夜空を泳ぐ海月は、孤独な私に嘘をつく

 テスト期間に入って、図書委員の当番がなくなった。

 放課後が空白に戻る。教室で問題集を開いて、チャイムが鳴ったら帰る。それだけの日が数日続いた。紬は窓際の席で参考書に向かっていて、私は自分の席で問題集のページをめくっている。

 図書の当番がないとやっぱり私たちに会話はない。図書室の本棚の隅で隣に座っていた距離感は、教室では成立しない。席が五つと通路が二つ。その間を埋める理由が、今の私にはなかった。

 テスト二日前の放課後。

 教室を出て、図書室に向かった。テスト期間中は自習室として開放されているから、静かに勉強できるかもしれないと思ったのだ。

 でも扉を開けた瞬間、諦めた。

 閲覧席もテーブルも全部埋まっていて、空いている椅子は一つもない。奥の、あのクッションのある場所に行こうかとも考えたけれど、もう誰かいるかもしれないし、他の人にむやみに知られてしまうのは紬が少し可哀想だ。

 しかたない、一人でどこかのカフェにでも行こう。

 校門に向かって歩いていると、昇降口の前で紬とすれ違った。紬も鞄のほかに問題集を小脇に抱えていて、どこかへ向かう途中らしい。

「どこで勉強するの」

 自分から声をかけていた。図書委員の当番があった頃なら、すれ違うだけで終わっていたかもしれない。でも今は、紬の姿を見つけた瞬間に声が出ていた。

 すると紬は目を大きく見開いて、足を止めた。私から話かけられると思っていなかったらしい。

「まだ決めてない。図書室混んでた?」
「すごかった。座る場所ゼロ」
「だよね、テスト前はいつもそう」

 紬が困ったように首を傾げるのを見て、自然とと口が動く。

「じゃあ一緒に行く? カフェで勉強しようと思ってたんだけど」

 言ってしまってから、心臓が一拍だけ強く打った。でもそれは緊張というより、自分の口から出た言葉に自分で驚いた、という種類のものだ。

 たまたま会った延長線上の、ただの流れ。そういうことにした。

「いいの?」
「テスト勉強するだけだし」
「じゃあ行く」

 紬が小さく笑って、私の隣に並んだ。

 なんか、機嫌良さそうだな。

 多分、少し前まで友達以下だったからか、私に話しかけてもらえて嬉しい。そんなところかな、紬のことはまだ友達、と呼んでいいのかわからないけれど、私のおかげで上機嫌になってもらえるというのは気分が悪いものではない。


 駅前の通りを少し入ったところにあるカフェは、平日の夕方ということもあって空いていた。奥のテーブル席に向かい合って座る。紬が鞄からノートと参考書を出し、私も問題集を広げた。

 メニューを開く。ドリンクの欄を目で追って、すぐに閉じた。

「すみません、いちごミルクひとつ」
「じゃあ私はこのウーロン茶で」

 店員が去っていくと、紬が口元を緩めた。

「また飲んでる」
「……好きなんだよ」
「知ってる。コンビニでも買ってた」

 紬はそれだけ言って、参考書に目を落とした。

 覚えてたんだ。あの朝、隣を歩きながら飲んでたいちごミルクのことを。

 紬はノートに向かって集中している。参考書とノートの間を視線が行き来して、ペンが止まらずに動いている。私も問題を解き始めた。公式を思い出して、数字を当てはめて、計算を進める。

 沈黙が続く。

 でも、この沈黙は知っている。図書室の本棚の隅と同じ質感の空気が、カフェのテーブルの上にも静かに広がっている。話さなくていい。笑わなくていい。ただ同じ場所にいて、それぞれのことをしていればいい。

 カフェの雰囲気がいいんだろう、と思った。BGMが控えめで、照明が落ち着いていて、席と席の間隔が広い。だからこんなに居心地がいい。そういうことだ。

 いちごミルクをストローで吸いながら、問題集の三ページ目に入ったところで、スマホが振動した。

 画面を見る。友達グループのLINE。

『今からカラオケ行かない? テスト前だけど息抜き!』

 指が反射的に動く。「いいよ!」と打ちかけて、親指が送信ボタンの手前で止まった。

 目の前で、紬がノートに何かを書き込んでいる。

 前髪が少し落ちてきているのに、耳にかけもしない。ペン先がノートの上を走る音が、小さく、規則的に聞こえている。集中しているときの紬の横顔は、教室で本を読んでいるときとも、図書室で並んで座っていたときとも少し違う。眉間にうっすら皺が寄っていて、唇が微かに動いている。頭の中で何かを唱えているのかもしれない。

 指が、「いいよ!」の文字を消した。

 代わりに「ごめん、今日は勉強する!」と打ち直して送信する。スマホを裏返しにして、テーブルの端に伏せた。

 紬はスマホに気づいてすらいないらしく、参考書のページをめくって、次の問題に移っている。

 真面目にやらないとな。

 数分後、紬がふと顔を上げた。

「さっきスマホ鳴ってたけど、大丈夫だった?」
「友達からカラオケ誘われたけど断った」

 紬が少し目を見開いた。

「断ってよかったの?」
「明後日テストだし」

 軽く返す。紬はそれ以上聞かなかった。でも一瞬だけ、紬の口元が緩んだのが見えた。

 嬉しそう、とまでは言い切れないけれど、何かが和らいだ、としか表現できない顔。さっきまで眉間に寄っていた皺が消えて、目元の力が抜けている。

 その顔を見たとき、さっきの選択が正しかったような気がした。正しい、という言葉は変だけれど、他に当てはまるものが見つからない。

 それから十分ほど経って、もう一度スマホが振動した。今度はグループではなく、個別のメッセージ。

 天音からだった。

『幸ー、明日帰りに寄り道しない?』

 返事を打とうとして、指が一瞬迷う。でもすぐに入力した。

「ごめん、明日テスト勉強する!」

 送信。数秒後にスタンプが返ってくる。天音がよく使う、パンダがガッツポーズしているやつ。『おっけー頑張って!』

 それだけのやりとりだ。何の変哲もない、テスト前に友達の誘いを断って勉強する。

 スマホをもう一度裏返して伏せる。紬は変わらず参考書に向かっていて、私も問題集に目を戻した。

 さっきの天音のスタンプが、まぶたの裏にちらつく。パンダのガッツポーズ。明るくて、軽くて、何も引っかからないはずの画像。なのにどこか気が重くなっている気がした。


 外が暗くなり始めた頃、紬が参考書を閉じた。

「そろそろ出る?」
「うん」

 伝票を持ってレジに向かう。紬が先に会計を済ませて入口で待っていた。私も支払いを終えて外に出ると、六月の夜の湿った空気がまとわりつく。日中の暑さが地面に染み込んだまま蒸し返していて、一歩踏み出しただけで肌がべたつく。

「今日ありがとう。集中できた」
「こっちこそ」

 並んで歩き始める。カフェの前の通りは人通りが少なくて、街灯の光が等間隔に落ちている。靴音が二人ぶん、湿ったアスファルトの上で乾いた音を立てていた。

 紬が何か言いかけた、そのとき。

「ねえ、一人?」

 声が横から飛んできた。カフェの二軒先、コインランドリーの前にたむろしていた男子のグループ。三人。学校の制服ではない私服姿で、うちの一人が紬の前に回り込むように歩み出た。

「一緒に遊ばない? 暇でしょ」

 紬は無視して歩こうとした。でも男子がもう一歩前に出て、進路を塞ぐ。

「ちょっと待ってよ、話聞いてよ」

 紬の足が止まる。紬の横顔からは表情が読み取れない。怖がっているのか、怒っているのか、何も感じていないのか。ただ足を止めて、前を塞いでいる相手を見ている。

 体が動いていた。

 頭で考えるより先に、足が紬のほうに踏み出していた。紬の腕を掴む。自分の手が紬の腕に触れている感触が、やけにはっきりと伝わってくる。制服の布地の下にある紬の腕は、細くて、冷たかった。

「友達なんで」

 声は震えていない。でも心臓が肋骨を殴るみたいに暴れている。男子たちの間を抜けるとき、肩が誰かの腕に当たった。振り返らなかった。紬の腕を掴んだまま、早足で歩く。

 角を一つ曲がって、人通りのない路地に入ったところで足を止めた。息が上がっている。走ったわけでもないのに、呼吸が浅くて速い。心臓がまだうるさい。

 私はこういう場面で動ける人間じゃなかった。誰かが困っていても、自分が矢面に立つことを避けてきた。委員会で誰も手を挙げないとき、先生に頼まれるまで待っていたのと同じだ。

 自分からは動かない。
 動けない。

 それが私だったはずなのに。

「大丈夫?」

 紬に聞いた声は少し裏返っていて、格好つける余裕はないんだと体で分からされた。

 紬は少し間を置いてから答えた。

「ありがとう」

 声に温度がなかった。冷たいわけじゃないけれど、ただ平坦で感情が抜き取られたような声。図書室で本の話をしていたときの紬とも、さっきの紬とも違う。

 紬の目が、さっきまでとは別のものになっていて、カフェで参考書に向かっていたときの柔らかさが、きれいに消えている。

 守れたはずなのに、手応えがない。紬は「ありがとう」と言ったのに、それが私に向けられた言葉だという実感が湧かない。壁に向かって投げたボールが、壁に当たらずに消えたような感覚だ。

「お礼なんていいよ」

 自分の声が、不自然なほど明るく響いた。教室でクラスメイトに向けるときのトーン。営業用のスイッチが、紬の前で初めて入りかけている。紬の隣では外れていたはずの仮面を、紬が壁を見せた瞬間に私は反射的に戻そうとしている。

 紬はそれに気づいたのか、気づかなかったのか。表情からは何も読み取れない。

「んーん、ありがと。じゃあまた明日」

 短く言って、紬は別の方向に歩いていった。背中が街灯の光を横切って、暗がりに溶けかけていく。

 追いかけなかった、というより追いかける理由がない。でも紬の背中が見えなくなった後、手のひらにまだ紬の腕の感触が残っている。

 制服の布地越しの細さと冷たさ。あのとき掴んだ腕は、振りほどかれなかった。でも掴み返されることもなかった。ただそこにあっただけ。

 一人で帰り道を歩く。

 今日起きたことを、頭の中で並べてみる。

 前に進んだのか、後退したのか。全部がごちゃごちゃに混ざって、判断がつかない。

 空を見上げると、灰色の海月が浮かんでいた。

 まだ灰色だ。

 それだけ確認して、目を戻した。足元のアスファルトが街灯に照らされて、自分の影だけが長く伸びている。その影を踏みながら、家に向かって歩いた。

 *

「やっとテスト終わったー」
「だねー」

 テスト期間が明けた日の放課後、天音が私の席にやってきた。

 手には購買で買ったメロンパンを持っていて、袋を開けながら椅子を引き寄せて隣に座る。いつもの距離感だ。

「ねえ幸、週末の夏祭り一緒に行こうよ」

 天音がメロンパンをちぎりながら言った。目が輝いている。去年の夏祭りも天音と行った。一昨年も。夏の予定を天音と共有するのは、もう習慣みたいなものだ。

 いつもなら即答で「いいね」と返す。そのはずだった。

 でも一瞬、間が空いた。

 その一瞬に何が浮かんだのか、私自身にはわからなかったけれど、わからないまま口が動いていた。

「あ、ごめん。その日ちょっと用事ある」

 嘘だった。もちろん、天音たちの友達を抜けば、週末に用事なんてできるはずない。

 予定帳はまっさらで、何もない土曜日が待っているだけのはずだった。

 天音がメロンパンを噛む手を一瞬止めて、それからまた噛んだ。

「そっかー、残念」

 笑って引き下がる、いつもの天音だ。
 踏み込まないし追及しない。

 「何の用事?」とも聞かない。

 でも「残念」の声のトーンが、ほんの少しだけ低かった。前にクレープを食べた帰り道の「なんとなく」と同じ、いつもより一段下がった温度。

 私はそれを聞き流した。天音がメロンパンの残りを口に放り込んで、「じゃあまた今度ね」と立ち上がる。その背中を目で追いながら、胸の奥で何かがちくりと刺さったけれど、私はそれに触れない。

 ちょっと、冷たかったかな。そう考えて、一瞬だけ後ろの席に目を向ける。それに気づいて、慌てて外の風景に焦点を当てた。

 放課後。返却本を棚に戻し終えて、いつもの場所――古い文学全集の突き当たりのクッションに並んで座っていた。紬は文庫本を開いていて、私はタブレットでレポートの下書きを打っている。

 窓からの西日が本棚の隙間に差し込んで、紬を橙色に染めていた。ページをめくる指が光を弾くたびに、ちらちらと影が揺れる。

「週末、夏祭りあるんだけど」

 声に出すまでに、たぶん五分くらいかかった。何度か口を開きかけて閉じて、タブレットの画面をスクロールするふりをした。カフェのときは「勉強場所が必要」という口実があった。今回はそれがない。ただ一緒に行きたい、というだけで、その「だけ」を包む言い訳が見つからなかった。

「行きたい」

 紬が即答した。文庫本から顔を上げるのと返事をするのがほぼ同時で、私は少し目を見開いてしまった。

「早いね」
「うん。お祭り、行ったことないんだよね」
「え、一回も?」
「中学のときは行く相手がいなかったし」

 淡々と言った。重さがない。失ったものを惜しむ声ではなく、最初から持っていなかったものの名前を口にしているだけの、乾いた声。

 その乾きが、かえって私の胸を引っかいた。

「ふーん、じゃあ決まりね」

 軽く返した。紬が「うん」と笑って、文庫本に目を戻した。

 私は紬の横顔を見ていた。ページに落ちた視線、ほんの少し上がった口角、さっきの即答の速さがまだ耳に残っている。

 ためらいのない声と、祭りに行ったことがないという空白。この二つが胸の中でうまく噛み合わない。

 何が引っかかっているのかわからないまま、私はタブレットの画面に目を戻した。

「ねえ紬」
「ん?」
「紬の中学時代ってどんな感じだったの?」

 聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。紬が「行く相手がいなかった」と乾いた声で言ったばかりの場所に、土足で入り込んでいる。

 紬は文庫本のページに指を挟んだまま、すこし間を置いた。

「普通だよ。ほんとに普通」
「普通って?」
「朝起きて、学校行って、帰って、本読んで、寝る。毎日それ」
「そっか」

 紬の声に重さはなかった。失ったものを惜しんでいるのではなくて、最初からなかったものの名前を読み上げているだけの声。

 それ以上は続かなかったし、私もそれ以上は聞けなかった。紬が閉じた扉の前に「ここまで」と書いてあるのが見えた気がして、足を止める。

 紬が文庫本に視線を戻しかけて、すぐに逸らしてしまう。ページに指を挟んだまま、窓のほうに目を向けると、西日が傾いて、空の端がオレンジ色に染まりはじめていた。

 その空に、海月が浮かんでいる。いつも通りの高さで、いつも通りにゆっくりと漂っている。

「幸ちゃんさ」
「うん」
「海月、どう見えてる? 今」

 唐突だった。紬のほうから海月の話を振ってくるのは初めてで、私はタブレットの手を止めた。

「どうって……灰色だけど」
「ずっと?」
「うん。ずっと灰色。まだ変わったことない」

 紬がすこしだけ目を細めて、窓の外を見ている。私が灰色の海月を見ているその空を、紬は見ている。紬の目にどう映っているのか、私にはわからない。

「天音ちゃんは緑だって言ってたよね」
「そう。天音は緑」
「緑って、幸運とかだっけ」
「らしいね。ネットだとそう書いてあった」

 紬が膝の上の文庫本を閉じた。指を挟んでいたページはもう覚える気がないらしくて、そのまま太ももの上に伏せる。

「幸ちゃん、色が変わった人って周りにいる?」
「いない。っていうか、海月の色の話ってみんなあんまりしないんだよね。見えてる同士でもなんか言いづらいっていうか」
「自分の心の中、見せてるみたいなもんだもんね」
「そう。だから聞かないし、言わない。なんていうか、新しい差別の道具みたいになっちゃってて嫌なんだよね」

 紬がうなずいた。うなずきながら、右手の人差し指で文庫本の背表紙をなぞりはじめる。。

「変な話なんだけどさ」
「うん」
「海月の色が変わるってことは、その人の中で何かが動いたってことでしょ。心情とか、信念とか。でもそれって逆に言えば、海月が現れる前は変わらなかったかもしれない未来が、海月のせいで変わったってことにならない?」

 私は紬の言葉を頭の中で反芻した。海月が現れる前は変わらなかった未来。海月のせいで変わった未来。

「……どういうこと?」
「んー、うまく言えないんだけど」

 紬が窓の外を見たまま、言葉を探すように唇を動かした。

「たとえば、ずっと灰色の人がいるとするじゃん」

 私のことだ、と思った。言わなかったけれど、紬もわかっている顔をしている。

「その人は海月が現れる前から苦しかったのかもしれない。でも海月が来たことで、自分の苦しさに色がついた。灰色っていう名前がついた。名前がつくと、それまで曖昧だったものが輪郭を持つでしょ。輪郭を持つと、自覚する。自覚すると——」
「もっと苦しくなる?」
「逆。自覚するから、変われる可能性が生まれるんだと思う」

 紬の声が、さっきまでの雑談の温度から半音だけ下がっていた。図書室の空気がすこしだけ密度を増したような気がする。本棚の間を通り抜ける微かな風が、紬の前髪を揺らした。

「海月がいなかったら、灰色の人はずっと灰色のまま、自分が灰色だってことにも気づかないまま生きていくかもしれない。でも海月がいるから、灰色を見て、灰色じゃない自分を想像できるようになる。想像できるようになった瞬間に、未来が分岐する。変わらなかったはずの未来に、変わるかもしれないっていう枝が生える」
「……紬ちゃん、そういうこと考えてるんだ」
「暇だからね。本ばっかり読んでると考えすぎるんだよ」

 紬が軽く笑った。さっきの半音下がった声を、自分で元の高さに戻すみたいに。

 私は窓の外に目をやると、灰色の海月が空を漂っている。ゆっくりと、傘を広げて、夕陽のオレンジ色の中を灰色のまま浮かんでいる。あれが私の色だ。

 名前をつけられた私の心の色。灰色——絶望、苦しみ。ネットの記事にはそう書いてあった。あの色を見るたびに、自分の胸の穴がそのまま空に映し出されているような気がする。

 でも、紬が今言ったことが正しいなら。

 灰色を見ているから、灰色じゃない自分を想像できる。想像できるから、変わるかもしれない。変わらなかったはずの未来に枝が生える。

 私はタブレットの画面に指を置いて、何も打たないまま、しばらくそうしていた。

 *

 夏祭り当日。

 クローゼットの前に立ってから、もう十五分が経っていた。

「うーんどうしよっか……」

 ハンガーにかかった服を右から左に滑らせて、戻して、また滑らせる。花柄のワンピースを引き出して、体の前に当てる。

 別にそんなに悩むようなことじゃない。夏祭りに行くだけだ。去年、天音と行ったときは学校帰りにそのまま制服で行った。一昨年は適当にTシャツとデニムだった。服装なんて考えたこともなかった。

 なのに今日は、どれを選んでも何かが足りない気がする。可愛すぎると気合いが入っていると思われる。地味すぎるとどうでもいいと思われる。何を着ても、紬の目にどう映るかが頭の隅にちらついて、手が止まる。

 ――紬の目にどう映るか。

 その考えが浮かんだ瞬間、自分で自分にぎょっとした。別に紬に可愛いと思われたいわけじゃない。ただ、お祭りだからちゃんとした格好をしたいだけだ。それだけ。

 結局、紺色のキャミソールワンピースに白いカーディガンを羽織ることにした。落ち着いていて、でもちょっとだけ普段と違う。それくらいが丁度いい。

 鏡の前で最後に髪を整えて、横に流した前髪を指先で直す。イヤリングをつけようとして、やめた。つけたら「頑張ってる」感が出る。普段つけないものを今日だけつけたら、何かを意識していると自分で認めることになる。

 イヤリングをケースに戻して、部屋を出ようとした。

 ドアの前に、いちごミルクが置いてあった。

 今朝お姉ちゃんがコンビニに行った気配はなかったから、昨日の夜に買ってきて置いたんだと思う。紙パックの表面にうっすら結露がついていて、冷蔵庫から出されてそんなに時間が経っていないことがわかる。

 いちごミルクを持って階段を降りる。リビングを通り過ぎるとき、ソファに座ってテレビを見ていたお母さんが振り向いた。

「あら、可愛いじゃない。どこ行くの」
「夏祭り」
「誰と?」
「友達」

 友達。その言葉が自分の口から出た瞬間、舌の上で変な味がした。嘘じゃない。紬は友達だ。でも天音のことを「友達」と言うのと、紬のことを「友達」と言うのでは、同じ言葉が違う形をしている気がする。

「いってきます」

 玄関でサンダルを履いて、外に出た。いちごミルクのストローを刺して、一口吸う。甘い。甘いだけの、なんの捻りもない味。それを飲み干す頃には家から駅までの道を半分歩いていて、空のパックを鞄にしまいながら、もう一度だけ自分の格好を見下ろした。

 紺色のワンピース。白いカーディガン。いつもよりほんの少しだけ丁寧に整えた髪。

 大丈夫。頑張りすぎてない。普通の範囲。そう自分に言い聞かせて、駅への坂を下った。

 待ち合わせは駅前の時計台の下。五分前に着いて、スマホを確認しながら待っていると、人混みの向こうから紬が歩いてきた。

 浴衣だった。

 紺地に白い朝顔の柄。髪をいつもより少し高い位置でまとめていて、うなじが見えている。下駄の音がコツ、コツと人混みの音の隙間に落ちてくる。

「ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ」

 そう返したけれど、声がうまく出なかった。

「親にせっかくなら着て行けって言われて」

 紬が浴衣の袖を少し引っ張って、照れるでもなく事実を述べるように言った。

「どう、似合ってる?」
「……似合ってる」

 視線をどこに置いていいかわからなくて、私は紬の下駄の鼻緒あたりを見ていた。

 屋台の並ぶ通りを歩き始めると、紬がいつもと違った。

 図書室では静かで、教室では存在感を消している紬が、きょろきょろと屋台を見回している。焼きそばの鉄板から上がる煙に目を細めて、射的の屋台の前で足を止めて、りんご飴の並んだケースを指さした。

「あれ何?」
「りんご飴知らないの?」

 思わず笑ってしまうと、紬が少しむっとした顔をする。

「知ってるけど食べたことない」

 まるで本で読んだ世界をようやく歩いているみたいに、一つずつ確かめるように屋台を見ているようだ。

「買ってあげる」
「え、いいよ」
「いいから」

 屋台のおじさんからりんご飴を受け取って、紬に渡した。紬が一口かじる。飴がパリッと割れる音がして、紬の口元に赤い欠片がくっついた。

「甘い」
「そりゃ飴だからね」

 紬が飴を舐めながら笑った。それにつられて私も笑う。屋台の灯りが紬の浴衣の朝顔を照らしていて、祭り囃子が遠くから聞こえている。小さなやりとり。りんご飴一本ぶんの時間。でもこういう時間が、体のどこかに静かに積もっていく感覚がある。

 射的の屋台に戻ってきた。紬がポケットから小銭を出して、おじさんに渡す。コルク銃を受け取ると、棚の上に並んだ景品を真剣な目で見定めた。

 その横顔に、目が離せなくなった。

 図書室で本を読んでいるときの穏やかさとも、カフェで参考書に向かっていたときの集中とも違う。眉間の皺は同じなのに、目の奥に火がついたような光があって、唇がきゅっと引き結ばれている。子供みたいだ、と思う。

 なんか、こういう紬を見るのは初めてかも。

 紬が引き金を引くと、コルクが飛んで景品の横を通り過ぎてしまう。

「あー」
「もう一回やりなよ」

 紬が小銭を追加して、もう一発。今度は景品に当たったけれど、倒れなかった。紬が悔しそうに息を吐く。

「貸して」

 私が銃を受け取って、構えた。狙いを定めて、引き金を引く。すろとコルクが飛んで、棚の隅にぶつかって跳ね返った。景品には触れもしない。

「下手すぎ」
「紬もでしょ」

 一拍おいたと思えば紬が吹き出し始め、それを見て私もつられて笑ってしまった。お腹の底から、ちゃんと笑った。声を上げて、目を細めて、息が苦しくなるくらい笑った。

 笑い疲れて歩き始めると、紬がふと立ち止まった。

 空を見上げている。

 海月を見ているんだろう、と思った。夜空にはいつものように灰色の海月が浮かんでいる。紬にはあれが何色に見えているのだろう。紬が「青色だよ」と嘘をついていたあの日のことが、一瞬だけ頭をかすめる。

 でも紬の目は海月よりもっと奥を見ている。私には見えない、もっと遠い場所を。

 私はそれに気づかないまま、「行こう」と紬の袖を軽く引いた。紬は「うん」と頷いて、空から目を離した。

 人混みが濃くなってきたのは、メインの通りに差し掛かったあたりからだ。

 屋台が両側にびっしり並んで、焼きそばの煙とりんご飴の甘い匂いと、どこかのスピーカーから流れる祭囃子が全部混ざり合い、空気そのものが熱を帯びている。浴衣の裾が誰かの足にぶつかりそうになるたびに紬が半歩下がり、そのたびに私との距離が開く。人の壁が二人の間に割り込んで、紬の浴衣の紺色が見えなくなりかけるたびに、胸の奥で小さな焦りが弾ける。

 三回目に紬が人波に押されてよろけたとき、考えるより先に手が動いていた。

 紬の左手を、右手で掴む。

 指が触れた瞬間、自分の手のひらが急に輪郭を持つ。今まで自分の手がどこにあるのか意識していなかったのに、紬の指に触れた途端、ここにある、と体が主張を始めてしまう。指先から手首にかけて、神経の一本一本が目を覚ましたみたいに騒いでいる。

 「——はぐれると困るから」

 声が出たのは手を掴んでから十秒くらい経ってからで、言い訳にしては遅すぎる。遅すぎるうえに、声が裏返りかけたのを誤魔化すために咳払いまでしてしまって、もう取り繕える段階ではない。

 紬は何も言わなかったし、振り払わなかった。ただ、掴まれた手をそのまま受け入れて、少しだけ指の位置を直す。私が掴んだのを、紬が握り返す形に変わる。

 五本の指が互い違いに収まって、掌と掌の間に汗の湿り気が溜まり始めても、どちらも離さない。

 りんご飴の屋台の前を通り過ぎて、射的の音が背中側に遠ざかって、人混みが少しだけ薄くなる路地に出ても、手はつながったまま。離すタイミングを逃したのではなくて、離す理由がどこにもない。いちごミルクのストローを噛む力加減みたいに、握っている強さが自然と決まっていて、それを変える必要がなかった。

 花火が始まった。

 河川敷に座って見上げる。屋台のある通りからは少し離れていて、人混みはまばらだ。土の冷たさが浴衣の下の紬の膝に伝わっているのか、紬が時々座り直している。

 坂を下りるとき自然に手は離れていて、その瞬間に掌へ夜風が触れ、さっきまでそこにあった紬の体温が急に意識された。手を離しただけなのに、体のどこかが欠けたような、間の抜けた空白。

 思えば、これほどドキドキしながら手を繋いだことはなかったな。天音と繋いでいても安心するばかりだった。

 そんなことを考えていると、ドン、と腹の底に響く音がして、空に光が散った。

 赤、青、金色。夜空を一瞬だけ昼に変えて、すぐに消える。消えた後の闇が、さっきより少しだけ濃く見える。

「きれい」

 紬が呟いた。顔を上げて、花火を追っている目が光を映してきらきらと動いている。

 私も見上げた。花火は確かにきれいだ。でも私の目には、花火の手前に灰色の海月が浮かんでいる。灰色のフィルター越しに見る花火は、紬が見ているものと同じだろうか。紬の目に映る花火の色と、私の目に映る花火の色は、本当に同じなんだろうか。

「きれいだね」

 返した。嘘じゃない。きれいだと思っている。でもその「きれい」の中身が紬のそれと同じかどうか、確かめる方法がない。灰色の海月が浮かぶ空と、紬の目に映る空。その差に触れることはできなくて、私はただ同じ言葉を返す。

 花火が次々と上がる。音が近くて、お腹の底が振動するたびに地面が微かに揺れる。紬との距離が縮まっていた。花火の音で声が聞こえにくくなって、自然と肩が近づいている。紬の浴衣の布地が、私の二の腕にかすかに触れている。

 不意に、紬が口を開いた。

「来てよかった」

 声が小さかった。花火の破裂音に半分かき消されて、輪郭がぼやけている。

「え?」

 聞き返す。紬がもう一度、今度は少しだけ声を張って言った。

「来てよかった。誘ってくれてありがとう楽しい!」

 その声に、ほんの少しだけ震えが混じっていた。花火の振動が体に伝わっているせいだろう、と思った。

 でも紬の目が、花火から私に移っていた。光が散る空ではなく、私を見ていた。その目に浮かんでいる感情が何なのか、暗くてよく見えない。

「……うん。私も楽しい」

 返した声が、自分でも意外なほど素直だった。営業用じゃない。取り繕ってもいない。ただそう思ったから、そう言った。紬が小さく笑って、また空を見上げた。

 花火のフィナーレが始まった。連続して打ち上がる光が夜空を埋め尽くして、破裂音が途切れなく続く。歓声が遠くから聞こえてくる。

 紬が空を見上げたまま、呟いた。

「来年も来られるといいな……」

 独り言だった。私に向けたというよりも、花火の音に混ぜて消してしまいたかったような、そういう声の出し方。

 来られるといいな。

 その言い方が引っかかる。「来年も来よう」じゃない。「来られるといいな」だ。まるで来年の自分がここにいることを、確信できていないみたいな言い方。受験のことだろうか。引っ越しとか、家庭の事情とか。それとも、今日みたいに一緒に行く相手がいるかわからないという意味だろうか。

 どれも違う気がした。でも何が違うのかはわからない。

「行こうよ」

 深く考える前に、口が動いていた。来年も。その言葉を飲み込ませたくなくて、花火の音に負けないように少しだけ声を張る。

「来年も一緒に行こう。約束する」

 紬が私のほうを向いた。花火の光が顔を照らして、また消える。明滅の中で紬の表情が読み取りにくい。笑っているようにも、泣きそうにも見える。

「うん……」

 小さく頷く。その声がさっきまでと違う。震えている、のとは少し違う。声の輪郭が薄い。まるで言葉を空気に溶かしてしまいたいみたいに、語尾が消えかけている。

 紬は空に目を戻した。最後の大玉が上がるのを待っているように、じっと夜を見上げている。横顔に花火の色が散っては消える。赤、青、金。その繰り返しの中で、紬の目だけが光を弾いていない。映しているのに、吸い込んでいない。

 最後の大玉が空で咲いて、ゆっくりと散る。拍手の音。それから静寂が、夜空の端から流れ込んでくる。

 立ち上がって、草についた土を払う。帰り道は来たときより暗くて、足元が見えにくい。河川敷から坂道を上がるとき、紬の足が段差につまずきかけて、私はまた手を伸ばした。

 今度は考えてから動いた。考えて、それでも伸ばした。

 紬の手が私の手を握り返す。さっきと同じ握り方。五本の指が互い違いに収まる。坂を上り終えても離さなかった。


 祭りの通りはもう半分くらい店じまいを始めていて、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かになっている。提灯の灯りがまだ残っていて、オレンジ色の光が地面に丸く落ちていた。

 その光の中を二人で歩きながら、私は紬の手の感触だけに意識を集中させていた。掌のわずかな湿り気。指の関節が当たる硬さ。爪の先が手の甲に触れるか触れないかの距離。全部が鮮明で、全部が初めてのもので、この情報量を処理するのに脳の容量が足りていない。

 紬が足を止め、私もふいに止まる。繋いだ手が二人の間で宙に浮く。

 提灯の光が紬の顔を横から照らしていて、片方の頬だけが明るい。もう片方は影に沈んでいる。紬は私の手を握ったまま、まっすぐこちらを見ていた。いつもの、感情の読めない目。でも今夜はその奥で何かが揺れている。海の底でゆっくり動く光の筋みたいなものが、瞳の表面に透けて見える。

「幸」

 名前を呼ばれる。「ちゃん」がついていない。紬が私を「幸」と呼んだのは、これが初めてだ。

「好きだよ」

 声は平坦だった。抑揚がない。感情を込めようとして込めた声ではなくて、ただ事実を口にしただけの、乾いた温度。でもそのぶん、言葉の輪郭がくっきりしている。

 提灯の灯りの中で、その四文字だけが空気に残る。祭りの残り香よりもずっと近い場所に漂って、消えない。

 心臓が跳ねる。一回ではなく、二回、三回、普段の倍くらいの強さで肋骨の裏側を叩いている。手を繋いでいるから、脈が伝わっているはずだ。伝わっていたら恥ずかしい。でも手を離すという選択肢が、頭のどこにも浮かんでこない。

 紬の目を見る。揺れている。さっきの光の筋がまだある。平坦な声で「好きだよ」と言った人間の目が、声とはまるで違う温度で揺れている。

「……なにそれ」

 やっと出たのは、自分でも予想していなかった一言だった。

「なんて返していいかわからないし」

 紬の口元がほんの少しだけ動く。提灯の影が揺れて、それが笑みなのかどうか判然としない。でも目元の力がわずかに緩んだのは見えた。

「返さなくていいよ」

 紬がそう言って、握っていた手をほんの少しだけ強くする。爪の先が手の甲に当たるくらいの、ほんの少し。それだけで体の内側の温度が跳ね上がる。

「ただ言いたかっただけ。今日が楽しかったから」

 今日が楽しかったから。その言葉の中に、さっきの「来年も来られるといいな」の翳りがまた見える。楽しかった、と過去形で語る。今この瞬間が終わることを、もう受け入れている人間の言い方だ。祭りの終わりだけではない、もっと大きな何かの終わりを見据えているような、その乾いた平坦さが喉の奥に引っかかって落ちていかない。

 私は何も返せなかった。返せないまま、紬の手を握り続ける。提灯の灯りが一つ、また一つと消えていく。祭りが終わる。空には灰色の海月が浮かんでいて、花火の煙が薄く流れている。

 好き、という言葉が掌の中に残っている。紬の体温と一緒に。握っている限り消えない。

 祭りの出口に向かって歩いていくと人混みが再び濃くなって、肩と肩がぶつかりそうになりながら提灯の灯りの下を抜けていく。焼きそばのソースの匂いと、火薬の残り香が混ざっている。

 ふと、視線を感じた。

 首の横あたりに、誰かの目がある。その感触に覚えがあった。振り向くと、数メートル先に天音がいた。

 友達が三人ほど一緒にいる。浴衣の子もいれば私服の子もいる。天音は私服で、いつものツインテールを下ろして一つにまとめていた。その髪型が一瞬誰だかわからなくて、でもすぐに天音だと気づく。

 天音の目が、私と紬を見ている。

 ——手を繋いでいた。

 その事実が、一拍遅れて頭に届く。天音の視線が私たちの手元に落ちたのか、それとも顔だけを見ていたのか、わからない。わからないけれど、私の手は反射的に紬の手を離していた。指がほどけて、夜風が掌の隙間に入り込んでくる。さっきまでの温度が一瞬で奪われる。

 紬は何も言わなかった。離された手をそのまま体の横に下ろして、表情を変えない。

 天音の目が、私と紬を見ている。

 目が合った。天音が笑った。いつもの笑顔。口角が上がって、目が細くなって、頬が丸くなる見慣れた天音の笑い方。

 でもその笑顔の下にあるものが、読み取れない。

「あ、幸じゃん!」

 手を振って近づいてくる。歩き方はいつも通りだし、声の明るさもいつも通りだ。

 だけどどこか——。

「用事って夜宮さんとお祭り?」

 声は明るい。責めている調子はない。事実を確認しているだけの、平坦なトーン。

「うん、夜宮さんとは図書委員の関係でちょっと仲良くなってさ!」

 言ってから、気づいた。

 紬、と呼ばなかった。「夜宮さん」と言った。天音の前で紬を名前で呼ぶことに、無意識の抵抗があった。そしてつい今しがた手を離したことも、同じ種類の抵抗だ。天音に見られたくなかった。紬と手を繋いでいるところを。紬と近い距離にいるところを。

 天音の笑顔の下にあるものを直視したくなくて、反射的に紬との距離を元に戻そうとした自分がいる。

 天音は私の言葉の選び方に何かを感じたのかどうか、表情からは読み取れない。

「そっかー、楽しそうじゃん」
「まぁね、あはは」

 軽く笑うと、天音も笑って気まずそうに自分の友達のほうに戻っていく。

 去り際に一度だけ、振り返った。

 一瞬の目。私はそれを見なかった、というより見たくなくて、提灯の灯りを見ていた。

 でも紬は見ていた。私の半歩後ろを歩いている紬は天音が振り返った一瞬を、黙って見ていたようだった。

 祭りの喧騒が遠ざかっていく。提灯の灯りが途切れて、街灯だけの道に出た。紬が半歩後ろを歩いている。下駄の音が、コツ、コツと規則的に響く。

「天音ちゃん、怒ってたね」

 紬が静かに言った。

「怒ってないよ、笑ってたじゃん」
「……確かにね」

 それだけ言って、紬は口を閉じた。それ以上何も言わない。「笑ってた」を否定しなかった。でもその「確かにね」には、同意とは違う色がある。

 けれど、その意味を私はうまく掴めない。掴みたくない。天音は笑っていた。明るい声で「楽しそうじゃん」と言った。それだけのことだ。それ以上は考えない。

 ——さっき手を離したこと。紬はどう思っただろう。天音の姿が見えた瞬間に、反射で手を離した私のことを。好きだよ、と言ってくれた直後の手を、他の誰かの目を気にして振り払った私のことを。

 聞けないし、聞く資格がない。

 駅に着いて、改札の手前で立ち止まる。

「じゃあね」
「うん、今日ありがとう」

 紬が改札をくぐっていく。浴衣の背中が自動改札の向こうに消えて、人混みに紛れて見えなくなった。

 一人になる。

 手のひらが、まだ温かい。繋いでいた感触が、指先の神経に焼きついたみたいに消えない。握って開いて、もう一度握る。紬の体温を覚えておきたいのか、それとも天音の前で離してしまった罪悪感を握り潰したいのか。指の間には何もないのに、温度だけがそこにある。

 帰り道に空を見上げると、いつも通り灰色の海月が浮かんでいる。

 でも今夜は、その灰色の奥に花火の残像が一瞬だけ重なって見えた。赤でも青でも金色でもない、名前のつかない光がちらついて、すぐに消える。

 わからないまま、家に向かって歩く。下駄の音はもう聞こえない。自分の靴音だけが、夜の道に吸い込まれていく。