞こえたけれど振り返らない、右に曲がって一つ目の部屋、二つ目の部屋、三つ目。
305号室のドアが完全に開いていた。
中に入った。
ベッドがあった。シーツは白くて綺麗に整えられていて皺がないのだけれど、違う、これは昨日までのベッドではない、使われていないベッドだった。
マットレスの上にシーツが一枚敷かれているだけの患者を待っている空のベッドで、枕カバーには誰も頭を載せていない工場出荷時のままの折り目がついている。
点滴のスタンドがなかった。壁際にもベッドの横にも、紬が毎日引きずって歩いていたあのスタンドがどこにもない。散歩のたびにキャスターががらがらと鳴って紬が邪魔そうに腕の位置を調整していたあのスタンドが、パックもチューブもろとも消えていて、最初からここにはなかったみたいに壁は白くて空っぽだった。
サイドテーブルがベッドの横にあって、いちごミルクのパックも紬が読みかけていた本も何も置かれていない——と思ったとき、テーブルの奥の壁との隙間に何かが光っているのが見えた。
手を伸ばして指先が触れると、冷たくて小さくて、金属の感触がした。
銀色の指輪だった。昨日紬の薬指に嵌めた、少しだけ大きくて紬が指を曲げて落ちないようにしていた、あの指輪。
サイドテーブルの上に置いたはずなのに壁との隙間に滑り落ちていて、紬がいなくなるとき指から外れて転がってここに落ちたのだろうかと考えた。紬の体は消えて、指輪だけが残った。
紬が最後に残したもの、紬がこの世界にいたたったひとつの証拠。
握りしめた。銀の輪が掌に食い込んで痛いのに手が開かなくて、開いたら消えてしまいそうで、これだけは、これだけは消えないでほしくて。
「——お嬢さん」
後ろから声がして、ナースステーションの看護師が追いかけてきたのだろう。
「ここは空き部屋ですよ。どなたか患者さんをお探しですか」
空き部屋、この人にとっては空き部屋なのだ、夜宮紬という患者がここにいた記憶がない。毎日検温に来てくれた記憶も「賑やかですね」と笑ってくれた記憶もなくて、全部消えている、紬の存在ごと最初から何もなかったみたいに、きれいに。
きれいに、と紬は言った。
きれいに消えることを紬は望んでいたのだろうか。痕跡を残さず記憶を残さず、誰の心にも傷を残さず、そうすれば誰も悲しまない、悲しむための記憶すら残らないのだから。紬が考えそうなことだと思った。
自分がいなくなったあとの他人の痛みまで先回りして消そうとする、そういう子だった。そういう不器用な優しさが残された側をどれだけ苦しめるのか考えなかったのか——いや、考えたのだろう。
考えて、それでも消えることを選んだ、いや、選んだのではなくそうなることがわかっていたのだ。わかっていたからあんなふうに笑っていたのだろう、あの穏やかな笑顔は諦めの顔だったのだ。
でも消えなかった、私の記憶は消えなかった。なぜかはわからない、紬が「たぶん」と言ったように何もかもが「たぶん」でしかないけれど——でも、あの日初めて二人で同じ青を見た、同じ空を同じ色で見た、あの瞬間だけは世界の書き換えが届かなかったのかもしれない。
紬の声を、紬の横顔を、紬がいちごミルクのストローを咥えて笑った声を、膝を抱えて「きれいな場所行きたい」と言った午後を、賽銭箱の前で目を閉じて何かを願っていた横顔を、「好きだよ」と夏祭りの帰り道で言ったあの声を、全部覚えている。
膝から力が抜けて床に座り込んだ。リノリウムの冷たさがパジャマ越しに太ももに伝わってきて、指輪を握った手を胸に当てると銀の輪の冷たさが心臓の上で脈に合わせて震えていた。
泣いた、声が出た、出すつもりはなかったのに腹の底から何かが突き上げてきて喉を通って口から溢れた。泣き声ではなくて叫びに近い、叫びにもならない、名前を呼ぼうとして——呼んだ。
「つむぎ——」
名前が病室の白い壁に跳ね返って、返ってきた音は自分の声だけで紬の声はどこにも混じっていなかった。この部屋にいた十七歳の女の子の気配が一粒も残っていない。
看護師が背後で立ち尽くしているのがわかる、声をかけようとしてかけられずにいる気配がして、パジャマ姿の高校生が空き部屋の床に座り込んで何かを握りしめて泣いている、その光景がどう見えているのかはわからないし、どうでもよかった。
「紬、紬——」
何度呼んでも同じだった。白い壁、白い天井、白いシーツ、窓から差し込む八月の朝の光が空のベッドの上に四角い影を落としていて、あの影の場所に昨日紬が座っていた、膝を抱えていちごミルクを飲んで「幸ちゃん、今日なんか変だよ」と笑っていた、その紬がいない、この部屋のどこにも、この病院のどこにも、この世界のどこにも。
床の上に座り込んだままどれくらいの時間が経ったのかわからなかった。泣いて息が詰まってまた泣いてを繰り返して、涙が止まらないのではなくて止め方がわからなかった。蛇口の閉め方を忘れた水道みたいに際限なく溢れてきて、顎を伝って首筋を伝ってパジャマの襟元を濡らしていく。
掌の中の指輪だけが紬がいたことを証明していて、石もついていない装飾もない高校生の財布で買った何の変哲もない銀の輪なのに、でもこれだけが残った。
紬の体も声も記録も記憶も全部消えた世界の中で、この指輪だけが消えなかった。
窓の外で蝉が鳴いていた、昨日と同じ声で昨日と同じ高さで、世界は何も変わっていないみたいにいつもの朝を続けている。
* ——九月。
紬のことを覚えているのは世界中で私だけだった。
天音に聞いた、「夜宮紬って覚えてる?」と。天音は首を傾げて「誰それ」と言って、パンケーキ屋で三人で笑ったことも教室で机を引きずってきて紬の隣に座ったことも夏休みにプール行こうよと誘ったことも何ひとつ覚えていなくて、天音の記憶の中に紬はいなかった。
最初から存在しなかった人間について覚えていることなどあるはずがないのだ。
秋帆姉にも聞いた、「教育実習のとき声が小さいけどちゃんと答えた子がいたって言ってたでしょ」と。でも秋帆姉は問題集から顔を上げて「そんなこと言ったっけ」と眉を寄せただけだった。
先生にもお母さんにも聞いたけれど誰に聞いても同じで、夜宮紬を知らない、聞いたこともない。幸がどうしたの、大丈夫、疲れてるんじゃない——そういう目で見られていて、心配されていて、頭がおかしくなったと思われているのかもしれなかった。
紬の家にも行った。あの住宅街のあの路地を曲がった先、表札に「夜宮」と書いてあったはずの場所に表札がなかった。家はあった、同じ場所に同じ大きさの一軒家が建っているけれど表札の名前が違う。
知らない名字で、庭に朝顔はないし支柱もないし蔓が絡みつく場所すらない。
インターホンを押す指が止まった。この家に紬のお母さんはいない、紬の部屋はない、紬が使っていた紺色のスマホケースも紬が読んでいた本も何もない、夜宮という家族ごとこの世界からなくなっている。
一週間が過ぎて学校が始まった。教室に紬の席はなくて窓際の後方には別の生徒の机があって、座席表にも出席簿にも夜宮紬の名前はなく、図書委員のもう一枠は最初から別の生徒が埋めていたことになっていた。
毎日空を見上げたけれど海月はいなかった。ネットで「海月」と検索しても出てくるのは海の中のクラゲの情報だけで、空に浮かぶ海月のことを書いた記事は一件もない。
SNSにもニュースにも個人のブログにも、あれだけたくさんの人が見ていたはずの海月がひとつも話題になっていなくて、誰も覚えていなくて、最初からなかったことになっている。
引き出しの中に指輪がある。毎晩取り出して掌に乗せた、冷たくて小さくてぶかぶかな銀の輪、これだけが証拠で、紬がこの世界にいたことの唯一の痕跡だった。
ある日の夜、スマホに通知が来た。
LINEではなくてメールだった。普段使っていないアドレスに一件、差出人の欄には名前がなくアドレスも見覚えのない英数字の羅列で件名もない。迷惑メールだと思ったし開かないほうがいいとも思ったけれど、指が勝手に触れていた。
本文には一行だけ。
『幸ちゃんへ』
心臓が止まったかと思った。
その下に動画ファイルが添付されていて、指が震えていて、画面が滲む。まだ泣いていなかった、泣いていないのに視界がぼやけるのは指が震えすぎてスマホが揺れているからだった。動画のサムネイルが表示されていて、暗い、何が映っているのかわからない。
再生ボタンを押す。
画面が揺れた。カメラの位置を調整しているのか映像が近づいたり遠ざかったりして——安定する。
紬が映っている。
病室のベッドの上、パジャマ姿で膝の上にスマホを立てかけてあぐらをかいている。背景にあの窓が映っていた、毎日二人で外を眺めていた窓で、窓の外は夜で、カーテンの隙間から病院の廊下の白い光がすこしだけ漏れている。
紬が口を開いた。
『——えっと』
声、紬の声だった。少し低くて少し掠れていて、でも芯がある、聞き慣れた声で、もう二度と聞けないと思っていた声がスマホのスピーカーを通して鼓膜を叩いている。
『…………うーん、やっぱり手紙にすればよかったかなぁ』
紬が首を傾げて、唇をすこし尖らせて天井を見上げる仕草をした。考えごとをするときの癖だ、何百回と見た癖。
『でも私、字が汚いからなぁ。幸ちゃんに読めなかったら意味ないし』
ふっと笑う、カメラの向こうで一人きりの病室でいつもの紬のまま笑っている。
『幸ちゃん』
名前を呼ばれる、もう存在しない人間のもう存在しない喉から出た音の記録が九月の夜の部屋に響いた。
『これ見てるってことは、もう私いないんだよね』
さらりと言ってすこし間を置いた。
『いないっていうか——最初からいなかったことになってるのかな、それとも死んじゃってる? わかんない。どうなるのか、正直私にもわからないんだけど。でも幸ちゃんがこれを見てるなら、幸ちゃんは覚えててくれてるんだよね。私のこと』
紬の目がカメラを見ていて、カメラの向こうの未来の私を見ていて、存在が消えたあとの世界にいる私を見ている。
『変な感じ。今ここで喋ってるのに、これが届く頃には私いないんだもん。タイムカプセルみたい。タイムカプセルってほどかっこよくないか。遺言? 重いな。じゃあビデオレターで』
一人で投げて一人で受けている、いつも二人でやっていたキャッチボールを紬が一人でやっている。その姿がおかしくて、おかしいのに笑えなくて、胸の奥がぎゅっと潰れるように痛かった。
『まず、ありがとう……かな』
声のトーンが半音だけ下がった。
『幸ちゃんが図書室に来てくれたこと、話しかけてくれたこと、友達になってくれたこと、全部。全部ありがとう。幸ちゃんがいなかったら、私はたぶん、病室の天井だけ見て消えてた』
画面の中の紬が膝の上で指を組んだ。
『夏祭りも行けた。旅行も行けた。天音ちゃんとパンケーキも食べた。ラーメンも食べた。猫も撫でた。海も見た。ソフトクリームも食べた。いちごミルクは幸ちゃんのせいで飲み過ぎた気がするなぁ』
最後だけすこし笑って、笑って鼻をすすった。
紬がふと画面の外に手を伸ばして、何かを取り上げてカメラの前に持ってくると、指先に挟まれた銀色の輪が病室の蛍光灯の光をぼんやりと受けていた。
指輪だった。
『これ、幸ちゃんがくれたやつ。ちょっとぶかぶかなの、幸ちゃん知ってるでしょ。こうやって指曲げてないと落ちちゃうの』
紬が左手の薬指を軽く曲げて見せた。銀の輪がかろうじて指に留まっているけれどまっすぐ伸ばしたらするりと抜け落ちそうな危うさで、紬はそれを見つめている。
『ぴったりだったらよかったのにね。でもまあ、これはこれでいいかなって思ってる』
紬が指輪を見つめる、その目が一瞬だけ揺れた。
『——私たちは、ずっと一緒だよ』
声が震えた、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ声の輪郭が崩れてすぐに持ち直した。でもその一瞬に、紬が普段どれだけのものを押し込めて平気な顔をしていたのか全部が見えてしまった。
『ぶかぶかだから、もしかしたらこれだけ残るかもね。私が消えても、指輪は幸ちゃんの世界に残るかもしれない。そしたらこれが、証拠になるでしょ。私がいたっていう、証拠』
紬が指輪を唇の近くに持ってきて、ふっと息を吹きかけた。曇った銀を袖口で拭う。
『大事にしなくていいよ。毎日つけてくれたらそれでいい。一緒に暮らしてるみたいじゃん』
笑った、泣きそうな目で笑った。
『結婚したかったな』
声が変わった。笑っていた顔がゆっくりと崩れていく、紬がいつも被っていた仮面が一枚ずつ静かに落ちていく。
『幸ちゃんと、ずっと一緒にいたかった』
目が赤くて、鼻が赤くて、声が震えている。
『一緒に暮らして、一緒にご飯作って、幸ちゃんが毎朝いちごミルク飲むの隣で見て、私はブラックコーヒー飲んで、くだらないことで笑って——』
言葉が途切れて、紬が手の甲で目元を拭った。
『ごめんね、泣かないつもりだったのに』
泣いている、画面の中の紬が泣いている、私の前では最後まで見せなかった涙をカメラの前で流していて、ただの十七歳の女の子が叶わない未来を並べて泣いている。
ベッドの上で私も泣いていた、いつから泣いていたのかわからない。涙が画面に落ちて、拭って、また落ちる。
画面の中の紬が深く息を吸って、長くゆっくり吐いた。肩が上がって下がる、目元を袖で押さえて数秒、手を下ろしたとき声はすこしだけ戻っていた。
『お願いがあるの』
まっすぐにカメラを見ている。
『困っている人がいたら、助けてあげてほしい』
泣いたあとの鼻声だった、でも紬の声だ、低くて静かで芯だけが折れない声。
『私とか幸ちゃんみたいに、誰にも言えずに苦しんで、もがいている人もいるんだと思う。だから、その人たちに手を差し伸べてあげてほしい』
声が透き通っていく。
『これが一生に一度のお願い。ね』
——ね、と。紬が本当に大事なことを言うとき声の最後だけが優しくなる。
『あ、あとね』
紬が鼻をすすってすこしだけ笑った、泣きながら笑うのがうまい子だ。
『忘れないで』
紬の声が最後にもう一段だけ優しくなった。
『私がいたこと。幸ちゃんの隣にいたこと。忘れないで』
画面が暗転して、動画が終わった。
紬の顔が消えて、黒いスマホの画面に自分の泣き顔が映っていた。鼻が赤くて、目が腫れていて、紬に似ていると思った。似ているわけがないのに。
スマホを胸に当てて、もう一方の手で指輪を握りしめたまま、冷たい画面と冷たい銀の輪だけが紬と私を繋いでいた。世界中の誰も覚えていない女の子のことを私だけが覚えていて、この動画とこの指輪とこの記憶だけが夜宮紬がこの世界にいた証拠のすべてだ。
「——忘れない」
声に出して言った、誰にも聞こえない声で、九月の夜の一人きりの部屋で。
「忘れるわけないでしょ」
いつかの記憶だ、季節がここだけ逆流している。
歩道の並木は葉を落としていなくて、緑色の葉が風に揺れていて木漏れ日が地面に模様を落としている。春でも秋でもない、特定できない穏やかな午後。
隣を紬が歩いている。白いブラウスにグレーのスカート、旅行のときと同じ格好で、髪がすこし風に流れて紬がそれを耳にかける仕草を横目で見ている。
夢だとわかっている、わかっていて覚めたくなかった。
「ねぇ、紬」
「なに」
「私、死にたかったんだ」
口にしたのは目覚めている世界では何度も飲み込んだ言葉だった、でもここでは言える、紬が隣にいるから、紬の足音が私の足音の隣で鳴っているから。
「ふーん、それで?」
紬の声はぶっきらぼうだった、顔も見ない、前を向いたまま興味なさそうに相槌を打つ。でももうわかっている、この口調は心配の裏返しだということを。素直に「大丈夫?」と聞けないから興味のないふりをして、でも耳だけはこちらに向けている。紬はいつもそうだった、不器用で優しくて面倒くさい。
私は笑った、ふっと鼻から息が抜けるように。
「でも、紬のせいで変わった」
「私のせい」
「そう、紬のせい。理由のない『死にたい』が、理屈のない『生きたい』に変わっちゃった」
紬が足を止めた、私も止まる、紬がこちらを向く。
「なにそれ」
ぷっと笑った、目を細めて口の端を上げてからかうように。病室で何度も見た笑い方、夏祭りで見た笑い方、旅行の帰りの電車で見た笑い方。
「変なの」
「変でいいよ」
二人で歩き出す。歩道は嫌というほど静かで嬉しいほどに二人の足音しか響いていなくて、他に誰もいない、車も通らない、世界中から音が消えて私と紬の靴の底が地面を叩く音だけが残っている。
ふと空を見上げる。紬が空を見上げているかどうかは確かめない、隣にいることだけを感じながら歩く、どこまでも続く歩道を二人で。
***
昼休みにスマホが鳴って、画面に表示された名前を見た瞬間すこし笑ってしまった。天音だ、この子は昔から電話の頻度だけは変わらない。
「もしもしー、幸ー、今大丈夫?」
大丈夫だよと答えると、天音はいつもの調子で「あのねー聞いてよー」と切り出して、そこから止まらなくなった。
天音のお姉ちゃんが去年立ち上げた小さなイベント企画の会社を今手伝っているという話は前にも聞いていたけれど、どうやら来月の案件がかなり大きいらしく、天音の声は疲れと興奮が半分ずつ混じったような響きで、息を吸う暇もなく言葉が溢れてくる。
「もうね、お姉ちゃんがほんっとに容赦なくて、昨日なんか朝の九時から夜の十一時まで打ち合わせと準備でぶっ通しで、足がもう棒だったんだけど——」
それ大丈夫なのと聞くと、天音は「大丈夫大丈夫、つらいけど楽しいの」と笑って、その笑い方が高校のときと全然変わっていて、しっかりと笑えているのが伝わってきた。
「お姉ちゃんに怒られるたびにへこむんだけどさ、でもなんか、自分がやったことがちゃんと形になるのって嬉しいんだよね、こういう感じ初めてだなって」
天音の声を聞きながら窓の外を見ると、校庭の向こうに九月の空が広がっていた。
高校の頃の天音は誰かに合わせることが上手で、場を明るくすることが上手で、でもそれは自分のやりたいことを後回しにすることと表裏一体だったのだと、あの夏のあとでようやく気づいた。
「幸はどう? 学校、忙しい?」
うん、まあぼちぼちと答えると、天音が「相変わらずだなー」と笑った。
「あ、そうだ、今度の週末さ、お姉ちゃんが幸にも会いたいって言ってたよ。ごはん行かない? 三人で」
いいねと返すと、天音が嬉しそうに「じゃあ決まり! お店探しとく! 絶対ね!」と声を弾ませて、その「絶対ね」の言い方がほんとうに昔のままで、私はすこしだけ目を閉じた。
「——あのさ、天音」
「ん?」
「元気そうで、よかった」
一瞬の間があって、天音が「なにそれー急に」と照れたように笑った。
「幸がそういうこと言うの珍しくない? なんか変なもの食べた?」
「別に、また休みの日ね」
「はーい」
スマホを机に置いて、しばらくそのまま天井を見ていた。天音は知らない、紬のことを知らない、海月のことも覚えていない。でも天音は天音の場所でちゃんと走っていて、秋帆姉に怒られながら泣き笑いしながら自分の足で立っている。
それでいいのだと思った。紬を覚えていなくても、海月を知らなくても、天音が天音のまま笑っていること、それが——たぶん紬が望んでいたことに一番近い。
マグカップに手を伸ばして、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
カウンセリング室の時計が午後二時十五分を指していて、秒針の音が妙にはっきり聞こえるのは今日の予約が二時半だからだろう、あと十五分もある。机の上のマグカップに手を伸ばして冷めたコーヒーを一口飲んだ。
ブラックで、砂糖もミルクも入れない。飲み始めたのは大学二年のときで最初は苦くて顔をしかめていたのに、いつからか平気になっていた。たぶん紬のせいだと思う、紬がビデオレターの中で「ブラックコーヒー飲んで」と言ったのが頭に残っていて、大学の学食で初めてブラックを注文したときこんなの飲み物じゃないと思ったのをよく覚えている。それなのに二杯目を頼んで三杯目にはもう慣れてしまって、今では砂糖を入れる気にもならなくなっていた。
いちごミルクはまだ飲む。冷蔵庫に常備していて二十五歳になってもそれは変わらない、紬に「飲み過ぎ」と言われそうだなと思いながらそれでもやめないのは、やめたら紬との日常がまたひとつ減るような気がして、それが嫌だからだ。
こういう考え方はたぶん傍から見れば重たいし面倒くさいと思われるのだろうけれど、私にとっていちごミルクはただの飲み物ではなくなってしまっているのだから仕方がない。
窓の外に目をやると校庭の向こうに九月の空が広がっていて、高くて薄くてどこまでも続いていて、海月は浮かんでいない。
あの夏の翌日から八年間、一度も空に海月を見ていなかった。最初は毎日探して、そのうち毎週になり毎月になり、気づけば空を見上げても「いない」と確認する作業ですらなくなっていた。ただ空を見上げる、それだけで、いないことを確かめるために見上げているのかそれとも別の何かを探しているのか自分でもよくわからない。
首元に手をやると指先に小さな銀の感触がある。海月の形をしたアクセサリーで、あの指輪を溶かして作り直したものではなくて、大学の卒業旅行で訪れた海辺の雑貨屋でたまたま見つけたものだった。
海月の形を見た瞬間に足が止まって気づいたらレジに並んでいた、あの日と同じだ、理由はない、ただ手放せなかった。
指輪のほうは家の引き出しの中にある。小さな箱に入れて紬のビデオレターが入ったままの古いスマホと並べてしまってあって、ときどき箱を開けて指輪を掌に乗せることがあって、泣く日もあれば泣かない日もある。
どちらの日も箱を閉じる前に「おやすみ」と言う、返事はない、ないけれど言う。紬が「毎日つけてくれたらそれでいい」と言ったから最初は毎日指にはめていたけれど、日常生活で銀が傷つくのが怖くなって箱に戻してしまった。
紬に怒られるかもしれない、大事にしなくていいと言われたのだから、でも大事にしたかった、大事にしなくていいと言われても大事にしたかったのだ。
机の上のファイルに目を落とすと今日の来談者の記録で、高校二年生、女子、主訴は「理由のない希死念慮」、担任からの紹介で詳細はまだ聞いていない初回面談だった。
スクールカウンセラーという仕事を選んだのは紬のビデオレターを見たあの夜に決めたことだった。「困っている人がいたら、助けてあげてほしい」、一生に一度のお願い、あの言葉を聞いた翌朝から私の進路は決まっていて、大学は心理学部に進み臨床心理士の資格を取り学校に配属された。
全部紬のせいだし全部紬のおかげだ、自分の人生の方向を決めた言葉がもうこの世界にいない人の声だというのは考えてみればずいぶん奇妙なことだと思うけれど、私にとっては奇妙でもなんでもなくて、あの夜あの動画を見た瞬間からこれ以外の道は最初からなかったのだと今でもそう思っている。
ノックの音がした。
「——どうぞ」
ドアが開く。
入ってきたのは肩くらいの黒い髪の女の子で、制服のブレザーの袖を片手で掴んでいてもう片方の手でドアノブを握っている、顔は俯いていて前髪が目元を隠していた。
紬に似ている、と思った。
心臓が一度だけ強く鳴って、似ているのは髪の長さと俯き方だけで顔立ちも体格も違うのに、最初の一秒だけ視界がぶれた。八年前の図書室が重なった、窓際の席で本を読んでいた横顔が、すぐに消える、消えて目の前に今日の来談者がいる。
泣きそうになる、堪える。カウンセラーの顔をする——のではない、泣きそうな気持ちを抑え込むのではなくその気持ちごと椅子に座っている。紬が教えてくれたのはそういうことだ、感情を消すのではなく感情を持ったまま目の前の人を見ること、仮面を被るのではなく素顔のままここにいること。
「座って。好きなところでいいよ」
女の子がソファに座った。クッションの端を指で潰すように触っていて、緊張している。当たり前だ、知らない大人に知らない部屋で自分の話をしなければならない、それがどれだけ怖いことか知っている、誰より知っている。かつての私がそうだったから、誰にも本当のことを言えず仮面の下で窒息しかけていた十七歳の私がこの子の中にいる。
三十秒くらいの沈黙があって、女の子が口を開いた。
「死にたいんです」
小さな声で、振り絞るような声だった。
「でも、理由がわからなくて」
顔を上げない、前髪の隙間から鼻の頭が赤いのが見えて、泣いているのかもしれないし泣く手前なのかもしれない。
「死ぬ勇気もないし」
最後は消え入るような声だった。
沈黙が降りて時計の秒針が五回鳴った。
私は一呼吸置いた。
そして笑った、作った笑顔ではなく腹の底から浮かび上がってくる静かな笑みで、紬から受け取った笑顔だった。泣きたいのに笑うのではない、泣きたい自分も笑いたい自分もどちらもここにいることを許す笑顔。
「生きたいに、理屈なんていらないよ」
女の子が顔を上げた。
目が合う、十七歳の目だ、不安と疲弊とそれでもまだ消えていない何かが瞳の奥で揺れている。
「そんなの、死ぬ勇気がないくらいでいいんだよ」
首元で海月のアクセサリーが窓からの光を拾って小さく光った。女の子の視線がそこに落ちて、一瞬だけ、すぐに私の顔に戻る。
「——先生も、そうだったんですか」
聞かれると思っていた、聞かれたときに何と答えるか何年も考えていた。正解はまだわからない、わからないけれど言葉はある。
「うん。そうだったよ」
私はうなずいて女の子の目を見た。
「でも、変わった。理由のない『死にたい』が、理屈のない『生きたい』に変わった日があった」
あの海辺の声が聞こえる、波の音と蝉の声と紬の息づかい、堤防の上で隣に座っていた体温、点滴のチューブが風に揺れていた午後。
「きっかけをくれた人がいたの」
指先が無意識に首元のアクセサリーに触れた。銀の海月、冷たくて小さくて光を受けると透き通るように見える。
「だから今度は、私がそうなりたいと思ってる」
女の子はまだ泣いていた、泣きながらこちらを見ていた。
この子が明日どうなるかはわからない、来週も来てくれるかはわからない、私の言葉が届くかどうかもわからない。でも今日この部屋に来た、ドアを開けた、座った、声を出した、「死にたい」と言えた、それはもう途方もなく勇敢なことだ。
紬が最後に残した言葉が胸の中で鳴っている。
『困っている人がいたら、助けてあげてほしい』
助けるなんて大げさなことは言えない、隣に座ることしかできないかもしれない、秋帆姉が言ったように治すことはできなくてただそこにいることしかできないかもしれない。でもそこにいることを選ぶ、逃げずに目を逸らさずにこの椅子に座り続けることを選ぶ。
紬がそうしてくれたように、図書室の窓際でページをめくる音だけを隣に置いてくれたように、私が口を開くまでずっと待っていてくれたように。
「——ゆっくり話そう。時間はあるから」
カウンセリング室の窓から見える空に海月は浮かんでいない。
その空の色を、私は名前のないまま見上げた。
目が覚めたとき天井が白くて、それはいつもと同じ白でいつもと同じ朝のはずだったのに、カーテンの隙間から差し込む八月の光に照らされた部屋の空気がもう生温くなっていることに気づいた瞬間、なにか決定的に違うものが混じっている気がした。枕元のスマホを手に取って時刻を確認すると六時四十八分で、アラームが鳴る二分前だった。
体を起こして窓を開けると空が広くて、いつもより広いわけではなくいつもと同じ空のはずなのに何かが足りない、何かが欠けている。夏の朝の青い空に光が散らばっていて雲がすこし浮かんでいて、それだけ、それだけの空だった。
海月がいない。
最初は時間帯のせいだと思って、朝早いから見えにくいのだろうと自分に言い聞かせながら目を凝らし、空の端から端までゆっくり視線を動かして青色の影を探したのだけれど、いつもそこにいたのだ、どの時間でもどの天気でも空を見上げれば必ずそこに浮かんでいた海月、透明な傘を広げてゆっくりと漂っている、あの——。
いない。どこにも、いない。
窓枠に手をついて身を乗り出して、屋根の向こうの空、電線の上の空、隣の家の屋根と屋根の隙間に覗く空と順に目を走らせたけれど、どこを見ても何も浮かんでいなくて、ただの空だった。ただの八月の青い空がどこまでもだらしなく広がっているだけで、それ以外には何もない。
心臓の鼓動が自分でも苛立つくらいはっきりと聞こえていて、その拍動に重なるように紬の声が頭の中で響いた。防波堤の上で膝を抱えて海を見ながら笑っていた声——たぶんね、海月って、私なんだと思う。
あのとき私はその言葉の意味をちゃんと受け止めきれていなかった、いや、受け止めたくなかったのだと思う。受け止めてしまったらそれが現実になるような気がして、だから聞こえないふりをした、聞こえないふりをしたまま夏が終わろうとしている。
スマホを握りしめてLINEを開くと、紬のトーク画面がなかった。
指が止まって、トーク一覧をスクロールして、天音のトーク、クラスのグループ、母、秋帆姉、それ以外の数人の名前がいつも通りに並んでいるのを確認しながら紬を探したけれど、夜宮紬のトークが一覧のどこにもない。
友だちリストを開いてあ行、か行、さ行と順番に辿っていき、や行まで来ても夜宮紬の名前がなかった。
画面を見つめたまま指先が冷たくなっていくのがわかって、八月の朝なのに指先だけが冷たくなっていて、自分でもおかしいと思うのに体温が指から抜け落ちていくのが止められなかった。
写真フォルダを開いて神社で撮った写真を探した。二人で手すりの前に並んで海を背景に撮った写真、紬が風に乱れた髪のまま穏やかに笑っていた写真、あの写真は旅行のときに——ない。
フォルダをスクロールしても夏祭りの写真もなく、旅行の写真もなく、図書室の窓際で本を読んでいる紬の横顔をいちごミルクを飲むふりをしながら撮った写真もなかった。全部ない、最初からなかったみたいにフォルダの中には私と天音の写真と風景と猫の写真しか残っていない。
——私が消えたら、海月も消える。私の存在ごと。最初から何もなかったみたいに。きれいに。
パジャマのまま部屋を出て階段を駆け下りると、母がキッチンに立っていて足音に振り向いた。
「幸、どうしたの、そんな顔——」
「お母さん、夜宮紬って知ってる?」
母が首を傾げて、名前に覚えがないらしい、まったく心当たりのないものを聞かれたときの、きょとんとした顔をしていた。
「よみや……? 誰?」
「私の友達。何度も話したでしょ、紬のこと。旅行に行くって言ったとき——」
「旅行? 幸、旅行なんて行ったっけ」
母の声には嘘がなかった。困惑しているのでもなくて、本当に知らないのだ、夜宮紬という名前に何の引っかかりも感じていない。
私が何度もこの食卓で紬の話をしたことを、旅行に行くと言って鞄を詰めたことを、いちごミルクを二つ買うようになった理由を、何ひとつ覚えていない。
いや、覚えていないのではない。
最初からなかったことになっている。覚えていないのと、なかったことになっているのとでは意味がまるで違うのだ。前者には忘れた記憶がどこかに残っている可能性があるけれど、後者には何もない。消されたのではなく、最初から存在しなかったことにされている。
玄関で靴を履いた。紐を結ぶ手間を惜しんでかかとを踏んだまま外に出ると朝の空気が肌に当たって、八月の朝はもう暑い。財布とスマホだけ持って走り出す、鞄はない、いちごミルクを買っていない。
走りながら空を見上げたけれど何度見ても同じだった。海月がいない、空はただの空で、雲はただの雲で、電線はただの電線で、あの青色の、あの透明な傘を広げた、あの——いない、消えている、紬が言った通りに。
駅まで走って改札を通ってホームに降りると、電車が来るまで三分だった。スマホを開いてもう一度LINEの友だちリストを見たけれど、夜宮紬はいない。
トーク履歴もなかった。紬と交わした何百通ものメッセージが、「大丈夫だよ」の五文字が、「おやすみ」が、「好きだよ」が、全部消えている。
電車が来て、乗った。二駅、たった二駅なのに各駅停車が一駅ごとに止まるたびに息が詰まって、窓の外を海月のいない空が流れていく。あの空を紬は最初からただの夜空として見ていた、みんなが海月を見上げているとき紬だけが星を見ていた。
その孤独を私は知らなかった。知ろうとしなかったのかもしれない、知ってしまったら紬がいかに遠い場所にいるのか認めなければならなくなるから。
電車の中で記憶が洪水のように押し寄せてくる。
図書室で初めて話しかけた日の紬の横顔、本を閉じてこちらを見て「なに」と言った低い声、カフェで向かい合って勉強したとき紬が消しゴムのかすを指先で集めていた仕草、夏祭りの人混みの中で手を繋いだとき紬の指が冷たかったこと、冷たいのに離さなかったこと、パンケーキ屋で天音と三人で笑ったとき紬がフォークを止めて私たちを見ていた目、あの目に何が映っていたのか、映っていたのは海月ではなくてただの——、神社の石段で紬の手が柵に触れたこと。
堪えきれなくて口を手で覆った。電車の中で、朝の乗客たちの中で、パジャマにスニーカーのかかとを踏んだ高校生が手で口を押さえて肩を震わせている。おかしな光景だと思われているだろう、でもそんなのどうでもよかった。
どうでもいい、紬がいないのに他人の目なんかどうでもいい。
駅に着いて改札を出て走った。坂を上る、パジャマの裾が足にまとわりつく、息が切れる、八月の朝の空気が肺を焼いた。
病院が見えた。白い建物で、自動ドアを抜けると冷房の空気が汗ばんだ肌にぶつかって、その温度差に一瞬だけ足がもたついた。
受付に駆け寄った。
「夜宮紬さんの、面会に来ました」
受付の看護師がこちらを見て、パジャマ姿で息を切らしている高校生を怪訝そうに見ながら端末のキーボードを叩いて画面を確認した。
「……夜宮さん?」
「はい。305号室。三階の」
看護師が画面をもう一度見て、首を傾げた。
「申し訳ないんですけど、305号室は現在空き部屋になっていまして——夜宮さんという患者さんは、当院にはいらっしゃらないですね」
空気が止まった。耳の奥で何かがぷつんと切れたような感覚があって、自分の体の中で今なにが起きているのかうまく把握できなかった。怒っているのか、怖いのか、悲しいのか、たぶん全部だ、全部が同時に押し寄せてきていてどれか一つを選ぶことができない。
「いないって……いるんです。夜宮紬、十七歳。ずっと入院してて、私毎日お見舞いに来てて——」
声が大きくなっていく、自分で制御できなかった。受付の看護師の表情が困惑から警戒に変わっていくのがわかって、隣のカウンターにいた別の看護師がこちらを見た。
「落ち着いてください。もう一度確認しますね」
端末を叩く音、画面を見る目、そして同じ答え。
「やはり該当する患者さんはいらっしゃいません。お名前の漢字が違うということは——」
「違いません。夜の宮に、紡ぐの紬。305号室、窓際のベッド、点滴をしてて、カーディガン着て散歩に出てて、海が近いことを知ってて——」
言葉が溢れていった。看護師に紬の存在を証明しようとして、証明するための材料が記憶の中にしかないことに気づいた、写真はない、LINEの履歴もない、証拠がない、私の記憶以外の何もなにひとつない。
こんなに確かに覚えているのに、この世界には紬がいた痕跡がどこにも残っていない、その事実に気づいた瞬間、足元がぐらりと傾いた気がした。
「あの、お嬢さん——」
「お願いします。三階に行かせてください。305号室を見ればわかるから」
「それはちょっと——」
「お願いします」
看護師が何か言いかけたのは聞こえていた、聞こえていたけれどもう足が動いていて、受付のカウンターを離れてエレベーターのほうに歩き出していた。後ろから「ちょっと、待ってください」という声が追いかけてくる、聞こえない、聞こえているけれど止まれない。
エレベーターのボタンを押したけれど開かなくて、まだ上の階にいる、階段だ、階段を探して非常階段の扉を押し開けて一段飛ばしで駆け上がった。パジャマの裾が足に絡んで、サンダルの底が金属の段を叩く音が反響する、二階、三階、扉を押し開けると白い廊下に消毒液の匂いが漂っていた。
ナースステーションの前を走り抜けて、看護師が「あ、ちょっと——」と声を上げるのが聞こえたけれど振り返らない、右に曲がって一つ目の部屋、二つ目の部屋、三つ目。
305号室のドアが完全に開いていた。
中に入った。
ベッドがあった。シーツは白くて綺麗に整えられていて皺がないのだけれど、違う、これは昨日までのベッドではない、使われていないベッドだった。
マットレスの上にシーツが一枚敷かれているだけの患者を待っている空のベッドで、枕カバーには誰も頭を載せていない工場出荷時のままの折り目がついている。
点滴のスタンドがなかった。壁際にもベッドの横にも、紬が毎日引きずって歩いていたあのスタンドがどこにもない。散歩のたびにキャスターががらがらと鳴って紬が邪魔そうに腕の位置を調整していたあのスタンドが、パックもチューブもろとも消えていて、最初からここにはなかったみたいに壁は白くて空っぽだった。
サイドテーブルがベッドの横にあって、いちごミルクのパックも紬が読みかけていた本も何も置かれていない——と思ったとき、テーブルの奥の壁との隙間に何かが光っているのが見えた。
手を伸ばして指先が触れると、冷たくて小さくて、金属の感触がした。
銀色の指輪だった。昨日紬の薬指に嵌めた、少しだけ大きくて紬が指を曲げて落ちないようにしていた、あの指輪。
サイドテーブルの上に置いたはずなのに壁との隙間に滑り落ちていて、紬がいなくなるとき指から外れて転がってここに落ちたのだろうかと考えた。紬の体は消えて、指輪だけが残った。
紬が最後に残したもの、紬がこの世界にいたたったひとつの証拠。
握りしめた。銀の輪が掌に食い込んで痛いのに手が開かなくて、開いたら消えてしまいそうで、これだけは、これだけは消えないでほしくて。
「——お嬢さん」
後ろから声がして、ナースステーションの看護師が追いかけてきたのだろう。
「ここは空き部屋ですよ。どなたか患者さんをお探しですか」
空き部屋、この人にとっては空き部屋なのだ、夜宮紬という患者がここにいた記憶がない。毎日検温に来てくれた記憶も「賑やかですね」と笑ってくれた記憶もなくて、全部消えている、紬の存在ごと最初から何もなかったみたいに、きれいに。
きれいに、と紬は言った。
きれいに消えることを紬は望んでいたのだろうか。痕跡を残さず記憶を残さず、誰の心にも傷を残さず、そうすれば誰も悲しまない、悲しむための記憶すら残らないのだから。紬が考えそうなことだと思った。
自分がいなくなったあとの他人の痛みまで先回りして消そうとする、そういう子だった。そういう不器用な優しさが残された側をどれだけ苦しめるのか考えなかったのか——いや、考えたのだろう。
考えて、それでも消えることを選んだ、いや、選んだのではなくそうなることがわかっていたのだ。わかっていたからあんなふうに笑っていたのだろう、あの穏やかな笑顔は諦めの顔だったのだ。
でも消えなかった、私の記憶は消えなかった。なぜかはわからない、紬が「たぶん」と言ったように何もかもが「たぶん」でしかないけれど——でも、あの日初めて二人で同じ青を見た、同じ空を同じ色で見た、あの瞬間だけは世界の書き換えが届かなかったのかもしれない。
紬の声を、紬の横顔を、紬がいちごミルクのストローを咥えて笑った声を、膝を抱えて「きれいな場所行きたい」と言った午後を、賽銭箱の前で目を閉じて何かを願っていた横顔を、「好きだよ」と夏祭りの帰り道で言ったあの声を、全部覚えている。
膝から力が抜けて床に座り込んだ。リノリウムの冷たさがパジャマ越しに太ももに伝わってきて、指輪を握った手を胸に当てると銀の輪の冷たさが心臓の上で脈に合わせて震えていた。
泣いた、声が出た、出すつもりはなかったのに腹の底から何かが突き上げてきて喉を通って口から溢れた。泣き声ではなくて叫びに近い、叫びにもならない、名前を呼ぼうとして——呼んだ。
「つむぎ——」
名前が病室の白い壁に跳ね返って、返ってきた音は自分の声だけで紬の声はどこにも混じっていなかった。この部屋にいた十七歳の女の子の気配が一粒も残っていない。
看護師が背後で立ち尽くしているのがわかる、声をかけようとしてかけられずにいる気配がして、パジャマ姿の高校生が空き部屋の床に座り込んで何かを握りしめて泣いている、その光景がどう見えているのかはわからないし、どうでもよかった。
「紬、紬——」
何度呼んでも同じだった。白い壁、白い天井、白いシーツ、窓から差し込む八月の朝の光が空のベッドの上に四角い影を落としていて、あの影の場所に昨日紬が座っていた、膝を抱えていちごミルクを飲んで「幸ちゃん、今日なんか変だよ」と笑っていた、その紬がいない、この部屋のどこにも、この病院のどこにも、この世界のどこにも。
床の上に座り込んだままどれくらいの時間が経ったのかわからなかった。泣いて息が詰まってまた泣いてを繰り返して、涙が止まらないのではなくて止め方がわからなかった。蛇口の閉め方を忘れた水道みたいに際限なく溢れてきて、顎を伝って首筋を伝ってパジャマの襟元を濡らしていく。
掌の中の指輪だけが紬がいたことを証明していて、石もついていない装飾もない高校生の財布で買った何の変哲もない銀の輪なのに、でもこれだけが残った。
紬の体も声も記録も記憶も全部消えた世界の中で、この指輪だけが消えなかった。
窓の外で蝉が鳴いていた、昨日と同じ声で昨日と同じ高さで、世界は何も変わっていないみたいにいつもの朝を続けている。
* ——九月。
紬のことを覚えているのは世界中で私だけだった。
天音に聞いた、「夜宮紬って覚えてる?」と。天音は首を傾げて「誰それ」と言って、パンケーキ屋で三人で笑ったことも教室で机を引きずってきて紬の隣に座ったことも夏休みにプール行こうよと誘ったことも何ひとつ覚えていなくて、天音の記憶の中に紬はいなかった。
最初から存在しなかった人間について覚えていることなどあるはずがないのだ。
秋帆姉にも聞いた、「教育実習のとき声が小さいけどちゃんと答えた子がいたって言ってたでしょ」と。でも秋帆姉は問題集から顔を上げて「そんなこと言ったっけ」と眉を寄せただけだった。
先生にもお母さんにも聞いたけれど誰に聞いても同じで、夜宮紬を知らない、聞いたこともない。幸がどうしたの、大丈夫、疲れてるんじゃない——そういう目で見られていて、心配されていて、頭がおかしくなったと思われているのかもしれなかった。
紬の家にも行った。あの住宅街のあの路地を曲がった先、表札に「夜宮」と書いてあったはずの場所に表札がなかった。家はあった、同じ場所に同じ大きさの一軒家が建っているけれど表札の名前が違う。
知らない名字で、庭に朝顔はないし支柱もないし蔓が絡みつく場所すらない。
インターホンを押す指が止まった。この家に紬のお母さんはいない、紬の部屋はない、紬が使っていた紺色のスマホケースも紬が読んでいた本も何もない、夜宮という家族ごとこの世界からなくなっている。
一週間が過ぎて学校が始まった。教室に紬の席はなくて窓際の後方には別の生徒の机があって、座席表にも出席簿にも夜宮紬の名前はなく、図書委員のもう一枠は最初から別の生徒が埋めていたことになっていた。
毎日空を見上げたけれど海月はいなかった。ネットで「海月」と検索しても出てくるのは海の中のクラゲの情報だけで、空に浮かぶ海月のことを書いた記事は一件もない。
SNSにもニュースにも個人のブログにも、あれだけたくさんの人が見ていたはずの海月がひとつも話題になっていなくて、誰も覚えていなくて、最初からなかったことになっている。
引き出しの中に指輪がある。毎晩取り出して掌に乗せた、冷たくて小さくてぶかぶかな銀の輪、これだけが証拠で、紬がこの世界にいたことの唯一の痕跡だった。
ある日の夜、スマホに通知が来た。
LINEではなくてメールだった。普段使っていないアドレスに一件、差出人の欄には名前がなくアドレスも見覚えのない英数字の羅列で件名もない。迷惑メールだと思ったし開かないほうがいいとも思ったけれど、指が勝手に触れていた。
本文には一行だけ。
『幸ちゃんへ』
心臓が止まったかと思った。
その下に動画ファイルが添付されていて、指が震えていて、画面が滲む。まだ泣いていなかった、泣いていないのに視界がぼやけるのは指が震えすぎてスマホが揺れているからだった。動画のサムネイルが表示されていて、暗い、何が映っているのかわからない。
再生ボタンを押す。
画面が揺れた。カメラの位置を調整しているのか映像が近づいたり遠ざかったりして——安定する。
紬が映っている。
病室のベッドの上、パジャマ姿で膝の上にスマホを立てかけてあぐらをかいている。背景にあの窓が映っていた、毎日二人で外を眺めていた窓で、窓の外は夜で、カーテンの隙間から病院の廊下の白い光がすこしだけ漏れている。
紬が口を開いた。
『——えっと』
声、紬の声だった。少し低くて少し掠れていて、でも芯がある、聞き慣れた声で、もう二度と聞けないと思っていた声がスマホのスピーカーを通して鼓膜を叩いている。
『…………うーん、やっぱり手紙にすればよかったかなぁ』
紬が首を傾げて、唇をすこし尖らせて天井を見上げる仕草をした。考えごとをするときの癖だ、何百回と見た癖。
『でも私、字が汚いからなぁ。幸ちゃんに読めなかったら意味ないし』
ふっと笑う、カメラの向こうで一人きりの病室でいつもの紬のまま笑っている。
『幸ちゃん』
名前を呼ばれる、もう存在しない人間のもう存在しない喉から出た音の記録が九月の夜の部屋に響いた。
『これ見てるってことは、もう私いないんだよね』
さらりと言ってすこし間を置いた。
『いないっていうか——最初からいなかったことになってるのかな、それとも死んじゃってる? わかんない。どうなるのか、正直私にもわからないんだけど。でも幸ちゃんがこれを見てるなら、幸ちゃんは覚えててくれてるんだよね。私のこと』
紬の目がカメラを見ていて、カメラの向こうの未来の私を見ていて、存在が消えたあとの世界にいる私を見ている。
『変な感じ。今ここで喋ってるのに、これが届く頃には私いないんだもん。タイムカプセルみたい。タイムカプセルってほどかっこよくないか。遺言? 重いな。じゃあビデオレターで』
一人で投げて一人で受けている、いつも二人でやっていたキャッチボールを紬が一人でやっている。その姿がおかしくて、おかしいのに笑えなくて、胸の奥がぎゅっと潰れるように痛かった。
『まず、ありがとう……かな』
声のトーンが半音だけ下がった。
『幸ちゃんが図書室に来てくれたこと、話しかけてくれたこと、友達になってくれたこと、全部。全部ありがとう。幸ちゃんがいなかったら、私はたぶん、病室の天井だけ見て消えてた』
画面の中の紬が膝の上で指を組んだ。
『夏祭りも行けた。旅行も行けた。天音ちゃんとパンケーキも食べた。ラーメンも食べた。猫も撫でた。海も見た。ソフトクリームも食べた。いちごミルクは幸ちゃんのせいで飲み過ぎた気がするなぁ』
最後だけすこし笑って、笑って鼻をすすった。
紬がふと画面の外に手を伸ばして、何かを取り上げてカメラの前に持ってくると、指先に挟まれた銀色の輪が病室の蛍光灯の光をぼんやりと受けていた。
指輪だった。
『これ、幸ちゃんがくれたやつ。ちょっとぶかぶかなの、幸ちゃん知ってるでしょ。こうやって指曲げてないと落ちちゃうの』
紬が左手の薬指を軽く曲げて見せた。銀の輪がかろうじて指に留まっているけれどまっすぐ伸ばしたらするりと抜け落ちそうな危うさで、紬はそれを見つめている。
『ぴったりだったらよかったのにね。でもまあ、これはこれでいいかなって思ってる』
紬が指輪を見つめる、その目が一瞬だけ揺れた。
『——私たちは、ずっと一緒だよ』
声が震えた、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ声の輪郭が崩れてすぐに持ち直した。でもその一瞬に、紬が普段どれだけのものを押し込めて平気な顔をしていたのか全部が見えてしまった。
『ぶかぶかだから、もしかしたらこれだけ残るかもね。私が消えても、指輪は幸ちゃんの世界に残るかもしれない。そしたらこれが、証拠になるでしょ。私がいたっていう、証拠』
紬が指輪を唇の近くに持ってきて、ふっと息を吹きかけた。曇った銀を袖口で拭う。
『大事にしなくていいよ。毎日つけてくれたらそれでいい。一緒に暮らしてるみたいじゃん』
笑った、泣きそうな目で笑った。
『結婚したかったな』
声が変わった。笑っていた顔がゆっくりと崩れていく、紬がいつも被っていた仮面が一枚ずつ静かに落ちていく。
『幸ちゃんと、ずっと一緒にいたかった』
目が赤くて、鼻が赤くて、声が震えている。
『一緒に暮らして、一緒にご飯作って、幸ちゃんが毎朝いちごミルク飲むの隣で見て、私はブラックコーヒー飲んで、くだらないことで笑って——』
言葉が途切れて、紬が手の甲で目元を拭った。
『ごめんね、泣かないつもりだったのに』
泣いている、画面の中の紬が泣いている、私の前では最後まで見せなかった涙をカメラの前で流していて、ただの十七歳の女の子が叶わない未来を並べて泣いている。
ベッドの上で私も泣いていた、いつから泣いていたのかわからない。涙が画面に落ちて、拭って、また落ちる。
画面の中の紬が深く息を吸って、長くゆっくり吐いた。肩が上がって下がる、目元を袖で押さえて数秒、手を下ろしたとき声はすこしだけ戻っていた。
『お願いがあるの』
まっすぐにカメラを見ている。
『困っている人がいたら、助けてあげてほしい』
泣いたあとの鼻声だった、でも紬の声だ、低くて静かで芯だけが折れない声。
『私とか幸ちゃんみたいに、誰にも言えずに苦しんで、もがいている人もいるんだと思う。だから、その人たちに手を差し伸べてあげてほしい』
声が透き通っていく。
『これが一生に一度のお願い。ね』
——ね、と。紬が本当に大事なことを言うとき声の最後だけが優しくなる。
『あ、あとね』
紬が鼻をすすってすこしだけ笑った、泣きながら笑うのがうまい子だ。
『忘れないで』
紬の声が最後にもう一段だけ優しくなった。
『私がいたこと。幸ちゃんの隣にいたこと。忘れないで』
画面が暗転して、動画が終わった。
紬の顔が消えて、黒いスマホの画面に自分の泣き顔が映っていた。鼻が赤くて、目が腫れていて、紬に似ていると思った。似ているわけがないのに。
スマホを胸に当てて、もう一方の手で指輪を握りしめたまま、冷たい画面と冷たい銀の輪だけが紬と私を繋いでいた。世界中の誰も覚えていない女の子のことを私だけが覚えていて、この動画とこの指輪とこの記憶だけが夜宮紬がこの世界にいた証拠のすべてだ。
「——忘れない」
声に出して言った、誰にも聞こえない声で、九月の夜の一人きりの部屋で。
「忘れるわけないでしょ」
いつかの記憶だ、季節がここだけ逆流している。
歩道の並木は葉を落としていなくて、緑色の葉が風に揺れていて木漏れ日が地面に模様を落としている。春でも秋でもない、特定できない穏やかな午後。
隣を紬が歩いている。白いブラウスにグレーのスカート、旅行のときと同じ格好で、髪がすこし風に流れて紬がそれを耳にかける仕草を横目で見ている。
夢だとわかっている、わかっていて覚めたくなかった。
「ねぇ、紬」
「なに」
「私、死にたかったんだ」
口にしたのは目覚めている世界では何度も飲み込んだ言葉だった、でもここでは言える、紬が隣にいるから、紬の足音が私の足音の隣で鳴っているから。
「ふーん、それで?」
紬の声はぶっきらぼうだった、顔も見ない、前を向いたまま興味なさそうに相槌を打つ。でももうわかっている、この口調は心配の裏返しだということを。素直に「大丈夫?」と聞けないから興味のないふりをして、でも耳だけはこちらに向けている。紬はいつもそうだった、不器用で優しくて面倒くさい。
私は笑った、ふっと鼻から息が抜けるように。
「でも、紬のせいで変わった」
「私のせい」
「そう、紬のせい。理由のない『死にたい』が、理屈のない『生きたい』に変わっちゃった」
紬が足を止めた、私も止まる、紬がこちらを向く。
「なにそれ」
ぷっと笑った、目を細めて口の端を上げてからかうように。病室で何度も見た笑い方、夏祭りで見た笑い方、旅行の帰りの電車で見た笑い方。
「変なの」
「変でいいよ」
二人で歩き出す。歩道は嫌というほど静かで嬉しいほどに二人の足音しか響いていなくて、他に誰もいない、車も通らない、世界中から音が消えて私と紬の靴の底が地面を叩く音だけが残っている。
ふと空を見上げる。紬が空を見上げているかどうかは確かめない、隣にいることだけを感じながら歩く、どこまでも続く歩道を二人で。
***
昼休みにスマホが鳴って、画面に表示された名前を見た瞬間すこし笑ってしまった。天音だ、この子は昔から電話の頻度だけは変わらない。
「もしもしー、幸ー、今大丈夫?」
大丈夫だよと答えると、天音はいつもの調子で「あのねー聞いてよー」と切り出して、そこから止まらなくなった。
天音のお姉ちゃんが去年立ち上げた小さなイベント企画の会社を今手伝っているという話は前にも聞いていたけれど、どうやら来月の案件がかなり大きいらしく、天音の声は疲れと興奮が半分ずつ混じったような響きで、息を吸う暇もなく言葉が溢れてくる。
「もうね、お姉ちゃんがほんっとに容赦なくて、昨日なんか朝の九時から夜の十一時まで打ち合わせと準備でぶっ通しで、足がもう棒だったんだけど——」
それ大丈夫なのと聞くと、天音は「大丈夫大丈夫、つらいけど楽しいの」と笑って、その笑い方が高校のときと全然変わっていて、しっかりと笑えているのが伝わってきた。
「お姉ちゃんに怒られるたびにへこむんだけどさ、でもなんか、自分がやったことがちゃんと形になるのって嬉しいんだよね、こういう感じ初めてだなって」
天音の声を聞きながら窓の外を見ると、校庭の向こうに九月の空が広がっていた。
高校の頃の天音は誰かに合わせることが上手で、場を明るくすることが上手で、でもそれは自分のやりたいことを後回しにすることと表裏一体だったのだと、あの夏のあとでようやく気づいた。
「幸はどう? 学校、忙しい?」
うん、まあぼちぼちと答えると、天音が「相変わらずだなー」と笑った。
「あ、そうだ、今度の週末さ、お姉ちゃんが幸にも会いたいって言ってたよ。ごはん行かない? 三人で」
いいねと返すと、天音が嬉しそうに「じゃあ決まり! お店探しとく! 絶対ね!」と声を弾ませて、その「絶対ね」の言い方がほんとうに昔のままで、私はすこしだけ目を閉じた。
「——あのさ、天音」
「ん?」
「元気そうで、よかった」
一瞬の間があって、天音が「なにそれー急に」と照れたように笑った。
「幸がそういうこと言うの珍しくない? なんか変なもの食べた?」
「別に、また休みの日ね」
「はーい」
スマホを机に置いて、しばらくそのまま天井を見ていた。天音は知らない、紬のことを知らない、海月のことも覚えていない。でも天音は天音の場所でちゃんと走っていて、秋帆姉に怒られながら泣き笑いしながら自分の足で立っている。
それでいいのだと思った。紬を覚えていなくても、海月を知らなくても、天音が天音のまま笑っていること、それが——たぶん紬が望んでいたことに一番近い。
マグカップに手を伸ばして、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
カウンセリング室の時計が午後二時十五分を指していて、秒針の音が妙にはっきり聞こえるのは今日の予約が二時半だからだろう、あと十五分もある。机の上のマグカップに手を伸ばして冷めたコーヒーを一口飲んだ。
ブラックで、砂糖もミルクも入れない。飲み始めたのは大学二年のときで最初は苦くて顔をしかめていたのに、いつからか平気になっていた。たぶん紬のせいだと思う、紬がビデオレターの中で「ブラックコーヒー飲んで」と言ったのが頭に残っていて、大学の学食で初めてブラックを注文したときこんなの飲み物じゃないと思ったのをよく覚えている。それなのに二杯目を頼んで三杯目にはもう慣れてしまって、今では砂糖を入れる気にもならなくなっていた。
いちごミルクはまだ飲む。冷蔵庫に常備していて二十五歳になってもそれは変わらない、紬に「飲み過ぎ」と言われそうだなと思いながらそれでもやめないのは、やめたら紬との日常がまたひとつ減るような気がして、それが嫌だからだ。
こういう考え方はたぶん傍から見れば重たいし面倒くさいと思われるのだろうけれど、私にとっていちごミルクはただの飲み物ではなくなってしまっているのだから仕方がない。
窓の外に目をやると校庭の向こうに九月の空が広がっていて、高くて薄くてどこまでも続いていて、海月は浮かんでいない。
あの夏の翌日から八年間、一度も空に海月を見ていなかった。最初は毎日探して、そのうち毎週になり毎月になり、気づけば空を見上げても「いない」と確認する作業ですらなくなっていた。ただ空を見上げる、それだけで、いないことを確かめるために見上げているのかそれとも別の何かを探しているのか自分でもよくわからない。
首元に手をやると指先に小さな銀の感触がある。海月の形をしたアクセサリーで、あの指輪を溶かして作り直したものではなくて、大学の卒業旅行で訪れた海辺の雑貨屋でたまたま見つけたものだった。
海月の形を見た瞬間に足が止まって気づいたらレジに並んでいた、あの日と同じだ、理由はない、ただ手放せなかった。
指輪のほうは家の引き出しの中にある。小さな箱に入れて紬のビデオレターが入ったままの古いスマホと並べてしまってあって、ときどき箱を開けて指輪を掌に乗せることがあって、泣く日もあれば泣かない日もある。
どちらの日も箱を閉じる前に「おやすみ」と言う、返事はない、ないけれど言う。紬が「毎日つけてくれたらそれでいい」と言ったから最初は毎日指にはめていたけれど、日常生活で銀が傷つくのが怖くなって箱に戻してしまった。
紬に怒られるかもしれない、大事にしなくていいと言われたのだから、でも大事にしたかった、大事にしなくていいと言われても大事にしたかったのだ。
机の上のファイルに目を落とすと今日の来談者の記録で、高校二年生、女子、主訴は「理由のない希死念慮」、担任からの紹介で詳細はまだ聞いていない初回面談だった。
スクールカウンセラーという仕事を選んだのは紬のビデオレターを見たあの夜に決めたことだった。「困っている人がいたら、助けてあげてほしい」、一生に一度のお願い、あの言葉を聞いた翌朝から私の進路は決まっていて、大学は心理学部に進み臨床心理士の資格を取り学校に配属された。
全部紬のせいだし全部紬のおかげだ、自分の人生の方向を決めた言葉がもうこの世界にいない人の声だというのは考えてみればずいぶん奇妙なことだと思うけれど、私にとっては奇妙でもなんでもなくて、あの夜あの動画を見た瞬間からこれ以外の道は最初からなかったのだと今でもそう思っている。
ノックの音がした。
「——どうぞ」
ドアが開く。
入ってきたのは肩くらいの黒い髪の女の子で、制服のブレザーの袖を片手で掴んでいてもう片方の手でドアノブを握っている、顔は俯いていて前髪が目元を隠していた。
紬に似ている、と思った。
心臓が一度だけ強く鳴って、似ているのは髪の長さと俯き方だけで顔立ちも体格も違うのに、最初の一秒だけ視界がぶれた。八年前の図書室が重なった、窓際の席で本を読んでいた横顔が、すぐに消える、消えて目の前に今日の来談者がいる。
泣きそうになる、堪える。カウンセラーの顔をする——のではない、泣きそうな気持ちを抑え込むのではなくその気持ちごと椅子に座っている。紬が教えてくれたのはそういうことだ、感情を消すのではなく感情を持ったまま目の前の人を見ること、仮面を被るのではなく素顔のままここにいること。
「座って。好きなところでいいよ」
女の子がソファに座った。クッションの端を指で潰すように触っていて、緊張している。当たり前だ、知らない大人に知らない部屋で自分の話をしなければならない、それがどれだけ怖いことか知っている、誰より知っている。かつての私がそうだったから、誰にも本当のことを言えず仮面の下で窒息しかけていた十七歳の私がこの子の中にいる。
三十秒くらいの沈黙があって、女の子が口を開いた。
「死にたいんです」
小さな声で、振り絞るような声だった。
「でも、理由がわからなくて」
顔を上げない、前髪の隙間から鼻の頭が赤いのが見えて、泣いているのかもしれないし泣く手前なのかもしれない。
「死ぬ勇気もないし」
最後は消え入るような声だった。
沈黙が降りて時計の秒針が五回鳴った。
私は一呼吸置いた。
そして笑った、作った笑顔ではなく腹の底から浮かび上がってくる静かな笑みで、紬から受け取った笑顔だった。泣きたいのに笑うのではない、泣きたい自分も笑いたい自分もどちらもここにいることを許す笑顔。
「生きたいに、理屈なんていらないよ」
女の子が顔を上げた。
目が合う、十七歳の目だ、不安と疲弊とそれでもまだ消えていない何かが瞳の奥で揺れている。
「そんなの、死ぬ勇気がないくらいでいいんだよ」
首元で海月のアクセサリーが窓からの光を拾って小さく光った。女の子の視線がそこに落ちて、一瞬だけ、すぐに私の顔に戻る。
「——先生も、そうだったんですか」
聞かれると思っていた、聞かれたときに何と答えるか何年も考えていた。正解はまだわからない、わからないけれど言葉はある。
「うん。そうだったよ」
私はうなずいて女の子の目を見た。
「でも、変わった。理由のない『死にたい』が、理屈のない『生きたい』に変わった日があった」
あの海辺の声が聞こえる、波の音と蝉の声と紬の息づかい、堤防の上で隣に座っていた体温、点滴のチューブが風に揺れていた午後。
「きっかけをくれた人がいたの」
指先が無意識に首元のアクセサリーに触れた。銀の海月、冷たくて小さくて光を受けると透き通るように見える。
「だから今度は、私がそうなりたいと思ってる」
女の子はまだ泣いていた、泣きながらこちらを見ていた。
この子が明日どうなるかはわからない、来週も来てくれるかはわからない、私の言葉が届くかどうかもわからない。でも今日この部屋に来た、ドアを開けた、座った、声を出した、「死にたい」と言えた、それはもう途方もなく勇敢なことだ。
紬が最後に残した言葉が胸の中で鳴っている。
『困っている人がいたら、助けてあげてほしい』
助けるなんて大げさなことは言えない、隣に座ることしかできないかもしれない、秋帆姉が言ったように治すことはできなくてただそこにいることしかできないかもしれない。でもそこにいることを選ぶ、逃げずに目を逸らさずにこの椅子に座り続けることを選ぶ。
紬がそうしてくれたように、図書室の窓際でページをめくる音だけを隣に置いてくれたように、私が口を開くまでずっと待っていてくれたように。
「——ゆっくり話そう。時間はあるから」
カウンセリング室の窓から見える空に海月は浮かんでいない。
その空の色を、私は名前のないまま見上げた。
