◇
タクシーがゆっくりと停車する。白い壁に囲まれた二階建ての施設。コートを脱いで中に入ると、そのロビーは暖房が入っていないようで少しひんやりとしていた。
数人がそれぞれテーブルを囲み談笑する中、ロビーの奥には大きなテレビがかけられている。椅子に座ることもできず、コートと鞄を両腕で握りしめたままロビーの壁を背にして佇む。
心臓の音が頭の中で響く。その鼓動に合わせて手が震える。吸って吐いて、吸って吐いて。何度繰り返しても、上手く酸素が行き渡らない気がする。
その時、廊下の先にある扉が重そうな音を響かせた。施設スタッフに付き添われて、見覚えのある人が姿を現す。
目の前が一気にぼやけるけれど、夢中で駆け寄れば、昔と変わらない瞳がわたしに向けられた。その人は、記憶の中のお兄ちゃんよりも、ずっと小さく、そして老けて見えた。 苦労が刻まれた目尻のシワ。少し痩けた頬。
「綾乃……」
でも、その声だけは、あの頃のままで。恐る恐る触れた腕は、骨ばっていて頼りなかったけれど、わたしを抱きしめる力は昔と同じだった。懐かしい匂い。ずっと探していた温もり。
「おに、ちゃ……っ」
十年分の想いが、堰を切ったように溢れ出していく。
「綾乃……ごめん」
「……ふっ……っ」
「ごめんっ」
少しだけ細くなった腕でわたしを力強く抱き締めてくれるその人に、たくさん伝えたいことがあった。たくさん聞きたいことがあった。でも、それらは言葉としてわたしの唇から発せられることはなく、ただ嗚咽だけが零れていく。戻る日を信じて、検見川の浜で待ち続ける日々が蘇る。
兄は、泣きじゃくるわたしの背中を手のひらで優しく叩く。わたしが泣き止むまで続けられるそれは、幼い頃と同じ。
「龍介くんとはずっと前から会ってたんだ」
わたしが落ち着いてきたのを見計らったのか、兄がゆっくりと話し始めた。
「Legacyの事務所は社会貢献でアーティストが月に一回こういった施設に訪問してイベントをしているんだって。龍介くんがここに来てくれたのはもう何年か前だけど、妹がいるっていう話をしたことがあってね。名前が似てるねなんて話してたんだよ」
「龍介さん……」
「そしたら秋口くらいかな。突然ね、妹と会わなくていいのかって言われたんだ。忙しいだろうに、何度も何度も来てさ、きっと待ってるからって。突然どうしたのかなって思ったんだけど、この前ね綾乃と一緒にいたことを聞いて」
「……そう、だったの」
「綾乃がいなくなったって、会わせてあげたかった、すみませんって。綾乃、ずっと、待っててくれてたんだね」
「どうしていなくなっちゃったの」
「……ごめんな」
「パパだって。わたし……治療費が払えなくて、助けられなくて……」
「うん、ごめん」
「わたし、ずっと一人で——」
そこまで言いかけて、ふと龍介さんの言葉を思い出した。龍介さんが言っていた。ちゃんと伝えておいで、と。「自分の思いを伝えておいで」と。こんなことじゃない。伝えたいことは、こんなことじゃなくて。ただ、なによりも伝えたかったことは——
「お兄ちゃん……」
兄を呼び、もう一度顔を上げる。目の前の瞳が苦しそうに歪んでいて、その瞳はわたしと同じように、透明な液体が溢れて、そのまま頬を濡らしていく。
「わたし、寂しかった」
「っ……うん」
「すぐに戻ってくるって思ってて」
「……うん」
「ずっと、ずっと待ってたよ。会いたかったの。わたし、お兄ちゃんに会いたかった」
会いたかった、お兄ちゃんに。ずっと、それだけを願っていた。責めたいわけでも、苦しかったとぶつけたいわけでもない。ただ、会いたいというその気持ちだけを伝えたい。
「俺も、会いたかった。本当に。ごめんな」
兄に涙を拭われれば、わたしの顔には笑顔が戻る。わたしによく似た顔が、目の前で同じように笑った。
タクシーがゆっくりと停車する。白い壁に囲まれた二階建ての施設。コートを脱いで中に入ると、そのロビーは暖房が入っていないようで少しひんやりとしていた。
数人がそれぞれテーブルを囲み談笑する中、ロビーの奥には大きなテレビがかけられている。椅子に座ることもできず、コートと鞄を両腕で握りしめたままロビーの壁を背にして佇む。
心臓の音が頭の中で響く。その鼓動に合わせて手が震える。吸って吐いて、吸って吐いて。何度繰り返しても、上手く酸素が行き渡らない気がする。
その時、廊下の先にある扉が重そうな音を響かせた。施設スタッフに付き添われて、見覚えのある人が姿を現す。
目の前が一気にぼやけるけれど、夢中で駆け寄れば、昔と変わらない瞳がわたしに向けられた。その人は、記憶の中のお兄ちゃんよりも、ずっと小さく、そして老けて見えた。 苦労が刻まれた目尻のシワ。少し痩けた頬。
「綾乃……」
でも、その声だけは、あの頃のままで。恐る恐る触れた腕は、骨ばっていて頼りなかったけれど、わたしを抱きしめる力は昔と同じだった。懐かしい匂い。ずっと探していた温もり。
「おに、ちゃ……っ」
十年分の想いが、堰を切ったように溢れ出していく。
「綾乃……ごめん」
「……ふっ……っ」
「ごめんっ」
少しだけ細くなった腕でわたしを力強く抱き締めてくれるその人に、たくさん伝えたいことがあった。たくさん聞きたいことがあった。でも、それらは言葉としてわたしの唇から発せられることはなく、ただ嗚咽だけが零れていく。戻る日を信じて、検見川の浜で待ち続ける日々が蘇る。
兄は、泣きじゃくるわたしの背中を手のひらで優しく叩く。わたしが泣き止むまで続けられるそれは、幼い頃と同じ。
「龍介くんとはずっと前から会ってたんだ」
わたしが落ち着いてきたのを見計らったのか、兄がゆっくりと話し始めた。
「Legacyの事務所は社会貢献でアーティストが月に一回こういった施設に訪問してイベントをしているんだって。龍介くんがここに来てくれたのはもう何年か前だけど、妹がいるっていう話をしたことがあってね。名前が似てるねなんて話してたんだよ」
「龍介さん……」
「そしたら秋口くらいかな。突然ね、妹と会わなくていいのかって言われたんだ。忙しいだろうに、何度も何度も来てさ、きっと待ってるからって。突然どうしたのかなって思ったんだけど、この前ね綾乃と一緒にいたことを聞いて」
「……そう、だったの」
「綾乃がいなくなったって、会わせてあげたかった、すみませんって。綾乃、ずっと、待っててくれてたんだね」
「どうしていなくなっちゃったの」
「……ごめんな」
「パパだって。わたし……治療費が払えなくて、助けられなくて……」
「うん、ごめん」
「わたし、ずっと一人で——」
そこまで言いかけて、ふと龍介さんの言葉を思い出した。龍介さんが言っていた。ちゃんと伝えておいで、と。「自分の思いを伝えておいで」と。こんなことじゃない。伝えたいことは、こんなことじゃなくて。ただ、なによりも伝えたかったことは——
「お兄ちゃん……」
兄を呼び、もう一度顔を上げる。目の前の瞳が苦しそうに歪んでいて、その瞳はわたしと同じように、透明な液体が溢れて、そのまま頬を濡らしていく。
「わたし、寂しかった」
「っ……うん」
「すぐに戻ってくるって思ってて」
「……うん」
「ずっと、ずっと待ってたよ。会いたかったの。わたし、お兄ちゃんに会いたかった」
会いたかった、お兄ちゃんに。ずっと、それだけを願っていた。責めたいわけでも、苦しかったとぶつけたいわけでもない。ただ、会いたいというその気持ちだけを伝えたい。
「俺も、会いたかった。本当に。ごめんな」
兄に涙を拭われれば、わたしの顔には笑顔が戻る。わたしによく似た顔が、目の前で同じように笑った。


