「綾乃にはいつも笑っていてほしいけど、人生は楽しいことばかりじゃない。いつも前を見なさいとは言わない。辛いことも、悲しいこともある。だから……泣いてもいいから、いっぱい泣いていいから、その次はきちんと前を向きなさい」
手で頬を拭って前を見れば、傾いた春のオレンジ色の陽射しが水面に反射して煌めいている。遠くにはヨットが浮かぶ、検見川の海。
ずっと変わらないと思っていたけれど、年を経るごとにこの海は透明度を増していく。昔は五センチ先も底が見えない程に濁っていたはずなのに、今は足を踏み入れればその全てが見える。透明な海。
「綾乃が泣いていると、パパは苦しいよ。だから、なるべくなら、笑えるように毎日を過ごしてほしいっていうのが、パパのお願いだ」
「……うん」
「……彼と、別れたのか?」
父の問いかけに小さく頷くと、「そうか」と一言だけ返ってきた。いつだってこうしてわたしを受け止めてくれる。父も、そしてこの大きな海も。生まれたときからこの街で育ってきたわたしにとって、海はかけがえのない存在だった。
わたしの喜びも悲しみも、全てを知り、そして全ての思い出を美しく彩り、悲しみを癒してくれる。
「ありがとう」
小さく、でもはっきりと口にした。
それから一年後、父は母と同じくも膜下出血で倒れた。
医師の話を母の時と同じように、ぼんやりとした頭で聞く。人工呼吸器をつけ続けなければ生きられないということ。いつ目覚めるかわからないこと。呼吸器をつけることを選択するなら、たとえ目覚める日が来なくてもそれは外せないこと。
もしかしたら、一週間後には目覚めるかもしれないことも、全て、先生が淡々と冷静に説明してくれる。
病室に行くと、白い顔をしてベッドに横たわる父がいた。あの日のことを思い出しながら父の大きな手に自分の手を伸ばせば、いつも温かかったはずの父の手は、やはり母の時と同じく、もう温もりがなかった。人のものとは思えない冷たさに触れるだけで、勝手に目の前がぼやけだす。
入院費を払い続けることのできないわたしに選択肢はないも同然。家族が死ぬことを選択するんだと思ったら、怒りなのか悲しみなのかわからないけれど、震えが止まらなくなった。
有り余るほどのお金があったなら人工呼吸器をつけたままにできたかもしれない。そしたら、いつか目覚める日が来るかもしれない。わたしがもっと稼いでいたら、父を救えたかもしれない。一週間後には目覚めるかもしれない。それなのに、その選択ができない。
愛も、夢も、希望も、大切だって世間は言うけど、全然違うじゃないか。愛だけじゃ、誰も救えない。現実は、札束でしか動かない。
医師に人工呼吸器をつけないことを告げると、しばらくして死亡が確認された。別れの言葉さえも伝えられないまま、みんな、去っていく。母が去り、兄がいなくなり、そして父もわたしの元から去っていく。
愛する人がいなくなるたびに、何度この思いを経験するのだろう。人を愛さなければ、もうこんな思いはしなくて済むのだろうか。
病院を出て、道路を越えればそこは検見川の浜。父と共に見た夕陽に照らされる。頬に涙の跡はない。この検見川の浜でどれだけ泣いても、もう迎えには来てくれない。母の時のように、手を差し伸べてくれる人はいないから。
夕陽に照らされながら、震える自分の体をただ強く抱きしめた。唇を力一杯、噛み締めながら。
手で頬を拭って前を見れば、傾いた春のオレンジ色の陽射しが水面に反射して煌めいている。遠くにはヨットが浮かぶ、検見川の海。
ずっと変わらないと思っていたけれど、年を経るごとにこの海は透明度を増していく。昔は五センチ先も底が見えない程に濁っていたはずなのに、今は足を踏み入れればその全てが見える。透明な海。
「綾乃が泣いていると、パパは苦しいよ。だから、なるべくなら、笑えるように毎日を過ごしてほしいっていうのが、パパのお願いだ」
「……うん」
「……彼と、別れたのか?」
父の問いかけに小さく頷くと、「そうか」と一言だけ返ってきた。いつだってこうしてわたしを受け止めてくれる。父も、そしてこの大きな海も。生まれたときからこの街で育ってきたわたしにとって、海はかけがえのない存在だった。
わたしの喜びも悲しみも、全てを知り、そして全ての思い出を美しく彩り、悲しみを癒してくれる。
「ありがとう」
小さく、でもはっきりと口にした。
それから一年後、父は母と同じくも膜下出血で倒れた。
医師の話を母の時と同じように、ぼんやりとした頭で聞く。人工呼吸器をつけ続けなければ生きられないということ。いつ目覚めるかわからないこと。呼吸器をつけることを選択するなら、たとえ目覚める日が来なくてもそれは外せないこと。
もしかしたら、一週間後には目覚めるかもしれないことも、全て、先生が淡々と冷静に説明してくれる。
病室に行くと、白い顔をしてベッドに横たわる父がいた。あの日のことを思い出しながら父の大きな手に自分の手を伸ばせば、いつも温かかったはずの父の手は、やはり母の時と同じく、もう温もりがなかった。人のものとは思えない冷たさに触れるだけで、勝手に目の前がぼやけだす。
入院費を払い続けることのできないわたしに選択肢はないも同然。家族が死ぬことを選択するんだと思ったら、怒りなのか悲しみなのかわからないけれど、震えが止まらなくなった。
有り余るほどのお金があったなら人工呼吸器をつけたままにできたかもしれない。そしたら、いつか目覚める日が来るかもしれない。わたしがもっと稼いでいたら、父を救えたかもしれない。一週間後には目覚めるかもしれない。それなのに、その選択ができない。
愛も、夢も、希望も、大切だって世間は言うけど、全然違うじゃないか。愛だけじゃ、誰も救えない。現実は、札束でしか動かない。
医師に人工呼吸器をつけないことを告げると、しばらくして死亡が確認された。別れの言葉さえも伝えられないまま、みんな、去っていく。母が去り、兄がいなくなり、そして父もわたしの元から去っていく。
愛する人がいなくなるたびに、何度この思いを経験するのだろう。人を愛さなければ、もうこんな思いはしなくて済むのだろうか。
病院を出て、道路を越えればそこは検見川の浜。父と共に見た夕陽に照らされる。頬に涙の跡はない。この検見川の浜でどれだけ泣いても、もう迎えには来てくれない。母の時のように、手を差し伸べてくれる人はいないから。
夕陽に照らされながら、震える自分の体をただ強く抱きしめた。唇を力一杯、噛み締めながら。


