夜空を泳ぐ海月は、孤独な私に嘘をつく

 土曜日、私は駅前のパンケーキ屋にいた。

 開店直後の時間帯をわざわざ選んだのには理由がある。混雑した店内で、まだ馴染んでいない三人の間に漂うぎこちない空気を赤の他人に見られるのが嫌だったのだ。考えすぎだとは自分でも思う。でも、こういうところで無駄に気を回してしまうのが私という人間だった。

 窓際のテーブル席に通されて、天音が一番奥、紬が窓側、私が通路側に座った。メニューを開いても、三人の間に流れるのは沈黙だけだ。まあ、正直なところ、ここまでは想定内ではある。昨日まで面識のなかった二人がいきなり楽しそうに会話を弾ませるなんて、そんな都合のいいことが起きるわけがない。

 つまり、ここは私がつなぎ役をやるしかないということだ。

「天音、何にする?」
「んー、ティラミスパンケーキ……いや、やっぱベリーのやつ」
「迷いすぎでしょ」
「だって全部美味しそうなんだもん」

 天音がメニューを立てて、紬のほうに向けた。

「夜宮さんは?」
「あ、私は……メープルバターで」
「シンプルだね」
「うん、あんまりこういうところ来ないから、定番がいいかなって」

 天音が「へー」と呟いて、メニューをテーブルに戻した。紬を見る天音の目には敵意こそないものの、どこか探るような色がある。値踏みしている、という表現がいちばん近いと思う。

 私はいちごミルクを頼んだ。注文を告げたとき、紬が横目でちらっとこちらを見て、口元だけで笑った。

 いちごミルクの何がおかしいんだよ、と思ったけれど、その笑い方に悪意がないのはわかっていたから、黙っておいた。

 注文を終えると、テーブルの上に三人ぶんの水が並んだ。ストローの紙をぺりぺりと剥がしながら、天音が口を開く。

「で、夜宮さんってどういう人なの」

 直球だった。初対面の相手にこういうことを平気で聞けるのが天音という人間だ。私だったら絶対にこんな聞き方はできない。というか、普通はしないだろう。でも天音にとってはこれが普通なのだ。

「どういう人って言われても」

 紬が困ったように首を傾げた。

「本が好きで、図書委員で、えーと……」
「自己紹介が下手なタイプか」
「うん、そうかも」

 紬があっさり認めたので、天音がぷっと吹き出した。私もつられて笑ってしまう。紬はきょとんとした顔で「なんで笑うの」と言っている。

 いや、だって、聞かれた本人が「そうかも」って素直に認めるのが面白いんだよ、と心の中で突っ込んだ。

「いや、なんか思ってたのと違って」

 天音がストローで水を吸いながら言った。

「もっとこう、クールな感じかと思ってた。教室であんまり喋んないし」
「ああ、話しかけてくれる人がいないだけで、話しかけられたら普通に喋るよ」
「それは話しかけづらいオーラ出してる自覚はあるの?」
「……あるかも」
「あるんだ」

 天音が目を細めて笑った。さっきまでの値踏みの表情が少しだけほぐれた笑い方で、悪意はない。紬も小さく笑い返している。よかった、と思った。最悪の場合、天音が紬を警戒したまま一時間が過ぎるという地獄みたいな展開もありえたのだ。笑い合っているだけで御の字だった。

 パンケーキが運ばれてきた。天音のベリーパンケーキには鮮やかな赤と紫のソースがたっぷりかかっていて、見るからに甘そうだ。紬のメープルバターはバターの塊がひとつ乗っているだけのシンプルなもので、いかにも紬らしい選択だと思った。私のにはいちごのホイップクリームが添えてある。

「いただきます」

 三人で手を合わせた。紬が一口食べて「おいしい」と小さく呟くと、天音が「ね! ここ当たりだよね」と身を乗り出した。紬が頷くのを見て、天音は満足そうな顔でベリーのパンケーキをフォークで切り分ける。

「食べてみる? 一口あげる」

 天音がフォークに刺したパンケーキを紬に差し出した。紬は一瞬だけ驚いた顔をして、それから「ありがとう」とそのまま受け取って口に入れる。

「あまっ」
「でしょ」

 天音が嬉しそうに笑う。食べ物を分け合うと人との距離が一気に縮まるということを、天音は経験的に知っている。中学のとき、不登校だった天音の面倒を見ることになった私が最初にしたのも、購買で買ったメロンパンを半分に割って渡すことだった。あのときの天音の、戸惑いながらも手を伸ばしてきた顔を、私はまだ覚えている。

「幸のも一口ちょうだい」
「いいよ」

 私が皿を天音のほうに寄せると、天音がフォークで一切れ取って口に入れた。

「あー、いちご。幸っぽい」
「どういう意味」
「甘くて、ちょっとだけ酸っぱい」
「それ褒めてるの?」
「褒めてるよ」

 天音がにやにやしている。褒めてるようには全然聞こえないんだけど、と思いつつも、天音がこうやってからかってくるのはいつものことだから、いちいち怒る気にもならなかった。紬が隣で水を飲みながら、私たちのやりとりを少し楽しそうに眺めている。

「紬のも食べたい」
「え、あ、いいよ。でもメープルバターだから、たぶんそっちのほうが……」
「いいのいいの」

 紬が遠慮がちに言いかけるのを遮って、天音がフォークを伸ばし、紬のパンケーキを一切れかすめ取った。紬が「あ」と小さく声を上げたけれど、抵抗はしなかった。されるがままだ。

「あ、おいしい。シンプルが一番うまいやつだこれ」
「でしょ」

 紬が少し誇らしげに笑った。その顔がなんだか嬉しそうで、私はテーブルの下で拳を握ったり開いたりしていた。うまくいっている。天音と紬が同じテーブルで笑っている。ただそれだけのことなのに、体の奥がぽかぽかと温かい。自分の大事な二人が一緒にパンケーキを食べている、という事実が、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。

 天音がクリームソーダのアイスをスプーンですくいながら、不意に言った。

「夜宮さんって、幸のことどう思ってるの」

 来た、と思った。天音ならいずれ聞くだろうとは予想していたけれど、まさかパンケーキ屋のテーブルで、こんなにストレートに切り込んでくるとは。

「天音」

 私が止めようとしたけれど、天音は私のほうを見もしないで紬の目をまっすぐ見ている。

「ねえ、どう思ってる?」

 紬はフォークをそっと皿の上に置いて、少しだけ間を置いた。考えているのか、言葉を選んでいるのか。

「好きだよ。大事な人」

 淡々と言った。まるで朝の天気予報でも読み上げるみたいな平坦な声で、迷いがなかった。

 テーブルの上の空気が、一瞬だけ変質したような気がした。私は自分の顔が熱くなっているのがはっきりとわかったけれど、それを天音にも紬にも悟られたくなくて、いちごミルクのストローを慌てて咥えた。冷たい液体が喉を通っていくのに、顔の熱は引かなかった。

 好きだよ、と紬は言った。大事な人、と。友達として言っているのか、それとも別の意味が含まれているのか。紬の声があまりにも平坦だったから、判断がつかない。

 いや、判断がつかないのではなくて、判断するのが怖いのだ、たぶん。

 天音が紬をじっと見ている。紬は天音の視線を受け止めたまま、目を逸らさなかった。

「……そっか」

 天音がアイスを口に入れて、口の中で溶かして、飲み込んだ。その一連の動作に、天音なりの間の取り方が見える。次の言葉を選ぶために、咀嚼する時間を使っている。

「じゃあ一個だけ言っていい?」
「うん」
「幸のこと、中途半端に関わるなら最初からやめて」

 空気が変わった。

 天音の口元には笑みが残っている。でも、目が笑っていなかった。ほんの数分前にパンケーキを分け合って「おいしい」と言い合っていたのと同じ顔のはずなのに、目の奥の温度だけが明らかに違う。中学のときから何度か見てきた。天音が本気で誰かに向き合うときの顔だ。

「幸はさ、全力で人を好きになるくせに、自分が傷つくことには全然耐性ないの。だから関わるなら最後まで関わって。途中でいなくなるくらいなら、最初から近づかないで」

 天音の声は静かだった。怒っているわけじゃないということは、声を聞けばわかる。怒りではなく、もっと切実な何かだ。守ろうとしているのだ、と思った。自分の親友を、自分がそばにいないときにも守れるように、今ここで釘を刺しておこうとしている。

 それが天音の愛情表現なのだということを、私は知っている。知っているからこそ、止められなかった。止める資格がなかった。天音が言っていることは全部本当のことだから。私は確かに、全力で人を好きになるくせに、傷つくことにはびっくりするほど弱い。自分でもわかっている。わかっているのに直せないから厄介なのだ。

 紬は黙っていた。

 反論しなかった。「そんなことしない」とも、「わかってる」とも言わなかった。ただ天音の言葉を正面から受け止めて、静かに座っている。その沈黙が、私にはとても長く感じられた。

 数秒の間を置いて、紬が口を開いた。

「ありがとう、天音ちゃん。覚えておく」

 その声には感情が薄かった。冷たいわけではないし、感情がないわけでもないと思う。ただ、何かしらの感情を一度自分の中のどこかにしまい込んでから声にしているような、そういうコントロールされた平坦さだった。

 紬がときどき見せるこの話し方を、私はまだうまく読み解けない。

 天音が紬の顔をしばらくじっと見つめて、それから「うん」と短く頷いた。品定めが終わったような、でもまだ完全には信用しきれていないような、微妙な表情だった。天音は人を見る目が鋭い。鋭いからこそ、簡単には信用しないのだ。それは天音自身が中学時代にいろいろあったからだと思う。人を信じることの怖さを知っている人間は、他人にもその覚悟を求める。

 重くなった空気を元に戻したのは、意外にも天音のほうだった。

「さ、食べ終わったし。会計は私が持つ」
「え、いいよ天音」
「いいの」

 天音が伝票をさっと掴んで、迷いのない足取りでレジに向かっていった。この切り替えの速さも天音らしかった。言いたいことを言い終えたら、もうその話は終わり。場の空気は自分で壊して自分で直す。そういう人なのだ。

 紬が「いいの?」と小声で聞いてきたので、「天音がこうなったら止められないから」と返した。実際そうなのだ。天音が「やる」と決めたことを止められた人間を、私は見たことがない。紬が「そうなんだ」と少し感心したように呟いた。

 天音がレジで支払いを済ませている間、私と紬はテーブルに残っていた。紬がフォークの柄を指先でくるくると回しながら口を開く。

「天音ちゃん、いい子だね」
「うん」
「幸ちゃんのこと、本当に大事にしてる」
「……うん」
「ちょっと怖かったけど」

 紬が小さく苦笑し、私も同じ反応で返す。紬に「怖かった」と言わせるくらい、天音の目は本気だったのだ。あの紬が怖いと感じるのだから、相当だったのだろう。

 まぁ、天音のあの目で真正面から見据えられたら、大抵の人間は怯むと思うけど。

 店を出て、三人で駅に向かって歩いた。天音が真ん中、私が右、紬が左。天音が「次は焼肉がいい」と言い出して、紬が「焼肉は一人で行くものじゃないの?」と真顔で返した。

 天音が「なにそれ寂しすぎでしょ」と大声で笑って、私も笑った。焼肉を一人で行くものだと思っている紬もどうかしていると思うけれど、それを大声で突っ込む天音もなかなかだ。

 三人で歩いている。三人で笑っている。私の大切な二人が同じ通りを同じ方向に歩いていて、くだらないことで笑い合っている。たったそれだけのことが、たまらなく嬉しかった。自分でも驚くくらい嬉しかった。こういう景色がずっと見たかったのかもしれない、と思った。天音と紬がお互いの存在を認めて、三人で同じ場所にいる。それは数週間前の私には想像もできなかった光景だ。

 でも、嬉しさの裏側に、小さな引っかかりがある。

 紬が天音の言葉に反論しなかったことが、歩きながらずっと頭から離れなかった。「中途半端に関わるなら最初からやめて」という天音の言葉に対して、紬は「覚えておく」とだけ答えた。「そんなことしない」と否定しなかった。「最後まで関わる」とも言い切らなかった。

 普通、ああいう場面では否定するものだと思う。「そんなつもりはない」とか「ちゃんと向き合うつもりだよ」とか。でも紬はそのどちらも言わなかった。ただ「覚えておく」と。

 ずっと前から引っかかっていた違和感が、だんだんはっきりした形を持ち始めている。小骨だと思っていたものが、実はもっと大きな何かだったような感覚。紬が隠しているものの輪郭が、少しずつだけれど見えてきている。

 見えてきているのに、まだ正体が掴めない。それがもどかしくて、そして正直に言えば、怖かった。

 駅に着いて、三人で改札の前に立った。天音が「あ、私こっちだから」と反対方向のホームを指さす。

「今日ありがと。楽しかった」
「うん、ありがと天音」
「夜宮さんも」
「ありがとう、天音ちゃん。ごちそうさまでした」
「いいっていいって」

 天音が手をひらひらと振って、反対側の改札に向かった。数歩歩いたところで、ふいに振り返る。

「幸」
「ん?」
「夜宮さんのこと、紬って呼んでいいよ。私の前でも」

 天音がにっと笑って、改札をくぐっていった。

 その背中を見送りながら、私は少しだけ泣きそうになった。泣かなかったけれど。天音が「紬って呼んでいいよ」と言ってくれたことの意味を、たぶん天音自身が思っている以上に、私は重く受け止めていた。あの夏祭りの夜、天音の前で紬の名前を呼べなかった私を、天音は覚えていて、そしてそれを今日、許してくれたのだ。許すという言い方は大げさかもしれない。でも私にとっては、そういうことだった。

 私と紬が残された。紬が「天音ちゃん、かっこいいね」と呟いた。私は「でしょ」と返した。かっこいいのだ、天音は。見た目はツインテールで声が高くてぴょんぴょん跳ねているけれど、中身はたぶんこの学校で一番かっこいい。

 二人で同じホームに向かいながら並んで歩く。さっきまで三人だった空間が二人に戻ると、空気の密度が変わる。三人のときは天音がいることで場が動いていたけれど、二人になった途端、紬と私の間にある静かな空気が戻ってくる。嫌な静けさではないのだけれど、今日はその静けさの中に、さっきの引っかかりがずっと沈んでいた。

「紬」
「ん?」
「さっき天音に言われたこと。中途半端にって」
「うん」
「なんで何も言い返さなかったの」

 聞いてしまった。聞くべきではなかったかもしれない。でも、聞かないままでいることのほうが怖かった。

 紬は数歩黙って歩いてから、答えた。

「天音ちゃんの言う通りだと思ったから」
「それだけ?」
「それだけだよ」

 紬がいつもの穏やかな表情を浮かべる。でもその表情の奥に何かがあることを、私はもう知っている。

 紬がこの目をするとき、紬は自分の内側のどこか深いところにいる。そしてそこに、私はまだ入れてもらえていない。

 電車が来た。二人で乗り込んで、つり革を掴む。車内は空いていて、私たちの他には数人しかいない。

 窓の外を夕暮れの景色が流れていく。

「ねえ紬」
「なに」
「いなくならないでね」

 紬がこちらを見た。目が少し見開かれて、それからゆっくりと細くなった。

「いなくならないよ」

 そう言って、笑った。

 私はその言葉を信じた。信じたかった。でも、正直に言えば、紬が「いなくならない」と口にするたびに、その言葉が少しずつ軽くなっていくような気がしてならなかった。一回目に聞いたときはちゃんと重さがあったのに、繰り返されるほどに確かさが薄れていく。まるで何度もコピーを重ねた紙みたいに、輪郭がぼやけて、元の文字がだんだん読めなくなっていく。

 電車が揺れ、つり革が乾いた音を立てる。窓の外には、灰色の海月がぼんやりと浮かんで流れていった。

 *

 翌朝、教室に入ると天音がいつもの席にいなかった。

 あれ、と思って視線を巡らせると、窓際の後方——紬の席のすぐ横に、天音が立っている。片手を紬の机についてもう片方の手でスマホの画面を見せながら何か話していて、紬は座ったまま画面を覗き込んで小さく頷いている。

 なんだこの光景は。

「……え?」

 声が出ていた。自分でも驚くくらいはっきりした声で、近くの席にいた子がこちらを振り返ったのがわかった。しまった、と思って慌てて口を閉じ、鞄を自分の机に置いてから天音のところへ歩いていく。

「天音、なに、なんで急に——」
「あ、幸。おはよ」

 天音が振り向いて、いつもより少しだけ胸を張ったような顔で笑う。

「いや、なんでって。もう友達でしょ? 友達に話しかけて何が悪いの」

 その言い方があまりにも天音らしすぎて、私は口を開けたまま数秒固まってしまった。

 でも、教室で天音が紬に話しかけている、という光景は、なんというか、今まで別々に存在していた二つの世界の境界線が突然溶けてなくなったみたいで、頭の処理が全然追いつかない。図書室の紬と、教室の天音。その二人が同じフレームに収まっているという事実が、まだうまく飲み込めなかった。

「……うん、いや、悪くはないんだけど」
「じゃあいいじゃん」

 天音がそう言い切って、また紬のほうを向いた。紬は私を見て、ほんの少しだけ眉を上げた。「私も驚いてるんだけど」とでも言いたげな顔。でも嫌がってはいない。迷惑そうでもない。むしろ、ほんのわずかに嬉しそうに見える。それだけで、心のどこかがふっと緩んだ。

 ただ、周囲の空気が微かに変わったことには、すぐに気がついた。天音はクラスの中心にいる人間だ。誰とでも話せて、いつも人に囲まれている。一方の紬は、ずっと窓際の席で一人で本を読んでいる人間だ。その二人が普通に並んで話しているだけで、教室の何人かが目配せを交わしているのが見えた。隣の席の女子が友達に「あの二人いつから仲いいの」と小声で聞いているのも聞こえた。

 天音がそういう視線に気づいていないわけがない。天音は周囲の空気を読む能力がとても高い人間だから。

 でも、気づいていないふりをするのが上手いのだ。上手い、というか、気づいた上でそれを押し返すだけの力がある。声のトーンをわざと一段上げて、「紬、今日の数学プリントやった?」と当たり前のように続けるだけで、向けられていた好奇の視線が行き場を失って散っていく。

 天音のその力を、私は昔からすごいと思っていた。私にはできないことだから。

 私はその横に立って、鞄から筆箱を出すふりをしながら、三人でいることの居心地の悪さと居心地の良さが同時に存在していることに戸惑っていた。悪さのほうは、周囲に見られているという意識。教室でこの三人の組み合わせは目立つのだ。良さのほうは、紬が教室で誰かと話しているのを私が初めて見ている、ということ。紬の声は図書室にいるときと同じ温度なのだけれど、相手が天音だと語尾がほんの少しだけ柔らかくなっている。その微かな変化に気づいてしまう自分がいた。

 昼休みになると、天音が自分の机を紬の席の隣にずるずると引きずってきて、「幸も持ってきなよ」と当然のように言った。

 私は自分の椅子を持ち上げて、窓際に三人ぶんの机を並べた。天音の弁当は二段重ねで彩りがよく、紬はコンビニのおにぎりが二つとペットボトルのお茶、私は母が詰めてくれた弁当の蓋を開ける。三者三様だな、と思った。弁当の中身にも性格が出るものだ。

 天音が卵焼きを箸で持ち上げたまま、「あ、そういえば」と思い出したように口を開いた。

「私の海月、色変わったんだけど」

 その言葉を聞いた瞬間、私の箸が止まった。紬も、おにぎり巻かれていたサランラップを剥がしかけた手がぴたりと止まっている。

「……変わった?」

 私が聞き返すと、天音は卵焼きを口に入れて、もぐもぐと噛みながら頷いた。

「うん。今まで緑だったのに、昨日の夜見たら赤になってた。朝も見たけど、やっぱり赤」

 紬と目が合った。紬の目がわずかに見開かれているのは、驚いているからだと思う。紬が驚いた顔をすること自体がとても珍しくて、私はその表情に思わず見入ってしまった。紬はすぐに視線を天音に戻して、「いつから」と短く聞いた。

「いつだろ、昨日の夜かな。お風呂上がりにベランダ出たら、あれ? って」

 天音はそこまで言って、弁当の中のブロッコリーを箸でつまむ。まるで大したことじゃないみたいに、普通に食事を続けている。

「まぁなんでかはわからないけどね」

 天音がお茶を一口飲んで続けた。

「でも、人の心情とか性格とかに影響してるっていうの、あながち間違ってないのかもしれない」

 その言葉は、昼休みのざわめきの中にぽとりと落ちて、私たち三人の間だけに静かに沈んでいった。

 私は箸を握ったまま、自分の海月のことを考えていた。灰色だ。ずっと灰色のまま、変わらない。天音の海月は緑から赤に変わった。色が変わるということは、何かが動いたということだ。天音の中で何かの感情が変化したか、何かの境界線を越えたか、とにかく内側で何かが起きたということなのだろう。

 じゃあ、灰色のまま動かない私の中には、何も起きていないということなのか。いや、そんなことはないと思う。紬と出会って、天音と本音でぶつかって、仮面を少しずつ外し始めて。自分の中では確かにいろいろなことが動いている。

 動いているのに、海月の色は変わらない。その事実が、なんだか少しだけ寂しかった。

 紬は何も言わずにおにぎりを食べていた。その横顔が何を考えているのか、私には読み取れない。いつものことではあるのだけれど。

 放課後、校門を出て紬と並んで歩いた。六月の夕方は日が長くて、空はまだ十分に明るいのに地面にはもう影がない。不思議な時間帯だと思う。光はあるのに影がない。

「天音ちゃんの海月、赤になったんだね」

 紬が先に口を開いて、私は頷く。

「なんていうか、本当に色って変わるものなんだね」
「だねー」

 紬は数歩黙って歩いてから、ふと空を見上げた。夕方の空には海月が浮かんでいる。形が曖昧で、色が滲んでいて、私の目にはいつものように灰色に沈んで見える。紬の目にはどんな色で映っているのだろう。

「私たちの色が変わることもあるかもね」

 紬がそう言って、視線を空から前に戻した。

 私たちの色。紬はそう言った。「私たちの」と。でも紬は以前、自分の海月の色を「青」だと教えてくれた。あの夜、街灯の下で。目が笑っていなかった。あの表情を私はずっと覚えている。覚えているのに、その意味を聞けないまま、ここまで来てしまった。

 紬は「変わる」と言う。でもそれは、今の色が本当の色であることが前提の言葉だ。もし紬が自分の海月の本当の色を隠しているのだとしたら、「変わるかもね」という言葉は、一体どこに着地するのだろう。

 嘘の青が別の色になるということなのか。それとも、私がまだ知らない本当の色が、さらに違う何かに変わるということなのか。どちらにしても、私にはまだ見えていない場所の話をされているような気がしてならなかった。

 紬の内側には、私が入れてもらえていない部屋がある。その部屋の扉の向こう側で起きていることを、紬は時折こうやってほんの少しだけ匂わせる。でも扉は開けてくれない。

 そのことが、手を細い針で刺すように、ちくりと痛かった。

「……そうだね」

 私はそれだけ答えた。自分でもわかるくらい、浅い声だった。もっと深い場所から声を出したかったのに、出てこなかった。紬がこちらを見たような気配があったけれど、私は前を向いたまま歩き続けた。

 振り向いたら、たぶん聞いてしまう。紬の本当の色のことを。聞く覚悟がまだできていないのに聞いてしまったら、聞いた後の自分がどうなるのかわからなくて、怖かったのだ。