夜空を泳ぐ海月は、孤独な私に嘘をつく

 金曜日、紬の席が空いていた。

 朝のホームルームで先生が出席簿をめくって「夜宮——」と名前を読み上げて、教室をぐるりと見回してから赤ペンで印をつけて、そのまま次の名前に移っていった。

 何事もなかったみたいにホームルームが進んでいく。先生にとっては欠席のひとつに過ぎないのだろうし、三十数人の生徒がいるのだから一人の欠席にいちいち立ち止まっていられないのかもしれない。

 でも私の目にはあの空っぽの机がやけに目立っていて、そこだけ教室に穴が開いているみたいだった。

 昼休みにLINEを送った、『大丈夫? 風邪?』と。我ながらもうちょっとマシな言い方はなかったのかと思うけれど、他にどう聞けばいいのかわからなかった。

 既読がついたのは放課後になってからで、返事は『ちょっと体調崩しただけ 大丈夫だよ』の一行だった。絵文字もスタンプもない、むき出しの文字列。

 紬が「大丈夫」を使うとき大丈夫じゃないことのほうが多いと、もう知っている。

 知っているのに「本当に?」と打ち返す指が止まるのは、疑えば紬の仮面を剥がすことになるからで、剥がしたあとの自分がどうすればいいのかわからなかった。

 結局返信できなかった。紬の『大丈夫だよ』をそのまま受け取ったふりをしてスマホを裏返しにして机に置いて、自分の臆病さに嫌気がさしたけれど嫌気がさしたところで指が動くわけでもない。

 土日を挟んで月曜日、紬は来なかった。火曜も、水曜も。

 紬の机の上にプリントが一枚ずつ重なっていって、その厚みが欠席の日数をそのまま数えている。私はLINEを送るたびに返ってくる同じ『大丈夫だよ』の五文字を眺めて、三日目にはその五文字すら見るのが怖くなっていた。

 大丈夫という言葉が大丈夫じゃないことの証明に変わっていく過程を画面越しにただ眺めているだけの自分がいて、何もできていないと思う。何もできていないくせに心配だけはしていて、その心配すら相手に届けられていない。最悪だった。

 水曜の夜、天音から電話が来た。

「幸、紬に連絡取れてる?」

「LINEは返ってくる。でも『大丈夫だよ』しか言わない」

「それ大丈夫じゃないやつでしょ」

 天音の声が低かった。ふざけているときの天音ではなくて、昼間の教室で見せる明るさを全部剥がした素の声。

「三日連続だよ。しかもさ、先生に聞いたら『ご家庭に確認済みです』だって。それだけ。それだけってなに? 普通もうちょっとなんかあるでしょ、家庭訪問とか」

 私も同じことを感じていた。先生は紬の欠席に対して「体調不良の届けが出ています」としか言わず、長期欠席なら家庭訪問をするのが普通だろうに「ご家庭の意向で」と言葉を濁してそれ以上は踏み込もうとしない。

 家庭の意向——つまり家庭のほうが学校を遠ざけているということだ。

 あの先生を責める気にはなれなかった。面倒ごとを生徒に押しつけるのが癖になっている人だけれど、悪意でやっているのではなくて自分の手で扉を開ける力がないだけなのだと思う。頼りないなとは思うけど、それは私だって同じだった。

「幸、動きなよ。私が行っても紬は開けないと思う。幸なら開ける」

 天音の声には確信があった。根拠のない確信ではなくて、この数ヶ月で三人が積み重ねてきた時間の厚みから出てくる確信だと思った。

 電話を切ってしばらくスマホの画面を見つめていた。

 紬のトーク画面に『大丈夫だよ』が三つ並んでいて、同じ言葉が同じ間隔で並んでいると言葉というより模様に見えてくる。模様には意味がない。

 でも紬がこの言葉を打つとき画面の向こう側でどんな顔をしていたのかと想像すると、胸のあたりがぎゅっと締まった。


 *

 翌朝、秋帆姉の部屋のドアをノックした。

 秋帆姉は机の上に教員採用試験の問題集を広げていて、ノックに振り向いた顔は不機嫌だったけれど私の表情を見た瞬間に問題集を閉じた。この人は昔からそういうところがある、言葉より先に空気を読んで必要だと判断したら自分の手を止められる人で、私にはない能力だと思う。

「——友達が学校来なくなった」

「……何日」

「三日」

 秋帆姉の目がすこし細くなった。教育実習を経験した人間の目だった、三日という数字の重さを理屈ではなく肌で知っている人の反応だと思った。

「担任は」

「家庭の意向で、って。たぶん保護者が学校の介入を断ってる」

「名前は」

「夜宮紬」

 秋帆姉の手が問題集の上で止まった。数秒、何かを思い出すように目を伏せてから静かに口を開いた。

「——知ってる。教育実習のとき一回だけ授業で当てたことがある。声が小さくて、でもちゃんと答えた子」

 それだけ言って秋帆姉は椅子の背にもたれた。天井を見上げて息をひとつ吐いてから私のほうに向き直る。

「住所は私からは出せない。実習先の個人情報だから」

 声が硬かった。姉としてではなくてこれから教壇に立とうとする人間としての声で、こういうとき秋帆姉は急に大人になるというか、普段のだらしなさが嘘みたいにきちんとした人間になる。

「ただ——担任に言いな。夜宮さんのお母さんに連絡を取って、幸が会いに行っていいか確認してもらえって。それが筋だし、担任にはその義務がある」

 秋帆姉は机の上のペンを手に取ってくるくると回した。考えごとをするときの癖で、子どものころから変わらない。

「家庭が学校を拒んでるなら学校の外から行くしかない。でもそれは担任を通してやれ。お前が一人で勝手に押しかけたらご家庭はもっと閉じる。わかるな?」

 わかる、わかるけれどもどかしかった。今すぐ走り出したい足を秋帆姉の言葉が正しい場所に押し戻していく。感情で飛び出しそうになる自分を理屈で引き止めてくれる人が近くにいることのありがたさを、このとき私はちゃんと感じていた。たぶん。

「あの子のこと気にかけてるなら、ちゃんと手順を踏め。感情で動くのは簡単だけど、それで傷つくのはお前じゃなくて相手のほうだから」

 秋帆姉はそう言って問題集を開き直した。視線はもうページに落ちているけれど目が文字を追っていないのはペンの回転が止まっていないことでわかった。秋帆姉なりに気にしているのだ、気にしているけどそれを私に見せるつもりはないらしい。

 この人もこの人で不器用だよな、と思いながら部屋を出た。


 一学期最後の授業日だった。

 紬の席はやはり空で、机の上のプリントの山はもう指三本ぶんくらいの厚さになっている。日に日にプリントが積まれていくのを見ていると紬がいない時間が物理的な厚みを持って可視化されているみたいで、妙にリアルだった。

 四時間目が終わって先生がホームルームで通知表を配った。一人ずつ名前を呼んで教壇の前まで取りに来させるのだけれど、五十音順に名前が消費されていって最後に残った一枚を先生は教卓の引き出しにしまった。

 しまう瞬間、先生の手がすこし止まったのを私は見ていた。引き出しを閉める前に一度だけ中を見下ろしてそれから静かに閉じる。先生なりに気にしてはいるのだ、気にしているけれど気にしていることを教室には見せない。見せ方を知らないのかもしれないし立場的に見せられないのかもしれない。

 どっちにしろ、あの一瞬の躊躇は本物だったと思う。

「じゃあこれで終わります! あと幸ちゃん、ちょっといい?」

 ホームルームが終わるのと同時に先生が申し訳なさそうに目を細めて私に両手を合わせた。

 またか——という感覚が反射的に胸をよぎる。みんなが席を立って雑談や片付けに散っていく中、私は教卓に足を運んで頬の筋肉が自動的に動いて優等生用の笑顔が貼りつく。もう条件反射みたいなもので、自分でも嫌になる。

「それで、どうしたんですか?」

「夜宮さんのことなんだけど」

 予想していた言葉とは違った。てっきり雑用をまた押しつけられるのかと思っていたから笑顔が一瞬だけ固まったのが自分でもわかった。

「昨日、お母様に電話したの。朝凪さんが会いたがっているということと、通知表をお届けしたいということ——」

 先生は声を落として廊下側に目を向けた。教室にまだ残っている生徒を気にしているらしい。

「お母様ね、最初はすこし迷ってらしたの。でも朝凪さんの名前を出したら——」

 先生が私を見た。いつもの頼りない目とは違う、何かをちゃんと伝えようとしている目だった。

「『幸ちゃんなら来てもらって構いません』って。紬さんのスマホにね、朝凪さんの名前がたくさん出てきていたらしくて。お母様、それで——」

 先生の言葉が途切れた。喉の奥で何かを飲み込むような間があってそれから声を整えるように一度咳払いをした。

 先生も人間なのだ、と当たり前のことを思った。

「住所を伝えてもいいかと聞いたら許可をいただけたの。はい、これ」

 折り畳んだメモ用紙を差し出されて、受け取って開くと先生の丸い字で住所が書いてある。その下にもう一行。

『通知表、よろしくお願いします。——夜宮』

 お母さんの伝言だった。先生がわざわざ書き写したのだろう、丸い字がその一行だけすこし震えていて、書き写したときの先生の手なのかお母さんの声を受け取ったときの感情なのか、それは私にはわからなかった。

「あの——先生」

「うん?」

「ありがとうございます」

 先生は一瞬きょとんとしてそれからいつもの困ったような笑顔を浮かべた。

「私、こういうのしかできないからさ。ほんとは家庭訪問とか行くべきなんだろうけどお母様が遠慮されてて……でも朝凪さんが動いてくれるなら私よりずっといいと思う」

 自分の無力さを笑って誤魔化す癖は相変わらずだった。でも電話をかけたのはこの先生なのだ。

 秋帆姉に言われた通り担任に頼んだのは昨日の放課後で、先生は「わかった、聞いてみる」と言ったきりだった。あれから一日で保護者に連絡を取り許可をもらい住所を書き伝言まで添えている。

 先生なりの精一杯がこの折り畳まれたメモ用紙に収まっていて、なんというかこの人はこの人なりに一生懸命なんだなと思った。不器用だけど。

「通知表、持っていってくれる?」

 先生が引き出しから封筒を取り出した。紬の名前が先生の丁寧な字で書かれていて、さっきまで引き出しの中で一人だけ取り残されていた封筒。

「届けます」

 封筒を受け取った。紙の重さがいつもより重く感じるのは気のせいではないと思う、通知表一枚ぶんの重さなんて大したことないはずなのに鞄に入れたらずしりときた。

 放課後、昇降口で天音が壁にもたれて待っていた。スマホをいじっている手が私の顔を見た瞬間にポケットにしまわれる。

「行くんでしょ」

「うん。住所もらった。先生が紬のお母さんに確認取ってくれて」

 天音が一瞬目を見開いてそれからふっと笑った。

「あの先生、やるじゃん」

 背中を叩かれた。強い。天音はいつも強い、この人の手は迷っている人間の背中を押すためにあるんじゃないかとわりと本気で思うことがある。

「私はここで待ってる。——ってのは嘘、家帰るけど。でもLINEはいつでも見てるから」

「うん」

「紬に伝えて。天音がプール待ってるって」

 声が明るかった。明るくしているのだと私にはわかる。天音も怖いのだ、怖いのに見せないでいてくれていて、私のために、紬のために。こういうところが天音のすごいところで、私にはまだ真似できないところだ。


 紬の家は駅から十分ほど歩いた住宅街の中にあった。

 路地を曲がると小さな一軒家が見えて、表札に「夜宮」と書いてある。庭に紫色の朝顔が一本だけ咲いていて紬の浴衣の柄を思い出した。蔓が支柱に巻きついて花がひとつ午後の日差しの中でまだ開いている。

 朝顔って午前中にしぼむものだと思っていたのになんで今ごろ咲いているんだろう、季節外れなのかこういう品種なのか。そんなどうでもいいことを考えているのはたぶん緊張しているからだと思う。

 インターホンを押した。先生からもらったメモを握っている手がじわりと汗ばんでいる。

 十秒くらいしてドアが開いた。

 四十代くらいの女性だった。紬と同じ黒い髪で紬よりすこし丸い輪郭、目元が似ている。似ているのだけれど紬にはない種類の翳りが顔全体に落ちていて、一瞬だけ言葉が出てこなかった。

 疲れているというのとは違う、何か重いものを長い間抱えてきた人特有の静かな沈み方で、そういう顔だった。

「——朝凪幸です。紬の、友達です」

 お母さんの目が私の顔をじっと見た。値踏みしているのではなくて確かめている目で、何かと照合するように見ている。

「……あなたが、幸ちゃん」

 声がかすかに震えていた。

「友達がいるなんて紬からちゃんとは聞いてなかったの。あの子、何も話さないから。でも——あなたの名前は見たことがあるの」

 お母さんが一度だけ唇を噛んでそれから続けた。

「紬のスマホに、何度も。毎日のように」

 その言葉が胸に落ちたとき喉の奥がきゅっと狭くなった。

 紬は何も話さなかったのだ、お母さんにも。友達ができたことも夏祭りに行ったことも旅行に行ったことも。話さないまま、ただスマホの画面の中に私の名前だけを残していた。LINEのやりとりをお母さんが見たのだろう、あの『大丈夫だよ』の裏側にある私との他愛もない日々のログを。

 紬はそういう子だ、大事なことほど黙っている。黙っているくせに証拠だけは律儀に残している。

「紬は今、病院にいるの」

 お母さんの声がすこし事務的になった。何度も人に説明してきたときに出る声だと思う、説明することで感情との距離を取る声で、私の母親もときどきこういう声を出すことがある。状況は全然違うけれど声の質感が似ている。

「あおぞら総合病院。三階の、305号室。面会は三時からできるから——午前中は検査が入ることが多くて」

 検査。その一語が胸の中で重く沈んだ。

 体調不良という言葉の裏側に検査という日常がある。紬が『大丈夫だよ』と打っていたとき検査着のまま病室のベッドの上でスマホを開いていたのかもしれなくて、そう考えるとあの五文字がまったく違う意味を帯びてくる。検査の合間に点滴の管を繋がれたまま片手で打ったかもしれない五文字。

「——行きます」

 通知表の封筒を見せた。

「学校から預かりました。紬に届けます」

 お母さんが封筒を見た瞬間、目の色が変わった。通知表、学校から届く当たり前のもの。当たり前が当たり前でなくなった家庭にとってその白い封筒はどういう重さを持つのだろう。私にはわからない、でもお母さんの目が潤んだのは見えた。

「ありがとう」

 お母さんが頭を下げた。深く、長く。上げたときの目が赤かった。

「あの子に——会ってあげて」

 その声があまりにも切実で、私は黙ってうなずくことしかできなかった。

 駅まで走った。

 電車に乗って二駅で降りて坂を上がると、あおぞら総合病院は思っていたより大きかった。白い建物が空を背景にして建っていて、正面玄関の自動ドアの上に「面会受付」の案内板が出ている。

 自動ドアを抜けると冷房の空気が汗ばんだ肌にぶつかって、外と中で世界がぱきりと分かれる感覚があった。病院というのはいつもそうだ、外の世界と内の世界が自動ドア一枚で完全に切り離されている。

 受付で「夜宮紬さんの面会に来ました」と言って、面会簿に名前を書くよう促されてペンを持つ手がまだ震えている。名前を書いて「関係」の欄に「友人」と書いた。

 友人、たった二文字なのに今はこの二文字がひどく頼りなくて、友人で通していいのだろうかという疑問が一瞬よぎったけれど他に書きようもないので気にしないことにした。

 エレベーターで三階に上がると白い廊下に消毒液の匂いが漂っていて、窓から午後の光が差し込んで床に長方形の明かりを落としている。ナースステーションの前を通るとき看護師さんがこちらを見て軽く会釈した。制服姿の高校生が一人で来ることは珍しいのだろう、すこし驚いたような目をしていた。

 305号室。ドアがすこしだけ開いている。

 隙間からベッドの端が見えた。白いシーツ、その上に見覚えのある手。

 紬の左手が布団の上に投げ出されていて、点滴のチューブが手の甲から伸びてスタンドの上のパックに繋がっていて、透明な液体がゆっくりと落ちていくのがドアの隙間から見えた。

 ——わかりたくなかった。

 でもわかってしまった。ここにいるのだ、紬はここにいる、白い部屋で白いシーツの上で透明な液体を体に入れながら。

 ノックを二回した。

「はい」

 紬の声がした。すこし掠れているけれど紬の声だ、聞き間違えようがない。

 ドアを開ける。

 紬がベッドの上で上体を起こしていた。パジャマ姿で髪をひとつに結んでいて、うなじが見えている。頬の線が記憶より細い。

 病室の白さの中に紬がいることの違和感がすごくて、目が処理するのに一瞬かかった。教室で見る紬、図書室で見る紬、通学路で見る紬、そのどれとも違う紬が病室のベッドの上にいる。

 紬が私を見た。驚いた顔、それからほんの一瞬だけ何かを諦めたような顔、そしてすぐにいつもの顔に切り替わった。この切り替えの速さは何度見ても慣れない。

「……なんで来たの」

「通知表届けに来た」

 封筒を持ち上げて見せると紬は目を細めた。

「わざわざ?」

「わざわざ」

 ベッドの横にパイプ椅子があったので座って、鞄からいちごミルクを二つ出してひとつを紬のサイドテーブルに置くと、紬がそれを見て唇の端がほんのすこしだけ上がった。

「相変わらずそれ飲んでるんだ」

「一生飲む」

「体壊すよ」

「紬に言われたくない」

 ——言ってから後悔した。言葉が思った以上に鋭い場所に刺さっていて、紬の目がわずかに揺れたのが見えた。

 しまったと思ったけれど紬は何も言わずにいちごミルクのストローに口をつけた。その沈黙がかえって痛い、怒ってくれたほうがまだましだ。

 窓の外で蝉が鳴いている。病室の白と点滴の透明といちごミルクのピンクだけが、この空間にある色のすべてだった。白い部屋に二人でいて蝉の声だけが外から入ってくる。

 なんだか世界と切り離されたみたいだった。

「大丈夫じゃないんでしょ」

 自分の声が思ったより静かだった。ずっと聞きたかった、ずっと聞けなかった。でも今ここで聞かなかったらたぶん一生聞けない、そう思ったから口に出した。

 紬がストローから口を離して私をまっすぐ見る。まっすぐ見られるとこの人の目は本当に強くて、逃げ場がなくなる。

「……どこまで知ってるの」

「何も知らない。だから来た」

 紬がいちごミルクのパックをサイドテーブルに戻して、ストローが斜めに刺さったままパックの側面に結露が浮いている。

 しばらく黙ってそれを見つめてから、紬がぽつりと言った。

「——外、出ない?」

「……うん」

 紬がベッドの脇に置いてあったサンダルに足を通して点滴のスタンドを引きずりながら立ち上がって、パジャマの上にカーディガンを羽織って病室のドアを開けた。

 ここではない場所で話したいのだろうと思った。この白い部屋の中では言えないことがあるのかもしれない。

「ちょっと散歩してきます」

 ナースステーションの前を通りかかると看護師さんが「夜宮さん、あんまり遠くに行かないでね」と声をかけて、紬は「はーい」と軽く返して振り返りもしない。

 その背中があまりにもいつも通りで、ここが病院であることを一瞬忘れそうになったけれど点滴のスタンドの車輪がリノリウムの床をがらがら鳴らしていてそれが現実を引き戻してくる。

 エレベーターで一階に降りて正面玄関を出ると空気がまとわりついた。蝉の声が壁みたいに分厚くて、自動ドアをくぐった瞬間に別の世界に出たみたいだった。

 さっきは外から中に入って世界が切り替わる感覚があったけど今度は中から外に出てまた切り替わる。この病院は世界と世界の境目にあるみたいだ。

 紬が点滴のスタンドをがらがらと引きながら歩いていって、サンダルがアスファルトを擦る音が妙に乾いている。

 私はその半歩後ろをついていった。通学路では紬が半歩後ろだったのにここでは逆になっていて、その位置関係の変化がなんだか象徴的だったけれどそれを深く考えるのは今はやめた。

「どこ行くの」

「海」

「海?」

「この病院、歩いて十分くらいで海に出られるの」

 知らなかった。紬が入院していることすら今日知ったのに病院の近くに海があることなんて知るはずがない。紬の知っている世界に私の知らない場所がまだたくさんあるのだ、当たり前のことなのにそれがすこし寂しかった。

 住宅街を抜けて一本道に出ると紬は黙っていたし私も黙っていた。さっき病室で交わした言葉がまだ二人の間に残っていて、何か口にするとそれが壊れてしまいそうだった。

 点滴のスタンドの車輪がアスファルトの凹凸を拾うたびにかたかたと乾いた音を立てて、それだけが二人の間を埋めている。

 角を曲がると潮の匂いがした。もう一つ角を曲がると道の先に海が広がった。

 旅行で行った海とは違う。観光地でもなく遊歩道があるわけでもない。コンクリートの堤防と砂浜がそのまま道に繋がっているだけの何もない海岸で、テトラポッドもなければ柵もない。

 ただ海があって波が打ち寄せていて空がある、飾り気のない剥き出しの海。

 この海を知っている、と思った。場所は違う、町が違う、でも匂いが同じだ、波が砂を削るリズムが同じ。あの夜——カラオケの帰りに一人で歩いた海岸と、空気の温度が重なる。あの夜は暗かった、今は昼で陽射しが海面を白く焼いている。季節も時間も違う。

 でも海の匂いを吸い込んだ瞬間、あの夜の自分が体の奥から浮かび上がってきた。消えてもいい、とぼんやり思った夜の自分が。

 紬が堤防の上に座った。点滴のスタンドを横に置いて足をぶらぶらさせていて、私もその隣に座った。コンクリートが陽に焼かれていて太ももの裏が熱い、制服のスカート越しでもはっきりわかるくらいの熱さだった。

 波の音、遠くでカモメが鳴いている。しばらくどちらも何も言わなかった。

 紬が海を見たまま小さく息を吐いて、風がカーディガンの裾を揺らしてパジャマの襟元から鎖骨が覗いている。首の筋が前より浮いて見えて、やっぱり痩せたのだ。気のせいだと思いたかったけれど。

「私ね、たぶんもうすぐ消えるの」

 波が引いた。

 消える。死ぬではなく消える。その言葉の選び方が引っかかって私は紬の横顔を見た。

 紬は海を見ている、風が前髪を揺らしている、点滴のチューブが腕から伸びてスタンドのパックに繋がっている。ここにいる、確かにここにいるのだ、コンクリートの防波堤の上に座ってサンダルの先を海側に投げ出して膝を抱えて。

 なのに「消える」と言っている。

「……消えるって、なに」

 自分の声がずいぶん間抜けに聞こえたけれど他にどう聞けばいいのかわからない。

「そのまんまの意味。この世界からいなくなる。死ぬとかじゃなくて——もっとこう、最初からいなかったみたいになるの」

 紬の声は平坦だった。感情を乗せないようにしている声で、いつもの紬の話し方だけど今はそのいつも通りがかえって不気味だった。こんなことを言っているのにまるで天気の話みたいな温度で喋っている。

「いなくなるって、どういう」

「わかんない、私もちゃんとはわかってない。でもねずっと感じてたの、体がすこしずつ薄くなっていくみたいな感覚。朝起きたとき自分の輪郭がぼやけてるような、鏡を見たら映ってるんだけど映ってる自分が一枚向こう側にいるような」

 紬が膝の上で指を組み直した。力が入っていて関節が白くなっていて、そこだけが感情の存在を証明しているみたいだった。

「入院してからもっとはっきりしてきた。看護師さんが私の名前を呼ぶときときどきほんの一瞬だけ迷うの、名前が出てこないみたいな顔をする。すぐ思い出すんだけどあの一瞬が増えてる。お母さんも——お母さんは気づいてないと思うけど、この前お見舞いに来たとき部屋の入り口で一回立ち止まったの。自分が何をしに来たのか忘れたみたいな顔して」

 背筋が冷えた。太陽がコンクリートを焼いているのに体の芯が冷えていく。なんだろうこの感覚は、怖いという一言では足りない、もっとこう世界の足元が揺らいでいるような自分が立っている地面がぐにゃりとたわんだような感覚。

「それって」

「うん。たぶん始まってるんだと思う。私がここにいた痕跡がすこしずつ薄くなってる」

 紬の声にはまだ笑いの残響があって口元の弧が完全には消えていない。

 この子はいつもそうだ、一番怖いことを言うとき一番軽い顔をする。それが紬の自衛なのだともう知っている、知っているからこそ腹が立つ。怖いなら怖いって顔をすればいいのにと思ってしまう。

 まあそれを言ったら私もずっと同じことをしてきたのだけれど。

「……信じられない」

「だよね。私も信じたくないよ」

「じゃあなんでそんな平気な顔してんの」

「平気じゃないよ。平気な顔してるだけ」

 波が来て白い飛沫が風に乗って頬にかかった。冷たい、海水の塩の匂い。紬が目を細めて飛沫を避けるように顔を傾けた。

「たぶんね」

 声のトーンが変わった。さっきまでの重さが一段だけ軽くなる。

「海月って、私なんだと思う」

「……え?」

「なんていうかちょっとした勘? みたいなもんだけど」

 紬が笑った。笑ったのだ、こちらを向いて膝を抱えたまま首を傾けて、目尻に皺が寄って口元がいつもの弧を描いて。

 たった今自分がこの世界から消えると言った人間がその直後に笑っていて、正直どう反応していいかわからなかった。紬は重いことを軽く言う天才で、その才能がこの瞬間ほど残酷に機能したことはないと思った。

「海月が人の心を映すなら、海月の色が変わるなら、海月がこの世界にいる理由があるなら——その理由ってたぶん私なんだよ。私がいるから海月がいる。私が見えないのは自分自身は見えないから、鏡なしで自分の顔が見えないのと同じ」

 紬が指を一本立てた。人差し指、何かを数えるときの癖ではなくてひとつだけ確かなことを示すときの仕草。

「だから私が消えたら、海月も消える。私の存在ごと。最初から何もなかったみたいに。きれいに」

 きれいにと紬は言った。その言い方が引っかかって、きれいに消えることを紬は望んでいるのだろうかと考えた。

 痕跡を残さず記憶を残さず、誰の心にも傷を残さず、ただ静かに。そうすれば誰も悲しまない、悲しむための記憶すら残らないから。

 紬が考えそうなことだ、自分がいなくなったあとの他人の痛みまで先回りして消そうとする。そういう優しさの形をこの子は持っていて、優しさと呼んでいいのかわからないけれど他に適切な言葉が見つからない。

 でも。

「——私は忘れない」

 声が勝手に出ていた。考えて出した言葉ではなくてもっと奥のほう、胃の底あたりから直接出てきたみたいな声で、喉が震えている。目の奥が熱い、波の音が遠くなって自分の心臓の音だけが近い。

「記憶が消えるとか記録が消えるとかそんなの知らない。忘れない、紬のこと。絶対に」

 紬が私を見た。笑っていた顔がすこしずつ変わっていって、弧を描いていた口元が水平に戻って目の奥の光が揺れている。さっきまで乾いていた目が初めて潤んでいた。

「……それ、覚えてられないかもしれないのに」

「覚えてる」

「根拠は」

「ない。でも覚えてる」

 自分でも無茶なことを言っている自覚はあった。根拠なんてあるわけがなくて、紬の言うことが本当なら紬が消えた時点で私の記憶からも紬は消えるのかもしれない。理屈で考えたら私の「覚えてる」はただの空手形だ。

 でも理屈じゃないのだ、理屈で割り切れないことくらいこの数ヶ月でさんざん思い知った。

 紬が鼻で笑って、すこしだけ顔を背けた。背けた横顔の耳の先が赤い。

「……幸ちゃんって、ほんとにそういうとこあるよね」

「どういうとこ」

「根拠ないくせに言い切るとこ」

 波が来て、引いた。紬が袖で目元を一度だけ拭って、拭ったことを見なかったことにした。紬もそれを知っていて何も言わない。

 このくらいの距離が今の私たちにはちょうどいいのだと思う、近すぎず遠すぎずでも確実に隣にいる距離。

 紬が空を見上げた。空は青い。入道雲が遠くに一つだけ浮かんでいて、その空に灰色の海月が漂っているのは私には見えるけれど紬には見えていない。

 ずっとそうだった。旅行のとき、花火のとき、夏祭りの夜。同じ空を見上げて同じものを見ていると思い込んでいた。

「中学のとき、いじめられてた」

 紬の声が少しだけ低くなった。

「毎日がどうでもよかった。世界がどうなろうが関係ないって思ってた。海月が降ってきたって色が変わったって私には関係ない。だって世界は最初から真っ暗だったから」

 波が砂を洗う、引いて寄せて引く。そのリズムだけが紬の声の隙間を埋めている。

「高校に入って、状況が変わらなかったら死のうと思ってた」

 心臓がぎゅっと掴まれたみたいに縮んだ。紬がそんなことを考えていたなんて知らなかった、知らなかったくせに「友達」を名乗っていた自分が恥ずかしかった。

「でも、そのときに——幸がいた」

「……」

「幸が教室で笑ってるのを見てすぐわかった。あれは本当の笑顔じゃないって、私と同じだって、仮面被ってるって」

「だから私に近づいたの」

「うん」

 波が一つ大きく打ち寄せて、飛沫が霧になって顔にかかった。冷たい。

「最初はそうだった。幸を変えたかった、仮面を外させたかった、友達を作れるようにしたかった。それができたからもう私は——」

 紬の声が途切れた。途切れた先にある言葉を私は聞きたくなかった。

 でも紬は続けた。

「だから大丈夫だよ」

 紬が笑った。いつもの笑顔、口角を上げて目元を緩めて「大丈夫」を顔に貼り付ける。病室で何度も見たであろう笑顔で、LINEの「大丈夫だよ」を顔にしたみたいな隙のない表面。

 見飽きたのに、見るたびに苦しくなる笑顔。

「怖くないよ。覚悟はできてるから。幸はちゃんと天音がいるしもう大丈夫でしょ。だから——」

「嘘つかないでよ」

 声が出ていた。自分でも驚くくらい低い声で、波の音を貫いて紬に届いた。

 紬の笑顔が止まる。

「嘘つかないで。大丈夫とか怖くないとか覚悟できてるとか、全部嘘でしょ」

「嘘じゃ——」

「嘘だよ。私にはわかるよ紬。だって私もずっと同じことしてきたから。大丈夫じゃないのに大丈夫って笑って、辛くないのに辛いって言えなくて、全部自分で抱えて——そうやって仮面貼り付けてきたの、私が一番よく知ってるでしょ」

 我ながらよく喋れたなと思う。普段の私だったらこんなに言葉が出てこなくて、天音と仲直りしたときだってあんなに苦労したのに。

 でも今は違った、考えるより先に口が動いている。紬の嘘をこのまま見過ごすことだけはできなかった。

 紬の目が揺れた。笑顔の下で何かがひび割れる音がした——ように見えた。実際に音がしたわけではないけれど、そう表現するしかないくらい紬の表情が変わった。

「だから——利用してたとか最初は目的があったとかそんなことはもういいよ。どうでもいい。それでも会えてよかったよ、紬に会えて私は変わったんだから。それは本当のことだから」

 涙が落ちた。私の涙が、堤防のコンクリートにぽたりと一滴落ちて陽の熱ですぐに乾いていく。消えるのが早くて自分が泣いた証拠が残らない、でも次から次へと落ちてくるからコンクリートの上に新しい染みが増え続けている。

「泣かないでよ」

 紬が笑おうとした、口角を上げようとした。

 上がらなかった。

 口元が震えていて、唇が笑おうとする筋肉と泣こうとする筋肉の間で引き裂かれてどちらにもなれずに痙攣している。こんな紬を見たのは初めてだった。

 紬の目にみるみる水膜が張って睫毛の先に雫が溜まっていく。

「泣かないで、幸。そういうの困る。私が——私は、大丈夫だから」

 声が割れた。「大丈夫」の「じょうぶ」の部分が裏返って掠れて消えかけていて、大丈夫という言葉がこんなに壊れやすいものだったのかとこのとき初めて知った。

「大丈夫。怖くない。覚悟できてるから。だってずっと死にたかったんだから、念願叶ったみたいなもんでしょ。だから——」

「紬」

「だから泣かないで——」

「紬」

「お願い、泣かないで——泣かれると——」

 紬の声が止まった。

 風が吹いた。海の匂いを含んだ風が二人の間を吹き抜けて紬の髪を乱して、カーディガンの裾がはためいて点滴のチューブが微かに揺れる。

 紬の目から涙がこぼれた。

 一滴、頬を伝って顎の先から落ちてパジャマの膝に小さな染みを作る。

 それが合図みたいに堰が切れた。

「——ごめん」

 紬の声が変わった。平坦さが消えている、乾いた温度が消えている、震えていて湿っていて今まで聞いたどの紬の声とも違う音が喉から漏れてきている。

 いつも整然としていて余計なものを削ぎ落として必要な言葉だけを選んで置いていく紬が、今は全部崩れている。

「ごめん。最初は——利用するみたいでごめん。幸のこと変えたいっていう目的で近づいて。でも途中から——途中から本当に好きになっちゃって、好きになったら余計に辛くなって。だって好きになればなるほどいなくなるのが——」

 言葉がばらばらになっている。文章として成り立っていなくて接続詞でかろうじて繋がっているだけで、気持ちが先走って言葉が追いついていないのがわかった。

 紬がこんなふうに喋るのを初めて聞いている。

「嘘。大丈夫なんて嘘。覚悟なんてできてない」

 紬の手が膝の上で握りしめられて爪が白くなっている。

「怖い。本当はずっと怖かった。消えちゃうって感じたとき楽になったって言ったけど嘘。楽になんてなってない。毎日怖い。夜目を閉じるのが怖い、朝目が覚めるたびに一日減ったって数えてしまう。薬飲むたびにこれがいつまで効くんだろうって考えて、お母さんの顔見るたびにこの人を一人にするんだって思って、でも誰にも言えなくて——」

 涙が止まらなくなっている。頬を顎を首筋を伝ってパジャマの襟元が濡れていく。紬は手で拭おうともしなくて、拭う余裕がないのか拭うことを忘れているのか、たぶんどっちもだと思う。

「幸に会って余計に怖くなった。だって——もう失うものがないって思ってたのに、失いたくないものができちゃったから。夏祭りで手を繋いだときこの手を離したくないって思った、旅行で笑ったときこの時間が終わらなければいいって思った、パンケーキ食べたとき来年も三人で来たいって思った。——来年なんてないのに」

「ある」

「ないよ」

「あるよ」

「幸、現実を——」

「いいよ、そんなの。来年があるかどうかなんて今はいい。今の紬が何を感じてるか、それだけでいい」

 紬が口を開いて閉じてもう一度開いて、唇が震えている。出てきた声はほとんど息だった。

「死にたくない」

 波の音がその言葉を包み込んだ。

「死にたくない。まだ幸と一緒にいたい、天音にもう一回会いたい、三人でプール行きたい、来年の夏祭りに行きたい、全部やりたい。でも——でもねやりたいって思えば思うほど怖いの、叶わないってわかってるから。叶わないのにやりたいって思うのが一番つらいの。だったら最初からどうでもいいほうが楽だったのに——」

「楽じゃなかったでしょ、どうでもいいのは」

 紬が息を呑んだ。

「海月が見えなくなるくらい世界がどうでもよくなることが楽なわけないでしょ。それは楽じゃなくて諦めだよ。紬は楽だったんじゃない、ずっと苦しかったんだよ。それを楽だって思い込まないと立ってられなかっただけでしょ」

 自分でもびっくりするくらい次から次へと言葉が出てくる。普段の私なら絶対に言えないような言葉が今は止まらない。

 紬の涙を見ているうちに自分の中の何かが壊れたのだと思う、壊れたというか外れたというか。仮面が外れたのかもしれない。ここにいるのは誰にでもいい顔をする朝凪幸ではなくて、ただ紬のそばにいたいだけの剥き出しの私だった。

「私もそうだった。胸に穴が開いてて毎日空っぽでそれを平気なふりしてた。笑顔貼り付けて楽しいふりしてでも全然楽じゃなかった。死にたかった、理由もなく。あの海岸で一人で立ってたとき——消えてもいいって思ってた」

 紬が私を見た。涙で滲んだ目。

「でも変わったんだよ、紬のせいで。理由のない死にたいが、理屈のない生きたいに変わっちゃったんだよ。なんで生きたいのか理由は今でもない、ただ紬がいるから、天音がいるから、それだけ。それだけで生きたい。理屈になってなくてもいいんだよ。死にたいに理由がなかったんだから、生きたいにも理由はいらない」

 言い切ってから自分の言葉を反芻した。うまく言えたかどうかはわからない、たぶん論理としては穴だらけだろう。

 でも論理で紬を説得しようとしているわけではないのだ、ただ私の中にある本当のことを全部出しただけで、それが紬に届くかどうかはもう私の力ではどうにもならない。

 波が来た。大きいのが一つ、砂浜を洗って引いていく。海の匂いが強くなる。

「だから紬も——理屈なんかいらないから。期限とか可能性とか全部あとでいい。死にたくないって思ったならそれが全部でしょ、幸と一緒にいたいって思ったならそれ以上の理由いらないでしょ」

 紬が何も言えないでいる。泣いている、声を出さずに泣いている。肩が震えて握りしめた拳の上に涙が落ちている。

 壁を全部取り払って嘘を全部剥がして何も纏っていない紬が、堤防の上で泣いている。こんな紬を見るのは初めてだし、たぶん最後かもしれない。

 でもこの紬が本当の紬なのだと思った。

 手を伸ばした。

 紬の拳を包むように握って、ぎゅっと力を入れている紬の指を一本ずつ解いていく。爪の跡がくっきりついた掌が開いてそこに私の手を滑り込ませた。五本の指が互い違いに収まる。

 夏祭りの夜と同じ握り方、提灯の下で好きだよと言ってくれた夜と同じ温度。あのときは紬から手を繋いでくれた、今は私から。

「紬」

「……なに」

「死にたくないって言ったね」

「言った」

「じゃあ生きて。理屈はいらないから。ただ生きて」

 紬の手が握り返してきた。弱くて震えていて、でも確かに私の手を掴んでいる。離すまいとする力が細い指から伝わってくる。

「生きたいよ」

 紬がそう言ったとき声はもう平坦ではなかった。乾いてもいなかった。濡れていて壊れていて、でもその壊れ方の中に嘘がひとつもない。

 紬の声を何ヶ月も聞いてきて、初めて聞く嘘のない声。

「生きたい。もっと幸と一緒にいたい、天音と三人でプール行きたい、来年の夏祭りに行きたい、パンケーキもう一回食べたい、全部やりたい。でも——」

「でもはいらないって言ったでしょ」

「……うん」

「でもはいらない。やりたいだけでいい」

 紬が笑った。泣きながら笑っている、涙が頬を伝っているのに口角が上がっている。ぐちゃぐちゃな顔。

 でもそのぐちゃぐちゃな顔がいちばん紬らしかった。仮面も壁もない、むき出しの紬。これが紬の本当の顔だ、ずっと知りたかった紬の本当。

 色じゃなくて表情じゃなくて、ただ泣いて笑って生きたいと言っているこの顔。見られてよかったと心の底から思った。

 海が光っている。陽が砕けて水面に無数の光の粒を撒いていて、きらきらして目が痛いくらいまぶしくてでも目を逸らす気にはならなかった。波が来て引いて来て引く、その繰り返しの中で二人はずっと手を繋いだまま堤防の上に座っていた。

 どのくらいそうしていたかわからない。泣き疲れた頃に紬が鼻を啜ってぽつりと言った。

「幸」

「ん」

「ティッシュある?」

「……あるけど」

「貸して。顔ぐちゃぐちゃだから」

「自分で言う?」

「鏡なくてもわかるよ、これは」

 リュックからポケットティッシュを出して渡すと紬が片手で——繋いだ手を離さないまま片手で——器用にティッシュを引き出して目元を押さえた。その器用さに少し感心してしまう自分がいてこんな場面で何に感心しているんだと呆れた。

「幸も相当ひどいよ、顔」

「知ってる」

「知ってるならなんとかしなよ」

「紬にティッシュ全部取られたから無理」

「……一枚残してあるけど」

「一枚で足りるわけないでしょ」

 紬が笑った、私も笑った。二人で泣いた後の乾ききっていない笑い声が海の上を滑ってどこかに消えていく。

 さっきまであんなに重たい話をしていたのにティッシュの取り合いで笑っている。おかしな話だ、でもこのおかしさが私たちにはちょうどいいのかもしれない。重いまま沈んでいくより笑って浮かんでいるほうがずっといい。

 手は繋いだままだった。点滴のスタンドが堤防の横に立っていて、チューブが風に揺れている。空は青い。

 その空に海月が浮かんでいる——私の目には。灰色の縁がほんの少しだけ滲んで、名前のつかない色が混じり始めている。変わりかけていると思った。何に変わるのかはわからない。

 でもずっと灰色だったものが灰色じゃなくなりかけていることだけは確かだった。

 紬には見えていない。紬に見えているのは空と雲と、たぶん星が出る時間にはまだ早い昼の光だけだろう。

 見えているものは違う。ずっと違っていた、これからも違うのかもしれない。

 でも繋いだ手は同じ温度で、波の音は同じリズムで、生きたいと思った気持ちは同じ場所から出ている。

 助かるために願うんじゃない——それだけはわかっていた。生きたいと思ったから色が変わるのだとしても、それは治るための魔法ではないのだ。最後まで本当の気持ちで生きるために願う、それだけのことなのだと思った。海月の色が何色になろうと、紬の病気が治るかどうかとは関係ない。

 でも紬が「生きたい」と言ったこと、その声に嘘がなかったこと、それだけが今この瞬間の全部で、それだけでよかった。