夜空を泳ぐ海月は、孤独な私に嘘をつく

 病院を出たのは夕方だった。紬と別れて、電車に乗って、最寄り駅で降りて、家までの道を歩いた。足が動いている。信号が赤で止まって、青で渡る。体は自動で動いているのに中身がどこにもなくて、自分がどうやって改札を通ったのかも、電車の中で何をしていたのかも覚えていなかった。

 家に帰って、靴を脱いで、階段を上がって、部屋に入る。ドアを閉めて、ベッドに倒れ込む。天井が灰色に見えた。白いはずの天井なのに灰色だ。窓の外の空にも灰色の海月が浮かんでいて、その灰色が今まで見たどの灰色よりも濃くて、重くて、壁みたいに分厚い。視界全体を覆っている。

 消えてしまう。紬はいなくなる。

 その事実なのか事実ではないのかわからない情報が頭の中をぐるぐる回っていた。回っているだけで着地しない。理解はしている。言葉の意味はわかっている。でも感情がそこに追いつかなくて、胸の中が空洞なのか満杯なのかもわからない。こんな超常現象が起こってしまうような世の中だ、それに、多分紬の予想は正しいのだろう。嫌だ、と思っても、それが本当なのか嘘なのか確かめることは私にはできないようだった。

 スマホが鳴った。天音からのLINEだ。『どうだった?』。画面を見て、閉じた。何も打てない。打てる言葉がなかった。

 *

 翌日、起きられなかった。アラームが鳴って、止めて、また鳴って、止めて、三回目でアラーム自体を消した。もう夏休みに入っているから学校はない。起きる理由がない。紬に会いに行く理由はある。あるのに体が動かない。

 会いに行ったらまた紬がベッドにいて、点滴に繋がれていて、笑っている。いつもの紬の顔で「おはよ」と言ってくれる。でもその紬は死ぬのだ。私がどんなに手を伸ばしても、どんなに隣にいても、紬の時間は減っていく。止められない。救えない。

 救いたいのに救えない。人の役に立ちたいと思ってきた。誰かを助けたいと思ってきた。でも行動できなかった。委員会で手を挙げられなかった。カフェで紬を守ったとき初めて体が動いて、自分にもできるのだと思った。でもそれは錯覚だったのだ。本当に救わなきゃいけない場面では何もできない。紬の命を延ばすことも、消えてしまう未来をなくすことも、私にはできない。

 布団を頭から被った。暗い。暗いけれど、目を閉じると紬の泣き顔が浮かぶ。「死にたくない」と言った声が聞こえる。あの声を聞いたのに、私は今布団の中にいる。

 一日が過ぎた。天音からLINEが来ている。三件。『幸?』『大丈夫?』『返信なくても怒んないけど、心配してるからね』。読んだ。返信できなかった。

 窓の外の海月がさらに濃くなっている。灰色が灰色を塗り重ねたみたいに、空が暗い。天気予報では晴れのはずなのに、私の目には灰色のフィルターが二重にかかっている。

 紬にLINEを送っていない。紬は待っているだろうか。待っていないかもしれない。紬は「大丈夫」と嘘をつく人だから、私が来なくても「大丈夫」と自分に言い聞かせて本を読んでいるのかもしれない。そう思ったら余計に動けなくなった。私がいなくても紬は大丈夫なのだとしたら、私が行く意味はなんなのだろう。救えないのに。治せないのに。


 *

 数日後の夕方、部屋のドアがノックもなしに開いた。

「幸」

 秋帆だった。スウェットのまま、腕を組んで、ドアの枠にもたれている。

「三日飯食ってないって母さんが言ってる」
「……食べた。たぶん」
「たぶんじゃなくて食ってないでしょ。顔見りゃわかる」

 秋帆が部屋に入ってきて、ベッドの端に座った。私は布団に潜ったまま動かない。

「夜宮さんのこと、なんか聞いたんだね」
「……うん」
「…………そっか」

 秋帆がしばらく黙った。窓の外で蝉が鳴いている。エアコンの音が低く唸っている。

「で、ここで寝てるわけだ」
「……」
「助けられないから。治せないから。自分が無力だから。それで布団に潜ってる」

 図星だった。図星すぎて、何も言い返せない。

「気持ちはわかるよ。私もそうだったから」

 秋帆の声が少しだけ低くなった。

「実は教育実習のとき、夜宮さんがいじめられてるの知ってた。知ってて何もできなかった。二週間で終わる人間に何ができるんだって。そう言い訳して、逃げた。大学に戻って、教員になるのやめて、この部屋に引きこもった。——逃げたんだよ、私は」

 秋帆が腕を組み直した。

「あの子を救えなかった。その後悔がずっとある。何年経っても消えない。消えないまま、この部屋でずっと止まってた」

 布団の隙間から秋帆の横顔が見える。薄暗い部屋の中で、窓からの光に照らされている。

「幸。お前がしてやれることは、治すことじゃないでしょ」
「じゃあ何すればいいの」
「あの子の隣にいること」

 布団の端を握る手に力が入る。

「それだけでいいの。お前は医者じゃない。薬も作れない。命を延ばすことはできない。でもあの子の隣に座って、くだらない話して、一緒に窓の外見ることはできるでしょ」
「でもそれじゃ——」
「救えない?」
「……うん」
「救うってなに」

 秋帆の声が鋭くなる。

「命を延ばすことが救うこと? 違うでしょ。あの子が泣けたのは、幸が隣にいたからでしょ。それは救ってないの?」

 言葉が出なかった。

「幸。逃げたまま後悔するのと、向き合って傷つくのと。——どっちがマシか、自分で選びな」

 秋帆が立ち上がった。ドアに向かって歩いて、出ていく直前に振り返る。

「私はもう選んだよ。教員採用試験の申し込み、昨日出した」

 ドアが閉まった。

 部屋に一人になった。天井の灰色を見上げる。蝉の声。エアコンの音。秋帆の言葉が部屋の中に残っていた。

 逃げたまま後悔するのと、向き合って傷つくのと。

 紬が「生きたい」と言った。あの海辺で、泣きながら、手を握り返してきた。私は「じゃあ生きて」と言った。言ったのに、自分が布団の中で死んだみたいに動かなくなっている。

 紬は今も病室にいる。点滴に繋がれて、窓の外を見ている。紬に見えているのは空と雲だけで、海月は見えない。でも私がいけば、二人で同じ窓から外を見ることはできるのだ。見えているものは違っても、隣にいることはできる。

 布団を剥がした。立ち上がる。足がふらつく。三日まともに食べていないから当たり前だ。洗面所で顔を洗って、冷蔵庫を開けた。いちごミルクが二本入っていた。秋帆が買ってきたのか、母が買ってきたのかはわからない。一本取って、もう一本はリュックに入れた。紬に持っていく分だ。

 玄関で靴を履いて、ドアを開ける。七月の夕方の風が顔にぶつかった。空の海月はまだ灰色で、灰色が灰色を塗り重ねたみたいに濃い。でも、見上げることはできた。見上げて、灰色だと確認して、それでも足を動かすことはできるのだ。

 駅に向かった。

 *

 病室のドアをノックした。

「はい」

 紬の声がした。かすれている。四日前より、少しだけ弱い。

 ドアを開ける。紬がベッドの上で上半身を起こしていた。膝の上に本。いつもの姿勢だ。でも本のページは開かれたまま止まっていて、たぶんずっと同じページを見ていたのだと思う。
 紬が私を見た。

「——来ないかと思った」
「ごめん。遅くなった」
「もう四日」
「うん。四日」

 パイプ椅子に座って、リュックからいちごミルクを出す。紬の分も出して渡すと、紬がそれを受け取ってストローを刺した。私も自分の分のストローを刺す。二人でいちごミルクを飲む。

「おいしい」
「……うん。おいしい」

 それだけだった。それだけで、四日間のブランクが溶けていった。劇的な和解も、感動的なセリフもない。ただいちごミルクを飲んで「おいしい」と言って、紬が少しだけ笑った。それで十分だった。

 *

 翌日も行った。その翌日も。毎日いちごミルクを二本買って、電車に乗って、病院の三階に上がる。

 紬と過ごす時間はいつも静かだった。二人で窓の外を見る。私には灰色の海月が見えていて、紬には空と雲しか見えていない。同じ窓から違うものを見ているけれど、隣に座っていることは同じで、それだけを頼りに時間が過ぎていく。

 紬が本を読み、私が横でスマホをいじる日もあった。紬が眠って、私がその寝顔を見ている日もあった。目が覚めた紬が「見てた?」と聞いて、「見てない」と嘘をつくと「嘘つき」と返してくる。そういう日もあった。

 日を追うごとに、変化は静かに積もっていった。紬の声が小さくなっている。最初のころは病室の端まで届いていた声が、ベッドの周囲でしか聞こえなくなった。パイプ椅子をベッドに近づけた。五十センチだった距離が三十センチになり、やがて腕が触れるくらいになった。

 眠る時間が長くなっている。午前中に行くと起きているけれど、午後になると目を閉じていることが増えた。目を開けるのに時間がかかるようになって、私が「おはよ」と声をかけてから紬が瞼を持ち上げるまでの間が、五秒、十秒と伸びていった。

 でも目を開けたとき、紬は必ず笑う。笑って「来たの」と言う。その声がどんなに小さくても、私には聞こえた。

 七月の最初の土曜日、天音を連れて病室に行った。天音は病院の廊下で一度だけ立ち止まって深呼吸をして、それから三〇五号室のドアをノックした。

「紬ー、入るよ」

 ドアを開けた瞬間、天音の目が一瞬だけ揺れた。点滴のスタンド。パジャマ。ベッドの上の紬。でも天音はその揺れを一秒で飲み込んで、いつもの声を出す。

「うわ、病院食まずそう」

 ベッドの横のテーブルに残っている昼食のトレーを見て、眉を顰めた。

「実際おいしくないよ」

 紬が返す。声は小さいけれど、天音に向ける声は少しだけ張りがあった。

「じゃあパンケーキ持ってくるよ。あの店の」
「溶けるでしょ」
「溶けないように保冷バッグ買う」
「保冷バッグに入れてもパンケーキは溶けないと思うけど、しなしなにはなるよ」
「じゃあ焼きたてを三十分以内に届ける」
「ウーバーか」

 三人で笑った。病室の白い空間に、いつもの空気が戻ってくる。教室で三人で弁当を食べていたときと同じだ。パンケーキ屋で天音がメニューを迷っていたときと同じ。場所が違うだけで、三人の距離感は変わっていなかった。

 天音が持ってきたコンビニのシュークリームを三人で分けて食べた。天音が「幸はいちごのやつでしょ」と私にいちごシュークリームを渡して、紬が「またいちご」と呟いて、私が「うるさいな」と返す。いつものやりとりだ。いつもの温度。

 でも笑いの合間に、一瞬だけ沈黙が落ちた。天音が紬の点滴を見て、紬が天音の視線に気づいて、二人の目が合って、すぐに逸れた。その沈黙は一秒にも満たなかった。誰もそれに触れなかった。触れないまま次の冗談が始まって、笑い声が沈黙を埋めていく。

 夕方になって天音が立ち上がった。

「じゃあ私、そろそろ帰るね」
「うん。ありがと、天音」
「来てくれてありがとう」

 紬がベッドの上から天音を見上げた。天音がドアの前で振り返って紬と目が合う。

「またね」

 天音の声は明るかった。いつもの天音の声だ。でもその「またね」の裏側にあるものを、三人とも知っている。またがあるかどうかわからないことを。でも「またね」と言う。言わないよりずっといいから。

「うん。またね」

 紬が返した。小さく、でもはっきりと。

 天音がドアを出ていった。廊下を歩く足音が遠ざかっていく。紬は天音が見えなくなるまで、ドアのほうを見ていた。

 帰り道、天音と別れたあと駅前の雑貨屋の前を通りかかったとき、足が止まった。ショーウィンドウの中に、指輪が並んでいる。アクセサリーコーナーの片隅に、小さな銀色の指輪。シンプルなデザインで、細いリングに小さな石が一つだけ埋め込まれている。

 旅行のときのことを思い出した。紬が足を止めた場所。海沿いの町の土産物屋で、アクセサリーが並んだ棚の前で、紬が一つの指輪をじっと見ていた。「かわいい」と小さく言って、でも手に取らなかった。私が「買えば?」と言ったら「いいよ、見てるだけ」と答えて、でも店を出る直前にもう一度だけ振り返っていたのだ。

 あのとき買えばよかった。

 雑貨屋に入って、指輪を手に取った。旅行のときに紬が見ていたのとは違うけれど、同じくらい細くて、同じくらいシンプルで、紬の指に合いそうなサイズだった。値段を見る。高校生の財布には痛いけれど、買えない額ではない。

 レジに持っていって「ラッピングお願いします」と言った。小さな箱に入れてもらって、リュックにしまう。何をするつもりなのか、自分でもまだよくわかっていなかった。わかっていないまま、足が動いている。

 次の日は紬の体調がよかった。朝から目が開いていて、声にも張りがあって、「外に出たい」と紬が言った。久しぶりに紬から「したい」が出てきた言葉だった。

 看護師さんに許可をもらって、点滴のスタンドを引きながら病院を出る。七月に二人で歩いた道。でも今日はあの海岸までは行けなかった。病院を出て五分も歩かないうちに、紬の足が遅くなった。息が上がっている。旅行のとき神社の石段を登ったあの息切れとは違う。もっと浅くて、もっと頻繁で、体全体が酸素を求めているみたいな呼吸だった。

「——ちょっと座ろっか」

 病院の近くにある小さな公園の、錆びた金属のベンチ。座ると、紬が「あっつ」と小さく声を上げた。金属が陽に焼かれて熱くなっている。

「大丈夫?」
「うん、大丈夫。——あ、また大丈夫って言っちゃった」
「また言った」
「癖だよ、許して」

 紬が笑った。

 海までは看護師さんに止められて行けなかった。わかっていた。わかっているけれど、こうして実際に目の当たりにすると、胸の奥が握りつぶされるみたいに痛い。

「どうしたの?」

 紬が私の顔を覗き込んだ。

「怖い顔してるよ、幸」
「してない」
「してる。眉間に皺寄ってる」

 紬の指が伸びてきて、私の眉間に触れた。ちょん、と軽く。子供をあやすみたいな手つき。

「笑って」
「……無理やり笑えって言ってる?」
「違うよ。幸の本当のやつ。最近笑ってくれるようになったでしょ。例えば夏祭りとか!」

 射的。夏祭りの夜。二人ともコルクが全然当たらなくて、吹き出して、お腹が痛くなるまで笑ったことを思い出した。

「あれは紬が下手すぎたから笑っただけでしょ」
「私だけじゃなかったでしょ。幸も全然当たってなかったでしょ」
「……まあ」
「ほら、笑った」

 笑っていた。口角が上がっている。紬の前だとこうなる。どんなに胸が痛くても、紬と話しているうちに笑ってしまうのだ。

 今だ、と思った。理由はない。計画もない。ただ、今この瞬間に紬が笑っていて、私も笑っていて、八月の陽射しが二人を照らしていて、空が青くて——今しかないと体が勝手に判断した。
 ベンチから立ち上がった。紬の前に回って、膝をついた。公園の入口の横。砂場と滑り台がある何の変哲もない場所で、ロマンチックの欠片もない。

 でもここでいい。

 ここがいい。

「幸……? 何してるの」

 紬が目を丸くしている。リュックから小さな箱を取り出した。ラッピングされた箱。手が震えている。恥ずかしい。顔が熱い。紬の顔を見られなくて一瞬だけ横を向いた。公園の滑り台が視界に入る。場違いにもほどがある。

 でも、逸らした目を戻した。紬を見た。紬の目を見た。

 箱を開けた。小さな銀色の指輪。細いリングに、小さな石が一つ。

「私と、結婚してください」

 声が裏返った。裏返ったけど、言えた。言い切った。

 紬が固まっている。目が丸くなって、口が半開きになって、頬に血が上っていくのが見えた。耳の先が赤くなっている。紬のこんな顔は初めて見る。いつも冷静で、いつも平坦で、どんな場面でも余裕を崩さなかった紬が、完全にフリーズしている。

 三秒。五秒。まばたきもしない。

「え——え?」
「だから、結婚——」

 言い終わる前に、紬の腕が伸びてきた。首に回った。引き寄せられる。紬の体温。病院の消毒液の匂いの下に、知っている匂いが残っていた。シャンプーの匂い。紬の匂い。腕の力は弱い。前より確実に弱い。でも離すつもりのない力で、しがみつくように抱きしめられている。

 紬の顔が近づいて、唇が触れた。

 柔らかい。温かい。いちごミルクの味がした。私が飲んでいたのが移ったのか、唇の端にほんのり甘い味がした。

 離れたとき、紬の目に涙が溜まっていた。泣いているのとは違う。溢れていないけれど、いっぱいになっている。

「よろこんで——」

 声が震えた。紬の声が。笑いながら泣きそうな、泣きながら笑おうとしている、ぐちゃぐちゃの声。

「もっかい」
「よろこんで、結婚しよう」

 もう一回言った。今度はもう少しだけはっきりと。

 指輪を紬の左手の薬指にはめる。少しだけ緩い。紬の指が前より細くなっているからだ。その事実に一瞬だけ胸が詰まったけれど、飲み込んだ。今はいい。今だけは、それはいい。

 紬が指輪を見ている。左手を持ち上げて、陽の光に翳した。銀色のリングが八月の陽射しを反射して、小さな光の粒を散らす。

「かわいい」
「旅行のとき見てたやつとは違うけど」
「覚えてたの」
「覚えてるよ。紬が店出る前に振り返ったのも」
「……見てたんだ」
「見てた」

 紬が指輪をつけた手をもう一度見て、それから空を見上げた。

 その瞬間、空が変わった。

 灰色の海月が——光っている。灰色ではない。灰色だった輪郭が溶けて、その下から青い光が滲み出していた。淡くて、透き通っていて、夏の空よりもっと深い青。海月全体がゆっくりと脈打つように明滅して、青い光の粒が空に散っていく。

 息が止まった。灰色が——消えていく。あんなに分厚くて、あんなに重くて、視界を覆い尽くしていた灰色のフィルターが、青い光に押されて薄くなっていく。空が青い。海月が青い。世界が青い。こんな色、見たことがない。

「え——」

 声が出た。海月を見上げたまま、動けない。

 紬も空を見ていた。紬が海月を見ている。海月が見えないはずの紬が——空を見上げて、目を見開いている。いつものように雲を見ているのではない。星を探しているのでもない。何かを見ている。何かが見えている。

「紬——」
「見える」

 紬の声がかすれた。

「見えるよ、幸。青い——青い、光——」

 紬の目から涙がこぼれた。頬を伝って、顎の先から落ちて、指輪をはめたばかりの左手の上に落ちる。

「きれい」

 紬が私を見た。涙で滲んだ目。でもその奥に、海月の青い光が映っている。紬の瞳の中に、私が見ているのと同じ青があった。

「きれいだよ、幸」
「——うん」

 私も泣いていた。泣きながら笑っていた。空が青くて、海月が青くて、紬の目が青くて、全部が眩しくて、涙でぐちゃぐちゃで何も見えないのに、何もかも見えている。
 紬がもう一度、指輪をはめた手を空に翳した。銀色のリングが青い光を反射して、紬の指先がきらきらと光った。

「ねえ幸」
「なに」
「これが——海月の色?」
「うん。青。今、青に変わった」
「変わったんだ」
「うん。灰色から——青」

 紬が笑った。泣きながら笑った。涙がぼろぼろこぼれているのに口角がしっかり上がっていて、目元が柔らかくて、鼻が赤くなっていて、ぐちゃぐちゃで、全然きれいじゃない顔。でもこの顔が、今まで見た紬のどの顔よりも好きだと思った。

「すごい、サイズぴったりだ」
「手の大きさ同じくらいだったから……」
「へー、私知らなかったのに」
「……なくさないでよ」
「なくさないよ。——大事にする。ちゃんと」

 紬が指輪をはめた手をもう一度見て、それから私の手を握った。五本の指が互い違いに絡んだ。指輪の金属が私の指に触れて、ひんやりと冷たい。

 空の海月が青く光り続けている。二人でベンチに座って、手を繋いだまま、しばらくそれを見ていた。紬には海月が見えていて、私にも見えている。初めて同じものを見ている。同じ窓から、同じ空を、同じ色で。

「きれいだね」
「きれい」

 同じ言葉が、初めて同じ意味を持っていた。