夜空を泳ぐ海月は、孤独な私に嘘をつく

 夏祭りから四日が経っていた。

 月曜日の昼休み、天音がいつもの様子で「今日の放課後、駅前の新しいタピオカ屋行かない?」と誘ってきた。

 いつもなら「いいね」と返す。それが私の役目で、私の反射で、私という人間の形だ。でも今日は図書委員の当番がある。紬と、いつもの場所で過ごす時間がある。

「ごめん、今日図書室だから」

 天音の表情が、ほんの一瞬だけ固まったけれどすぐに戻った。

「あ、そっか。図書委員だもんね」

 笑っている。いつもの天音だ。でも笑顔が浮かぶまでの間に、コンマ何秒かの空白があった。それを私は見たのに、見なかったことにした。

「また今度行こうよ」
「うん!」

 天音が元気よく頷いて、ツインテールが肩で跳ねる。

 放課後。教室に残って帰り支度をしていたら、天音も残っていた。

 他の生徒はもうほとんどいない。廊下から聞こえる話し声も遠くなって、教室には西日と埃と、二人ぶんの呼吸だけがある。

 鞄のファスナーを閉めて立ち上がったとき、天音の声が飛んできた。

「幸」

 振り向く。天音が自分の席に座ったまま、こちらを見ている。いつもの丸い目。いつもの顔。でも口元が笑っていない。天音の顔から笑顔が消えているのを見るのは、中学のとき以来だった。

「最近ずっと私のこと後回しにしてるよね」

 声は静かだった。怒鳴っているわけじゃない。ただ事実を並べるように、一語ずつ丁寧に言葉を置いている。

「後回し、って……」
「図書委員の日は仕方ないって思ってた。当番だもんね。でもそれ以外の日も、前みたいに一緒にいてくれなくなった」

 天音の指が、スカートの裾を握っている。力が入っていて、布地に皺が寄っている。

「放課後とか、私が誘っても『ごめん』って。前の幸は絶対断らなかったのに」
「それは……」
「LINEも。カラオケのとき断ったの覚えてる? テスト勉強してるって言ったよね。あのときカフェにいたの、夜宮さんとでしょ」

 心臓が冷えた。カフェのことは言っていない、天音に言うような話じゃなかったから。でも天音は知っていた。誰かに聞いたのか、見たのか。

「天音……」
「夏祭りのときも嘘ついたじゃん」

 天音の声が、一段上がった。静かだった水面に最初の波が立つように、声の底に熱が混じり始める。

「用事があるって言ったよね。用事なんかなかったんでしょ。私を断ってから夜宮さんを誘った。そうでしょ」

 否定できなかった。全部、その通りだ。用事なんかなかった。天音を断ってから紬を誘った。

「私ね、あのとき聞きたかったよ。なんで断るのって。でも聞いたら幸が困ると思って聞かなかった」

 天音の声が震え始めている。スカートを握る指の関節が白い。

「夏祭りで会ったとき、幸が夜宮さんのこと『図書委員の子』って言ったの、覚えてる?」

 覚えている。紬の名前を出さなかった、それは紛れもなく天音の前で紬を「紬」と呼ぶことに、無意識の抵抗があったからだ。

「私の前では名前で呼べないんだって思った。それって、私に隠したいってことでしょ。私に見せられない何かがあるってことでしょ」

 言葉が、一つずつ正確に刺さってくる。柔らかい場所を狙っている刃ではない。ただ事実を事実のまま突きつけている。だからこそ避けようがない。

 天音が椅子から立ち上がった。目が赤くなっている。でもまだ泣いていない。泣く前の、感情が臨界点に達する直前の顔。

「幸は私にも猫被ってるんでしょ」

 空気が変わった。教室の温度が二度くらい下がったような、そんな錯覚。

 なんで、バレてたのかな。わかりやすかったのだろうか。

 そんな考えを見透かすように話を続ける。

「知ってたよ」

 裏返った声で、天音はそう告げた。

「ずっと知ってた。幸がみんなの前で作ってる顔と、本当の顔が違うこと。私の前でも、ずっとそうだったこと」

 膝から力が抜けそうになった。机の角を掴んで、かろうじて立っている。

「なんで言わなかったか知ってる? 幸がいつか自分から言ってくれるって信じてたから。ずっと待ってた。でも待ってたのは私だけだった。幸は待たせてることにすら気づいてなかった」

 天音の目から涙がこぼれた。

 一粒、頬を伝って顎から落ちる。天音は拭わず、というより拭う余裕もないまま、次の言葉を絞り出している。

「私より夜宮さんのほうが大事なんでしょ」

 違う、と言いたかった。喉まで来ている。でもその「違う」は本当に本当のことなのか、確信が持てなくて声にならなかった。

 天音が待っている。否定の言葉を。でも私は何も言えないまま、天音の涙を見ている。

 視界が滲んだ。自分が泣いていることに、涙が顎を伝って制服の襟に落ちるまで気づかなかった。

「天音、ごめ――」
「もう今日は帰る」

 天音が鞄を掴んで、教室を出ていった。足音が廊下に響いて、小さくなって、消えてしまう。

 教室に一人残された。

 西日が長い影を作っている。机の上に散った自分の涙の跡が、光を受けて光っている。鼻の奥が痛くて、目が熱い。

  涙が止まらないのに、声は出ない。泣き方がわからなかった。いつから泣いていなかったのかも、思い出せない。

 仮面が剥がれた後の顔がどんな顔なのか、自分では見えない。ただ教室の窓に薄く映る自分の輪郭が、いつもより小さく見えた。

 天音の言葉が、一つずつ体の中で場所を見つけて沈んでいく。後回しにしていた。嘘をついていた。猫を被っていた。知っていた。待っていた。全部、本当のことだ。全部、私が目を逸らしてきたことだ。

 教室のチャイムが鳴った。誰もいない教室に響く電子音が、場違いなほど軽やかだった。

 *

 翌日の朝、教室に入ると天音がもう席に座っていた。

 目が合った。天音が笑った。「おはよ」と、いつもの声で言った。口角が上がって、目が細くなって、頬が丸くなる。見慣れた笑顔。完璧な笑顔。

 昨日の泣き顔が、嘘だったみたいだ。

 でも私にはもうわかっている。あの笑顔の下に何があるのか。昨日、教室で見てしまったから。天音の涙と声の震えを知った後では、この笑顔の継ぎ目が見えてしまう。

 天音が普通にしていることが、一番苦しかった。怒ったままでいてくれたほうが楽だった。怒りは受け止め方がわかる。でも笑顔で隠された傷は、どこをどう触れば修復できるのかわからない。

「おはよ」

 私も笑顔を返した。その笑顔がどんな顔だったのか、自分ではわからない。

 放課後、図書委員の当番。

 返却本を戻し終えて、いつもの場所に座った。紬は文庫本を開いて、私はタブレットを膝に乗せている。窓からの西日はもう弱くて、本棚の隙間に差し込む光が薄い橙色から灰色に移り変わっていく時間帯だった。

 紬は何も聞かなかった。

 私がいつもと違うことには気づいているはずだ。タブレットの画面をスクロールしているふりをしているけれど、指が同じ場所を行ったり来たりしていることくらい、隣に座っていればわかる。

  でも紬は聞かない。いつもそうだ、私が口を開くまで、ページをめくる音だけを隣に置いている。

 五分。十分。本棚の向こうで誰かが椅子を引く音がして、それも消えた。

「天音と喧嘩した」

 声に出したら、思ったより喉が震えた。紬が文庫本をゆっくり閉じた。しおりを挟む指先が一瞬止まって、それからそっとページの間に滑り込ませた。

「私が悪いの」

 詳細は言わなかった。天音がどんな言葉を並べたのか、自分がどれだけ何も言い返せなかったのか。それを紬に伝えることは、天音の感情を勝手に渡すことだと思ってしたくなかった。

「天音のこと後回しにしてた。ずっと」

 紬は黙って聞いていて、相槌も打たない。ただ体ごとこちらに向けて、私の声を受け止めている。本棚に囲まれた狭い空間が、告解室みたいだと思った。声が外に漏れない。ここでなら、少しだけ正直になれる。

 沈黙が落ちた。長い沈黙だからか、鮮明に紬の呼吸の音が聞こえる。

「幸ちゃんはどうしたいの」

 紬がようやく口を開いた。責めでも慰めでもない、ただの問いかけだ。

「天音と仲直りしたい」
「じゃあそうしよう」

 紬らしい答えだと思った。余計なことを足さないし、判断を委ねない。「そうしよう」と短く背中を押すだけ。

 でも、次の言葉が来た。

「私のことは気にしないで。しばらく離れたほうがいいと思う」

 顔を上げると、紬は膝の上に置いた文庫本の表紙を指先で撫でていた。目線は私にではなく、自分の手元に落ちている。

「天音ちゃんが怒ってるのは、幸ちゃんが私を優先したからでしょ。なら今は天音ちゃんを優先しなよ」

 紬の声は淡々としていた。事実を述べているだけの、いつもの口調。感情が削ぎ落とされた、乾いた声。でもその乾きの裏側に何があるのか、いつものように私には読み取れなかった。

 紬がふと、窓の外に目を向けた。一瞬だけ。本棚の隙間から見える空は、夕暮れから夜に変わりかけていて、灰色の海月がぼんやりと浮かんでいる。

 紬が何を見ていたのかはわからない。海月なのか、空なのか、もっと遠くの何かなのか。その一瞬だけ、紬の目に淡い光が揺れた気がした。

 すぐに紬の視線は手元に戻った。文庫本の表紙を撫でる指が、ほんの少しだけ力を込めている。

「でも」

 私が言いかけると、紬が顔を上げて笑った。

「大丈夫。どこにも行かないから」

 穏やかな声で、いつもの紬の笑顔だった。安心させるための笑顔ではなくて、ただ事実を伝えているだけのような――そう思わせる自然さがあった。

 私は頷いた。紬と少し距離を置いて、天音に向き合う。そうするべきだと思った。紬がそう言ってくれたから、そうする。

 帰り支度をして図書室を出るとき、振り返った。紬はまだクッションに座っていた。文庫本を開いて、読み始めている。一人で。さっきまで私がいた隣の空間が、ぽっかりと空いている。

 その空間を見たとき、耳の奥で紬の「どこにも行かないから」が反響した。

 安心したかったのか、不安だったのか。自分でもわからないまま、私は図書室の扉を閉めた。

 三日後の放課後。

 ようやく決心がついて、私は放課後に天音を誘うことを決めた。

 午前中の授業の間ずっと、言葉を選んでいた。何を、どの順番で、どんな声で言えばいいのか。

 結局、何も決まらないまま昼休みが来て、昼休みが過ぎて、五時間目が過ぎて気付く間に放課後になってしまった。

 教室で帰り支度をしている天音の背中に、声をかけた。

「天音。放課後、時間ある?」

 天音が振り向いた。一瞬、目が揺れていてでもすぐにいつもの表情に戻って「いいよ」と返した。

 教室は使わなかった。あの日の空気がまだ残っている気がして、外に出た。校門を抜けて、通学路を二人で歩く。前を向いて並んで歩けば、お互いの顔を見なくていい。そのほうが話しやすいと思った。

 夕方の風がぬるい。蝉が鳴き始めている。アスファルトに落ちた二人の影が、長く伸びて重なりかけている。

 先に口を開いた。

「ごめん」

 天音の足音が、一拍だけ乱れた。でもすぐにまた、私と同じリズムで歩き始めた。

「私、天音にも嘘ついてた」

 ここからは、一つずつ言葉にした。仮面を被っていたこと。みんなの前で作っている笑顔と、本当の自分が違うこと。天音の前でも、ずっとそうだったこと。嫌われるのが怖くて、本当の自分を見せられなかったこと。紬を優先して、天音を後回しにしていたこと。

 一つ言うたびに、体の中から何かが剥がれ落ちていく感覚があった。鎧を脱ぐというよりも、皮膚ごと剥がされていくような痛みに近い。むき出しの肉に風が触れている。

 でも、言い続けた。止まったら二度と口を開けなくなる気がした。

 天音はしばらく黙って歩いていた。私の言葉を、一つずつ受け止めて、噛んで、飲み込んでいるような沈黙。並んで歩いているのに、天音の表情は見えない。見ないようにしているのは私のほうだった。

「知ってた」

 天音が言った。

 あの日と同じ言葉だ、でも声の色が違った。あの日の「知ってたよ」は、振り下ろされる刃だった。今日の「知ってた」は、長い時間をかけて研がれた刃を、ようやく鞘に戻すような声だった。

「ずっと知ってたよ、でも幸の口から聞きたかった」

 天音の声が細くなった。

「待ってたんだよ。幸がいつか自分で言ってくれるって、幸が信じて話してくれるって、中学のときからずっと」

 中学のとき、天音が不登校だった頃。先生に頼まれて天音の面倒を見始めた頃だ。

 私は評価を上げるためにそれを引き受けたのを天音は最初から気づいていたのかもしれない、私の動機にも、私の仮面にも。気づいた上で、私の隣にいた。

「でも待つの、しんどかったよ」

 天音の足が止まって、私も止まる。横を向くと天音が泣いていた。唇を噛んで、涙を堪えようとしているのに堪えきれなくて、頬を伝って落ちていく。

 あの日の教室と同じだ。でも今日の涙は、怒りから出ているのではない。もっと深い場所から、長い時間をかけて地表に滲み出してきた水のようだった。

「ごめん……」

 泣いちゃってるのか、今。

 気づいた頃には自分の頬が濡れていて、視界がぼやけていた。でもあの日と違って、泣き方がわからないとは思わなかった。

 ただ泣いていた。天音と同じ場所で、同じ涙を流している。

「全部許すとかそういうんじゃないからね」

 天音が泣きながら言った。声がぐしゃぐしゃに崩れている。

「うん」
「でも、幸が自分で言ってくれたから。それだけで十分」

 天音が鼻をすすった。袖で涙を拭おうとして、制服の袖がびしょびしょになっている。

「鼻ぐしゅぐしゅで最悪」

 顔がぐちゃぐちゃで、目が赤くて、鼻が光っていて、それでも天音の笑い方だった。自分の情けなさを自分で笑える、天音の強さだった。

 つられて笑ってしまった。鼻水が出ているのに、声を上げて笑った。お腹に力が入って、涙がまた滲んで、笑っているのか泣いているのかわからなくなった。

 道の真ん中で、二人で泣いて笑っている。通りすがりの人が不思議そうにこちらを見て、通り過ぎていった。

 笑い疲れて、また歩き始めた。天音の肩が、さっきより近い。影が重なっている。

「これからは嘘つかないで」

 天音が鼻をすすりながら言った。

「断るなら理由言って。それだけでいいから」
「うん」
「約束ね」
「うん。約束する」

 天音がポケットからハンカチを出して、目元を押さえた。ハンカチには小さな花の刺繍がしてある。中学のとき天音が買って、ずっと使っているやつだ。

「あとね」

 天音がハンカチを畳みながら言った。

「来年の夏祭りは私も誘ってよね」

 その言葉に、紬の声が重なった。「来年も来られるといいな」河川敷で、花火が消えた空を見上げながら呟いた紬の独り言。あのときの、どこか遠い目。

「うん、絶対」

 声が少しだけかすれた。

 天音はそれに気づかなかったのか、気づかないふりをしたのか。ハンカチをポケットにしまって、前を向いた。

「夜宮さんのことはまだよくわかんないけど」

 天音が少し首を傾げて言った。

「幸がそこまで一緒にいたい人なら、いつか紹介してよ」
「……うん」
「絶対ね!」

 駅に着いた。改札の手前で天音が立ち止まって、振り返った。

「幸」
「ん?」
「また明日ね」

 頷いた。声にならなかったけれど、天音には伝わったと思う。天音がICカードをタッチして改札をくぐった。向こう側で手を振って、エスカレーターに乗って、見えなくなる。

 一人になった。

 でも今日は、体から熱が抜け落ちていく感覚がなかった。カラオケの後も、クレープの後も、いつも一人になった瞬間に起きていたあの虚脱が、今日はない。代わりに体の中に残っているのは、鈍い疲労と、目の奥のひりつきと、それからもう一つ。

 温かいなにかだ。

 天音と泣いて笑った時間の余熱が、まだ胸のあたりに留まっている。

 天音と、本音で繋がれた。嘘をつかなくても隣にいてくれる人がいた。私が仮面を外しても、天音はそこにいた。中学のときからずっと、待っていてくれた。

 その実感が、体の内側をじんわりと満たしている。

 同時に、もう一人の顔が浮かぶ。

 紬。

 紬と距離を置くと決めた。紬自身がそう言った。「しばらく離れたほうがいい」と。「どこにも行かないから」と。私は頷いた。天音に向き合うために、紬から離れることを選んだ。

 天音とは仲直りできた。距離を置いた理由は果たされた。なのに胸の中に空いている穴は、天音の形をしていなかった。天音と繋がり直せたことで満たされたはずの場所の、もう少し奥。そこにある空洞は、紬の形をしている。

 スマホを取り出してLINEを開く。紬の名前をタップすると、トーク画面が開いた。最後のやりとりは三日前。図書室で別れる前に「おつかれ」と一言だけ送ったメッセージ。既読がついて、スタンプが一つ返ってきている。それきりだ。

 メッセージを打つ。

『天音と仲直りした』

 打って、指が止まる。これだけでいいはずだ。報告。紬が「天音ちゃんを優先しなよ」と言ってくれたから、そうした。その結果を伝える。それだけでいい。

 でも指が勝手に続きを打っている。『ありがとう』ここまではいい。紬の助言への感謝。自然な言葉だ。

 指がもう一言、打つ。

『会いたい』

 送信ボタンの上で、親指が止まった。

 画面を見つめる。「天音と仲直りした。ありがとう。あと今すぐ会いたい」

 友達に送るメッセージとしては、別におかしくない。天音にも「会いたい」と送ることはある。でもこの言葉が紬宛てになった途端、文字の一つ一つが別の重さを帯びている。

 会いたい。
 どういう意味での「会いたい」なのか。友達として。図書委員の相方として。それとも。

 考えるのをやめて、私の親指が送信ボタンに落ちた。

 画面にメッセージが浮かぶ。吹き出しの中に収まった言葉が、もう取り消せないものとしてそこにある。

 既読がつくまで、十秒。二十秒。一分。スマホを握る手のひらが湿っている。

 画面を見ているのに文字が読めない。目の焦点が合わなくて、紬のアイコンだけがぼんやりと浮かんでいる。

 既読がついた。

 三つの点が動いている。紬がメッセージを打っている。点が動いて、止まって、また動く。

 返信が来た。

『よかった。私も会いたかった学校の前きて』

 画面の中の紬の言葉を、何度も読み返した。距離を置いている間、紬もこちらに会いたいと思っていた。思っていたのに、自分からは言わなかった。「しばらく離れたほうがいい」と言った本人が、離れている間ずっと会いたかった。

 スマホを握ったまま、しばらく画面を見ていた。

 信号が青になったとき、ようやく足が動く。スマホをポケットにしまって、横断歩道を渡る。体の中の空洞が埋まったわけではないけれど、空洞の縁に、温かいものが触れている。天音との余熱とは別の温度。もっと静かで、もっと細くて、指先に触れたら消えてしまいそうな熱。

 学校の前に着いたのは、メッセージを受け取ってから二十分後だった。

 走ったわけじゃない。でも信号が赤に変わるたびに足踏みをしていたし、いつもの帰り道を逆走して学校に戻る自分の足取りが、自分でも驚くほど迷いがなかった。

 家とは反対方向にまっすぐ進む足を、一度も止めなかった。

 校門はすでに閉まっている。部活動の時間はとっくに終わっていて、グラウンドには誰もいない。校舎の窓は全部暗くて、夕暮れの空の下に建物の輪郭だけが黒く浮かんでいる。

 紬は、校門の横の石柱にもたれて立っていた。

 制服のまま。鞄を肩にかけながら、スマホを握って、下を向いている。私が近づく足音に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。

 目が合った。

 紬の顔は、いつも通りだった。穏やかで、静かで、何を考えているのか読み取れない。図書室で本を読んでいるときと同じ目。でも目の下に薄い影ができていて、唇の色がいつもより少しだけ白い。

「早かったね」

 紬が言った。声も、いつも通り。

「別に走ったりはしてないから」
「知ってるよ息上がってないもん」

 意地張っている私をからかうように、小さく息を吐いて笑う。その仕草に少しだけむくれて、紬の足元に目線を落としたが、すぐに紬の目に吸い寄せられてしまった。

 心臓が速い。走っていないのに心拍数だけが上がっている。紬の顔を見た瞬間に、体のどこかのスイッチが入ったらしい。

「天音と、ちゃんと話せた?」
「うん、話せた。ちょっと泣いちゃったけどね」
「そっか」

 紬が小さく頷く。言葉を受け取って、それ以上何も聞かない。いつもの紬だ。待っている。私が話したければ聞くし、話さなければ黙って隣にいる。

「紬のおかげ」
「私は何もしてないよ」
「した。紬が離れたほうがいいって言ってくれたから、天音に向き合えた」

 紬は何も言わなかった。石柱にもたれたまま、私を見ている。夕暮れの光が紬の髪を赤く染めていて、制服の白いブラウスが橙色に透けている。

「会いたかったって、ほんと?」

 聞くつもりはなかった。でも口から出ていた。LINEの言葉をもう一度声で確かめたかった。画面の中の文字ではなく、紬の声で聞きたかった。

 紬が、ほんの少しだけ目を伏せた。睫毛の影が頬に落ちる。

「ほんと」

 短い答えだった。でもその一言にスマホだけでは収まりきらなかったものが滲んでいるような気がする。声の端が微かに掠れていて、「ほんと」の「と」の音が夕方の空気に溶ける。

 自分から離れろと言った人が、離れている間ずっと会いたかった。その矛盾を、紬は「ほんと」の一言にだけ込めて、それ以上は説明しなかった。

 蝉の声が遠くで鳴っていて、校舎の時計塔の針が動く音が、嘘みたいにはっきり聞こえる。

 紬が石柱から背中を離して一歩、こちらに踏み出した。

 肩に紬の腕が回って、引き寄せられる。そんなに強い力ではなかった。でも離す気のない腕だと、体温から感じる。

 紬の鎖骨のあたりに額が当たって、ブラウス越しに紬の体温が伝わってくる。シャンプーの匂い。図書室の本棚の隅で隣に座っていたときに嗅いだのと同じ匂い。でも今は、布地一枚を隔てただけの近さで、呼吸するたびに肺の奥まで入ってくる。

 体が硬直してしまう、腕をどうすればいいかわからない。下ろしたまま突っ立っているのが自分でもわかっている。紬の腕の中にいるのに、体がそれに追いついていない。

「三日間、長かった」

 紬が言った。耳のすぐ近くだからか、吐息が首筋にかかって、体が震える。

 三日間。たった三日だ。

「……ごめん」
「謝らないで。幸ちゃんは正しいことをした」

 紬の腕にほんの少しだけ力がこもった。引き寄せるのではなく、確かめるような力。ここにいるよね、と体で問いかけるような。

 硬直していた腕が、ようやく動いた。

 紬の背中に手を回した。ブラウスの布地の下に、肩甲骨の硬さがある。紬の体は細くて、腕を回すと背中の幅が思ったよりずっと小さい。こんなに小さかったのか、と思った。

 教室で存在感を消している紬。図書室で本を読んでいる紬。その紬が、今私の腕の中にいて、この小さな背中で三日間の寂しさを黙って抱えていた。

 涙が出なかった。天音の前では泣けたのに、紬の腕の中では涙が出ない。代わりに、体の芯を一本の熱い線が貫いた。頭のてっぺんから足の裏まで、まっすぐに。震えも痛みもない。ただ熱い。紬の体温と自分の体温の境目がわからなくなるくらい、熱い。

 どのくらいそうしていたのかわからない。三十秒かもしれないし、三分かもしれない。時計塔の針の音が聞こえなくなっていた。蝉の声も。世界が紬の腕の中だけに縮まって、そこだけが静かだった。

 紬が先に腕を解いた。少し離れて、私の顔を見る。夕暮れの逆光で紬の表情はよく見えなかったけれど、目だけが光を拾って、濡れたように光っていた。

「ありがとう、来てくれて」

 紬が笑った。いつもの笑顔だった。でもその笑顔の下に、さっき腕に込めた力の意味と、「三日間、長かった」の声の重さと、LINEの「私も会いたかった」の過去形と、その全部が仕舞われていることを、今の私は知っている。

「うん」

 校門の前に、二人の影が長く伸びている。夕陽が沈みかけていて、影の先端がアスファルトの向こうに消えている。紬が鞄を肩にかけ直して、「帰ろっか」と言われ、並んで歩き始めた。

 肩と肩の距離は、朝のコンビニの帰り道と同じくらいだ。でも同じ距離なのに、同じ距離じゃなかった。

 さっきまで紬の体温があった場所が、夕方の空気に触れてゆっくりと冷めていく。その冷めていく速度を、体が正確に覚えている。

 紬の体温を知ってしまった。

 腕の中の背中の小ささを知ってしまった。

 それを知る前には、もう戻れないのだ。

 私は紬のことを、好きになったのかもしれない。