夜空を泳ぐ海月は、孤独な私に嘘をつく

 学校を休んだ日の午後、布団の中でスマホを開くと、紬のトーク画面には『旅行行かない?』の吹き出しがぽつんと残っていて、既読はついているのに返信はまだ来ていなかった。

 旅行、なんて、われながら唐突すぎたと思う。夏休みでもなんでもない普通の日にいきなり旅行に行こうと誘う人間なんて、客観的に見れば意味がわからないし、私自身どうしてあんなメッセージを送ってしまったのかうまく説明できない。

 ただ、あの灰色の海月を紬と一緒に見たら何かが変わるかもしれないという根拠のない直感みたいなものがあって、その勢いだけで指が動いてしまったのだった。

 十分経っても返信は来なかった。スマホを裏返しにして布団に置いて、数秒でまた表に返して、画面を点けて消してもう一回点ける。自分でも分かっている、この行動は完全に不審者のそれだ。分かっていてもやめられないのだから始末が悪い。

「そういえば、紬は学校だし。返信遅くても仕方ないよね……」

 理由もなく呟いて、ベッドに顔を埋める。そして三十分が経った頃、ようやく画面が光った。

『いいよ。どこ行くの?』

 思わず二度見した。軽い、あまりにも軽すぎる。旅行行こう、とだけ送ったのに『いいよ』と返してくる人間が紬以外にこの世にいるだろうか。

 行き先も日程も何ひとつ伝えていないのに真っ先に承諾するって、いったいどういう思考回路をしているんだろう。

 そんなことを誘った当事者が思うのは、もっとおかしいことだと気づいていた。

 安堵と困惑がないまぜになったまま、指が勝手に動き始めていた。

『一泊で遠出したい。海が見えるとこ』
『いつ?』
『今週末とか』
『わかった』

 たった四往復、所要時間にして合計三十秒くらい。旅行の計画というにはあまりにも雑で、あまりにもあっさりしている。でも紬はそういう人間だ——と、さっきからそればかり思っている自分に気づいて、少しだけおかしくなった。

 その軽さが嬉しくて、同時にどこかが痛い。嬉しいのに痛いという状態が矛盾していることくらい分かっているけれど、矛盾しているからといって感じなくなるわけでもない。

 スマホを握ったまま天井を見上げる。灰色。いつもと同じ、味気ない灰色の天井。でもさっきまでとはほんの少しだけ明るく見えるのは、たぶん気のせいではなかった。

 *

 週末の朝、九時の電車に乗るために七時に起きた。七時に起きて、クローゼットの前で二十分も悩んで、結局白いTシャツにデニムのワイドパンツという無難な組み合わせに落ち着いた。鏡の前で襟元を直して、やっぱり違う気がして別のTシャツに替えて、でも最初のほうがマシだった気がしてまた戻す。我ながら何をやっているんだろう、と呆れた。旅行だ、一泊の、紬と二人の。それだけのことなのに、服装ごときでこんなに右往左往している自分が滑稽だった。

 ——考えるな、考えると手が止まる。

 リュックに着替えと財布とスマホの充電器を詰め込んで階段を降りると、リビングに母がいて、テレビを見ながらトーストを齧っていた。

「あら、早いわね。どこ行くの?」
「友達と旅行」
「泊まり?」
「うん」
「ふーん、いいけど。誰と?」
「……紬」

 母がトーストから顔を上げて、ちょっとだけ目を丸くした。でもすぐに「そう、気をつけてね」とだけ言って、またテレビに戻る。深追いしないのは、うちの母のいいところというか、そういう性質なのだ。助かるような、少し寂しいような、どちらとも言えない距離感。

 玄関で靴を履いていると、階段の上から声が降ってきた。

「旅行?」

 秋帆だった。パジャマ姿のまま手すりに寄りかかって、寝癖のついた髪でこちらを見下ろしている。

「うん」
「ふーん。夜宮さんと?」

 秋帆が紬の名前を知っていることに一瞬だけ驚いたけれど、図書委員の当番表を見ていたのだろうと思い当たった。

「そう」
「へえ」

 秋帆はそれだけ言って、あくびをしながら自分の部屋に戻っていった。ドアが閉まる直前に小さく「楽しんできな」と聞こえた気がしたけれど、聞き間違いかもしれない。でも聞き間違いということにはしたくなかった。

 *

 駅の改札前に着くと、紬がもういた。

 白いブラウスに薄いグレーのロングスカート、髪はいつも通り下ろしたまま肩にかかっていて、手にはペットボトルの炭酸水を持っている。紬の私服を見るのは夏祭りの浴衣を除けば二回目で、こういう格好をする人なんだ、という発見がいちいち新鮮に胸を突いた。

「おはよ」
「おはよ。早いね」
「幸が遅いんだよ」
「え、九時って言ったじゃん。まだ八時五十二分なんだけど」
「私は八時四十分に着いた」
「早すぎない?」
「電車が一本早く来たから」

 紬が炭酸水のキャップを開けて一口飲む。表情はいつも通りの平坦さだけれど、目がほんの少しだけ忙しなく動いているのに気がついた。改札の向こう、ホームの方向、私の顔。落ち着かないのだろう。紬が落ち着かない姿を見ること自体が珍しくて、なんだか少しだけ安心した。緊張しているのは、私だけじゃないのだ。

「切符買おう」
「うん」

 券売機の前に並んで、二人で路線図を見上げた。目的地は海沿いの小さな町で、電車を二回乗り換えて二時間半くらいかかる。宿は紬が見つけてくれたもので、LINEで送られてきたリンクを開いたら古い旅館の写真が出てきて、「ここでいい?」とだけ書いてあった。いいよ、と返した。紬が選んだ場所なら何でもいい、と思ったことは言わなかったけれど。

 切符を二枚買って改札をくぐり、ホームに出ると朝の風が髪を揺らした。線路の向こうには灰色の海月が浮かんでいて、それはいつもと同じ灰色だった。でも今日は、あの海月の下にある海を紬と見に行くのだ。その事実だけで、足の裏がほんの少しだけ軽くなっている気がした。

 *

 電車に乗り込んで、並んで座る。朝の電車は空いていて、向かいの席には誰もいなかった。窓の外を流れる景色が住宅地からだんだんと緑の多い風景に変わっていくのをぼんやり眺めていると、紬は窓側の席で流れる景色に目を向けたまま、炭酸水のペットボトルを両手で持って、時々キャップを開けては閉めている。飲んでいるのか確認しているだけなのか、正直よく分からなかった。

「紬さ」
「なに」
「旅行とか、行ったことある?」

 紬が窓から視線を戻した。

「家族で何回か。小学校のとき」
「最近は?」
「ない」

 短い。でもその「ない」が重たく聞こえないのは、紬がただ事実を述べているだけだからだ。寂しいとも悲しいとも言っていない、ただ「ない」というそれだけのこと。

「じゃあ久しぶりだね」
「うん。久しぶり」

 紬がペットボトルのキャップをまた開けて一口飲んだ。

「幸は?」
「私は去年、天音と日帰りで鎌倉行った」
「鎌倉。大仏?」
「大仏は見てない、でもいろんなところ行ったよ。日帰りだからバタバタだったけど」
「楽しそう」
「楽しかったよ。でも今日のほうが楽しくなる……気がする」

 言ってから、何を口走っているんだ、と自分に呆れた。まだ電車に乗ったばかりで何ひとつ始まっていないのに、「今日のほうが楽しい」なんて意味がわからない。

 紬が私を見ている。目がほんの少しだけ丸くなっていた。

「……まだ何もしてないけど」
「うん。それはそう」
「幸、たまにおかしいこと言うよね」
「おかしくないし。気分の問題」
「気分」
「そう、気分。朝から気分がいいの」

 紬が小さく笑った。口角がほんの少しだけ上がるだけの、紬にしては上出来の笑い方。

「私も気分はいいよ」

 その一言で、体の中の砂がまたざらりと動いた。紬が「気分がいい」と言う、そんな些細な言葉がいちごミルクよりよほど甘いのだから、我ながらどうかしている。

 電車が最初の乗り換え駅に着いて、ホームに降りた。次の電車まで十五分あったのでベンチに座って待っていると、紬がリュックの中からビニール袋を取り出した。

「なにそれ」
「おにぎり。朝作ってきた」
「え、紬料理するの?」
「おにぎりを料理と呼ぶかどうかは議論の余地がある」
「いや呼ぶでしょ普通に」

 紬がビニール袋から三角形のおにぎりを二つ出して、一つを私に渡してくる。海苔がちょっとずれていて形もいびつで、コンビニのおにぎりとは明らかに違う手作り感がある。

「具は?」
「鮭。二つとも」
「選択肢ないの?」
「鮭しか家になかった」

 思わず笑いながらおにぎりを受け取って一口かじると、塩加減がちょうどよくて、ご飯がまだほんのり温かかった。

「おいしい」
「本当に?」
「本当に。紬、料理の才能あるかも」
「おにぎりで才能を測るのはやめてほしい」
「いやでもおいしいよ。塩加減が絶妙」
「適当に振っただけ」
「適当で絶妙になるのが才能なんだよ」

 紬がまた小さく笑って、自分のおにぎりを齧った。ホームのベンチで二人して鮭のおにぎりを食べていると、隣の線路に貨物列車が通過して、風圧で紬の髪がぶわっと揺れた。紬が髪を押さえながら「うわ」と小さく声を上げるのがなんだかおかしくて、また笑ってしまう。

 旅行は、まだ始まったばかりだ。

 *

 二回目の乗り換えを済ませると、車窓の景色が一変した。トンネルを抜けた瞬間、窓の向こうに海が広がっていた。青というには暗くて灰色というには明るい、なんとも曖昧な色をした水面が地平線の果てまで続いている。陽の光が雲の切れ間から落ちて、海面にまだらな光の帯を作っていた。

「海だ」

 紬が窓に顔を寄せてそう言った声の中に、りんご飴を齧ったときと同じ種類の響きがあった。知ってるけど体験していなかったものに初めて触れたときの、あの音。

「紬、海は?」
「何回かは来たことある。でも久しぶり」
「どのくらい?」
「三年くらい」

 三年。中学に入ってから一度も海を見ていないということだ。それが普通の人だっているだろうけれど、今の紬の声を聞いていると、普通とは違う理由がそこにあるような気がしてならなかった。でも聞かない。聞けなかった。今日はそういう日じゃない。

 電車が海沿いの小さな駅に止まって、二人で降りた。改札を出ると潮の匂いが風に乗って鼻を突く。駅前にはコンビニと小さな土産物屋があるだけで、観光地というよりは地元の人しか来ないような静かな町だった。

「まず荷物置きに行こう。宿はここから歩いて十分くらい」
「紬調べてきたんだ」
「昨日の夜、地図見た」
「用意がいい」
「幸が何も決めないから」
「……それはごめん」
「別にいい。私が決めるの好きだから」

 紬が歩き出す。私はその半歩後ろをついていきながら、通学路ではいつも紬のほうが半歩後ろを歩いていたことを思い出して、今は逆だな、となんとなく思った。

 *

 宿は海沿いの古い旅館で、二階建ての木造建築がどっしりと構えていた。入口の引き戸を開けると畳の匂いと木の匂いが混ざった空気に迎えられて、フロントのおばあさんが「いらっしゃい」とのんびり声をかけてきたのに対して、紬が予約の名前を告げた。

 部屋は二階の角部屋で、窓から海が見えた。畳の上に布団が二組敷いてあってテーブルの上にはお茶菓子が置いてある。紬がリュックを下ろしてすぐに窓を開けると、潮風が入ってきてカーテンが膨らんだ。

「いい部屋」
「だねー」
「あ、見て海見える」

 紬が窓枠に手をかけてじっと海を見ている。風が髪を揺らしてブラウスの裾がはためくのを横目で眺めながら、私はまた同じことを思っていた。紬が何を見ているのか、私にはわからない。同じ海を見ているはずなのに、同じものが見えているのかどうか。

「紬」
「なに」
「散歩行こう」
「うん。行こう」

 荷物を置いて旅館を出ると、昼前の陽射しが強くてアスファルトが熱を帯びていた。海沿いの道を歩くと左手にずっと海が広がっていて、波の音が途切れなく聞こえてくる。

「暑い」
「暑いね」
「ちょっとコンビニ寄っていい?」
「いいよ」

 駅前のコンビニに入って飲み物を買う。私はいちごミルク、紬は炭酸水。レジに並んでいるとき、紬が私の手元を見て口を開いた。

「幸って本当にそれしか飲まないよね」
「飲むよ、他のも。水とか、お茶とか」
「でもお金出して買うのはいつもそれ」
「好きなんだからしょうがないじゃん」
「どのくらい好きなの?」
「え? えっと……毎日飲んでも飽きないくらい?」
「それは好きっていうか、依存では」
「依存って。ひどくない?」
「事実を言ってるだけ」

 紬の口元が微かに緩んでいた。からかっている。紬が人をからかうのは珍しいことで、それだけで今日の紬がいつもと少し違うということが分かる。旅行という非日常が、紬の中の何かのネジを緩めているのかもしれない。

 コンビニを出て海沿いの道をさらに歩き続けると、遊歩道があって柵の向こうにテトラポッドが並んでいた。潮の匂いが強くなって、波しぶきが風に乗って顔にかかる。

「あ、猫」

 紬が立ち止まった。道端の塀の上に三毛猫が寝転んでいて、日向ぼっこをしているらしく目を細めてこちらを見ている。

「触っていい?」
「私に許可取らないでよ、猫に聞いて」

 紬が猫に手を伸ばすと、猫は逃げなかった。紬の指が猫の頭に触れると猫がゴロゴロと喉を鳴らし始めて、それに合わせるように紬の表情がほどけていく。図書室でも教室でも見たことのない、力の抜けた顔。眉間の皺もなければ口角が下がってもいない。ただ猫の頭を撫でながら何も考えていないような、そういう顔をしていた。

「幸も触る?」
「いい。見てる」
「なんで?」
「紬が猫撫でてるの見てるほうが楽しいから」

 また口が滑った。紬が一瞬こちらを見てすぐに猫に視線を戻す。耳の後ろが赤くなっているのは陽射しのせいだろうか。……そういうことにしておく。

 猫が飽きたのかひょいと塀から飛び降りて路地の奥に消えていくと、紬が名残惜しそうに手をぶらぶらさせていた。

「ねぇ」

 と、紬が唐突に言った。

「きれいな場所、行きたい」
「きれいな場所?」
「うん。せっかくここまで来たんだから、景色がいいところ」

 脈絡のない要求だった。でも紬が何かを「したい」と自分から言うのは珍しいことで、旅館の予約も何もかも「幸が決めないから」という消極的な理由で動いていた紬が自分の欲求をそのまま口にしたのは、考えてみればこれが初めてかもしれなかった。

「景色かぁ。えっと——」

 スマホで地図を開いて海沿いの観光案内を検索し、画面をスクロールしていると一件引っかかった。高台の神社。海が一望できる展望台があるらしい。写真を見ると石段の上から海と空が一面に広がっていて、口コミには「穴場」「観光客少ない」「絶景」と並んでいる。

「ここ、どう? 神社なんだけど、高台にあって海が見えるっぽい」

 紬にスマホの画面を見せると、紬が写真を覗き込んで「ここ行きたい」と即答した。

「遠い?」
「バスで十五分、そこから歩いて十分くらい」
「行こう」

 紬の声にためらいがなかった。「行きたい」と言って「行こう」と決める。昨日までの紬とはどこかが違う。旅という非日常が紬の中の何かのネジを緩めているのか、それとももともと紬はこういう人間で、日常がそれを押さえ込んでいただけなのか。私にはまだ判断がつかなかった。

 バス停まで歩いてローカルバスに乗り込むと、乗客は私たちと地元のおばあさんだけだった。バスは海沿いの県道をがたごと揺れながら走って、窓の外に海が見えて反対側には山が迫っていて、その境目の狭い道を縫うように進んでいく。紬が窓にもたれて外を見ていて、陽の光がまだらに差し込んで紬の膝の上に光と影の模様を作っていた。

「紬」
「ん?」
「きれいな場所行きたいって、急にどうしたの?」

 紬がしばらく黙って、それから窓の外に目を向けたまま答えた。

「わかんない。ただ、今日見られるものは全部見ておきたいなって」

 今日見られるものは全部。その言い方を、私はただの旅行のテンションだと受け取った。明日には帰るんだから今日できることは今日やろう、それだけの意味だろう、と。そう思うことにした。

 バスが高台の入り口で止まって二人で降りると、そこから神社までは石段が続いていて、下から見上げると木々のトンネルの奥に空が覗いている。結構な距離だった。

「……多くない?」
「多いね」
「何段あるんだろう」
「数える?」
「数えない。数えたら心折れそう」

 紬が先に登り始めて、私もその後ろに続く。石段は苔むしていてところどころ欠けていた。木々が両側から覆いかぶさって陽の光が葉の隙間からこぼれ落ちるなか、蝉の声と土の匂いがあたりに満ちている。石段を一段登るたびに潮の匂いが薄くなって、代わりに山の湿った空気が鼻の奥に入り込んでくる。

 五十段くらいまでは二人とも黙々と登っていた。紬の足取りは最初のうち軽くて、サンダルの底が石を叩く音が一定のリズムを刻んでいる。ところが八十段を過ぎたあたりで、そのリズムがほんのすこしだけ崩れたのに気がついた。

 気のせいかと思った。でも次の一段を上がるとき、紬の右手が石段の脇の手すり——というには頼りない木の柵——に触れたのが見えた。触れただけですぐに離したけれど、紬はそういうことをしない子だ。手すりに頼るくらいなら立ち止まるほうを選ぶ、という種類の意地がある。それなのに無意識に手が伸びていた。

「紬、休む?」
「なんで。平気だよ」

 振り返らないまま答える声はいつもの紬の温度だったけれど、語尾がすこし短い。息を節約しているような喋り方。百段を超えたあたりから紬の歩幅が狭くなっていることに本人は気づいているのかいないのか、私にはどちらとも判断がつかなかった。

「ちょ、ちょっと待って。私が休みたい」

 嘘だった。息は上がっているけれど、まだ登れる。でもここで自分を理由にしないと紬は止まらないと思ったのだ。

 紬が足を止めて振り返った。一段上にいるからいつもより目線が高い。逆光で表情が見えにくいけれど、口元は笑っているようだった。笑っているのに、肩が微かに上下しているのがシルエットで分かる。呼吸が浅い。石段を八十段登っただけで呼吸が浅くなる十七歳は、あまりいないんじゃないだろうか。

「体力ないね、幸ちゃん」
「紬こそ息切れてないの?」
「本読んでるだけの人間のほうが体力あるの、皮肉だよね」
「皮肉って自分で言う?」

 笑った。紬も笑った。蝉の声が笑い声を包み込んで、石段の上の空に溶けていく。

 でも紬が顔を背けたとき、一度だけ深く息を吸い込んだのが聞こえた。深く吸って、ゆっくり吐く。それは笑ったあとの自然な呼吸ではなくて、乱れた息を整えるための意識的な呼吸だった。私は見ていないふりをした。見ていることを悟られたら、紬は笑わなくなる。そういう子なのだ。

「あと半分くらいだよ。がんばって」
「半分……」

 紬が先に歩き出す。さっきよりすこしだけペースが落ちている。落ちているのに追いつかないふりをして、私は一段ぶんの距離を保ったまま後ろを歩いた。紬の背中。白いブラウスの肩甲骨のあたりが汗で薄く透けている。ブラウスの下の肩が、春に初めて図書室で見たときより華奢になっているような気がして——そう思ってしまった自分の目を疑いたくなった。旅行先で楽しんでいるときに、なぜそんなことが気になるのか。ただの石段でただの汗でただの夏の暑さで、それ以上の意味なんてないはずなのに。

 石段を登り切ったとき、最初に声を上げたのは私だった。

 境内の向こうに、海が広がっている。高台から見下ろす水平線は果てが見えなくて、午後の光が海面に散らばって砕けた硝子みたいに光っている。風が吹き上げてくる。潮の匂いを含んだ、でも石段の下とは違う、高い場所だけに届く風。木々のざわめきが背後から聞こえて、正面には空と海しかない。

「すごい」
「——きれい」

 紬の声が隣で聞こえた。振り向くと、紬は手すりに片手をついて海を見ていた。片手をついている。さりげない姿勢に見えるけれど、体重を預けているのが分かる。登り切った直後の足がまだ安定していないのだ。息は整えている——紬は自分の呼吸を制御するのがうまい。うまいから、隣にいても気づかないくらいに平静を装える。でも手すりに預けた体重だけは隠しきれていなかった。

「写真撮ろうよ」

 紬がスマホを取り出した。声はもういつもの温度に戻っている。

「自撮りする? 紬と海」
「幸ちゃんも入って」

 二人で手すりの前に並んだ。紬がスマホを持ち上げて、画面に二人の顔と背景の海が収まる。風が紬の髪を揺らして、私の前髪も乱れている。紬が「撮るよ」と言ってシャッター音が鳴った。

 画面を確認する。紬は笑っていた。無表情ではなくて、目の力が抜けた柔らかい顔をしている。海を背景に風に乱れた髪のまま穏やかに笑っている十七歳の女の子。

 その写真の中の紬があまりにも綺麗で、胸の奥が痛くなった。楽しい旅行の最中に友達と撮った写真を見て、なぜ胸が痛くなるのか。その理由が分からなかった。分からないまま、スマホをポケットにしまう。

 紬が賽銭箱に小銭を入れて、手を合わせた。目を閉じてしばらくそのまま動かない。何を願っているのかは聞かなかった。聞いたら叶わなくなると言うかもしれないし、そもそも教えてくれないかもしれない。どちらにしても、紬が何かを強く願っているという事実だけで今は十分だった。

 手を下ろした紬の横顔を盗み見ると、紬はすこしだけ泣きそうな顔をしていた。泣きそうな、というのは正確ではないかもしれない。泣くことを許したら泣いてしまう、という顔を一瞬だけ覗かせて、次の瞬間にはもう消えていた。

「降りよっか。ソフトクリーム食べたい」

 紬がそう言って石段のほうに歩き出す。その足取りは登りよりずっと軽くて、でも軽いのにときどき左手が柵に触れることを、私は視界の端で数えていた。

 *

 海沿いの公園のベンチに座って、ソフトクリームを食べた。紬はバニラ、私はいちご。

「まーたいちご」
「何がまた。いちご味があったら選ぶに決まってるでしょ」
「いちごミルク、いちごクレープ、いちごソフト。幸の人生、いちごに支配されてない?」
「支配は言いすぎ。好みが一貫してるだけ」
「それを世間では支配と呼ぶんだよ」

 紬がバニラのソフトクリームを舐めながら真顔で言う。真顔だから余計におかしくて、声を出して笑ったらソフトクリームが溶けかけて指に垂れてしまった。

「あー、もう」
「ほら、笑ってるから」
「紬が笑わせるからでしょ」
「笑わせてない。事実を述べただけ」

 紬がティッシュをリュックから出して私に渡してくれた。その手つきが自然で、まるで何年も前からこうしていたみたいに滑らかで、そのことがまた胸を掴む。

 ソフトクリームを食べ終える頃には夕方が近づいてきていて、海の色が変わり始めていた。昼間の青灰色からオレンジと紫が混ざった複雑な色へ。太陽が水平線に近づいて、海面に長い光の道を作っている。

 紬がベンチから立ち上がって柵の近くまで歩いていった。夕陽を背中に受けて、逆光の中で紬のシルエットが黒く浮かび上がる。風がブラウスを揺らしてスカートの裾がひらりとめくれる。

「きれい」

 紬が呟いた。夕陽のことだろう、海のことだろう。私は紬の後ろ姿を見ながら、別のものを「きれい」だと思っていた。

 *

 夕食は旅館の近くの定食屋で済ませて、日が落ちてから二人で海沿いの道を歩いた。

 夜の海は昼とはまるで違う顔をしていて、波の音だけが暗闇の中で鳴り続けている。月が出ていて海面に白い光が揺れていて、対岸の町の灯りが水面に細い線になって映っている。

「夜景だ」

 紬が言った。

「夜景って言うほどじゃないけどね。ただの町の灯りだよ」
「でもきれいだよ。こういうの」

 紬が防波堤の上に座って足をぶらぶらさせる。私もその隣に座ると、コンクリートがまだ昼の熱を残していてじんわりと温かかった。

 しばらく黙って海を見ていた。波の音、遠くの町の灯り、空に浮かぶ灰色の海月。ここでも灰色だ。場所が変わっても海月の色は変わらない。紬は海月を見ているだろうか。見ているとしたら、何色に見えているのだろう。

「紬」
「なに」
「楽しい?」
「うん。楽しい」
「よかった」
「幸は?」
「私も楽しい。すごく」

 紬が海面に目を落として、しばらく黙っていた。波が防波堤にぶつかって、飛沫が微かに霧になって顔にかかる。

「ねえ、幸」
「うん」
「こういう時間がさ」

 紬が言葉を探すように一度口を閉じた。波が二回打ち寄せるあいだの沈黙。それからすこしだけ声のトーンを落として続ける。

「誰かの記憶に残ってくれたらいいな、って思うんだ」

 誰かの記憶。その言い方が引っかかった。「幸の記憶」ではなく「誰かの記憶」。まるで自分がいなくなった後のことを想定しているみたいに、主語がぼかされている。

「残るよ。忘れるわけないじゃん」
「そうかな」
「そうだよ。ラーメンおいしかったし、猫かわいかったし、紬にいちご依存って言われたし」

 紬が小さく笑った。

「そういうの。そういう小さいやつが、残ってくれたら嬉しい」

 紬の声は穏やかだった。穏やかすぎた。まるで遺言みたいだ、と思って、その比喩の不吉さに自分で怖くなる。遺言なんかじゃない、ただの感傷だ。旅先の夜で海を見ながらちょっとセンチメンタルになっているだけ。そう言い聞かせて、でも言い聞かせるという行為自体が不安の証拠であることにも、薄々気づいていた。

「残るよ。全部」

 もう一度、強く言った。紬は黙って頷いて、また海を見る。対岸の灯りが波に揺られて伸びたり縮んだりしている。

 私は紬の横顔を見ながら、胸の奥で小骨がまた動くのを感じていた。

 *

 旅館に戻って部屋に入り、交代でお風呂に入った。紬が先に上がってきたとき、髪を下ろしてタオルで拭いている姿がやけに無防備に見えた。いつもの紬はどこかに壁があって、その向こうに本当の表情が隠れている気配がある。でも今夜はその壁が少しだけ薄くなっていて、湿った髪が頬に張りついて肌がほんのり赤くて浴衣の襟元が少しだけ崩れている。それを見て顔が熱くなるのを感じて、私はすぐに視線を逸らした。

 私がお風呂から上がると、紬は布団の上に座ってスマホをいじっていた。窓は少しだけ開いていて潮風が入ってきて、波の音が遠くに聞こえる。

「紬」
「なに」
「あのさ」

 布団の上に座って膝を抱える。言葉がうまくまとまらなかった。でも今夜、この場所で言わないといけない気がしたのだ。明日になったらまた日常に戻って、教室の笑顔を貼り付けて、何事もなかったみたいに過ごしてしまう。そうなる前に。

「私さ、紬に会うまで、楽しいって何なのかよくわかんなかったんだと思う」

 紬がスマホの画面から目を上げた。

「カラオケ行っても、クレープ食べても、楽しい顔はしてた。楽しいって言ってた。でも体の中がずっと空っぽだったっていうか、笑ってるのに充電されないっていうか」
「うん」
「紬と図書室にいるとき、最初は別に楽しくもなんともなかったんだけど。ただ静かだっただけで。でもそのうち、あの静かさが欲しくなって。紬が隣にいるときだけ、空っぽが空っぽのままでよくなるっていうか……」

 うまく言えなかった。言葉が足りない。でも紬は黙って聞いている。布団の上に正座して、私のほうをまっすぐ見ている。

「今日、すごく楽しかった。ラーメンおいしかったし、猫もかわいかった。でもそれは、ラーメンがおいしいんじゃなくて、紬と一緒に食べてるからおいしいんだと思う」

 口にした瞬間、顔が熱くなった。何を言っているんだ。恥ずかしすぎる。取り消したい。でも取り消せない。言葉はもう空気中に出てしまっていて、波の音と一緒に部屋の中を漂っている。

「……ごめん、変なこと言った。忘れて」
「忘れない」

 紬が即答した。

「忘れないよ。覚えてる」

 その声は静かだった。いつもの紬の声。平坦で、乾いていて、感情の読めない声。でも「忘れない」の「な」の音がほんの少しだけ震えていた。

 紬がゆっくり布団の上に横になって天井を見上げる。

「嬉しいよ、幸。すごく」
「……うん」
「こういう言葉を、覚えていたい。ちゃんと。全部」

 覚えていたい。また「記憶」の話だ。紬は今日、何度この類の言葉を口にしただろう。「記憶に残ってくれたら」「忘れない」「覚えていたい」。まるで記憶だけが頼りであるかのように、経験を言葉に変換して保存しようとしている。

 でも今夜はそれ以上踏み込まなかった。踏み込める空気ではなかったし、踏み込む勇気もなかった。紬が「嬉しい」と言ってくれた、それだけで十分だ。十分だと思うことにした。

「おやすみ、紬」
「おやすみ」

 電気を消す。波の音だけが残った。目を閉じても紬の「忘れないよ」が耳の奥に残っていて、なかなか消えなかった。

 *

 翌朝、旅館のチェックアウトを済ませて駅に向かった。帰りの電車は昨日と同じ路線を逆走する二時間半の旅で、車窓に海が見える区間を過ぎると景色はまた住宅地に戻っていく。

 紬は窓側に座って昨日と同じように外を眺めていて、私は通路側でいちごミルクのストローを咥えていた。車内は空いている。向かいの席には老夫婦が一組座っているだけで会話もほとんどない静かな車両。窓から入る朝の光が紬の横顔を照らしていて、髪が金色に縁取られていた。

 昨日の夜紬に言ったことを思い出す。恥ずかしい。全部恥ずかしい。「紬と一緒に食べてるからおいしい」って何なんだ、小学生の作文みたいじゃないか。でも紬は「忘れない」と言ってくれた、「嬉しい」と言ってくれた。その二つの言葉が胸の中であたたかい塊になっている。

 紬が窓の外を見ながら、ぽつりと言った。

「楽しかったね」
「うん。楽しかった」
「帰りたくないな」
「……うん」

 帰りたくない。その言葉の中にどんな意味があるのか考えすぎないようにする。旅行が楽しかったから帰りたくない、それだけの意味だ。それ以上の意味を読み取ろうとするのは私の悪い癖だ。

 でも。紬の「帰りたくないな」と「来年も来られるといいな」と「覚えていたい」が、頭の中で一列に並ぶ。どれも同じ方向を向いている。未来に対する不確かさ。今この瞬間にしがみつこうとする指先。紬はいつも「今」を大事にしすぎている。大事にすること自体は悪いことじゃない。でも大事にしすぎる人間は、「今」がなくなることを知っている人間だ。……そう思ってしまう自分が怖い。考えすぎだろうか。考えすぎであってほしかった。

 電車が長いトンネルに入って車窓が真っ暗になった。窓ガラスに紬の顔と私の顔が映る。二つの顔が横に並んでいて、トンネルの暗闇の中で幽霊みたいに浮かんでいる。紬は窓ガラスに映った自分の顔を見ているのかトンネルの壁の暗闇を見ているのか、私には判別がつかなかった。

 トンネルを抜ける。光が一気に戻ってきて窓ガラスの二つの顔が消えた。代わりに田園風景が広がって、緑の稲が風に揺れている。

 今だ、と思った。今聞かないともう聞けない。日常に戻ったら、教室に戻ったら、営業用の笑顔を貼り付けた私は絶対にこの質問を飲み込む。でも今はまだ旅の延長線上にいる。この電車の中は教室でも図書室でもない、どこでもない場所だ。

「紬」
「なに」
「一つ、聞いていい?」

 紬が窓から視線を戻す。私を見る。いつもの目。感情の読めない、静かな目。

「紬って、海月何色に見えてる?」

 空気が変わった。

 紬の体がほんの一瞬だけ固まったのが分かった。目の動きが止まって、呼吸が止まって、指先が膝の上で微かに引き攣る。全部がほんの一瞬で、瞬きくらいの短い時間だったけれど、私は見逃さなかった。見逃せるわけがない。ずっとこの瞬間を——この質問を投げかける瞬間を待っていたのだから。

 紬が口を開くまで三秒か四秒の沈黙があった。

「……青色だよ」

 声が震えていた。ほんのわずか。他の誰かが聞いたら気づかないくらいの、喉の奥の微かな揺れ。でも私は知っている。紬の声を毎日聞いてきた。図書室で、教室で、通学路で、カフェで、昨日の夜の旅館で。紬の平坦な声の中にある微妙な温度差を全部聞いてきた。だからこの震えが普通ではないことが分かる。

 青色。あの夜と同じ答えだ。街灯の下で、目が笑っていなかったあの夜と同じ二文字。

 嘘だ。

 確信が胸の中で音を立てて固まった。紬は嘘をついている。海月の色について、自分自身について、何かを隠している。あの夜からずっと同じ嘘をつき続けている。

 でも。

 紬の目を見た。震えている。声だけじゃない、目の奥の光の筋がさっきよりもっと激しく揺れている。怯えているのとは違う。もっと深い場所にある何かだ。見られたくないものを見られかけたときの、あの種類の揺れ。

 それ以上踏み込むことができなかった。紬のその目を見た瞬間に喉がきゅっと閉まって、追及する言葉が声帯の手前で止まった。紬が「青色だよ」と言うのなら、今はそれを受け取るしかない。無理やり剥がしたら何かが壊れる。紬の中の何かが、二人の間の何かが。

「……そっか」

 私は視線を落としていちごミルクのストローを咥え直した。甘い。甘いのに、喉の奥が苦い。

 紬は何も言わなかった。窓の外に視線を戻して、また景色を見始める。その横顔が昨日よりも遠くに見えた。同じ席に並んで座っているのに、肩が触れそうな距離にいるのに。紬がたった今、壁を一枚元に戻したことが分かる。薄くなっていた壁を、また厚くしたのだ。

 電車が揺れる。車輪がレールを叩く音が規則的に繰り返される。窓の外では田んぼの緑が後ろに流れていく。

 私は前を向いたまま、昨日からの紬の言葉を頭の中で並べ直していた。

 「こういう時間が、誰かの記憶に残ってくれたらいいな」
 「忘れないよ。覚えてる」
 「覚えていたい。ちゃんと。全部」
 「帰りたくないな」
 「来年も来られるといいな」

 記憶、覚えていたい、記憶に残ってくれたら。点がある。いくつもの点がバラバラに散らばっている。一つ一つは小さな違和感でしかない。「記憶」という言葉を人より多く使う人、未来の話になると声が薄くなる人、「来年」という単語を確信を持って言えない人。

 線にはならない。まだ繋がらない。何かがおかしいという感覚だけが胃の底に重く沈んでいて、名前がつかないまま座っている。

 電車が大きな駅に止まった。乗客が増えて向かいの席に若いカップルが座り、二人が楽しそうに笑い合っている声が耳に入ってくる。

 紬は黙ったまま窓の外を見ている。私も黙ったまま、いちごミルクを飲み干した。ストローの先から空気を吸い込む音がして、紙パックが少しへこんで空になった。

 何かがおかしい。その予感だけが、空になった紙パックよりもずっと重く胸の中に残り続けている。二時間半の電車旅が終わる頃にはきっと日常が戻ってきて、教室と笑顔と営業用のスイッチが私を迎えるだろう。でもこの重さだけはどこにも置いていけない。

 電車が加速する。レールの継ぎ目を越えるたびに車体が小さく跳ねて、紬の肩が私の肩にぶつかって離れてまたぶつかる。その繰り返しの中で、私はまだ紬の「青色だよ」を噛み砕けないでいた。