夜空を泳ぐ海月は、孤独な私に嘘をつく

 結局、昨日は眠れなかった。

 まぶたを閉じるたびに、自分の怒鳴り声が頭の中で反響して、そのたびに布団を頭から被り直した。明け方にようやく意識が途切れて、気づいたらアラームが鳴っていた。

 背中を丸めて、無意味に長い廊下をとぼとぼと歩く。一歩踏み出すごとに肩が内側に縮まっていって、気がつくと顔を俯かせていた。

 昨日は、あのまま走って逃げ帰ってしまった。紬ちゃんの腕が解けた瞬間に踵を返して、振り返らずに走った。あのままあの場所にいたら、感情がぐちゃぐちゃに溢れて泣いていたと思う。

 帰りたい。

 あんなことを道端で怒鳴り散らしたのだ。誰かに聞かれていてもおかしくない。クラスに広まっているかもしれない。他のクラスだって。

「なんであんなこと言っちゃったんだろうなぁ……」

 無意識に漏れた言葉が、廊下の床に吸い込まれて消えた。

「おっはよ」

 ため息をつこうとした寸前。どんっ、と横からタックルされて体がよろける。顔を上げると、案の定にっこにこの天音が立っていた。

 この様子だと、何も聞いていないのか。

「……どったの?」

 いつもならノリよくやり返すところだけど、そんな元気はどこにもない。声のトーンだけ少し上げて、ふらふらと歩き始めた。

「いや、なんでもなーい……」
「あれ? 寝不足?」
「んー、まぁそんなとこかな」
「珍しーね」

 天音が目を丸くしながら歩き始める。私もその半歩後ろに続いた。スクールバッグの持ち手を、指が白くなるほどぎゅっと握り締めている。

 ゆっくりと顔を上げると、廊下の向こうから笑い声が聞こえてきた。

 怖い。いつもの女子たちの笑い声が、今日は胸の中に棘のように突き刺さってくる。

 私は昔から笑い声が嫌いだった。周りは大して自分のことなんて気にしていない、それはわかっている。自意識過剰だと言われたら、そうですと頷くしかない。

 だけど、そんな理屈じゃないのだ。聞こえるたびに、皮膚の下を冷たいものが走る。

「大丈夫?」
「え?」

 廊下の雑音を遮るように、天音の声が耳に届いた。振り向くと、天音が少し眉を寄せて、私の顔を覗き込んでいた。その手が伸びてきて、頬にかかった髪をそっと耳にかけてくれる。

「可愛い」
「……なに急に」

 天音が、私の強張りを解かすように笑って、すっと離れる。ホワイトフローラルの柔らかい香りが鼻先をかすめて、それだけで、張り詰めていた首筋の力がふっと抜けた。

 廊下を歩く生徒たちの顔が、少しずつ見えるようになる。誰も、私のことなんか見ていない。

 やっぱり、見てないんだ。

「でも大丈夫?」
「まぁ、大丈夫かな」
「キツかったら保健室一緒に行ってあげるから!」
「ありがと」

 拳をぎゅっと握って意気揚々と構える天音を見て、鼻から息が抜けるように笑ってしまった。

 天音は優しい。だけど、昨日の私を――あの声を、あの顔を、天音が見ていたとしても、こうしていてくれるだろうか。

 その問いには答えを出さないまま、私たちは廊下を歩いた。教室の扉が近づいてくる。

 やっぱり、怖い。

 もしいつも話しているあの子たちが、私を見る目を変えていたら。裏表のある人間だと囁かれていたら。

 扉の前で、足が動かなくなった。

「大丈夫?」

 天音が振り返る。首を傾げて、心配そうにこちらを見ている。

「え? ああ、うん!」
「なんか、顔色悪いけど……」

 消え入りそうな声でそう言われて、思わず手を頬に当てた。

 指先が震えていた。

 頬に触れたはずの手が、無意識に何度も何度も同じ場所を擦っている。止められない。

「もう、行くよ!」
「あ――」

 心の準備なんてできていないまま、天音にぐいっと手を引かれた。教室に一歩踏み込んだ瞬間、体が強張る。

「あれ、今日も二人一緒に来たんだ。仲いいね」
「なにその毎日来てるみたいな言い方ー、たまたま会っただけだよ」

 いつもの声で、いつもの調子。そしていつも通りの朝の教室。

 周りを見渡しても、私のことを話している人はいない。女子たちは普通に笑っていて、男子はいつも通りふざけている。

 窓際の席では、紬ちゃんがいつものように本に目を落としている。ページをめくる指先は穏やかで、私の噂を広めた気配はどこにもない。

 よかった。

 肺の奥に溜まっていた息が、ようやく抜けていく。

「ね? 幸」
「うん!」
「なんか急に元気になった!?」
 放課後のチャイムが鳴って、教室がざわつき始めた。

 帰り支度をしながら、私は紬ちゃんの席をちらりと見た。 

 窓際の一番後ろの席でいつものように本を鞄にしまっている。周りの生徒たちが連れ立って教室を出て行く中、彼女だけが自分の島にいるみたいに静かだ。

 別に、用があるわけじゃない。

 昨日のことを謝りたいわけでもないし、話したいことがあるわけでもない。なのに足が動いていた。

 鞄を肩にかけて、人の流れに逆らうように教室の奥へ進んで、気がつくと紬ちゃんの机の前に立っていた。

「紬ちゃん」

 紬ちゃんが顔を上げる。少しだけ目を丸くして、それからいつもの穏やかな顔に戻った。

「……昨日は、ごめん」

 何を言うか決めていなかったのに、最初に出てきたのが謝罪だった。謝るつもりなんてなかったのに、紬ちゃんの顔を見た瞬間、昨日の自分の怒鳴り声が耳の奥でぐわんと反響して、口が勝手に動いた。

「別にいいよ。気にしてないし」

 紬ちゃんは鞄のファスナーを閉めながら、何でもないことのように軽いトーンで言った。

「あと、その……」

 言葉が続かなかった。心の奥には話したい感情があるのに、それを取り出す言葉が見つからない。

 紬ちゃんの色のこと、昨日の「青色だよ」のこと、聞きたい。

 でも、ここじゃ聞けない。教室にはまだ何人か残っていて、笑い声がぱらぱらと散っている。

「……ちょっと、話したくて」

 自分の声が、思ったよりずっと小さかった。

 紬ちゃんは私の顔をじっと見た。何を話したいのか、とは聞かなかった。鞄を肩にかけて椅子から立ち上がると、ただ一言。

「なら来て」

 迷いのない足取りで教室を出ていく紬ちゃんの背中を、私は追いかけた。廊下に出たところで天音とすれ違った。

「幸ー、一緒に帰ろ!」
「ごめん、今日ちょっと図書室寄っていくから」
「え、委員の日じゃなくない?」
「うん、返したい本があって」

 嘘をついた。

 天音は一瞬だけ紬ちゃんの背中に目をやって、それから私に視線を戻した。何か言いたそうな顔をしたけれど、「そっか、じゃあまたね!」と手を振って帰っていった。

 その背中を見送りながら、胸の奥がちくりと刺さる。天音に嘘をつくのは、これが初めてじゃない。初めてじゃないのに、今日はいつもより痛い。

 紬ちゃんの後を追って階段を降りる。何を話すか、頭の中で言葉を組み立てようとするのに、組み立てたそばから崩れていく。

 紬ちゃんの本当の色を暴きたいわけじゃない。ただ、あの「青色だよ」が頭の奥に刺さったまま抜けなくて、それをどうにかしたいだけだ。

 でも「どうにかしたい」が具体的に何を求めているのか、自分でもわからない。

 図書室の扉を開けると、静かだった。放課後のこの時間帯は勉強している生徒がいることが多いのに、今日はテーブルにも閲覧席にも人影がない。司書さんがカウンターの奥で何か作業をしているだけで、本の匂いと冷房の低い唸りだけが空間を満たしていた。

 紬ちゃんは振り返りもせず、書架の奥に進んでいく。普段あまり人が近づかない、古い文学全集が並ぶ一角。その突き当たりに、壁と本棚の隙間にちょうど二人分の空間があった。

 窓からの西日が一筋だけ差し込んでいて、床に積まれたクッションの色褪せ具合が、ここがずっと前から誰かの居場所だったことを物語っている。

「座って」
「うん」

 言われるまま、クッションの上に腰を下ろすと、紬ちゃんも隣に座る。肩と肩の間は拳ひとつ分もなくて、その近い距離間に思わず顔が熱くなる感覚を覚える。

 本棚に囲まれた狭い空間に、紬ちゃんのシャンプーの匂いと古い紙の匂いが混じり合っている。

「昨日のことは誰にも言ってないから安心して」

 紬ちゃんが隣に腰を下ろしたまま、まっすぐこちらを見て微笑んだ。穏やかで、嘘のない笑顔だった。

「それは知ってる、ありがと……」

 顔を俯かせて声が小さくなってしまう。仕方がない、恥ずかしかったのだ。

 でもその恥ずかしさは、感謝の言葉を口にしたからじゃない。昨日の自分を――あの剥き出しの醜い自分を、この人に全部見られてしまったことによるものだった。

「でもびっくりしたな、急におっきな声で怒鳴られて」
「それは…………ほんとごめん……」
「冗談冗談」

 紬ちゃんが口元を手で押さえて、ふふふ、と笑った。声が明るくて、本棚の隙間に柔らかく反響して消えた。

 なんでこんなに明るく笑えるんだろう。私が「話したい」と言ったから来てくれたのに、こっちはまだ何も話せていない。紬ちゃんは急かしもしないで、ただ隣に座って待っている。

 教室の時とは全然違うと思った。まるで人が変わってしまったみたい。

 紬ちゃんが一通り笑い終えて、すっと息を吸った。笑顔の残像が消えて、空気が変わる。

「幸は友達いる?」
「……え? うん」
「本当に?」

 紬ちゃんが本から目を外した。さっきまでの柔らかさが嘘みたいに消えて、鋭い眼差しが私を射抜く。本棚の隙間に差し込んでいた西日が、いつの間にか細くなっていた。

「いるよ……」

 一拍、空白を挟んでから、ようやく声が出た。なんで声が出なかったのかは、私の体に訊かないとわからない。

「そうなんだ」

 それだけ言って、紬ちゃんは黙った。沈黙が、古い紙の匂いと一緒にゆっくりと降り積もっていく。

「昨日の自分を見せられるような?」

 心臓が跳ねた。

 私は紬ちゃんに聞きたいことがあって、自分から話しかけて、自分からここに来たはずだ。なのに気がつけば、紬ちゃんのほうが私の奥を覗き込んでいる。

 体が先に動いた。クッションから腰を上げて、鞄を掴んで、立ち上がる。ここから出なきゃ、と足が動きかけたところで。

「待って」

 振り向かずに、私はただ歩みを止める。背中越しに紬ちゃんの声だけが聞こえた、と思えば、自分の呼吸が妙にうるさいことに気付く。

「幸のこと、好きだよ」
「…………え?」

 思わず振り返った。紬ちゃんは座ったまま、膝の上で両手を握って、少し困ったような、でも目だけは逸らさないという意地があるような顔をしていた。

「……ちょっと待ってどういうこと。好きって、なに」
「そのまんまの意味」

 紬ちゃんの声には、告白のときにありがちな震えも、甘さもなかった。事実を並べるみたいに平坦で、だからこそ逃げ場がなかった。

「意味わかんない。昨日初めてまともに話したばっかじゃん」
「うん。でもその前からずっと見てた」

 私の喉が詰まった。

 見てた? 私をこの、教室の隅で本ばかり読んでいるような子が。わからないことだらけだ。

「幸がクラスで笑ってるとき、全然楽しそうじゃなかったから。ずっと気になってた」

 淡々と言われて、私は居心地が悪くなって足の位置を少し変える。

 責めているのでも、憐れんでいるのでもない。ただそう見えていた、とだけ告げている。それが余計に、胸の奥を掻きむしった。

「……それは、勝手にそう見えてただけでしょ」
「そうかもね。でも昨日、合ってたじゃん」

 返す言葉がなかった。紬ちゃんは膝の上の手を解いて、ゆっくりと立ち上がった。

「別に付き合ってとか、そういうの今言ってるんじゃないよ。ただ、好きだから一緒にいたい。それだけ」

 すぐに笑って「……私があなたの本当の友達になりたい」と言い直すみたいに、紬ちゃんが付け足した。

 少し間が空いたのは、「友達」という言葉が本当に正しいのか、自分でもわかっていなかったからだと思う。

 私はそのまま固まっていた。鞄の持ち手を握る指先だけが、かすかに震えている。

 自分から話しかけたのは私だ。自分から「話したい」と言ったのも私だ。

 なのに蓋を開けてみれば、紬ちゃんのほうが私よりずっと多くのことを差し出していて、私は何一つ渡せていない。聞きたかったことも、結局聞けなかった。

「なに、急に」

 冷たい声が出た。自分でも驚くほど低くて、硬くて、突き飛ばすような声。そうしなければ、昨日みたいに何かが崩れそうだった。

 でも紬ちゃんは怒りもしなかったし、悲しそうな顔もしなかった。ただ穏やかな表情の奥で、氷のように静かな目をしていた。

「私にそんな余裕がないからかな」
「余裕?」
「んーん、なんでもない。それより、なってくれない? 友達」

 まるで断られることを最初から織り込んでいるような声だった。好きだと言った直後に、友達になってくれないかと頼む。

 その矛盾が、何より腹が立った。好きなら好きで押し通せばいいのに、逃げ道を用意するみたいに「友達」を差し出してくる。

 それとも、これが精一杯なのだろうか。

「別に、いらない」

 吐き捨てて、鞄を肩にかけ直して、本棚の間を抜けた。書架の角に肩がぶつかったのに痛みを感じなかった。

 図書室の扉を勢いよく開けて飛び出すと、カウンターにいた司書さんが小さく肩を跳ねさせて、目を丸くしてこちらを見ていた。

 廊下に出ると、数歩歩いてすぐに足が止まる。息が上がっていて、走ったわけでもないのに、肺が軋んでいる。

 好きだよ、と言われた声が、まだ耳の奥にこびりついている。あの平坦な声。あの真っ直ぐな目。払い除けたいのに、手を伸ばすと指の間をすり抜けて、もう一度耳元に戻ってくる。

 そして、もうひとつ。

 聞けなかった問いがまだ引っかかっている。紬ちゃんの本当の色。

 私から話しかけて、私からここまで来たのに、結局それを口にできなかった。好きだと言われて、逃げてしまった。

 聞きたかったはずなのに、紬ちゃんの言葉に呑まれて、何も聞けないまま飛び出してきた。

 窓の外に目を向けると、灰色の海月がぷかぷかと浮かんでいる。

 ――薄い。

「あれ、こんな色だったっけ……」

 朝見たときはもっと暗く、もっと濁った、見るだけで胃がむかつくような色だった。

 それを鮮明に覚えているはずなのに、今目に映っている灰色は、どこか輪郭がぼやけて、ほんの少しだけ明るい。

 おかしいな。

 目をこする。涙が出ていたわけじゃない。ただ、見え方が変わった理由が欲しかっただけだ。指でまぶたを押さえて、もう一度空を見上げようとしたとき。

「幸! 一緒に帰ろう」

 天音の声だった。帰ったはずの天音が、鞄を抱えてこちらに歩いてくる。

「あ……いいよ」

 窓から目を離して、天音の顔を見る。

 海月のことも、紬ちゃんの声も、すべて心の奥に押し込む。天音の隣に並んで歩き始めると、ホワイトフローラルの匂いがかすかに鼻をかすめた。

 天音は、私の本当の友達に近い存在だと思っている。

 いつか、本当の私を見せられる時が来るといいな。

 *

「おはよう、幸ちゃん」
「ん、え?」

 駅のホーム。いつも通りイヤホンをはめて、音楽の低音に意識を沈めて、憂鬱な一日を乗り切るためのエネルギーを蓄えている最中だった。

 右耳のイヤホン越しに、最近聞き覚えのある声が滑り込んできた。顔を上げると、世界で一番会いたくない人間が、まるで待ち合わせでもしていたかのようにホームに立っていた。

 狙ってたのか。

「一緒に学校いこ?」
「……なんで?」
「言ったでしょ? 友達になりたいって」

 昨日好きだとか言っておいて、結局友達なのか、とは思ったけれど私はそれに触れないでおく。

「いや、そうじゃなくて。なんでいるの?」

 苛立ちを隠さなかった。声が大きくなっているのがわかったけれど、抑える気にもなれない。

 紬はどこ吹く風で、私の隣に並んだ。ホームの人混みの中で、彼女だけが別の温度で立っているような。

 まぁ、私のせいで少し異質さを放っているような気はするけど。

「一緒に学校行きたかったからかな」

 電車が滑り込んできた。風圧がスカートを乱暴に煽って、髪が顔にまとわりつく。紬は迷いのない手つきで私の腕を掴むと、拒絶する暇も与えず、吐き出される乗客の流れに逆らって車内に引き込んだ。

 昨日好きだと言った人間の手は、特別に熱いわけでもなく、ただ当たり前みたいに私の腕を掴んでいた。その「当たり前」が一番厄介だった。

「ちょっとよそ見はよくないよ」
「いや、あなたのせいだけどね」
「紬です」
「え?」
「名前、紬なんだけど」

 つり革を掴んだ手が止まった。昨日「好き」と言った口で、名前を呼べと要求してくる。この人の中では、好意と友達の境界線がどこにあるんだろう。

「紬さん……」
「いや、紬です」
「…………紬」

 ガタン、と電車が大きく揺れた。車内のつり革が一斉に乾いた音を立てる。窓の外で、灰色の海月が鈍い光を帯びながらぷかぷかと浮いていた。

「うん、合格」

 満足げに頷く紬の横顔を、溜息混じりに見る。

「なんで急に一緒に登校したいなんて思い始めたの? はっきり言って好かれるどころか嫌われてもおかしくないと思うんだけど」

 昨日、あんなに冷たく突き放した。「別に、いらない」と言い捨てて逃げた。好きだと言ってくれた相手に、そんな返し方をした。

 普通なら心が折れるか、怒って二度と近づかないかのどちらかだ。なのになぜか私の横に来てくれている。

「うーん、私幸ちゃんのこと嫌いじゃないし、それに本当の友達になりたいって言ったでしょ?」

 好きだとは言い直さなかった。昨日あれだけはっきり言ったのに、今朝はもう「嫌いじゃない」に後退している。

 それが優しさなのか自衛なのか、私にはわからない。

「まぁ、それは勝手に紬が言ってることであって……」
「うん、だから来たの」

 はっきりと、目を見て言われた。つり革を握る手に力が入る。真剣な目で見つめられると、言葉が喉の手前で詰まって出てこなくなる。

 たまに見せるこの表情が、苦手だ。私はみんなと真剣な話なんてしてこなかった。いや、逃げてきたのだ。

 真面目な空気になると心臓が鉛を飲んだように重くなって、呼吸の仕方がわからなくなる。

「自己中……」
「頑固って言ってよ」
「言葉を選んでも、本質的な身勝手さは変わらないよ」

 紬がむーっと頬を膨らませた。私はそれに気づかないふりをして、ドア上の路線図に目を移す。

 あと二駅。なんだか、いつもより早い気がする。

「ねえ、今『まだかなー』とか思ったでしょ?」
「思ってないよ」
「ほんとかな」
「ほんとだよー」

 わざと抑揚を殺して棒読みした。すると紬が前のめりに「ちょっとー」と食い気味にツッコんできて、つり革を掴む手が揺れた。

 私はそれを無視して、窓の外に目を向ける。

 朝の陽射し。人混みの熱気。隣に立つこの人の体温。そして空にぶら下がった灰色の海月。

 最悪の取り合わせだ。

 電車が減速して、目的の駅に滑り込む。ドアが開いた瞬間、人の波に押し出されるように私たちはホームに降り立った。

 よく考えれば、この駅は栄えている。朝礼よりもだいぶ早い時間なのに、駅ビルのフードコートではスマホとにらめっこしている同じ制服の生徒が何組かいた。

 ここにいるくらいなら学校に行けばいいのに。

 外に出て五分ほど歩くと、通学路沿いのコンビニが見えてきた。紬が思い出したように私の方を向いて、コンビニを指さす。

「あ、飲み物買わなきゃ。寄って行っていい?」
「いいよ。……私も喉、乾いたし」

 軽く返事をして自動ドアをくぐった瞬間、六月の湿った熱気が断ち切られた。冷房の乾いた風が制服の隙間に入り込んで、二の腕に鳥肌が立つ。

 紬は迷いのない足取りで炭酸飲料の棚へ向かった。

 いつもここに寄っているのだろうか。それよりも、私は何を買おう。何も買わずに出るのは手持ち無沙汰だし、何か理由がないとこの人と向き合う時間が増えてしまう。

 目的もなく店内を一周して、棚の隅に置かれた紙パックのいちごミルクを手に取った。レジに並んでいると、先に会計を済ませた紬が、獲物を見つけた子供みたいな顔をして私の手元を覗き込んできた。

「それ買うの?」
「そうだよ」
「へー、それ。私、飲んだことないんだけど……美味しい?」

 覗き込まれた拍子に、彼女の髪からシャンプーの匂いがした。図書室の、あの本棚の隙間と同じ匂い。昨日の「好きだよ」がまた耳の奥で反響しかけて、私は視線をいちごミルクのラベルに逃がした。

「……まぁね。なんかいちごオレって味」
「……なんかちょっとひどいね」

 コンビニの自動ドアをくぐると、六月の朝の湿気が一気に肌にまとわりつく。さっきまで冷房に冷やされていた腕の表面に、薄い膜を張られたような不快感。紬が炭酸のペットボトルのキャップを開けて一口飲み、「もう暑いねー」と小さく呟いた。

 私はいちごミルクのストローを刺しながら「そうだねー」と軽く返して隣を歩き始める。フィルムを剥がすとき少し手間取ったけれど、紬は横目でちらりと見ただけで何も言わない。

 私たちの間に会話はほとんどなかった。

 でも、昨日までの気まずさとは違う種類の沈黙だ。紬が隣にいることへの抵抗が、一日前よりほんの少しだけ薄い。

 それは私の中で言語化されることなく、ただ何も考えずに歩いていても、気にならなくなっていた。

 いちごミルクが口に広がる。甘い。甘いだけで、捻りなんかどこにもない味。なのに朝のこの湿度の中で飲むと、喉を通るときにひんやりとして悪くない。

 通学路に差し掛かると、同じ制服の生徒が増えてくる。

 体が切り替わった。

 自分で意識したわけじゃない。背筋が勝手に伸びて、口角が勝手に上がる。すれ違うクラスメイトの顔を認識した瞬間にスイッチが入ってしまう、いつもの反射だ。

「おはよー」

 友達がいて明るいトーンで挨拶をする。軽く振る手。相手が笑い返して、私も笑い返す。

 いつもの朝、いつもの手順。

 紬が横目でこちらを見ている気配がした。何も言わない。ただペットボトルに口をつけたまま、ほんの少しだけ口元が歪んでいるのが視界の端に映る。

 笑っているのか、呆れているのか。判別がつかなくて、私はいちごミルクをもう一口吸い込んだ。

 校門が近づいてくる。

 足が、ほんの少しだけ紬から離れた。半歩。意識してやったことじゃない。学校の敷地が視界に入った瞬間、紬と並んで歩いている姿を誰かに見られることへの警報が皮膚の下で静かに鳴って、体が勝手にそうしてしまう。

 紬は気づいているのかいないのか、同じペースで歩き続けている。私が空けた半歩を詰めもしなければ、広げもしない。

 そして校門をくぐったところで、口を開いた。

「じゃあ、教室で」
「うん」

 紬の返事は短かったけれど、それだけで十分だった。

 私は足早に昇降口に向かい、振り返らない。でも背中に紬の視線を感じる。まだ見ている、という確信が首筋にじわりと熱を這わせて、私は無意識に襟元を指で引っ張ってしまった。

「おはよ!」

 教室に入った瞬間、天音の声が飛んでくる。席に鞄を置くより先に、ツインテールを揺らしながら駆け寄ってきた。

「おはよ」

 いつも通り返す。いつも通りの朝。でも今朝は天音の声が少しだけ大きく聞こえた。教室の四方から飛び交う話し声や笑い声が、いつもより一段階うるさい。

 紬の隣のあの静けさに耳が慣れかけていたせいだと思う。思っただけで、それ以上は考えないように抑制する。

 できれば紬のことを考える時間は少なくしていたい。

「ねね、今日帰りにクレープ食べに行かない?」
「いいね」

 いつもの放課後、いつもの天音との時間。そう答えながら、頭の片隅で今日は図書委員の当番がないことを確認している自分がいた。

 当番がないからクレープに行ける。それだけの話だけど。

「やった! じゃあ放課後ね」

 天音がぴょんと跳ねるように自分の席に戻っていく。その背中を見送りながら、私も鞄を椅子にかけて席についた。

 一時間目。現代文の教科書を開いて、先生の声を聞きながらノートにシャープペンシルを走らせる。板書を写して、ページをめくる。いつもの動作の繰り返し。

 視界の端に、紬が映った。

 窓際の一番後ろの席。教科書を広げているけれど、その下にもう一冊、文庫本が覗いている。いつもの光景だ。何も変わらない。紬はいつだってあの席で本を読んでいる。

 でも、今朝あの子の隣を歩いてしまった。肩と肩の距離を知っている。

 遠い。

 そう思って、すぐにノートに目を戻した。

 *

 放課後、天音と駅前のクレープ屋に来ていた。

 小さな店の前に並んで、ガラスケースの見本を天音が覗き込んでいる。

「どれにしよっかなー。チョコバナナも捨てがたいし、でも抹茶も気になるし……」
「私はいちごチョコ」
「はっや。幸っていちご好きだよね」

 天音が笑う。目尻に小さな皺が寄って、ツインテールの毛先が肩で跳ねた。朝のいちごミルクの甘さが一瞬だけ舌の奥に蘇ったけれど、私は「まあね」と短く返して注文の列に一歩進んだ。

 クレープを受け取って、二人で駅前の通りを歩く。天音がチョコバナナを頬張りながら、数学のテストの範囲が広すぎるという話をしている。私は笑って相槌を打ちながら、天音の横顔を見ていた。

 頬についたチョコレートのかけらに気づかないまま喋り続けている。目を細めて笑うとき、左の口角のほうがほんの少しだけ先に上がる。

 話に夢中になると早歩きになる癖があって、今も半歩ぶん前に出ている。私が追いつくと無意識にまた半歩先に出る。それを何度か繰り返していることに、天音自身は気づいていない。

 こういう天音を見ていると、この子は本当に楽しいんだな、と思う。私がそうであるように見せているだけの「楽しい」とは違って、天音の楽しさは体の奥から滲み出ている。笑い方に迷いがない。相槌のタイミングに計算がない。

 私にはそれができない。

「ねえ、幸」
「ん?」
「なんかあった?」

 天音がクレープから顔を上げた。いつもの丸い目。でもそこに、ほんの少しだけ探るような光が混じっている。

 さっきまで頬にチョコをつけたまま笑っていた顔と同じ顔なのに、目の奥だけが別の温度になっていた。

「え、何が?」
「わかんない。なんとなく」

 それだけ言って、天音は視線をクレープに戻す。追及しない。天音はいつもそうだ。踏み込みかけて、相手が引いたら自分も引く。その優しさに、何度助けられてきたかわからない。

 私も流した。「そう? 別になんもないけど」と軽く笑って、クレープの最後のひと欠片を口に放り込む。

 でも「なんかあった?」という言葉が、飲み込んだクレープと一緒に落ちて、そこで溶けずに残ってしまう。

 自分ではわからない。わからないのに、天音のほうが先に何かを見つけている。

 クレープの包み紙を丸めてゴミ箱に捨てた。駅の改札が見えてくる。

「じゃあね!」

 天音が手を振る。私も振り返した。いつもの別れ方だ。天音がICカードをタッチして改札をくぐっていく。ツインテールが人混みの中で揺れて、やがて見えなくなった。

 一人になる。

 体の中心から熱が引いていく、いつもの感覚。笑って、喋って、楽しいふりをして、一人になった瞬間に全部が指の隙間から流れ落ちていく。

 でも今日は天音とだからか落ち切らなかった、やっぱり天音は特別だ。

 体から全部が抜けたはずなのに、胸のどこかに微かな温度が残っている。

 でももう一つ"いつも"のスイッチが入る前の、何も喋らなくていい沈黙の中で、ただいちごミルクを吸っていた。あの感触が、まだ消えていない。

 指先に残る紙パックの冷たさみたいに、かすかだけれど確かに残っていた。



 ***



 図書委員の当番は週に二回ある。

 最初の当番は、紬と二人で返却本を棚に戻すだけの単純な作業だった。番号順に並べられた本を持って、書架の間を行き来する。紬は一冊ごとに背表紙の番号を確認してから丁寧にしまっていく。私はもう少し雑に、番号の近い棚を見つけたら差し込む。やり方が違うのに、紬は何も言わなかった。

 几帳面そうなのになんも言ってこないんだ。

 何回か当番を重ねる上で気づいたことがある。紬と私の作業中、会話はほとんどない。

 でも沈黙が苦しくない。

 教室で友達といるときは、会話が途切れた瞬間に体のどこかがざわつく。何か喋らなきゃ、面白いこと言わなきゃ、という焦りが私を縛り付けてきていた。

 けれど、紬の隣ではそれがない。黙っていても、黙っていることを咎められない。ただ手を動かしていればいい。

 そして当番の日。返却本を戻し終えた後、紬が書架の奥に歩いていった。ついていくと、あの場所だった。古い文学全集の突き当たり、壁と本棚の隙間の色褪せたクッション。

「今日、ここで残りの時間過ごしていい?」

 紬がクッションに腰を下ろしながら言う。鞄から文庫本を取り出して、当たり前みたいにページを開いた。

 私は少し迷ってから、隣に座った。鞄からタブレットを出して、課題のプリントを開く。紬は本を読み、私はプリントの問題を解く。それだけの時間。窓からの西日が本棚の隙間に一筋だけ差し込んでいて、紬の髪の黒に橙色が混じっている。

 ページをめくる音。シャープペンシルが画面を滑る音。時々、廊下の遠くで誰かの笑い声が聞こえる。でもここまでは届かない。

 三十分ほど経ったとき、紬が本から顔を上げた。

「幸ちゃん、ここどう思う」
「え、なに」

 紬が読んでいた文庫本のページをこちらに向け、指である行を指で示す。

「この主人公、ずっと嘘ついてるんだけど、ここで初めて本音を言うの。でも本音を言った相手が一番どうでもいい人なんだよね。親友でも恋人でもなくて、バスで隣に座っただけの他人」
「……ふーん」

 紬が静かにこちらを見ている。追及するような目じゃなくて、ただ聞いている。

「なんか大事な人ほど本音って言えなくない? 失いたくないから」
「まぁ」

 紬は少し考えてから、文庫本を閉じた。

「でもこの主人公はそのあと、そのバスの他人にもう一度会いたくなるんだよ。本音を受け止めてくれた人が、どうでもいい人じゃなくなっちゃうから」

 紬はそう言って、私の目を見た。その視線の意味をわかりたくなくて、私はタブレットに目を戻した。

「……そう、なんだ」

 プリントの問題を一つ解く間、紬は黙っていた。そしてまた本を開いて、読み始めた。

 何事もなかったみたいに。でも私の胸の中では、紬の言葉がじわりと温度を持って広がっている。どうでもいい人じゃなくなる。

 まるで私たちもそうなるみたいな言い方だった。

 帰り支度をして図書室を出るとき、紬が言った。

「次の当番もここで過ごしていい? 幸ちゃんがいると集中できる」
「……別にいいけど。なんで私がいると集中できるの」
「うるさくないから」

 紬はそれだけ言って、廊下を歩き始めた。

 うるさくない。それは褒め言葉なのかどうかわからない。でも、教室で誰かに「幸って面白いよね」とか「幸がいると盛り上がるよね」と言われるより、ずっと体の奥に届いた。

 面白いから一緒にいたいんじゃなくて、うるさくないから一緒にいたい。それは私が紬の隣で感じていたことの、裏返しだ。

 その一致に気づいたとき、足元がほんの少しだけぐらついた気がした。


 図書委員の当番がない日の放課後、天音と一緒に帰っていた。

 校門を出て、駅までの道を並んで歩く。六月の夕方はまだ明るくて、影が長く伸びている。天音のツインテールの影が、アスファルトの上でゆらゆらと揺れていた。

「最近放課後いないこと多いね」

 天音がそう言った。責めている声じゃない。ジュースの自販機の前を通り過ぎながら、何気なく口にしただけ、というトーン。

「図書委員だからね」
「夜宮さんと?」
「うん」

 天音が一拍、間を置いた。

「ふーん」

 それだけだった。天音はそれ以上聞かなかったし、私もそれ以上説明しなかった。足音が二人分、アスファルトの上で重なっている。

 でも天音の「ふーん」には、いつもの相槌とは違う質感があった。音は同じなのに、空気の動き方が少しだけ違うというか。

 私はそれに気づかないふりをして他の話題について話す。

 しばらく歩いたところで、天音のスマホが鳴った。ポケットから取り出して画面を見る。天音の足が一瞬止まって、すぐにまた歩き出す。電話には出ない。

「出なくていいの」
「お母さん。またお姉ちゃんの話でしょ」

 笑って流した。いつもの笑い方。でも画面を見た一瞬の、あの足の止まり方。それは笑い声と釣り合わない重さを持っていた。

 天音の家のことは、中学の頃から断片的に知っている。お姉さんが優秀で、多方面で活躍していて、天音はいつもその影に立っている。

 天音が不登校だった時期と、お姉さんの話が嫌いなことは、たぶん繋がっている。たぶん、というのは、天音がそこに触れさせないからだ。笑って流すか、話題を変えるか。いつもそうする。

 私はそれ以上踏み込まなかった。踏み込めなかった、のほうが正しいかもしれない。天音の領域に踏み込むには、自分の領域も開かなきゃいけない。その交換ができないまま、私たちはずっとこの距離を歩いている。

 天音がスマホをポケットにしまって、不意に私の腕を取った。自然な動作で、腕を組むともたれかかるとも違う、手首のあたりにそっと指をかけるだけの触れ方。

「幸といると楽なんだよね」

 さらっと言った。前を向いたまま、何でもないことみたいに。

 楽。その一言を、私は「いつもの天音」として受け流した。天音は甘え上手で、こういうことをさらりと言える子だ。中学のときからそうだった。私はそれを心地よく思っていたし、天音が安心できる場所でいられることに、少しだけ誇りのようなものも感じていた。

 でも天音の指が手首に触れている圧は、「楽」という軽い言葉とは釣り合わない確かさを持っている。この指の力は、楽だから触れているのではなくて、離したくないから触れている力だ。

 駅に着いて、改札の手前で天音が手を離す。「じゃあね」と笑って、ICカードをタッチして改札の向こうに消えていく。

 振り返らなかった。天音も、振り返らない。

 空を見上げると、夕暮れの空に海月が浮かんでいる。灰色の、あの海月。でも今日はそれだけじゃなくて、天音の海月のことを考えてしまった。

 緑色。天音には緑色に見えていると、海月が出現した日に聞いた。ネットで調べた意味は「幸運」だったけれど、違うような気がする。この海月は多分、そんないい意味ばかりでできていない。

 天音が本当は何を抱えているのか、私は知らない。天音も、私が灰色を隠して青色と嘘をついていることを知らない。お互いの本当を知らないまま、隣を歩いていた。

 それが私たちの友情の形だった。

 それを壊したくないのか、壊す勇気がないのか。どちらなのかを考えるのが怖くて、私は改札に背を向けて歩き出した。

 家に帰ると、リビングにはお母さんだけがいた。テレビがついているけれど、誰も見ていない。

「お帰り、ご飯もうすぐできるからね」
「うん」

 鞄を持ったまま廊下を歩いて、自分の部屋に向かう。途中、お姉ちゃんの部屋の前を通った。

 ドアは閉まっている。隙間から薄く明かりが漏れていた。中から微かにキーボードを叩く音が聞こえる。

 一瞬、足が止まった。

 何も言わずに、通り過ぎる。お姉ちゃんの部屋の前で足を止めることと、声をかけることの間には、越えられない段差がある。

 いつからこうなったのか思い出せない。お姉ちゃんが仕事を辞めて家にいるようになってから、この段差は少しずつ高くなっていった気がする。

 自分の部屋に入って、鞄を床に下ろす。制服のまま椅子に座って、机の上に図書委員の当番表を広げた。来週の当番を確認する。火曜と金曜。紬の名前が、私の隣に並んでいる。

 窓の外を見ると、暗くなり始めた空に灰色の海月が浮かんでいた。いつもの不快感が胸に這い上がってくるけれど、今日はそれに少しだけ慣れている自分がいる。慣れたのか、鈍くなったのか。どちらにしても、あの海月がそこにあることは変わらない。

「腹減った。コンビニ行くけど何かいる?」

 振り向くと、ドアを開けて立っているお姉ちゃんがいた。部屋着のまま、髪を適当にまとめて、スマホだけ持っている。ノックなしで人の部屋に入ってくるのは昔からだ。

「いちごミルク」
「またそれか」

 お姉ちゃんが呆れたように鼻を鳴らして、出て行こうとした。

 足が止まった。

 お姉ちゃんの視線が、机の上のどこかに止まっている。私は一瞬わからなくて、視線を辿った。当番表だ。二年A組、朝凪幸、夜宮紬。紬の名前の横に赤ペンで丸がついている。次の当番日に印をつけておいたものだ。

 お姉ちゃんの表情が変わった。ほんの一瞬。目の奥の光が揺れたような、それとも影が差したような。わずかすぎて、見間違いかもしれないくらいの変化。

「知ってる人いた?」
「……いや」

 そう呟くとすぐに元に戻って、部屋を出ていった。

 なんだったんだろう。

 お姉ちゃんが紬の名前に反応したように見えたのは、気のせいだろうか。お姉ちゃんは教育学部にいたから、去年あたり教育実習に行っていたはずだ。でもどこの学校に行ったかなんて聞いたことがない。聞ける関係じゃない。

 考えても答えは出なくて、私は当番表を裏返しにして教科書の下に挟んだ。

 次のテスト期間に入ったら、当番はしばらくなくなる。その事実が頭をよぎったとき、胸の底にぽつんと落ちたのは、安堵ではないような気がした。