◇◇◇◇
仕事を辞め、卓也と別れたわたしは、当時、まるで人形のように、ただそこに存在していた。卓也との結婚を夢見て、結婚をすると思うと言っていたわたしに、寂しそうに「よかったね」と言ってくれた父に、結婚が幻だったことも、卓也と、恋人と別れたことも何も言うことができないまま、毎日を過ごしていた。
そんなわたしを捕まえて、父が「ドライブに行こう」と言い出したのは、海風が強い日だった。
「綾乃、久しぶりに行こうよ」
「ドライブ……」
動かないわたしにコートだけ被せるように着せると、昔のように手を引いて外に連れ出した。見慣れた街並みを車が走っていく。マンションから海岸まで一直線に伸びたこの道を進めば、通っていた高校が近づいてくる。校舎の周りを走る伝統のジャージを着た生徒たち。ヨットを運ぶ姿。
そして、たどり着いたのは、小さいころから何度となく連れて来られた場所だった。車のドアを開ければ、潮の香りが一気に鼻を抜ける。力強く優しいその音が耳に届くと、鼻の奥に痛みが走る。小さい頃からわたしの機嫌が悪いと、必ず海に連れてきてくれたことを思い出した。
先を行く父の背中をゆっくりと追いかけて、砂を踏みしめて波打ち際をなぞっていく。
「……海、きれいだよ」
足を前に出す度に、砂が両側に溢れ出す。視界の端では、波が満ちたり引いたりを繰り返している。しばらくすると、前を歩く背中が止まり、ゆっくりと海に体を向けた。
「綾乃。パパはね、辛い時は泣いていいと思う。ただ、下ばかりを向いていたら何も見えなくなるよ。泣いてもいいから、その次には、前を向きなさい」
風が髪をさらっていく。
「……綾乃は、ママの娘だろう?」
「……うん」
「ママは辛くても、苦しくてもいつも前を見ていたよ。パパにとって、ママは太陽みたいだったんだ」
もう十年以上前に、わたしの前から去っていったその笑顔。それでも思い出せば、温かい。父の言葉通り、母は家族の太陽だったから。
テストで百点を取るよりも、先生に褒められるよりも、わたしが何かに夢中になっているときに一番喜んでくれるような人。バスケットボールに夢中になって毎日のように練習しているとき、ロックバンドを好きになって、彼らにのめり込むままに詞を書くようになったとき、母はその長い睫毛で縁取られた大きな瞳を細めて、嬉しそうにわたしを見てくれた。
「ママが死んでしまっても、パパが前を見ていられたのは、綾乃がいたからだ。パパにとって、綾乃はママが残してくれた宝物なんだよ」
——綾乃はママの宝物。そう言って抱き締めてくれる母の温もりが懐かしい。父や兄にからかわれると、母の元に駆け寄っては助けを求めていたと育児日記に書いてあったことを思い出す。「ママの宝物をいじめたよ」と必死になって訴える姿に思わず笑ってしまったと書かれていた。
ママの宝物。それは、母がわたしの元を去るまでの十四年の間に、幾度となく与えられた魔法の言葉。
仕事を辞め、卓也と別れたわたしは、当時、まるで人形のように、ただそこに存在していた。卓也との結婚を夢見て、結婚をすると思うと言っていたわたしに、寂しそうに「よかったね」と言ってくれた父に、結婚が幻だったことも、卓也と、恋人と別れたことも何も言うことができないまま、毎日を過ごしていた。
そんなわたしを捕まえて、父が「ドライブに行こう」と言い出したのは、海風が強い日だった。
「綾乃、久しぶりに行こうよ」
「ドライブ……」
動かないわたしにコートだけ被せるように着せると、昔のように手を引いて外に連れ出した。見慣れた街並みを車が走っていく。マンションから海岸まで一直線に伸びたこの道を進めば、通っていた高校が近づいてくる。校舎の周りを走る伝統のジャージを着た生徒たち。ヨットを運ぶ姿。
そして、たどり着いたのは、小さいころから何度となく連れて来られた場所だった。車のドアを開ければ、潮の香りが一気に鼻を抜ける。力強く優しいその音が耳に届くと、鼻の奥に痛みが走る。小さい頃からわたしの機嫌が悪いと、必ず海に連れてきてくれたことを思い出した。
先を行く父の背中をゆっくりと追いかけて、砂を踏みしめて波打ち際をなぞっていく。
「……海、きれいだよ」
足を前に出す度に、砂が両側に溢れ出す。視界の端では、波が満ちたり引いたりを繰り返している。しばらくすると、前を歩く背中が止まり、ゆっくりと海に体を向けた。
「綾乃。パパはね、辛い時は泣いていいと思う。ただ、下ばかりを向いていたら何も見えなくなるよ。泣いてもいいから、その次には、前を向きなさい」
風が髪をさらっていく。
「……綾乃は、ママの娘だろう?」
「……うん」
「ママは辛くても、苦しくてもいつも前を見ていたよ。パパにとって、ママは太陽みたいだったんだ」
もう十年以上前に、わたしの前から去っていったその笑顔。それでも思い出せば、温かい。父の言葉通り、母は家族の太陽だったから。
テストで百点を取るよりも、先生に褒められるよりも、わたしが何かに夢中になっているときに一番喜んでくれるような人。バスケットボールに夢中になって毎日のように練習しているとき、ロックバンドを好きになって、彼らにのめり込むままに詞を書くようになったとき、母はその長い睫毛で縁取られた大きな瞳を細めて、嬉しそうにわたしを見てくれた。
「ママが死んでしまっても、パパが前を見ていられたのは、綾乃がいたからだ。パパにとって、綾乃はママが残してくれた宝物なんだよ」
——綾乃はママの宝物。そう言って抱き締めてくれる母の温もりが懐かしい。父や兄にからかわれると、母の元に駆け寄っては助けを求めていたと育児日記に書いてあったことを思い出す。「ママの宝物をいじめたよ」と必死になって訴える姿に思わず笑ってしまったと書かれていた。
ママの宝物。それは、母がわたしの元を去るまでの十四年の間に、幾度となく与えられた魔法の言葉。


